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新井素子(あらい・もとこ)

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神様、それはどうなんだろう

2017.08.15 更新

 ……どうしたことだ。これは一体どうしたことなんだ。
 あたし、呆然。
 何故ならば……あうう、トマトの缶詰が、開かない、ん、だ、よおー。

          ☆

 ことの起こりはとても単純な話であって……あたし、夕飯にパスタを作ろうと思ったのだ。
 んで、まず、にんにくをみじん切りにして、それをオリーブオイルで炒めて、そこに、トマト缶を投入しようと思ったのね。(ホールトマトの缶詰は、かなり水分があるんで、これを煮詰めた処に、アンチョビぺースト投入、最後にうちのプランターで育てているバジルの葉を、何枚かちぎってきて入れれば、これだけで立派なパスタソースになる筈だった。)
 ところが。
 にんにくのみじん切りまでは、何の問題もなかった、オリーブオイルでにんにく炒める処までは、オールオーケー。
 うん。ちょっと炒めていると、結構いい香りがたってきた。おいしそうだな。
 んで、ここで、ホールトマトの缶詰を開けて、中身を投入……って思ったら。
 何故か、ホールトマトの缶詰が、開かなかったのだ。
 うんしょ、どっこらしょ、思いっきり力をこめて……でも……開かない。角度を変えて何回もトライしてみたんだけれど、やっぱり、開かない。
 開かないって……開かないって……いや、これ、パッカン、でしょ?
 缶切り不要の、ぱっかんって、簡単に開く筈の奴、だよね? それこそ、本当に簡単に、子供でも開けられるような奴、だよね?
 それが、開かない。何故か、開かない。でも、ここで、トマトの缶が開いてくれないと、多分、今、炒めているにんにくが、焦げるうっ。
 にんにくが焦げるのはまずい、それでは絶対にこのソース、おいしくなくなってしまう、それは断固として避けなければいけない事態だ。
 そう思ったあたし、しょうがない、非常手段をとる。
 パッカンの、輪になっている、指をかけてぱっかんって開ける部分に、お菜箸二本突っ込んで。梃子の原理で、パッカンを、無理矢理こじ開ける。
 ……ぱっかん。
 このあたしの無理矢理作戦が功を奏して、トマトの缶詰は、なんとか、開いてくれる。
(……同時に……お菜箸が……折れた。ああ、なんてことだ。いや、まあ、これ、しょうがないか? パッカンって、こういう開け方をするものじゃないよねえ。お菜箸の、変な処に、変な力がかかってしまったんだな、きっと。)
 これであたしは、お料理を続けることができる。
 けど、あのっ!

          ☆

 何故、パッカンが、開かなかったのか。
 ソース作り終えてしばらくした頃、旦那が帰ってきて、改めてパスタを茹で、二人で夕飯を食べ終え、ベッドに入った後。
 あたしは、そのまま素直に眠ることもできず、ひたすら、この問題を、心の中で追求していたのだ。
 いや、だって、パッカン。
 これが開けられないだなんて、これが開かないだなんて、それは一体何なの。
 ま、あたしが開けようとしたパッカンは、日本の缶詰じゃ、なかった。安売りスーパーで山積みになっていた、輸入ものだったから……んーと、日本じゃない処にお住まいの方は、日本人より腕力があるのが普通で、だから、この程度のパッカンでも、楽に開けられるのかなあ?
 あるいは……輸入の間に、なんかあって、(んと……錆びる、とか。いや、そんな感じは全然なかったんだけれど……その……それでもやっぱり、目に見えないどこかが、錆びてた、とか)、この缶詰の蓋が、きつくなってしまった。(……いや……錆びたからって 、きつくなるもんなんだろうか、パッカンの蓋。どう考えても、錆びた方が強度、弱くなるような気がするな……。)
「……ふうう」
 一回。ため息をつくと、あたしは、そんな“希望的観測”を、あっちの方へやってしまう。
 いや、パッカンが開けられなかった理由。判っています。そりゃ、とてもよく、判っています。ただ、認めたくなかっただけ、なんだよね。
 はい。あたしの握力が、衰えてきたからだ。
 ここの処、あたしの親も旦那の親も、徐々に介護が必要な状態になってきつつあるので、最近のあたしは、介護関係の本を結構読んでいる。それで知ったんだけれど……お年寄りの中には、パッカンは勿論、ペットボトルの蓋が開けられない、とか、缶飲料が開けられずに飲めない、とか、そんな方がいらっしゃるみたいなんだよね。(いや、信じられないでしょう、缶コーヒーが開けられない、だなんて。でも、これは本当のことなんだ。)
 これは勿論、老齢による握力低下のせい。
 でもっ。でも、“老齢による握力低下”って、あたしは、まだ、四十一だよ。この年で、“老齢による握力低下”はないだろう。大体、昨日までは、普通にパッカン、開けていたんだし。
 とはいうものの。
 大体、お年を召した方は、みなさん、仰るんだよね。
「昨日まではそれができていたのに」
 なのに、それが、できなくなるのが、“老化”の恐ろしさ。
 と、いうことは。
 やっぱりあたし、自分の老化を考えなきゃいけないんじゃないかなって思う。
 ええん、泣いちゃおうかな、あたし、まだ、四十一なのに。まだ、絶対にそんな年ではない筈なのにー。
 いや、こんなこと思って、油断しているのが、実は、一番、危ないのかも知れない。
 それに。
 自分の“老化”ってものを意識した瞬間、実はとても怖くなってきたのだ。
 いや、今、“最近介護関係の本を結構読んでいる”って言ったでしょ、もともと凝り性だったあたし、この一年で二十冊くらい、そういう関係の本を読んでいて……すっごく怖くなったのが、認知症。確かに最近、物忘れすることがあるしなあ、いや、常識では、「別に若くったって何だって、物忘れくらい普通する」って思っているんだけれど、介護関係の書籍を二十冊も読めば、そりゃ、認知症、すっごく怖くなりますって。
 ま、握力低下と認知症には何の関係もないんだけれど、これは、どっちも、“老化”に直結している気がする。
 そう思うと、とっても怖い。
 とっても怖かったので……。

