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リクと白の王国

田口ランディ(たぐち・らんでぃ)

リクと白の王国 ブック・カバー
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第1回

2015.01.21 更新

ゼラニウムの花って、こんなに赤かったのか。
プランターからこぼれんばかりに咲いている花たち。まるで、頰を寄せ合っておしゃべりをしているみたいだ。お母さんが植えた花たち。手入れもせず放っていたのに、今年もたくさん咲いてくれた。
佐藤リクは立ち止まって袖で顔を拭くと、シャツのよれを整えて、姿勢を正した。崩れたコンクリートのブロックをまたいで庭に入る。風に揺れるゼラニウムの向こうで、お父さんがもう車に荷物を積み込んでいた。
転校の手続きが済んだのは五月の黄金週間(ゴールデンウィーク)が終わった頃で、学校はとっくに新学期に入っていた。華やいだ初夏の教室からふっと消えていくリクは、自分が淋しい幽霊になったような気がした。
五年一組。仲間の多くが幼稚園からの顔馴染みだ。コイツらと卒業まで一緒だと思っていたのに……。
転校は去年の暮れから決まっていたことで、お父さんの仕事の事情だからしょうがないと、リクも覚悟していた。
あのことさえなければ……。
そう、あのことさえなければ、リクは四月から新しい学校に通うはずだった。春休みのあいだに気持ちを切り替えて新しい学校でがんばろう。そう決意していたのに。
あんなことが起こるなんて、想像できた人はたぶんいない。みんなが叫んでいた。「想定外の出来事だ」って。世の中が大騒ぎになった。史上最悪の事態だって、お父さんが言った。リクには実感はなかったけれど、テレビをつければ、すべてのチャンネルがあの事故のことを放送していた。こんなこと生まれて初めてだった。
転校するはずの小学校がなくなり、引っ越し先の大家さんは消息不明。入居の契約もできなくなった。不動産屋に電話をしてもまるで通じず、家探しは頓挫した。転校するのかしないのか、はっきりとしないままに新学期が始まり、気がつけば五月。もしかしたら、このままお父さんの転勤もなくなるんじゃないかな、そうなったらいいな。リクは内心そう願っていたけれど、口には出せなかった。子どものリクよりも、周りの大人たちのほうがずっと混乱していたからだ。めったに怒らないお父さんが電話口で声を荒げていた。担任の先生はリクを抱きしめぽろぽろ涙をこぼし、横浜のみどり叔母さんは半狂乱。リクのことをめぐって意見が食い違い、大人たちの目はキツネみたいに吊り上がっていた。まだ子どものリクは、ただ大人の陰に身を置いて、じっと成り行きをうかがっているしかなかった。
そして、リクの淡い期待は裏切られて、転校が決まった。

