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新井素子(あらい・もとこ)

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謎の男

2018.02.15 更新

 なんとかやっと受験をクリアして、一年。無事に大学二年になれたので(いや、かなり単位を落としても、うちの大学は二年までの進級は誰だってできるんだが)、私、バイトを始めることにした。学費を稼ごうだなんて殊勝なことは思ってないよ、単純に、お小遣い稼ぎのバイト。だってうちの親……二十歳になったらお小遣いなしって宣言しているんだもん。
 はいはい、甘えてます私。世の中には奨学金で大学通って生活費自分で稼いでいるひとだって結構いるんだ、実家で家賃と光熱費なくて食事は親が作ってくれて、大学の学費も全部親に出して貰って、これで二十歳になってもお小遣いくださいって……言いたいんだけれど、それ言っちゃったら、どんだけ甘やかされているの私って話になっちゃうもん。だもんで、せめて、お小遣いくらいは、自分で何とかしなくては。
 選んだのは、地下鉄駅構内にある、パン屋さん。もっとも、パンを焼くだなんて技術が必要なこと、私にできる訳がないから、売り子さんなんだけれど。(というか、駅構内にある店舗では、勿論パンを焼いてはいない。本店で焼かれた製品を、並べて売っているだけなんだけれど。)
 四月初め、今年度の講義の選択を終えてみたら、偶然にも木曜が空いてしまったので(必修の講義がない曜日だったし、私が履修したい講義が、これまた偶然、木曜にはひとつもなかったの)、木、土、日の週三日、午前八時から午後五時まで。
 働きだしたら、これが結構大変で。
 大体が、立ちっぱなしだし(まあ、店舗の中で椅子に座ってる店員さんって、そういえば見たことないなー)、パイ生地でできているようなパンは、トングで摑むの意外と難しいし、うすいビニール袋に詰めるのもとっても大変。(下手に力を込めると崩れちゃうんだよー。)
 で、最初の一週間くらいは、私、仕事に慣れるだけで、もう、青息吐息。
 でも、まあ、単純労働だし。
 二週間もすると、なんか、段々私、仕事に慣れてきた。
 もの凄い勢いで忙しくなる時間帯もあるんだけれど、暇な時間帯も結構ある、そんなことが判ってくると、暇な時間帯には、お客さんを観察したりできるようになって。
 そうしたら。
 どう考えても、“謎の男”がいるってことが……判ったのだ。

            ☆

 謎の男。
 あとで詳しく言うけれど、このひと、本当に、“謎”なのだ。
 でも、彼のこと、“謎”だって思うようになったのは、もうちょっと後の話で……。
 一番最初は。
 あ、なんか、よく見る男のひとがいるなーって気分だったのだ。
 一日……何回も、下手すると十回くらい、このひと、見るよね。
 いや、よくよく考えてみれば、地下鉄構内の、改札を抜けた処にあるパン屋さんで、一日十回、同じひとを見るってこと自体が、すでに“変”なんだけれど……最初のうちは、私、その“変”さに気がつかなかった。ただ、「ああ、このひと、なんかよく見かけるなー」って思っただけ。
 で、私がそのひとのことを気にしだしたのは……へっへっへっ、実は。
 もっの凄い、私好みの顔だったのー。
 眉の処の骨が、ちょっとでっぱり気味。でも、目は落ちくぼんだ感じがなくて、鼻筋はしゅっとしていて、その、眉と目と鼻のバランスがねー、うわあい、もろに、私の好み、ピンポイントだあ。
 しかも、一回、そのひと、うちでパンを買ってくれたことがあって、その時の接客を私がしたんだけれど……お金を払ってくれた、包装したパンを受け取ってくれた、そのひとの手がね。
 でっかかった。彼の背の高さは170センチくらいだから、とりたてて大きなひとって訳ではなかったんだけれど、手だけが、妙にでっかくて、筋ばってて、骨がよく見えて……。
 ピアニストの手。
 瞬時、そんなことを思ってしまった。これまた、ピンポイントで、私の好みの男の手、だったんだよー。
 この時以来、私は彼のこと、心の中で“アーティストさん”って呼ぶようになって(気分としては“ピアニストさん”なんだけれど、さすがにそこまで勝手に職業を特定するのはどうかなって思って……って、そんなことを言うのなら、そういう勝手な思い込みをすること自体、まずいような気はするのだが)、一回、意識しちゃうと、このあとずっと、私は、“アーティストさん”が目の前を横切る度、彼のことを認識するようになって……。
 そしたら。
 判った。
 アーティストさんって……ほんとに“謎の男”だったのだ。

