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新井素子(あらい・もとこ)

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百二十年に一度のお祭り

2017.07.15 更新

 もうすぐ。百二十年に一度の、お祭りがある。

 冬。
 あたりが冷え込んで、何だか自分の体まで小さく縮こまって感じられる頃、雪なんてものが私を彩りはじめたそんな時期、私達の部族に伝わる、こんな話が聞こえてきて……これが、私の心を震わせなかった訳がない。
 だって、百二十年に一度のお祭り。
 私達は、普通、百二十年も生きないから(いや、個別にとても長生きをする個体はいる。けれど、普通私達は、もうちょっと早くに枯れるか、あるいは、動物のみなさまに食べられてしまったり、気象状況によりなぎ倒されてしまったり、ひとという生き物が近くにいる場合は、伐採されてしまったりして、こんなに長く生きる個体は、まず、滅多に、いない)……おそらくは、大抵の“竹”が、参加することができないお祭り。それに、私は、参加できる。お祭りの時期に、ちょうど“生きているから”、だから参加できる。
 なんて幸運。なんて幸せ。なんて素晴らしい巡り合わせ。
 そう思ったことは、否定しない。
 でも、同時に、もうひとつ、思ってしまったこともある。
 お祭りの話を聞いた時から、言われなくても判っていた。
 このお祭りに参加してしまったら。
 そうしたら、このお祭りが終わった時、私は、死ぬのだ。枯れるのだ。それは、お祭りの開催と同時に、すでに決まっていること。
 そして、お祭りが開催される以上、私には、それに参加しない、という、選択肢は、ない。つまり、お祭りがある以上、私の命は、この冬まで。
 私は……まだ、生まれて三年の竹だから。“自分として生えて”、まだ、三年にしかならない竹だから。十年、二十年、生きている仲間がいるんだもの、生まれて三年で、もう、今年中に“死んでしまう”ことが確定しているのは……ちょっと……あの……辛い、かな。
 辛い……寂しい、かな。

マダケ、というのは、とても変な植物だ。
彼らは、種子ができて、それが地に落ち、そして発芽する、というかたちでは、普通、増えない。
筍、というものの存在を、よく考えてみれば判る。
あれは、竹の地下茎から分岐して、そして生えてくるものなのだ。
つまり。基本的に、筍は、そして、筍が生長してできる、新たな竹は、ある意味クローンなのだ。同一人物ならぬ、同一竹物が増えている……そういうものなのである。
青々とした竹林。
あれは、親の竹があって、そして子供達、孫達、曾孫達、ヤシャゴ達が繁っているのではない、地下茎で繁殖している、いわば、みなさん、結構おんなじ竹だったりするんである。
ま、勿論、たった一本の竹が、竹林を構成している訳ではない。
けど、基本的に、いくつもの竹達が、まとめて“同じ竹物”として繁殖している、“同一竹物があっちにもこっちにもいる”、そういうものが、竹林なんである。

 仲間の中には、お祭りの話を聞いて、心から感動に打ち震えているものもいた。
 もう、十年も二十年も、生きている連中。
 私を筍として生やしてくれた、私のもとになった竹なんかは、もう、筍を十何本も“竹”にしているんだ、心の底から嬉しそうに、こんなことを言っていた。
「祭りじゃ。祭りがくる」
 私は、まだ、筍を一本しか生やしていない。
「伝説で、祭りのことは知っていた。うちの部族の場合、百二十年に一度、祭りがくるという話は聞いていた。けれど……まさか自分が、その祭りに参加できるだなんて」
 百二十年に一度……この感覚は、私には、まだ、よく判らない。
 んと……春が、百二十回、来るっていうことか。
 まだ、ほんの三回しか“春”を経験していない私、百二十回もくる春というのが、感覚的にまったくよく判らなかったし……それに。
 私は……まだ、素直には、このお祭りについて、納得できていない。だから、この意見に、まるっと賛成はできない。
 特に、去年私から生えた筍、その筍が生長して、やっと一人前の竹らしくなったばっかりだってことを思えば……あの子は、このお祭りのことを納得しているんだろうか? あの子、まだ“竹”になったばかりで、自分で筍を生やしたこともないのに……それでも、お祭りが来たら、それで、おしまい。も、絶対に、お祭りに参加しなきゃいけなくなる訳で、ということは、“花を咲かせなければ”いけなくなる訳で……こうなると、もう、自分の筍を作ることはできない。それで、いいのか? 納得できているのか?
 いや。
 納得、していようが、いまいが。
 それでも、きてしまうのが、お祭りだ。
 ……ああ。
 感覚として、判る。
 もう、私、今年は筍を作れない。
 春になっても。
 地下茎が発芽する感じにまったくなれないのだ。
 そのかわり、なんか、上の方がむずむずして……むずむずして……。

