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新井素子(あらい・もとこ)

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ゆっくり十まで

2017.04.15 更新

 大学にはいって。必修の英語の授業のクラスで、隣に座った時から。あたしは、潤ちゃんを見ると、なんか、どきどきしていた。
 いや、正しくは、違うか。英語1は、うちの大学のフランス文学科、ドイツ文学科、イタリア文学科の一年生共通必修科目だったので、かなり大きな階段教室を使っていて……その教室にはいった瞬間、うしろの方の席に座っている男の子から目が離せなくなってしまったのね。まるで吸いつけられるように、あたしの視線はその男の子の処へ行ってしまい、必然的にあたしは、吸いよせられるようにその男の子の隣に座った。講義が始まるまでまだ大分時間があり、座っている学生はちらほらしかいなかったのに。そんながら空きの教室で、わざわざ前から座っているひとの隣になんか行ったら、どえらく意味ありげに見えてしまう、そんなこと、判っていたのに。
 いや、別に、その男の子、特別ハンサムだった訳でもかっこよかった訳でもない。ピンポイントであたしの好み!って訳でもない。ただ……どうしてか、一回見ちゃったら最後、目を逸らせないのだ。そんな感じがしたのだ。
 その男の子が、潤ちゃんだった。羽村潤一郎。
 ただ。
 これはあたしの思い込みじゃないと思うんだけれど、あたしと目があった瞬間、潤ちゃんの方も、なんかどきっとしてくれたみたいだったのだ。あたしが、彼の隣に、するって座ってしまったこと、それ、まったく当然だって感じで受け入れてくれて。
 あの時。
 あたしは、ちらっと、潤ちゃんを見た。潤ちゃんもちらっとあたしを見た。
 行ったり来たりする視線。お互いに、相手が自分のことを見ている、それは判っていても、でも、決して正面からあわせようとはしない視線。
 そんなこんなの数分間がすぎると。あたしの方から近づいていったんだ、今度は、潤ちゃんの方から。
「俺、仏文科一年の羽村っていいます」
 ぼそっと、前の方を見て、直接あたしと視線をあわせないようにして。彼はいきなり自己紹介をしてくれたんだ。普通、階段教室みたいな大きな部屋で隣あった人間同士が、交わすことがない会話。
 そんで、あたしも。
「成田治美です。独文科一年です」
「あ、仏文じゃないんだ。……残念」
 この時。残念って言ったぞ、潤ちゃんは、絶対。
「でも、そーかー。仏文だったら、もっと前に絶対に会ってる筈だし、会っていれば、成田……さんのこと、気がついていない訳がなかった」
 この辺で、ようやくあたし達、かっきり視線をあわせる。そして、何となく、自己紹介の続き。
 でも、これがまた、あとから考えてみたら、とっても変な自己紹介だった。というのは、出身はどこ、とか、仏文を志したのは何故、とか、いきなりもの凄く個人的なことを双方共に言い出してしまったのだから。そんでもって、双方共に、それが“おかしなこと”だとは、まったく思っていなかったんだから。
 はい。
 こんな成り行きで、なんとなく判るでしょう。
 あたしは、潤ちゃんに一目惚れをして、多分、潤ちゃんもあたしに一目惚れをしてくれていて……あたし達は、いきなり付き合うことになったのだ。この日の英語1の講義が終わった時には、すでに、その日の夕飯を一緒に食べる約束をしていて……そして、今に、至る。

 大学の二年になると。お互いに地方から上京している身分なんだ、あたし達は同棲することになった。(これで家賃負担が半額になり、諸雑費もかなり節約できる筈。)その、引っ越しを手伝ってくれた、あたしの友達の佑子が言う。
「治美と羽村くん、電撃的に付き合いだしちゃった訳なんだけれど、それはあなた達の問題だからいいんだけれど、さすがに、同棲は、どうよ?」
「って?」
「こんなにすぐに同棲なんかやっちゃっていいの?」
 いや。あたし的には(あたしと潤ちゃん的には)、すでに結婚したい処だったんだけれど、学生で結婚はさすがにって思って、んで、同棲にしたんだけれどね。双方が就職して、親がかりの身分でなくなったら、ただちに結婚するつもりなんだけれどね。
「いくら愛しあっていても、一緒に住むと、いろいろ、瑣末な不一致が出てくると思うよ。……あ、だから、逆に同棲は、あり、か。今、同棲してみたら、さまざまな不一致、判るもんね」
「んー……不一致」
 実は、それが、あるのである。かなり問題になる形で、あるのである。
「経済感覚がまったく違うって言うんなら、大きな不一致だからまだ判るんだけれど、掃除のやり方が違うとか、洗ったあとの食器をどうするかの判断が違うとか、そんな、すっごい瑣末な不一致が問題になるカップルって、結構いるらしいよ? ま、あんた達が、そんな些細な問題で別れたりしないことを、私は祈っているけれど」
 って、佑子、ありがとう。
 実は。実はあたし達には、かなりの“不一致”があるのだ。どうしようっていう……不一致が、あるのだ。