今日がお別れの日。同級生たちは不安そうな顔をしていた。リクの転校先を知っているからだ。ここ宇都宮も、地震の被害を受けて建物や塀が壊れた。まだ余震が続いている。ここにいたって怖いのに、もっと恐ろしいところに転校していくリクを、みんなは気の毒がった。そういう同情はかえってつらい。同情されたって、みじめなだけ。だから、リクは無理に笑った。
「佐藤探検隊は、これより世界一の危険スポットに出発します」
それがリクには精いっぱいの強がりだった。
一番の親友だった祐太が、口をへの字に結び、ん! と、怒ったようにけん玉を差し出してきた。祐太とはハイハイをする頃から一緒。祐太のお母さんとリクのお母さんはとっても仲良しだった。お互いの家を行き来して、今日はカレーだから一緒に夕ご飯を食べていきなさいよ、なんていうことはしょっちゅうで、お風呂で潜りっこしたり、つかみ合いの喧嘩をしたり、二人はほんとうのきょうだいみたいにして育った。
キラキラと電飾が光るハイパーけん玉は祐太の宝物だ。三年前、クリスマスパーティーのとき、祐太のつばめ返しは大喝采だった。ツリーとけん玉と、お母さんが焼いた甘いケーキの匂いがよみがえる。
「ありがとう」と受けとると、祐太は鼻の穴をブタみたいに膨らませ、目がうるうるになっている。昔から祐太は泣き虫なんだよ、とリクは思った。
先生から渡された四角い色紙には「がんばれ!」「生きろよ」「元気でね」と、戦場に兵士を送り出すような勇ましいことばが並んでいる。慣れ親しんだ群れから旅立つ子象のように、リクは顔を上げて受けとった。両手は荷物でいっぱい。みんなの視線がリクに集まる。
「みんな、ありがとう。じゃあ……」と、色紙を持った手でさようならをして、廊下を足早に急ぐ。絶対に泣かない。がんばったけれど、校門を出るまでこらえきれなかった。薄暗い昇降口で、上履きをぎゅうぎゅう手さげカバンに押し込みながら、何度も袖口で涙と鼻水を拭いた。
「リク」と背中から声がしたけど、顔を上げられなかった。鈴木夏美の声だ。ちくしょう、こんな顔、見せられるか。
「なんだよ……」
リクはわざとぶっきらぼうに答える。夏美はリクの横に立ち、キリンの絵のついた封筒を差し出した。
「あとで読んで」
リクは目の前の封筒をがぶっと口にくわえた。
「もうっ。リクのバカ」
そう言って、夏美は顔を押さえて走り去った。リクはぼう然と夏美の後ろ姿を見送った。それから慌てて手紙をズボンのポケットに突っ込むと、つま先をとんとんしながら運動靴を履いた。こら、靴をちゃんと履きなさい、というお母さんの声が聞こえた。でもいまはそんな余裕ないんだ。
昇降口から陽射しの下に飛び出すと、地面に映った影も悲しそうだった。音楽教室から低学年のクラスの合奏が聞こえてくる。「花」って曲だ。体育の体操の号令、開け放った窓から先生の朗読の声、いろんな音が聞こえる。学校の音だ。
三階の窓からみんなの視線を感じた。きっと手を振ってる。だけど、見られない。こらえろリク。負けるなリク。自分に言い聞かせる。なるべくゆっくりとふつうに歩いた。茶色の校庭がものすごく広くて、歩いても歩いても、校門は、果てしなく遠かった。ようやく、校門を抜けて振り向いたとき、校舎はもう別の国みたいに見えた。

「おかえり」
リクを見たお父さんは、それ以上なにも言わなかった。黙って、カーナビの設定をしている。
家の中は空っぽでがらんとしていた。燕(つばめ)が去ったあとの巣みたいだ。畳はこんなに古かったっけ。天井はこんなに高かったっけ。壁の傷をさすってみた。箪笥(たんす)や本棚の置いてあった場所だけ、畳の色が違う。もう知らない家みたいなにおいがする。この家も地震で揺れた。でも、食器が落ちて割れたり、壁にヒビが入ったり、その程度で、よく耐えてくれた。
勉強机やお父さんの仕事用のパソコン機器、生活のための道具類は引っ越し業者にまかせた。運送を引き受けてくれる業者がいなくて大変だった。
お父さんはいろんな業者に電話をかけ、見えない相手にぺこぺこ頭を下げて事情を説明していた。話の内容は聞こえないけれど、リクにはだいたいわかる。相手は事務的かつ、哀れみたっぷりの口調で「大変申し訳ありませんが、現在そちらの地域へのサービスは中止しておりまして」とかなんとか言っているのだ。電話を切ったあと、お父さんは決まって「まったく、だったら最初からはっきり言えばいいのに」と怒った。貧乏ゆすりをして、それから、少し落ち込んで、ミントガムをもぐもぐ嚙んで気を取り直し、次の業者に電話する。露骨に嫌味を言われても、多少、値段が高くても、とにかく引っ越しをしなければならなかった。お父さんの仕事の事情を、リクはよくわかってはいなかったけれど、お父さんが行かなければ困る人たちがいることは察しがついた。どうしようもない。子どもにはどうしようもないことがたくさんある。
忘れ物を確認してから、庭に出た。地震で建て付けが歪んでいてうまく閉まらない。ドアノブを思いきり引っ張って、苦労して鍵をかけた。
「そろそろ、行くぞー」
「うん……」
さようなら、僕の家。リクはお父さんに家の鍵を放り投げて渡す。ナイス・キャッチ。それから二人は、キャンプに出かけるときみたいに、荷物いっぱいの車に乗り込んだ。