            ☆

 まず、前提条件の確認ね。
 私がいるのは、地下鉄の改札を通った処にある、パン屋さん。
 だから、毎日みかけるひとは、結構、いる。朝、必ずうちの前を通って地下鉄に乗ってゆくひと、夕方、必ずうちの前を通って帰ってゆくひと。
 常連さんだって、いる。
 毎朝、必ずうちでパンを買ってくれるひと。
 毎朝うちでパンを買ってくれ、その上、夕方、帰りにもかなりの確率でパンを買ってくれる高校生なんかもいて、彼にかんしては、パン屋が思ってはいけないことなんだろうけれど、「もっと野菜を喰えー、ちゃんとバランスがとれた食生活しろー、パンばっかり喰ってるんじゃねー」って言いたくなる。
 だから、毎日、アーティストさんを見かけること自体は、それは不思議でも謎でもないのだ。
 ただ。
 そういう常連さんは、一日一回しか見ないのが普通なのだ。行きか、帰りにね。
 なのに、アーティストさんは、一回見かけると、そのあと十回くらい、連続して見かけるんだよね。
 これ。
 一体全体、何をやっているの?
 繰り返して言うけれど、うちは、地下鉄の改札を越えた先、そこにあるパン屋さんなのだ。うちの前に来る為には、地下鉄の改札、通らなきゃいけないのだ。んで、地下鉄の改札を通るひとって、何の為に改札通るのかって言えば、地下鉄にのる為に通るのだ。んで……地下鉄にのる為に、改札を通ったひとが、パン屋の前を、十回も通るって、それ、何? 何やってんの、このひと。
 短時間にうちの前を一往復するだけなら、忘れ物をしたのかな、なんて思うこともできるんだけれど……五往復もされると、もう、それってあり得ない。まして、アーティストさんは、単純にうちの前を行ったり来たりしているのではないのだ。一回うちの前を通ったあと、数分から十分くらいたってのち、また、うちの前を通る。そして、また、数分から十分くらいたって、うちの前を通る。で、そのあと、一時間くらい姿が見えず……一時間くらいしたら、また、数分から十分くらいの間隔をあけて、うちの前を通る。それを繰り返す。
 まあ、一回くらい、そんなことがあったのなら、なんか特殊な事情があったのかなーって思えない訳でもない。(そんな“特殊な事情”なんて、私には想像もつかないんだが。)けど、アーティストさんは、ほぼ毎日、これをやるのだ。少なくとも、私が見ている、木・土・日は、ほぼ、毎日、これをやっているのだ。空白の一時間をいれると、合計二時間くらい、これをやっているのだ。
 こ、これを。
 これを“謎の男”と言わずして、他に何て呼んだらいいのだ。

 しかも。
 アーティストさんの格好が……また……何ていうのか……変、なのだ。
 普段はね、ラフすぎる格好。というか、まったくの普段着というか、家着なのだ。
 毛玉が猛烈にできているセーターとか、よれよれのシャツとか、上下ジャージとか。いや、あなた、社会人として、その格好は、近所にゴミを捨てに行く時とか、せいぜいその辺のコンビニに行く時くらいしか許されないものでしょって感じの奴。そういう時には、髪がどっかはねていたりする。寝癖がついているの、気にしていないよね、あ、今日なんか無精髭剃ってない、なんてこともある。
 うん。つまり、普通の場合は、まるで近所に出かけるかのように、地下鉄の改札を通ってくる訳なんだ。
 でも、時々は。
 ぴしっとした格好になっている時も、あるんだよね。
 髪は洗ってる、髭も剃ってる、服装もぴしっ。
 んで、こういう時には、何故か、うちの前を、行ったり来たりしない。まるで普通のひとのように、一回うちの前を通ったら、それでおしまい。
 何、やってんだ、このひと。
 というか、何なんだ、このひと。
 最初に考えたのはね、このひと……私がいる駅の改札口周辺と、隣の駅の改札口周辺を行ったり来たりする仕事をやってるのかなあってことだったんだけれど(数分から十分だと、そのあたりくらいまでしか行けない)、さあて、その仕事って、何だ。改札の処でひとに何かを渡す、ちょっと違うかも知れないけれど、キセル乗車みたいなことをやっているのかなあって思ったんだけれど……地下鉄、一駅分の乗車賃を誤魔化す為に、二時間も時間かけてたら……それは、絶対に、割に合わない仕事だと思う。改札口の外に、アーティストさんにそんな仕事を依頼した人間がいるとしたら……その人間が陥っている状況が、これまたさっぱり想像できない。
 そして。夏になったら、もっと驚愕の事実が判明。アーティストさん、どうやらこの時期、軽い夏風邪が抜けなかったらしくて、二、三日、くしゃみと鼻水が止まらなかったことがあったんだよね。で、しょっちゅう立ち止まっては鼻をかんでいたんだけれど……一回、うちの店の脇で鼻をかんだことがあって……その時の! ティッシュの色が!
 いや、私、ひとの鼻水の色なんかに注目するつもりはまったくない。でも、「アーティストさんだ」っていうんでついつい見てしまい、そこで彼が鼻をかんで……そしたら、ティッシュが、鮮やかなスカイブルーに染まったんだよっ!
 これが、赤だったら。鼻血だって思えた。ピンクでもそう考えることは可能だろう。けれど、スカイブルー? こんな綺麗な青い鼻水のひとって…… 彼は、そもそも、地球人類なのか?
 もの凄く変なこと考えちゃった。
 スーパーマンってさあ、電話ボックスの中で、冴えない男からスーパーマンに変身して飛び出す訳じゃない。このひとは、実はよその星から来た何かの使命を帯びた宇宙人で、地下鉄構内のどっかで、謎のものに変身して、飛び出している。その時は、時空を超えちゃっているので、ミッションひとつ済ませて帰ってきても、地球では時間が過ぎていない、だからやたらここをうろうろしているように見える、こんな解釈、どうだ?
 いや、どうだも何もないよね、間違っている。常識的に言って、そんなことあり得ない。けど、なら、どういう常識を敷衍(ふえん)すれば、このひとの行動、説明できるんだ?
 