          ☆

 翌日から。あたし、自分に運動を課した。
 手をまっすぐに伸ばして、『むすんでひらいて』やってる感じで、手をにぎにぎにぎ。これを、左右、五十回でワンセット。ま、会社にいる時や、家で家事やってる時なんかにこれはできないから、主に、歩いている時中心に。(……ただ……こんなの、楽勝だと思っていたのに……やりはじめたら、五十回が、きついの何の。三十回を超える前から、もう、まるで幼稚園児のお遊戯のように、ゆっくりゆっくり繰り返して……それでも、終わったら、手が棒になったよう。)
 で、あたしがこんなことをやっているって、すぐに旦那にばれ、そうしたら、旦那が、百円ショップで、ハンドグリップって奴を買ってきてくれたのだ。一キログラムの強度の、とにかく握る運動をする奴。にぎにき、にぎにぎ、にぎにぎ、にぎにぎ。
 という訳で、ここ最近のあたしは、家でTVを見たりお風呂に入ったりしている時、ひたすらこのハンドグリップをにぎにぎしていたのだ。
 うん、あたしの傍らには、常に、ハンドグリップ。別に大切にしている訳じゃないんだ
 けれど、習慣で。
 にぎにぎにぎにぎにぎにぎにぎ。
 老化って言葉と、握力の低下が、あたしの中では、イコールで結ばれているもんだから、(そして、更にあたしの心の深層では、老化と認知症が、何故かこれまたイコールで結ばれているもので)、“老化”が怖いあたし、とにかくにぎにぎ。ひたすらにぎにぎ。
 握力さえ低下しなければ、老化もどっか遠くへ行ってくれるかなあって、老化がどっか遠くへ行ってくれさえすれば、認知症はもっとずっと遠い山の彼方に行ってくれるよなって思って、も、信仰のように、にぎにぎにぎにぎ。
 この状態を他人様が見たら。
 うん、あたし、別にハンドグリップ、好きな訳でも何でもないんだけれど、ハンドグリップ・マイ・ラブみたいな感じになっちゃうのかなあ。そんなことを思うくらい、あたしはずっと、ハンドグリップと一緒にいた。
 いや、だって。
 パッカンが開かないって、こりゃ、相当な事態じゃない、考えたくないんだけれど、あたしの握力は、もう、どのくらい、衰えているんだか。
 だから、頑張って、にぎにぎにぎにぎ。
 一所懸命、にぎにぎにぎにぎ。
 ひたすらに、にぎにぎにぎにぎ。
 朝も。
 昼も。
 夜も。
 お互い、仕事が忙しい時期だったから、旦那と会話をしない日は、週に何回か、あった。
 でも、ハンドグリップ握らない日は、週に一回だって、ない。いや、下手したら、一日五、六回、ハンドグリップ、にぎにぎしている。
 も、殆ど。
 ハンドグリップ熱愛状態。
 そんな感じに、あたしは、なってしまって……。