マダケは、とても長い時間をおいて、定期的に、開花すると言われている。
しかも、“一斉開花”ということを、やってしまう植物でもあるのだ。(とても広範囲にある、マダケ達が、何故か、一斉に開花してしまうのね。)
ところが。
ここでとても不思議なのは、こんだけ特殊で、こんだけ手間をかけて稔るマダケの実は、非常に後世に子孫を残しにくいもの、らしいのだ。あからさまに言っちゃうと、種はできても、発芽、しないの。(稔性が、極めて低い。)
何やってるんだ、マダケ!
とても長期間に一回、花を咲かせて、いや、それだけしか花を咲かせる機会がなくて、それでやっと花を咲かせて、繁殖して……その、稔性がとても低かったら、あんた達、存続できないでしょうがっ!
でも、実際に、マダケは、非常に長い期間をおいて、定期的に開花、そして、その実は、殆ど発芽できない。

 春を過ぎると。
 ああ、もう、体が、駄目だ。
 私の意志なんかどっかへいってしまって……体自体が、もう、駄目だ。
 本能が……花を咲かせろって、言っている。
 私の体は、その本能につき従う。いや、それしか、できない。
 祭りが……くる。

          ☆

 そこからしばらくは、もう、狂乱の日々だった。
 いつの間にか私には、花ができていた。花が咲いていた。
 すべての景色は極彩色。(あ、植物には視覚がないって思っている動物のみなさま、結構いるみたいなんだけれどね、それは間違いよ。光の波長で見る“視覚”こそないんだけれど、確かに“目”っていう、視覚に特化した器官はないんだけれど、それでも、植物にはそれを補ってあまりある感覚感知能力があるんだから。そもそも動物が見ることができない、紫外線も赤外線も重力も、すべて“見て”しまうのが、すべて認識してしまうのが、私達植物だ。あ、だから、ここで言う“極彩色”も、視覚を持っている動物のみなさんとは多分違う感覚だからね、念の為。)
 おひさまが、あったかい。いや、熱い。去年と同じ夏の日差しなんだろうけれど、私の体感では、これはとても、暑い。熱い。
 体が、もう、燃えそうだ。
 自分に、花ができたのが判る。
 竹の花って、それはそれは美しいのだそうだ。一部の動物のみなさまには、“禍々しい程美しい”って言われているのだそうだ。
 いや、本当に美しいのかどうかは判らないのよ、百二十年に一度しか咲かない花だから、“美しいに決まってる”って、動物のみなさまが思っているだけのことなのかも知れない。
 でも、私は、思う。
 私が、咲かせた花は、きっと、美しい。
 だって、こんなに、体の中が、狂っているかのように、その“花”にすべてを捧げているんだもの。
 今の私は、“この花を咲かせる為だけに”この世に存在している、そんなものに成り果てている。
 そして、思った。
 ああ、だから。
 これが、“祭り”だ。
 これこそが、“祭り”の本質だ。
 百二十年に一度、竹が、その存在のすべてをふりしぼって咲かせる花、これが、“祭り”だ。