            ☆

 なんて思っているうちに、夏が過ぎ、秋がきて……。
 ある日。
 いつものように、うちの前を五往復したアーティストさん、ふっとうちのショーケースを見て、引き寄せられたようにやってきて。
「和栗と芋のパイ?」
 その時、接客していたのは私で、私、勢い込んで。
「はい、この秋の新商品です。お芋は安納(あんのう)芋です。栗とお芋だけで充分甘いので、お砂糖うんと控えています。勿論、デザートになる一品ですが、お食事パンとしてもいけます」
 この商品が出た時、私、自分で買って試食したもん(和栗と安納芋。これは試さずにはいられない)、これは本当。で、私が自信満々でこう言ったせいか、アーティストさん。
「んー……じゃあ、それと……あ、失礼」
 ここで。アーティストさん、慌ててポケットからティッシュだして、横を向いて。
 はっくしょん!
 ちょっと大きめのくしゃみ。ティッシュで痰をとる。
「いや、失礼。ちょっと鼻がむずむずしちまって……」
 で! で、その、ティッシュがっ!
 ショッキング・ピンクに染まっていたんだよね、しかも、蛍光色はいってる!
「その、和栗のパイと、塩バターくるみパンと」
 注文の途中だったんだけれど。そのティッシュを見た瞬間、私、叫んでいた。
「あの、救急車!」
 いや。ひょっとして、アーティストさんが、地球外生命体だったらこんなこと言っちゃまずいのかも知れないけれど、彼が地球人類だった場合……ショッキング・ピンクの痰って、それ、何よ? 蛍光色はいってる感じがするあたりで、すでに普通ではないんだけれど、ピンクの痰って、これ、血痰の一種なのでは? アーティストさん、大丈夫なのか?
「へ? あの……救急車って……」
「呼ぶべきなのでは? あの、痰や鼻水がショッキング・ピンクだったりスカイブルーだったりする時点で、あなたはとても健康な人間だとは思えなくって……」