「こんな非常時に牧之原に引っ越しをするなんて、頭がイカれちゃってるとしか思えない」
みどり叔母さんはお母さんの妹で、この引っ越しには大反対だった。
リクはみどり叔母さんを嫌いではなかったけれど、この人の世話になるのだけはごめんだと思っていた。なぜかというと、みどり叔母さんは「ナンバーワンより、オンリーワンよ」なんて、歌の文句みたいなことを平気で言う理想主義者だから。秀でた才能を発揮するなんて、勉強で一番になるよりずっと難しいってことがわからないんだろうか。
じっさい、叔母さんの家のいとこ二人はよくがんばっていた。幼稚園の頃から右脳を鍛えるためにバイオリンを習い、五カ国語を同時に覚えるという語学教室と、右脳を開発するという天才塾に通っていた。上は八歳の拓人、下は六歳の茜。二人ともブランドの名前が印刷されたシャツやトレーナーを着ている。拓人はみどり叔母さんの前ではすごく良い子。言われたことには逆らわない。でも、こっそりみどり叔母さんのことを「うちの教育委員会」と呼んでいた。年のわりに大人びていて、頭がいい。茜は、みどり叔母さんのミニチュア。口調や仕草が叔母さんそっくりだった。髪がちりちりの天然パーマで、小さいくせにおせっかいで文句ばかり言う。
リクはみどり叔母さんの家に遊びに行くたびに、なんとなく気詰まりなものを感じていた。みどり叔母さんはいつも、二つ年上のお母さんと競争でもしているみたいにリクの家のことを聞きたがるからだ。
「ねえ、リクは、大きくなったら何になりたいの?」
じっと顔を覗き込む目がリクを値踏みするようにきらりと光っている。学校の成績のこともしつこく聞かれて、さりげなく自分の子どもたちと比較しているのがわかった。だから、この家のお世話になったら、年下のいとこたちよりも劣っていなければいけないのだと思った。そうでなければ、ここにはいられない、と。
みどり叔母さんの家は横浜の海の近くにある高層マンションで、家の中は芳香剤の強い香りがして口が苦くなるほどだ。叔母さんのだんなさんは、市役所の土木課に勤めている。黒縁の眼鏡をかけた無口な人で、趣味はチェスだった。チェスの同好会に入っていて、日本の大会で優勝したこともあるのだそうだ。リクもチェスを教えてもらったことがある。叔父さんはチェスでキングの駒を追いつめたとき、不敵な笑みを浮かべて「チェックメイト」と呟く。細い指先で得意げに駒をつまむ仕草が、ドラマに出てくる名探偵みたいだ、とリクは思った。二人はとても親切で良い人たちだったけれど、気取った外国の人たちのように見えた。
みどり叔母さんとお母さんが姉妹だなんて信じられない。お母さんは、リクになにかを強要したことがない。生まれてきてくれただけでいいの、というのが口癖だった。身体の弱かったお母さんは、子どもを産むことをあきらめていたらしい。でも、どうしてもお父さんとの子どもがほしかったの。だから、リクがこうして生まれてきてくれて、それだけで幸せ。そう言ってリクの髪を愛おしそうになでてくれた。きっと、お母さんの元気を、みどり叔母さんが全部吸い取ってしまったんだ。みどり叔母さんは病気もしたことがなさそうだし、週一回スポーツジムでエアロビクスとか水泳をして身体を鍛えている。そんなに元気なのに、あの地震以来怖くて眠れないのよ、なんて言っている。
「水道の水はもう飲めないわ」とか「野菜も魚も汚染されていて心配」と、毎日、体温計のようなもので放射線量を計っては、高いとか低いとか近所のママ友に電話して、スーパーのペットボトルの水を買い占める相談とか、安全な野菜を通販で買う方法とか、夢中でおしゃべりをしている。インターネットが大好き。得意の英語を使ってネットで情報を集め、それを武器にして、お父さんを責めたてる。
「お義兄さんは身勝手過ぎるわ、成長期の子どもにとって放射線はものすごく危険なのよ。せめてリクはうちに預けて一人で行くべきよ」
リクがまだ小さかった頃、病気がちだったお母さんの代わりに、みどり叔母さんはリクの面倒を見てくれた。散々お世話になっているから、と、お父さんは、みどり叔母さんに頭が上がらない。いつも「うーん」と唸って、腕組みをして黙り込んでしまう。