 でも。とはいえ。

 花が咲くまでは、咲いてしばらくは、狂おしい程いろいろなことを考えていた私の意識は……実がなった頃、途絶えがちになったのだ。

 そして。
 時間がたつ。
 ……ああ。
 枯れる、のかな、私。
 うん。
 お祭りが終わったら……そうしたら、枯れるのが、私達の宿命。

開花すると、そののち、その竹は枯れる。
開花した竹が全面的に枯れるとすると、一斉開花をしてしまったマダケは、ほぼ、全滅状態になる。その竹林、全滅である。
だが。
これは、マダケの絶滅では、ない。
この時、まだ、地下茎は死滅してはいない。
地表に生えていた竹林が全滅した後も、一年以上、地下茎は存在し続けている。
そして、その地下茎は、翌年、とてもちっちゃな笹のようなものを、地上に出す。(この、地下茎により地上に出てきたものを、“回復笹”と呼ぶ。)
この“笹”により、命を繫いだ竹は、時間がたつにつれ、やがて、小さな竹になり、そのうち、十年くらいをかけて、竹林は再生する。
そうだ。
つまり、花が咲いたあと、竹林は全滅し、かといって、花に稔った“実”によって、竹林が再生する訳ではない。
昔ながらの“地下茎戦略”で、でも、いつもの“筍戦略”とは違う、“笹戦略”でもって、やっと、一回全滅してしまった竹林は、再生を果たすのだ。
だが、それには、時間がかかる。
これを知った人間は、ほぼ、全員が言うだろう。
「おい、竹! あんた、何がやりたくてこんなことをしている?」

 お祭りが終わって、枯れる時。
 私は、思った。
 もう、無茶苦茶、自分ではどうしようもできなかった。
 荒れ狂う本能のみに任せて、自分の意志はまったくなかった。
 嬉しくて、驚きで、極彩色で、何やってんだか自分でも判らなくって、本能に翻弄されるままで、ホルモンが体中荒れ狂っていて、理性はどっかにいっちゃって……でも。
 でも、楽しかった。

 ずっと、生きて。生き続けて。同じ春を何回も迎えるのより。
 あまりにも長く生き続けて、いつの間にか生の意味がよく判らなくなるのより。
 “お祭り”があって、無理矢理“生”の意味を実感させられる、この“生き方”は、よかったのかなって。
 多分、私は、これで死ぬんだろうけれど。
 お祭りがあってくれて、よかったのかなって。

エジプトのファラオの墓から、植物の種が発見されたことがあったという。
そして、その種は、現代で、無事に、発芽した。
これは、何故か。
植物には、動物にはない能力があるからだ。
その能力を、“休眠”という。
植物の種は、すでに受精した、動物で言えば卵の状態で、何年も、何十年も、何千年もの時間を超えることができる。
この、植物の能力は……“時を超える船”だと、思えない訳ではない。

現代では、まったく意味がない竹の種。
稔性が低くて、発芽能力を持ったものを長期保存することができない、(つまり、ファラオの墓から見つかった種のように、長期保存することができない)、竹の種。

でも。
もし、これが。
まったく、事情が違う、“時を超える船”だとしたら。

何百年か、何千年か判らない、未来。
地球の地軸が変わってしまったり、地球を取り囲む電磁波状況が変わってしまったり、太陽コロナがまったく違う影響を地球に及ぼしてしまったりした時。
今とはまったく違う世界になってしまった未来の地球で。
その時。

竹は、種子によって繁殖できる生き物になるかも知れないのだ。
今でこそ、竹の種子の稔性は低いのだが、地球環境が変われば、それは、あるいは、“まさにそれしかない”発芽できる種になっている可能性がある。

その時。竹の種子は……発芽する。
時を超える船に乗って。
その時、竹は、新たな様相を迎えることになるのかも知れない。

それは、あるいは、とても美しいものになるのかも……知れない。
百二十年に一度だけ咲く、竹の花が、とても美しいと思われているように。

                    〈FIN〉

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著者プロフィール

新井素子(あらい・もとこ)

1960年東京都生まれ。立教大学ドイツ文学科卒業。77年、高校在学中に「あたしの中の……」が第1回奇想天外SF新人賞佳作に入選し、デビュー。少女作家として注目を集める。「あたし」という女性一人称を用い、口語体で語る独特の文体で、以後多くのSFの傑作を世に送り出している。
81年「グリーン・レクイエム」で第12回星雲賞、82年「ネプチューン」で第13回星雲賞受賞。99年『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞をそれぞれ受賞。
『未来へ……』(角川春樹事務所)、『もいちどあなたにあいたいな』(新潮文庫)、『ダイエット物語……ただし猫』(中央公論新社)、「星へ行く船シリーズ」全5巻(出版芸術社)など、著書多数。

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