 そうしたら。ある日。
 会社から家に帰ってきて、大体の家事を済ませて、あとは旦那が帰宅したら夕飯だよなー、そんな気分で、ソファに座って、ぱらぱらっと雑誌をめくって、こんな時のいつもの友、ハンドグリップをにぎにぎしようと思ったら。
 あらら、不思議なことに、リビングのテーブルの上に置いてあった筈の、ハンドグリップが、見当たらない。
 どこに置いたのかなってきょときょとしていたら、ふいに。
 ふいに、ふいに、テーブルの上に、女のひとの姿が現れたので……え? えええ? え、あの?

          ☆

 ひとん家のテーブルの上に。何故か現れた女のひとは、とても美しくて、なんか神々しくて……うーん、神様、とか、女神様、とか、そういう雰囲気のひとだった。(いや、多分、ひとじゃないとは思うんだけれど。というか、人間は、ひとん家のテーブルの上に、いきなり現れたりしませんよね、普通。って、あたしが、あんまり驚いておらず、妙に理性的にこの事態に対処できているように見えるのは……あたしが、あまりにも、あんまりにも、驚きすぎてしまったせいだ。うん、あんまり驚くと、最早人間、驚けなくなるんだよねえ。不思議と、冷静に見える行動をとってしまうんだな、これが。)
「あなたが落としたハンドグリップは」
 こう言いながら、この……ひと、なのかなあ、女神様、なのかなあ、妖精さんなのかなあ、は。いくつかのハンドグリップを、あたしに見せてくれる。
「この、金のハンドグリップでしたか、それとも、こちらの銀のハンドグリップでしたか、あるいは、この、銅のハンドグリップでしたか?」
 あ。この手の話は……なんか、聞いたことがある。
 でも、あたしが聞いたことがある話と、現状には、とっても違う処がある。
 あのね、まず、ここは、泉でも池でもありません。ここは、うちのリビングの……その、テーブルの上、です。
 それにあたし、ハンドグリップ、どこにも落としておりません。
 それに、金や銀のハンドグリップって、何なんだよー。ハンドグリップが全体的に金になってしまったら、それ、最早ハンドグリップにならないのでは? そういうハンドグリップは、たとえ形状がハンドグリップであったとしても、いくら、金が、金属にしては柔らかくて曲がりやすい材質であったとしても、にぎにぎして、握力を上昇させる運動には、絶対に適さないとあたしは思う。うん、全部が金でできていたのなら、それをにぎにぎして、曲げたり伸ばしたりして、握力の向上をはかることができるのは……多分、人間ではない、もっとずっと力がある、別の、“何か”だ。
 だから。
 しょうがない、あたしは、言う。
「あの、違います。あなたが提示したハンドグリップは、金も、銀も、銅も、あたしが落としたものではないですし……そもそも、あの、あたし、ハンドグリップ、落としていないと思いますし……大体がですねえ、えっとあの……落とすって……どこ、に?」
 いや、だってここ、うちのリビングのテーブル。泉や池がある訳じゃないんだから、落としようがないよなあ。(テーブルの上から落としたら、床に転がっていると思うのハンドグリップ。)
 あたしがこう言うと。
 いきなり、世界に、光が射したのだ。ぱあっと。
 そして。
「正直者に幸いあれ」
 いきなりあたりが明るくなっちゃって、あの、これは、一体、何?
「金のハンドグリップにも、銀のハンドグリップにも、銅のハンドグリップにも誘惑されなかった、そなたに、幸いあれ」
……って? あの?
「そなたの願いは、叶うであろう」
 って……あたしの願いって、何、なの?
 ここで、いきなり、あたしの意識は、途切れてしまったのだ。