リクのお父さんとお母さんは、若い頃にスキー場で知り合って結婚した。
友達に誘われて初めてスキー場に行ったお母さんは、「なんとかなるから大丈夫」という甘い言葉を真に受けてリフトに乗り、いきなり頂上まで連れていかれてしまった。着いたところは四十五度の急斜面。薄情な仲間たちはお先に、と滑っていき、一人残されたお母さんは雪だるまになって転がり落ちながらべそをかいていた。そこに颯爽(さっそう)と現れたお父さんが「お嬢さん、なにかお手伝いすることはございませんか」と、雪に埋もれたお母さんを救出してくれた。ボーゲンを教え、転びまくるお母さんを助け起こし、無事に山の麓(ふもと)まで降ろしてくれた。そのときのお父さんはスーパーマンみたいにかっこよかった、とお母さんは言っていた。
お父さんはとてもスキーが上手だった。インターハイだって、いいところまでいったんだぜ、と自慢する。その頃の写真のお父さんにリクはだんだん似てきた。リクのスキーはお父さん仕込み。四歳の頃から家族でスキーに行って、スキーではお父さんに負けるけれど、いまやスノーボードならお父さんよりうまいと思っている。お母さんはいつまでたってもスキーが苦手だった。ちょこっと滑ると弱音を吐いて、ロッジで二人を待っていた。わたしは、雪が好きなの。真っ白な雪を見ているだけで幸せな気持ちになる。そう言って、うれしそうに灰色の空を見上げていた。

家族三人のスキー板が車の上に乗っている。まるで、これから三人でスキーに行くみたいだ。
「引っ越すところに、スキー場があるといいな」
お父さんは、すぐには返事をしなかった。
「東北だからあるさ。滑れるかどうかわからないが……」
リクは、それ以上、何も聞かなかった。みどり叔母さんが唾を飛ばしてお父さんに繰り返していた放射能というのがスキー場にも降ったのかもしれない。爆発で飛び散った放射性物質が雨や雪と一緒に降ったのよ。みどり叔母さんはそう言っていた。だから、とーっても危険なのよ。
「リク、みどり叔母さんのところに残ってもいいんだぞ」
お父さんのことばに、リクは首を振った。どんなところだって、お父さんと一緒のほうがいい。これまでだって、二人でがんばってきたんだから、これからだって僕がお父さんを助けていかなくちゃ。リクはそう思っていた。
「一緒に行ってくれるか?」と、お父さんから言われたとき、リクはすごくうれしかった。
お父さんがいろんな人に相談していたことをリクは知っている。みんな猛反対したけれど、お父さんはしんぼう強く相手の話を聞いていた。そして、考え抜いた末にみどり叔母さんに言った。
「リクのことを、この世で一番理解して、リクのために生きていけるのは俺なんです。だから一緒に行くことにしました」
まだ、何か言いたげなみどり叔母さんに、お父さんは毅然として言った。
「こう見えても、俺は、いちおう医者ですよ」
「あなた、精神科じゃないの!」
「医学部は出ています。血が苦手なだけ」
お母さんは絶対にお父さんと同じ意見だ。だってそのときのお父さんは、ほんとにスーパーマンみたいにかっこよかったから。
もちろんリクにだって不安はあった。だけど、お父さんと離れて暮らすなんて考えられなかった。お父さんはスポーツマンで身体も大きいけど、ほんとうはとっても淋しがりやなんだって、お母さんが言っていた。気が小さくて、痛がりで、血を見ると卒倒するのよ、って。みどり叔母さんにだって、いつも怒鳴られっぱなしのお父さん。優しくて、困っている人を放っておけない。そんなお父さんを、リクは尊敬していた。お父さんが大丈夫だと言うのだから、大丈夫。そうだよね、お母さん。
二人は、晴れわたって雲ひとつない五月の朝に住み慣れた街を離れ、一路、東北を目指した。