 四月に付き合いだして。
 夏休みに一緒に旅行をしようっていう話になった。
 んで、八月の旅行で、潤ちゃんが提案したのが、何故か、“温泉”だったから……あの? えと? その?
「あの、八月に、何故、温泉」
 これがまあ、二月や一月なら、まだ、判るんだよね。初めての旅行で、雪が降っている温泉地へ行く。のんびり浴衣で雪見酒なんてしゃれこんで、二人で、差しつ差されつ、わお、素敵。
 でも、八月の温泉って、なんだあ?
 寒くないぞ、絶対に寒くはないぞ、むしろ暑いに決まっている。こんな状況で温泉に行く意味って……。
「あ、俺、温泉が大好きなの」
 潤ちゃんは、もの凄く簡単に、理由を述べてくれた。
 けど。けど! ……けどっ!
 あたし……温泉に行って楽しいって思ったこと、ないんだ。
 というのは、あたしは、とってものぼせる人間なので、そもそもお風呂に十秒以上つかっていることができないんだ。子供の頃、お風呂にはいった時、親に、数を数えろって言われたこと、ない? ゆっくり、十まで数えようねって、それがあたしの限界。
 こんな人間にしてみれば、そもそも、行楽として“温泉”に行くっていう、選択肢それ自体が、ないいっ。
 初めての潤ちゃんと一緒の旅行なんだぞ、とっても楽しみにしている旅行なんだぞ、だから、あたしは、絶対に、温泉なんて、いやあっ。
 これは本当に紛糾した。
「お、温泉が嫌いだなんて、お湯につかることが駄目だなんて、おまえ、そりゃ、日本人じゃないぞっ」
 潤ちゃん、こんなことまで言ったよな。
「温泉は日本人の心の故郷だぞ。前から思ってた、おまえ、普段もろくに湯船に沈まないだろ? シャワーばっかりだろ? それ、変」
 ま、結局この時は、潤ちゃんが折れてくれて軽井沢になったんだけれど、この分だと、新婚旅行は絶対熱海とか言いそうなんだよね、潤ちゃん。最近なんか、あたしのことを「からすちゃん」なんて呼ぶようになったし。(勿論、カラスの行水からである。)
 ……まあ……愛しているんだし……彼氏がそんなに好きならば、あたしもお風呂、好きになった方がいいのかなあ。全然楽しくなさそうなんだけど、結婚したら温泉巡りとか一緒にした方がいいのかなあ。
 そう思ったので。潤ちゃんがバイトで遅くなる日に、あたし、長時間湯船につかるっていう荒技に挑戦してみることにした。湯あたり覚悟で、氷水とかタオルとかやたらと用意して。

「いち……にー……さん……しー……」
 湯船に肩までつかって、必死になって数をかぞえる。子供の頃は十までいけたんだ、なんとか二十まではいってみせ……られないいっ!
 なんか、溶ける、体が溶けるような気持ちっ! 幻覚なんだろうけれど、指先がお湯に混じって消えていきそう。
 ざばっと湯船から緊急脱出して。あたしは洗い場でぜいぜい息をつく。
 ああ、もう、あたし、前世はくらげだったのかなあ。くらげって死んだら水に溶けるって言わないっけか。あ、いや、死んでもいないのにお湯に溶けるって、あたしの前世はくらげ以下か。
 で、ここで。
 唐突に、思い出してしまった。

