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新井素子(あらい・もとこ)

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ぱっちん

2017.12.15 更新

 しーちゃんはね、ぱっちん、が、好きなの。
 ぱっちん。
 おうちのお部屋の、ぱっちん。背伸びしてー、うーんとうーんと手を伸ばすと、ぱっちんに届くの。それで、押すの。ぱっちん。
 これを押すと、明るくなったり暗くなったり。灯がついたり、灯が消えたり。
 この時に、ぱっちんって、音がするの。
 ぱっちん、するの、とっても好き。
 でも、ママは、しーちゃんがぱっちんをすると、怒るの。
 こんなに楽しいのに。
 しーちゃん、ぷんぷん、なの。

          ☆

「ごめん、今、電話いい?」
 あたしは、大学時代からの親友である茜にこう言う。只今夜の十時ちょい。ひとの家に電話をするにはかなり遅い時間。だから、普通は遠慮してこんな時間に電話なんかしないんだが、うちの娘・静音(しずね)がやっと寝てくれたのが、ついさっきなんだよー。
 なんだって三歳児が、こんな遅くまで起きているんだ。いや、静音をベッドにいれたのは八時だ、そのあと、絵本読んで、九時頃、静音が眠ったって思ってベッドサイドを離れようとした瞬間、火がついたように泣きだして(この泣き声を聞く度に、“静音”っていう名前をつけたのは絶対に間違いだって、あたしは思ってしまう)、慌ててもう一回、静音に寄り添い、子守歌歌って、ようやっと静音が眠ってくれたかな?って思えたのが、九時半。んで、そのあとも、また静音が起きちゃったらどうしようって思うと、なかなか静音の側を離れることができず、今さっき、やっと静音の側から離れることができて……これで、やっと、あたしの時間。んで、茜に、電話してみた。
「ああ、いつもの“しーちゃん電話”? いいよー、あとは、ワインでも呑んで寝るだけだから」
 あたしが言いたいことが判っているんで、茜は、さらっとこう受けてくれる。
 いや、ほんっと、茜には申し訳ない。あたしにとって、静音は初めての子供で、扱い方がよく判らないっていうか、子育ての苦労がほんとに凄いっていうか……。で、本当に困った時は、親だの公園で知り合ったママ友なんかに相談するんだけれど、この種の人達に相談すると、新米ママのあたし、結構怒られちゃったり、教えを示されたりしちゃうんだよね。「それはあなたが悪い」とか、「こんなふうにしてみたらどうですか? 今までやっていた、これこれこういう方法は、間違っていますよ」、とか。
 勿論、それはとても参考になる意見だ。ありがたいことも事実だ。現実にそれで助かっていることも多い。
 けれど。
 切羽つまって、ストレス溜まりまくりで、辛い時には、注意やアドバイス、実は欲しくない時もある訳。ひたすら、愚痴を聞いて欲しいだけ、そんな時もある訳。んで、そんな時に電話するのが、旧友の茜だ。なんたって彼女は、うちの大学の出世頭、某外資系企業で女だてらに凄い地位まで昇進し、しかも、独身。子供がいない。故に、こと、子育て関係については、あたし、彼女から、怒られたりアドバイスを受けたりする可能性がない。
「今、ワイン持ってきたー。今日はね、チリ産の奴、いってみようかと思って。おっと、ちょっと待ってね、冷蔵庫からチーズ出す。こないだ、チリのワインと相性がいいチーズを買ってきたんだよね、それ、今、出すから……。あ、出した。んでは、お話しください」
 おおおお。茜に電話すると、いっつも思うんだけれど、彼女って、なんか、優雅だよねー。この優雅さが、茜に電話する理由でもあるんだ。電話切り替えて、手ぶらでワインなんか呑みながら、茜はあたしの電話に対応してくれる。それが判っているから、こっちも安心して愚痴をこぼせる。
 で、あたしは、いつものように、愚痴愚痴愚痴愚痴、ひたすら、愚痴を、彼女に対して零しまくり……。