          ☆

どこか、よその世界で。地球人類を管理している、とある生き物がいる世界で。
ふいに、誰かが、言う。
「あのさあ。こんな、手間隙(ひま)かかる策略が、本当に必要だった訳?」
ここで問題になっているのは、この生き物が管理している、“人間”という生物の、その一個人の、握力。
ちょっと前。数値の入力がいささか間違っていた為、この生き物が管理している世界で、とある人間の握力が、いきなり低い数値になってしまったことがあったのだ。それは、ま、普通に考えれば放っておけばいいものだったのだが……ここを管理している生き物は、少なくとも、それを実際に管理しているとある生き物は、それ、放っておいてはいけないと思ってしまった。
そこで。
それを何とかする為の策略が、いろいろ考えられており……それが、発動した。でも、それが、結構不評で。
「いや、だってあのね、問題が大きかったら、そりゃ、私だって全体委員会にかけるとか、普通の手段を考えた。でも、あんまりにも問題が小さすぎたから、逆に、そういうことがしにくくって……」
「だからって、地球人類のフォークロアまで検索して、まるで昔話にでてきた女神様のふりをしてまで、やるようなことか、これ。普通に、その個体のことを無視すればいいだけだったんじゃないのか?」
「だって……」
非常に拗ねている、その生き物の気配。
「あまりにも、ミスの種類が、種類だから。何か事情があって、いろんな関連があって、それで入力を間違えましたっていうんならともかく……単純ミスで、桁、ひとつ間違えましたっていうのは……握力の数値、それを、単純に一桁間違って小さくしてしまいましたっていうのは……あまりにも、あまりにも恥ずかしくて、言いにくい」
「だからって、なあ」
「これでも一応、惑星管理における数値設定のベテランだって、言われてるんだよ私」
「いや、そりゃ、よく、知ってます」
「こんな私が……他のミスならともかく……単純に、桁、ひとつ、間違えました、だなんて、絶対に他人に言えない……」
「いや、そりゃ確かにそうなんだろうけれど……」
ま、とはいえ。
これで、不利益を被るひとは、多分誰もいないんだから。
ため息ひとつで、この問題は、不問にされる。
「あ、それから。私がミスして、桁をひとつ間違えた対象人間、桁を正しくしただけじゃなくて、私から、サービスひとつ、しておいたから」
それもまた、どうかと思うんだが……ま……地球人類の話なんて、どうでもいっかー。

          ☆

 ふっと気がついたあたしは、ほおっとため息。
 いや、今、なんだか意識が途切れたような気がしたんだけれど……なんか、具体的なことは、もうよく覚えていない。えっとー、あたしは確か、雑誌を読む時ハンドグリップにぎにぎしようと思って、それを手にとろうとしていた訳で……。
 んで、ハンドグリップ握って、にぎにぎにぎにぎ……えと?
 はい?
 何でだろう、ハンドグリップが……今、とても軽い感じがしている。
 あらららら。
 にぎにぎ、やってみたら、本当に軽いわ、このハンドグリップ。
 思いついて、ハンドグリップをその辺に置き、まっすぐ伸ばした手で、むすんでひらいてって感じで、にぎにぎやってみる。おおおっ。確かに後半辛くなっちゃったけれど、百回は、いけるわ。
 ああ、ハンドグリップのおかげで。あたしに握力がついてくれたのかな。それもいきなり、なんだか凄い勢いで握力がついてくれたような気がする。
 うわっはあ、いちお、この運動には意味があったんだ。
 筋肉って、こんなにいきなりつくものなのかなって疑問はあるんだけれど、いや、握力低下に気がついた時だっていきなりだったんだ、こんなことも、ありなんでしょう。
 うわっ、なんだか、とっても、嬉しい。
 全然違うって、頭では判っているんだけれど、握力が戻ってきてくれると、“老化”が遠くへ行っちゃって、“認知症”は山の彼方に行ってしまったような気が、ちょっと、しないでもない。

 えへへへへ。
 嬉しいから。
 次は、二・五キロのハンドグリップ、買おうかなあ。

                    〈FIN〉

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著者プロフィール

新井素子(あらい・もとこ)

1960年東京都生まれ。立教大学ドイツ文学科卒業。77年、高校在学中に「あたしの中の……」が第1回奇想天外SF新人賞佳作に入選し、デビュー。少女作家として注目を集める。「あたし」という女性一人称を用い、口語体で語る独特の文体で、以後多くのSFの傑作を世に送り出している。
81年「グリーン・レクイエム」で第12回星雲賞、82年「ネプチューン」で第13回星雲賞受賞。99年『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞をそれぞれ受賞。
『未来へ……』(角川春樹事務所)、『もいちどあなたにあいたいな』(新潮文庫)、『ダイエット物語……ただし猫』(中央公論新社)、「星へ行く船シリーズ」全5巻(出版芸術社)など、著書多数。

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