この年の三月、三陸沖にある二つの海底プレートがぶつかって地盤が跳ね上がった。震度七の強い揺れは、東京や神奈川にまで被害をもたらした。地震は、家々を破壊しただけにとどまらなかった。海水を引き寄せ巨大な津波を生んだ。
恐ろしい光景だった。ぐんぐんと潮が引いていく。沖に引いていった海水が、今度は鉛色の塊になって轟々(ごうごう)と陸地に押し寄せた。まるで黒い怪物のように海沿いの町が飲み込まれた。たくさんの人たちが逃げ遅れ、濁流に巻き込まれて亡くなった。津波の映像が映るとお父さんはテレビを消してしまった。
災厄はそれだけでは終わらなかった。もっとたいへんなことが起こった。世界中の人が注目するような恐ろしいことだった。津波によって海際にあった原子力発電所の電源装置が流されてしまった。予備の電源も流され、原子力発電所はすべての電源を失ってしまった。原子炉の中では核分裂が起こっていた。原子炉を水で冷やし続けなければならないのに、機械がいっさい動かなくなった。巨大なエネルギーを生み出す原子炉が、コントロール不能になった。そんなことが起こるなんて誰も考えていなかった。偉い科学者も、政治家も、どうしていいかわからなかった。計器が動かないので、原子炉の中で何が起こっているのかわからない。高い放射線が原子炉から出ている。なんとか電気を復旧させようと職員の人たちががんばったけれど、浴びるだけで死んでしまうような放射線が出ているから作業は進まない。ついに原子炉から核物質が溶け出した。レベル7という史上最大級の原発事故になった。水素爆発が起こり、大量の放射性物質が空気中に放出された。飛び散った放射性物質は風に運ばれて東京や神奈川、静岡のほうまで広がった。
日本にいた外国の人たちがいっせいに日本から逃げ出した。各国の大使館は、大至急日本から避難するように命令を出した。リクの家の近所でカレー屋を開いていたインド人一家も店を閉めて帰国してしまった。
宇都宮も汚染される……と、親戚の家に疎開する人たちもいた。福島県の原発の近くに住んでいた人たちは、政府から強制的に避難を命じられた。車で西に避難する人たちで道路は大渋滞。太平洋岸は津波で壊滅状態、道路は遮断され、交通が麻痺し、大パニックだった。
そんな大地震と事故から、まだ二カ月半しか経っていない。
いま、リクとお父さんは、事故のあった原子力発電所から四十キロの場所にある町に向かって走っていた。
お父さんは、牧之原市の総合病院に精神科医として赴任することになっていた。いまや病院は医師不足。何科でもいいから患者を診てほしい、とにかく医師が必要なんだそうだ。
「大丈夫さ、そこに住んでいる人たちがいるんだからね」
お父さんは、大好きなブライアン・ウィルソンのグッド・ヴァイブレーションを大声で歌いながら東北自動車道をひた走った。グーッグーッグーッグッドバイブレーショーン。歌って気分を盛り上げているのがわかった。
快調なドライブが続いたけれど、車が福島インターを降りて一般道に入ったあたりから、積んでいた放射線量計の警告音がピーピーと鳴り出した。
最初は「おおっ、ほんとうに鳴ったぞ」とはしゃいでいた。そのうち、警告音の間隔はどんどん短くなって、とうとう鳴りっぱなしになった。二人は顔を見合わせ無口になった。お父さんはついに警告音のスイッチをオフにしてしまった。やっと線量計は黙った。車内が急にしんとなった。
唐突にお父さんが、真面目な声で言った。
「マスクをしなさい」
リクはリュックからマスクを出して鼻と口をおおった。そして、お父さんにもうひとつ渡した。お父さんは最初、俺はいいから、と首を振ったけれど、それでもリクがずっと差し出しているので、しぶしぶ受けとってマスクをつけた。
CDはずっとビーチ・ボーイズ。軽快な音楽を聴きながら車窓の風景を見ていたら、バックミラーの自分と目が合った。リクは風邪をひいてもめったにマスクなんてしたことがなかった。うっとおしいからだ。
変な顔……。目を風景に移すと、なだらかな青々とした草原が続く。木々の葉が陽を受けてきらきら輝いている。ここの、いったいなにが危険なんだろう、とリクは不思議に思った。こんなマスクひとつで放射能を防げるのかなあ。じゃあ、放射能って花粉みたいなものなのかな。
道路脇に牛の絵の看板があった。馬の絵の看板もあった。初めて見る景色に、リクはわくわくしていた。
放射線量計を手に取ってデジタル表示を見ると、数字が上がったり下がったりしていた。3になったり、ときどき5になって、また0コンマの数値に戻ったり。それが放射線の線量を示していることは知っていたけれど、いったい、どれくらいが高くて、どれくらいだと低いのか、その基準もわからないので、リクにとってはまったく無意味な数字だった。
「いま、いくつだ?」
と、小さな峠を越えたところでお父さんが聞くので「3」と答える。
「車内で3マイクロシーベルト・パー・アワーは高いなあ……」
お父さんは少しがっかりしたように言った。それからすぐ気を取り直して、
「でも、このあたりは一番高い地域だから」
と、自分を励ますように呟き、ミントガムを嚙んでから、グンとアクセルを踏んでスピードを上げた。
リクは道路の両脇に広がる美しい森を眺めていた。ようやく新緑が芽吹いてきたばかり。東北の春は遅いのだなと思った。この澄みきったきれいな青空に、放射性物質というのは散らばっているのか。いま吸っている空気の中にも混じっているのか。みどり叔母さんの家の芳香剤のようにきついにおいがすれば、少しは怖さが実感できるだろうに。
線量が下がると、お父さんは「うっとおしいな」とマスクを外した。リクも、マスクを外してほっとため息をついた。リクには、放射線のなにが怖いのかまだよくわかっていなかった。お父さんはリクにマスクを外すなとは言わなかった。ただ横目で見て、俺も人の子だな……と、ため息をついた。
アップダウンを繰り返し、長くゆるい坂を下ると森が消え、平地になった。ガソリンスタンド、量販店の看板、見慣れた風景になってくる。家や、商店や、信号が増えたけれど、どの店もシャッターが閉まっていたし、まったく人の姿がなかった。対向車すらいない。
「なんだか、誰もいないね……」
音楽が景色の中に吸い込まれてどんどん消えていく。
無人の町。いつか映画で観た、未来のゴーストタウンみたいだ。その映画では、ウィルスに感染した人間はみんなゾンビになってしまう。暗い地下室の中で昼間は眠り、夜になると血肉を求めて外に出てくる。昼の世界に人間はいない。野生動物が闊歩(かっぽ)する無人の町。
リクは自分が映画の主人公になった気がした。じっさい、人のいない町は映画のセットみたいに薄っぺらく見えた。
信号が赤になって、車は交差点で止まった。止まる必要なんかあるのかな、だって、僕たち以外に誰もいないじゃないか。お父さんは、フロントガラスの先を見つめている。ただまっすぐに灰色の道路が帯のように伸びていた。ここでどうやって生きていくのか見当もつかなかった。あまりに人の気配がしないから二人は途方に暮れていた。
すでに陽は傾き、空には雲がわきオレンジ色に輝いていた。建物も西陽を浴びて赤く染まりそれぞれの影で浮き上がって見えた。信号が青になったので、車は走り出した。カーナビの甲高い声が目的地が近いことを教えてくれた。
この先五十メートルで目的地です。音声案内を、終了します。
路地を曲がると住宅街のどん詰まりに、二人の新しい家があった。二階建ての白くて真新しいアパート。だけど、そこにも、人が住んでいる様子はなかった。どの窓にもカーテンすらかかっていない。
「誰もいないのかな……」
車を降りたリクは建物を見上げた。お父さんは努めて明るく言った。
「新築なんだけど、原発事故のせいで入居者が集まらなかったんだってさ。いまんとこうちの貸し切りだよ」
大声で叫んでも、飛び跳ねても苦情はこない、すごいだろう。リクは黙ってお父さんを見上げる。お父さんは、めいっぱい両手を広げてミュージカルスターみたいに歌った。グーッグーッグーッヴァイヴレーション!