          ☆

「静音はね、“ぱっちん”って呼んでいるんだけれど、ほんっとおにスイッチの類が好きなのよ。あれ……何でなんだろう。例えば静音、うちのリビングの電気を、背伸びまでしてひたすら、つけたり消したりし続けるんだわ。もう、あたしが制止しない限り、何回も、何十回も、ずっとずっとそれをやり続けている」
「ふうん」
「こないだなんか、『となりのトトロ』歌いながらスイッチ押してたのー。あれの、サビの部分の処で、メロディにあわせてスイッチ押すの。あれ、本人はスイッチ、楽器にしている気分なのかな。スタッカート部分でカスタネットがわりに押してますって雰囲気で」
「かわいーじゃないー。それに、なんかそれ、リズムがあるぴかぴかで、クリスマスイルミネーションみたいで、よくない?」
「よくないっ! あのさあ、部屋の照明のスイッチって、あれ、消耗品でしょ? どのくらいで磨耗すんの?」
「あ……いや……それは私も知らない……」
「今の調子で静音がスイッチぱちぱちやってたら、絶対、近い将来、あれ、磨耗すると思うのよ。……で……スイッチが磨耗して利かなくなっちゃったら……それ、どこで直して貰えばいいの。電器屋さんなの、それとも配線の方なの?」
「うっ……私、寡聞にして家の照明スイッチを使用しすぎて磨耗した話って、聞いたことないわ」
「あたしも、ない。でも、静音、放っとくと一日何百回も、ひたすらスイッチ押し続けるのよ? これでスイッチが磨耗しない訳がないと思う」
「……その前に、電球が、消耗しそうだね……」
「ああ、そう、そっちも! 電球なんて、数秒毎につけたり消されたりすること、多分前提にしてないよね? なら、そっちの方がずっと問題だわ」
「確かに、電球にしてみたら、いい迷惑なんだろうなあ。……でも、しーちゃん、他のものは大丈夫なの? 家電のリモコンとか」
「ああ、そっちが大丈夫なのだけが救いだわ。TVのリモコンは、押しても音がしないし、エアコンのリモコンは、ピッて音がするのは本体の方で、リモコン自体は鳴らないんだよね、うちの。音がでないものには、とりあえず、興味ないのよ静音。だから、今、とっても危険で、絶対に静音に触らせないようにしているのが、電話ね」
「?」
「いや、プッシュホンって、押すと音が出るじゃない。あれが静音にばれてしまったら……」
「あ、わははははっ。“となりのトトロ”のスタッカート部分にあわせて、部屋の照明をパチパチしているしーちゃん、万一プッシュホンの“ピッ”なんて知ってしまったら」
「絶対に、電話で演奏すると思う。んなことして、他人様の家に静音が勝手に電話を掛けちゃったら……」
「あはは、まずい、まずい、それはまずい」
「だからもう。電話だけはっ! あたしと旦那の携帯は、勿論自分で携帯して静音が触れないようにしているし、家電もね、親機は鍵のかかるキャビネットの中にしまってる。普段使うのは子機で、これは冷蔵庫の上に置いてあるの」
「……電話の子機が冷蔵庫の上にある家庭……。うーん、新鮮だ」
「ここなら静音の手が、絶対に届かないから」
 こんな会話をしばらく続け。やがて、茜の方から。
「うん、ワイン、グラス二杯呑みました。私、これで寝るわ」
 ということは、今日の愚痴電話は、これでおしまい。茜の方からこう言ってくれること、これがまた、あたしが茜に愚痴電話をしやすい理由でもある。
「うん、じゃ、おやすみ。んでもって……いつもいつも、ありがとね、茜」
「いーえー、どーいたしまして。私が元彼との別れ話が拗(こじ)れていた時、翔子はほんとに親身になって私の電話、聞いてくれたもんね。お互い様ってもんよ」
 いや。今となっては、あたしの方の借り分が多い。あの時の貸しを絶対に超過してる。