 あたしの前世は雪女だった。
 戦国時代に、雪女として雪山で生まれた。山には雪女の姉妹が何人もいて、「山で男に会ったら、ちゃんと息を吹きかけて殺すように」って言われていた。お姉さん達はみんな、情けをかけて男を殺さなかった経験があり、その時、「私のことをひとに話したら殺す」って約束をしたのに、実際に里におりてその男と連れ添ってみたら、この約束を守りきった男はひとりもいなかったっていう経験を持っていた。(だから、下手に情けをかけずに殺せって、妹達に言い聞かせていたんだと思う。)
 そんでまあ。あたしも、やっぱり、ひとりの男に情けをかけて、その男を殺さずに約束をして(みんなこれをやるってことは、雪女って心のどっかで、絶対に約束を守る男を探し求めているってことなのかなあ)、その男が、随分前の潤ちゃんの前世。
 そんであたしも里におりて、戦国時代の潤ちゃんと連れ添って……潤ちゃんは、なんと、当時としては珍しく、六十を超えて老衰で死ぬまで、あたしとの約束を守ってくれたのだ。雪女だから、年をとらなかったあたしに、不審を覚えるでもなく、あたしの腕の中で、「もし、来世というものがあるのなら、おまえとまた連れ添いたいなあ」って言って、死んだのだ。
 そこであたしは、雪山に帰るのをやめた。人間になって、人間として死んで、来世の潤ちゃんと、また、添い遂げたいと思ったのだ。
 家康が幕府をひらいた頃。あたし達は、また、巡り合った。共白髪になるまで、連れ添った。
 赤穂浪士(あこうろうし)の事件があった頃、あたし達は、また、巡り合った。この時は、潤ちゃんが三十くらいで早世してしまったので(いや、この時代の場合、早世ではないのかも知れないが)、九十九まで生きたあたしは、晩年、とっても寂しかった。
 だから、天保(てんぽう)の大飢饉の頃、また潤ちゃんと巡り合えたあたしは、とっても嬉しくって嬉しくって……二人揃って長生きしたかったんだけれど、この時間をいつまでも一緒に過ごしたかったんだけれど、時代が時代だったもので……。(えーと、以下、略。)
 そうだ。あたし達は、生まれ変わり、死に変わり、ずっと、ずっと、連れ添ってきていたんだ。
 そして。
 ここ、大事!
 潤ちゃんは、過去の時代、一回も、あたしとした約束を破らなかった。勿論、雪女の話は、転生した潤ちゃんが知らないことだから、それはおいておいても。妻と交わした約束を破らない夫、それが潤ちゃんだったんだ。そういう男なんだ。
 もともとが人外だから、転生したあたしには、最初のうち、雪女だった記憶があった。
 体質も、最初の頃はひきずっていて、いろりの側には寄れない、だとか、異常に年をとらないとか、いろいろあった。(三回目の転生までは、間違ってもお風呂になんかはいれなかった。)でも、いつの時代の潤ちゃんも、そういう妻の異常をまったく気にはしなくって……。
 そして、あたしの方も、転生を繰り返す度、どんどん人間になっていって……今では、雪女だった頃の記憶はまったくないし(今、湯船に長時間つかるっていう荒技をやったせいで思い出したんだけれど)、まあ、何とか、十数える間くらいは、湯船につかっていられる状況になっている。(でも、それが限界。)
 ああ。
 思い出したら、込み上げてくるものがある。
 潤ちゃん。潤ちゃん。あたし達、いつの世も、幸せだったよね。そりゃ、潤ちゃんが早死にした時なんかは、とってもとっても辛かったけど、でも、あなたの妻で、よかったよ。うん、だって潤ちゃん、死ぬ時にはいつも、言ってくれてたもんね。
「もし、来世っていうものがあるのなら、また、おまえと、連れ添いたいなあ」って。
 思い出したら泣きだしちゃって、用意したタオル、思いもかけないことで、役に立ってくれた。

 ただ。
 問題は、依然として、残っているんだなあ。
 というか、「この問題は解決できない」ってことが判ってしまった分、より深刻になったっていうか。
 潤ちゃあん!
 雪女のパートナーが、何だってまた、よりにもよって“温泉好き”なのよお。
 あたしが長時間湯船にはいっていられない問題は、あたしの努力では解決できないっていうことが判った。(いや、多分、溶けはしないだろうとは思うんだけれど、体的にとっても辛いし、本当に溶けないかどうか、実験してみる気持ちはさらさらない。)
 となると、潤ちゃんの温泉好きを何とかするしかないんだが……こんなもん、なんとかできるものとは思えん。と、いうことは。一体何をどうしたらいいのやら。

 ま、ただ。
 判ったことが、ひとつ。
 潤ちゃん。添い遂げるからね、あたし、あなたと。
 生まれ変わり、死に変わり、ずっとずっと一緒だった、あなたと。
 数百年の昔から、ずっと、添い遂げていた、あなたと。
 共に白髪になる、その日まで。

〈FIN〉

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著者プロフィール

新井素子(あらい・もとこ)

1960年東京都生まれ。立教大学ドイツ文学科卒業。77年、高校在学中に「あたしの中の……」が第1回奇想天外SF新人賞佳作に入選し、デビュー。少女作家として注目を集める。「あたし」という女性一人称を用い、口語体で語る独特の文体で、以後多くのSFの傑作を世に送り出している。
81年「グリーン・レクイエム」で第12回星雲賞、82年「ネプチューン」で第13回星雲賞受賞。99年『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞をそれぞれ受賞。
『未来へ……』(角川春樹事務所)、『もいちどあなたにあいたいな』(新潮文庫)、『ダイエット物語……ただし猫』(中央公論新社)、「星へ行く船シリーズ」全5巻(出版芸術社)など、著書多数。

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