その日、運送屋の荷物は届かなかった。なんで荷物が届かないのか、お父さんは怒って何度も電話をした。非常時なので、としか返事がなかった。二人はドライブインで買ったパンを食べて、寝袋にくるまって眠ることになった。時折、国道を走るトラックのタイヤの音以外、なにも物音がしない。静かだった。カーテンのない窓から星がよく見えた。
なかなか寝つかれなかった。リクは、寝袋の中に潜り込んで、ペンライトで鈴木夏美の手紙を読んだ。

佐藤リクへ
事故があった福島にリクが引っ越して行くなんて思わなかった。
でも、リクのお父さんはお医者さんだから、心配しなくても大丈夫だよね。
リクがいなくなるとわかって、とても淋しい気持ちになった。ずっと幼稚園から一緒だったからかな。それに、同じ飼育係でウサギの世話もしていたからかな。ウサギのジョーンズは私がちゃんと世話をします。ジョーンズはリクになついていたから、きっと淋しがるね。この子は宇宙人で、月から地球を偵察に来たんだって、リクが言うから「宇宙人ジョーンズ」になったけど、この子、メスらしいよ。
ジョーンズは宇宙人だから、リクのことを見守ってくれると思う。
返事をくださいね。待ってるからね。
鈴木夏美

jasrac JASRAC許諾第9015887002Y38029号

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著者プロフィール

田口ランディ(たぐち・らんでぃ)

1959年、東京生まれ。作家。2000年に長編小説『コンセント』を発表、たちまちベストセラーとなり、衝撃的なデビューを飾る。以来、人間の心の問題や宗教、原発、原爆といった問題まで、幅広い執筆活動を展開する。著書に『アンテナ』『モザイク』『富士山』『被爆のマリア』『キュア』『マアジナル』『パピヨン』『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、原子力を受け入れた日本』『サンカーラ―この世の断片をたぐり寄せて』『ゾーンにて』『坐禅ガール』など著書多数。

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