          ☆

 ざ。ざざざざざ、ざざざ、ざざざざ……。
 あの電話から数日後。あたしが住んでいる地方を、記録的な大雨が襲った。
 その日、あたしは、泊まりがけで出かけていたのだ。定年後、御自分の田舎に帰っていた恩師が亡くなり、その告別式に列席する為に。うちからその恩師のお宅までは、時刻表をどうひっくり返しても、朝、自宅を出て、恩師のお宅には告別式の時間までにはつけない位置関係。だから、前日の夜、恩師の御実家の近所にホテルとったんだあたし。静音のことは、母に任せて。
 うん、今、家には母が泊り込んでくれている筈。
 旦那はなあ、いつものことながら、家にはいない。いや、いつだってあいつは、家にいないんだよ。あたしが静音を寝かしつけるのに苦労している時、茜に愚痴をこぼしている時、いつだってあいつは家にいない。しかも今日は、二泊三日予定で出張なんてしやがってる。家にいないどころか、家に帰れる位置にすらいやがらない。
 そんで。ホテルに泊まっているあたし、TVつけたらうちのあたりで記録的な大雨でしょう、心配になって、うちに電話してみた。
「ああ、翔子? あのね、何で電話の子機が冷蔵庫の上なんて処にあるの」
 かなり呼び出し音が続いて、あたしがいい加減心配になった時、やっと電話をとってくれた母は、まず、開口一番、文句。
「あ……いや……そりゃ……」
「こんな処に電話の子機があるだなんて、普通思わないわよっ! 音を頼りにどんだけ私が子機探したと思うの!」
 ……あ……いや……そりゃ……すみません。けど、今、あたしが最も心配なのは。
「雨の状況はどうなの? ニュースだと、なんか凄いみたいなんだけれど……」
「いやあ、凄いわ。滝みたいな雨よ。でも、この辺は高台だし、近所に河はないし、住宅街だからすぐ側に崖崩れが起きそうな山がある訳でもなし、ま、平穏っちゃ平穏。でも、家の前の道路、まるで河よー。水たまりができているんじゃなくて、水が流れてる。こんなの私、初めて見たわ」
「静音は……」
「全然平気。さっきまで『トトロ』見ていて、今は『魔女の宅急便』見てる。松任谷由美の『ルージュの伝言』なんて、私世代の青春の時の曲だったのに、しーちゃん歌ってるわよー」
 ……なんか……母が、電話口で歌いだしちゃったんで……まあ……うちのあたりは、無事なんだろうな。そう思ってあたし、電話を切って。
 でも、翌日。恩師の告別式が済んだあたりから、スマホで確認する情報は、どんどん怖いものになっていったのだ。
 ついに、うちのあたりにも避難勧告が出ちゃって……これは、二つ隣の町だ。
 勿論、うちとそことは状況が違う。避難勧告が出た町は、結構近くに大きな河があったと思うし、河の側に田圃(たんぼ)が連なる、そういう町だから……。でも、自分が知っている、自分が御近所だと思っている処に、避難勧告が出ちゃったって……これは、怖い。なんか、怖い。
 だから。告別式が終わり、恩師の御遺体を載せた霊柩車が出た処で、あたしは失礼させてもらうことにした。とても素敵な先生だったのだ、生徒達が、集まって恩師を忍ぶ飲み会をしたい、とか言ってるの、ごめん、あたし、パス。
 とにかく。とにかく、一刻も早く帰らないと。なんだか、静音が、ほんとに心配。

          ☆

 その上。何故か、家に掛けた電話が、繫がらないのだ。
 もう、母、何やってんだろう。うちの電話の子機は、冷蔵庫の上にある。一回それが判ったのなら、電話、すぐにとってくれてもいいんじゃない? なのに、どんなにコールしても、誰も電話に出てくれない。(……いや……母……冷蔵庫の上の子機を発見したあと、それをどっか適当な場所に置いちゃって、今では逆にその位置が判らなくなっているのか? そういう可能性は、ある。けれど、なら、鍵つきのキャビネットの中にある、親機の受話器をとればいいんじゃないか? あの鍵は、静音は無理だけれど、大人なら簡単に解除できる筈だぞ、それもとってくれないって、一体どうしたんだ。)
 苛々、苛々、苛々、苛々。苛々しながらも、とにかくあたしは、かなり家の近所まで帰ってきた。時に、午後八時。
 そんな時に、あたしの携帯が鳴って……あたしは、とんでもないことを知ってしまったのだった。