          ☆

 驚いた。
 あー、本当に、驚いた。
 俺は、和仁(わに)彰夫という男で、イラストレーターをしている。
 勿論、健康体。
 んでもって、趣味は、階段登り。
 というか、仕事柄、運動不足になりがちなので、随分前、知り合いにジムにはいることを勧められた。
 で、スポーツジムにはいってみたんだが……ジムで運動すること、それ自体は、別に嫌じゃなかったんだが、筋トレって奴が、どうも苦手で。あんなさあ、同じ処でマシン相手に同じ動作繰り返すのって……やってたら、飽きないか? 俺は、飽きた。
 そんな頃、うちのすぐ側に、地下鉄の新しい駅ができた。
 そんでこれが、なんか、驚く程深い地下鉄だったんだよな。(新しく出来た路線は、それまでにあった路線の下に潜らなきゃいけないから、どんどん深い処になってゆくんだよな。)新しい線が開通した処で、一回、その駅に行ってみたら、改札抜けたあと、実際にプラットホームに辿りつくまで、もの凄い長さの階段を下りなきゃならなかった。当然、帰りには、もの凄い長さの階段を登らなきゃいけなくなった。いや、勿論、改札抜けた処にエレベータはある、エスカレータも、特に登りは完備、だから、乗客は、階段登る必要はないんだけれど……ここが、俺には、魅力だった。
 いやさあ、なんか、ジムでお金払って運動するより。毎日、ここの階段登れば、それで充分なんじゃないのか? しかも、エレベータとエスカレータがあるから、階段登っているひとって、あんまりいないし。
 ただ、この長大な階段を登る為には、改札抜けなきゃいけないんで……ああ、いや、そーいや、隣の駅前にラーメン屋があるよな。あそこ、俺、結構好きで、地下鉄ができる前は、二十七分歩いて、週に三回はあそこ行っていたよな。なら、そこへ行くのを、日課にすればいいんだ。地下鉄にのれば、十分足らずで行けるんだから。
 起きる。仕事する。昼になる。うちの側にある地下鉄の駅の改札通る。で、階段を、思うさま登ったり下りたり登ったり下りたりして、隣の駅へ行く。ラーメン食べる。帰ってきて、また、階段を、登ったり下りたり、登ったり下りたり……。
 これ、やってみたら、はまった。
 いやあ、階段、登るのって、ある意味、快感。俺、階段登り、本当に好きかも。しかも、一月で俺、二キロ痩せた。(ジムに通った時には、体重、落ちなかった。)
 通算で考えてみたら、ジムの会費より地下鉄の料金の方が安いし、どうせ昼飯は食べなきゃいけないんだし、それ考えれば、これってすっごくいいシステムじゃないのか?
 ただ。
 まさかパン屋さんのお嬢さんが、こんな俺に注目しているとは、思わなかった。
 しかも、俺の鼻水の色なんか、気にしているとは。
 いや、画材の問題なんだけれど。
 エアスプレー使う奴はなあ、マスクとか、防御をやっていても、結構鼻の中がその色に染まっちまうんだよ。(まして俺は、面倒だからあんまりちゃんとマスクをしないで絵を描いていた。)だから、鼻かんだら鼻水がレモンイエローとか、知らないひとが見たら、そりゃ、驚くよな。
 救急車って言われた時は、何言われてるんだかまったく判らなかったし、すんごいあせったんだけれど……まあ。
 仕事中は、格好なんかに気を遣っていないから、お昼食べに出かける時だって、ほんとに酷い格好してた筈なんだけど、あんなよれよれの俺を見て、そんな俺を見初めてくれるお嬢さんがいたとは……。
 いや、驚いた。
 何に驚いたんだか、最早判然としないんだけれど。

            ☆

 あの後。和仁さんから、お話を聞いた。すべては私の勝手な思い込みであり、「救急車を!」なんて叫んでしまったこと、結局、和仁さんに迷惑をかけただけなのかなって思うと、ちょっと落ち込んでしまったりもした。
 でも。
 話に聞いた、和仁さんの生活は、絶対、許してはいけないものじゃ、ない?
 いや、毎日、階段を歩くのはいいの。でも、階段歩いて、毎日、行くのが、ラーメン屋さん? お昼が必ずラーメンって……それは、やめろ。朝、うちでパンを買ってくれて、夕方にもパンを買ってくれる、そんな高校生より、まずい食生活だよ、それ。
 で。
 ずっと。
 そんなことを言っていたら。
 この間あたしは、ちょっといい格好をした(和仁さんがいい格好をしているのは、お仕事でひとに会う時だけなのだ、なのに、この日は、お仕事関係なく、いい格好をしてくれたのだ)和仁さんに、言われた。
「そこまで御心配ならば、今度、一緒に、食事をしましょうか?」
 はいって、言おうかと思っている。
 言おうかなー、どうしようかなあ、言うんだよねー、きっと。「はい」って。

 言っちゃうよね、きっと。

                    〈FIN〉

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著者プロフィール

新井素子(あらい・もとこ)

1960年東京都生まれ。立教大学ドイツ文学科卒業。77年、高校在学中に「あたしの中の……」が第1回奇想天外SF新人賞佳作に入選し、デビュー。少女作家として注目を集める。「あたし」という女性一人称を用い、口語体で語る独特の文体で、以後多くのSFの傑作を世に送り出している。
81年「グリーン・レクイエム」で第12回星雲賞、82年「ネプチューン」で第13回星雲賞受賞。99年『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞をそれぞれ受賞。
『未来へ……』(角川春樹事務所)、『もいちどあなたにあいたいな』(新潮文庫)、『ダイエット物語……ただし猫』(中央公論新社)、「星へ行く船シリーズ」全5巻(出版芸術社)など、著書多数。

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