          ☆

 携帯が鳴って。掛けてきたのが『父』だったので、あたし、ちょっと、驚愕。いや、母はともかく、父から電話があるだなんて、本当に久しぶりだったもんで。
「翔子! 落ち着いて聞けっ」
 いや、言ってる父が、すでに落ち着いていない。
「かあさんが心筋梗塞の発作を起こして、救急搬送された」
 え? 昨日、『ルージュの伝言』歌っていたのに?
「聞いてみたら、119番通報があった場所は、おまえの家だっ!」
 え、うち?
「今日の昼すぎ、おまえの家から119番通報があって、救急隊が雨を押してなんとか向かった処、玄関の鍵が開いていて、玄関で倒れている女性を救助したそうだ。これが、かあさんだ。多分、倒れてしまったかあさん、何とか玄関まで行って、119番をして、玄関の鍵を開けて……そこで、意識を失ったみたいだ」
「だ、大丈夫なの、お母さんは、あの」
「とりあえず、かあさんは、今、小康状態だ。救急隊は、意識不明のかあさんを病院に収容して、ちょっと前に、かあさんの携帯に“夫”って登録されている俺の処に電話がきて、俺は今、病院について……」
「あ、あたしも、すぐ、病院へ行く! それ、どこの何病院?」
「いや、その前に。しーちゃんが、いないんだっ!」
「って?」
「救急隊がついた時には、かあさんが倒れていただけだったんで、救急隊、かあさんを収容しただけで帰ってきちまったんだよっ! 静音のこと、誰も知らない。時間から考えるに、おそらくはしーちゃんのお昼寝の時間にかあさんが発作を起こして……」
 あ、有り得る。すっごく有り得る。静音が眠っている時に、母が発作を起こし、倒れてしまったのなら……多分救急隊は、家の中に三歳児がいることに気がつかなかった可能性はある。となると……今、この大雨の中、静音は、たったひとりで、家の中に取り残されているってことで……。
「俺はおまえの御近所さんの電話番号が判らない! だから、近所のひとに、静音のこと、連絡できない」
 あ、あたしだってできないっ! なんてことだ、近所付き合い、もっとずっと綿密にやっときゃよかった。
「おまえは今どこだ? かあさんのことはいいから、すぐに家に帰れっ! 下手するとしーちゃん、この雨の中、たったひとりで家の中に……」
 言われるまでもない。
 聞いた瞬間、あたし、電話を切りもせずに、ひたすら走りだしていた。
 この雨。家の近くまで帰ってくるとよく判る、雨。酷い雨。凄い雨。
 とりあえずは、電車だ。この雨だ、道の状況がよく判らない。処によっては不通になっている可能性も、凄まじい渋滞をしている可能性も、ある。なら、路線が生きている限りは、多分電車が一番早い。
 幸いなことに、うちの最寄り駅までの電車が、ちょうど出る処だった。あたし、今までの人生で一番際どい駆け込み乗車をする。(あたしが電車に乗った瞬間、「駆け込み乗車はおやめください」ってアナウンスがあったんだ、あたし、多分、ほんとに酷い駆け込み乗車をしたんだろうな。)
 窓の外は雨。電車に乗って、ドア付近でぜいぜい言っているあたしを、あざ笑うかのような、本当に凄い雨。
 この雨の中……ひとりでいるかも知れない、静音。
 どうしよう、大丈夫なんだろうか、どうしよう、平気なんだろうか、どうしよう、静音、泣いていないか。

          ☆

 自宅の最寄り駅についた時、あたしは、もう、何も考えていなかった。
 濡れるとか、傘をささないと、とか、そんなこと、なんにも。(そもそもあたしは傘を持っていなかった。)
 どんだけびしょびしょになろうとも、とにかく歩く。どんだけ雨があたしの視界を遮ろうとも、ひたすら歩く。どんだけ雨があたしの行く手を阻もうとしても、それでも歩く。
 歩く。歩く。歩く。歩き続ける。(本当は駆け出したかったんだけれど、それやっちゃうと、体力の消耗が酷くて、“歩き続ける”よりまずいことになるんだろうなーって思うだけの理性は残っていた。)
 この角を。
 歩き慣れた道だ、あたしには判る。
 この角を曲がると。
 うちが、見える。うちの灯が、見えるんだ。
 そして、角を曲がった瞬間……。

          ☆

 ぱちぱち、ぱっちん、ぱっちん……ぱっちん、ぱっちん……。
 うちの、電気が、ついたり消えたり。
 あ……これは……『となりのトトロ』のリズム。
 静音が……しーちゃんが、演奏しているんだ。となりのトトロを。しーちゃん言う処の、“ぱっちん”で。
 へなへなへなー。
 あたし、体から力が抜けるって、この時、本当に判ったような気がした。本当に力が抜けてしまったのだ。あたしは、水たまりがとっても一杯ある、というか、すでに、河になっている道路に、膝をついてしまったのだ。
 うへえ。あたし、喪服、着ておりましたがな。
 これはもう、クリーニングだっていうか、クリーニングに出しても駄目かも、なんだけど。
 ああ、でも、よかった。
 静音が、無事なら、よかった。
 かみさま。
 ありがとうございました。
 本当に、静音が無事で、よかった。

 ま、この後、あたしは、静音の“ぱっちん”に、なかなか文句を言えないような気分になり……しばらく、電球代が凄いことになったが。

                    〈FIN〉

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著者プロフィール

新井素子(あらい・もとこ)

1960年東京都生まれ。立教大学ドイツ文学科卒業。77年、高校在学中に「あたしの中の……」が第1回奇想天外SF新人賞佳作に入選し、デビュー。少女作家として注目を集める。「あたし」という女性一人称を用い、口語体で語る独特の文体で、以後多くのSFの傑作を世に送り出している。
81年「グリーン・レクイエム」で第12回星雲賞、82年「ネプチューン」で第13回星雲賞受賞。99年『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞をそれぞれ受賞。
『未来へ……』(角川春樹事務所)、『もいちどあなたにあいたいな』(新潮文庫)、『ダイエット物語……ただし猫』(中央公論新社)、「星へ行く船シリーズ」全5巻(出版芸術社)など、著書多数。

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