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新・世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「すき焼」(the world is wide)

2019.01.31 更新

登場人物
僕…本作の主人公
蟹…甲殻類

 正月気分も何もないまま、貫く棒のごとくに変わりばえのしない新年を迎え、気づけばはや一月も終わったとある日のこと、僕は思い立ってすき焼きを食べに行くことにした。以前から気になっていたいかにも老舗っぽい店に赴いて、ひとりきりでじっくりと美味しいものを味わうつもりだった。たまにはこのくらい贅沢をすることがあってもいい。なにしろ最近ろくなものを食べていないからね。
 いくらかすすけた風情ある暖簾をくぐって、レトロな内装の個室に通されて、女中さんが一通りの支度をしてくれて、いざ僕がすき焼きをつつこうとしたら、鍋の中から握りこぶし大の蟹が出てきて箸と応戦しはじめた。
 …ちょっとわけがわからないと思うだろうけど、僕だってわけがわからない。

 おい、待ってくれ、なんでだ。すき焼きを食べにきたんだぜ。なんだって鍋の中に蟹が入ってるんだ。しかも生きた蟹が。煮え滾るすき焼き鍋の中でどうして生きていられるんだかわからないけど、とにかく蟹は僕が伸ばした箸を(待った!)と言わんばかりにがっちり押さえつけ、どうあっても手放さない。振りほどこうとした僕の割り箸は見事にぽっきり折れてしまい、折れた割り箸の先を蟹は鋏で器用に掴み、ぽい、と鍋の外に放り出した。なんだこいつは。僕は今度こそ牛肉を狙う。僕は蟹と喧嘩しにきたんじゃない。お金を払ってすき焼きを食べに来たんだ。けれど、何度試してみてもどこを狙おうともこの蟹はサッとやってきて鋏でブロックして僕の箸を叩き折る。その様子は絶対に僕に肉を食わせない、という強い意思に溢れていた。
 …いいさ、そういうことならいいだろう、やってやるよ。僕は本日何膳目かの割り箸を手に取った。

 端っこでまだ煮えていない真白な白滝を狙う。すかさず走ってくる蟹、(10年早い!)と言わんばかりに箸をキャッチする。さっきもそうだったけど、この鋏に箸を掴まれたらおしまいだ。この小さな体のどこにってくらい強い力で押さえ込んできて、箸を離すどころか自由に動かすことさえさせてくれない。…けれども。
 僕は口の端を歪める。瞬間蟹も理解したことだろう。これは陽動。僕はすき焼きを食べに来てるんだ。僕の狙いはあくまで肉。蟹から見て右側、逆サイドで僕の左手が構えた箸は大ぶりな牛肉の一片を完全に捉え、掴んでいた。
 「よし!」完全にノーマークの僕の左箸はたしかに牛肉を掴んだ。けれども蟹は簡単には諦めなかった。驚異的なスピードで逆サイドに駆け寄り、僕が持ち上げた肉を宙で掴み、力比べを挑んできた。僕の箸と、蟹の鋏が食べ頃に煮えた上ロース肉を引っ張り合う…。この蟹は相当出来るやつだ。もしかしたらプロ選手とか何かなのかもしれない。
 「…しまった!」
 その瞬間の僕の脳裏にあったのは【失策】の二字だった。肉の引っ張り合いでなら勝算が見込めたこの局面で、僕は初っ端で致命的と言える判断ミスを犯した事に気が付かされた。僕の利き手は右、左手は箸を満足に操れず、掴んだはずの肉をいともたやすく蟹に奪わせてしまった。
 ぐうっ…思わず歯ぎしりした。もしも陽動に出たのが左で、肉を掴んだのが右だったら…? 完全に勝てた。あの牛肉は取れた…。
 こうしている間にも肉はどんどん煮えて固くなってしまう。いろんなものが煮え過ぎてしまう。えのき茸はもう真っ茶色だ。
 蟹はかかってこいと言わんばかりに鋏をくいくいやり、鍋の中心で低く腰をおとし、じっと構えている。“蟹”。 まさか蟹が、こんなにもすき焼きの邪魔が巧いなんて…。

 左箸で焼き豆腐を狙うふりをし、右箸で牛肉を狙ってみる。ところが蟹は左箸に注意を向けているように見せて、その小さな目でじっと右箸の様子を伺っていた。蟹は完全にこちらの作戦を読み解いていた。人間の手に左右の役割分担があり、得手不得手があることも見抜いていた。
 「見極められた…」左箸で焼き豆腐をすくうことに失敗し、僕の左手は箸を取り落とした。
 同じような陽動作戦はもう通用しない。蟹は僕の左手については(右を封じた後でも対処できる…)と見極めたらしい。その見当はほぼ間違っていない。
 さぁ、どうする…? 僕は右手に持った箸をゆっくりと進ませる。肉に向かうようにみせて椎茸に、椎茸と見せかけて葱に、或いはすっかり煮えてしまった春菊に、目的を悟らせないようにフェイントを仕掛ける。蟹はその小さな眼で箸を追っている。気を抜けばすぐにまた箸を掴まれてしまう。息もつけないような時間。肉がものすごく遠くに見える。くそっ。集中力が切れた箸を蟹は見逃さなかった。畳敷きの四畳間の個室で、壁掛けのだるま時計がバスケットボールで言うところの第一クオーターが終了したことを告げていた。

 「なんて堅いディフェンスだ…」2分間のインターバル。内心で愚痴りながらほうじ茶を一口やり、たくあんを一切れ噛む。本当ならたくあんは食後の口直しだったはずだ。陽動作戦に失敗して以降、まだ僕の箸は一度も牛肉に触れていなかった。「くそっ…」

 2分ほどすると鍋の上で蟹が鋏を掲げ、くいっ、くいっと動かして僕を挑発した。(来いよ)と言わんばかりだ。
 いいだろう。受けてやる。
 鍋の正面に構え直した僕は、蟹が鍋の中でどのようなポジショニングを図るかを今一度よく観察した。蟹は自分のフロントを鋏で防衛しつつ、巧みな左右のステップでサイドと背後を守っている。蟹の背後には松コースの特上ロース肉がいい色に煮えている。あれを卵で食べたら、いや、今は集中だ。集中。考えろ、なにか手があるはずだ。
 天啓とも言えるひらめきが起きたのはその時だ。

「蟹は海老とは違う」

 僕は正座を崩し、座布団の上にひざ立ちになった。蟹は海老のようにバックステップが得意ではない。この高さを使って蟹の背後を穿つ!
 僕の正座状態の箸の高さ、平面的な動きが蟹に通用しないと言うなら、立体的な上空からの一撃で背後の肉を狙う。蟹からしてみたら天から放たれたが如きその一矢は、完全に不可抗の一撃だった。
 …筈だった。蟹はその瞬間確かに飛んだ。いや、床を蹴って背後に倒れたと言うべきか。倒れながら天より振り下ろされた2槌をその鋏で捉えたのである。
 この一撃でさえも…!
 勝てないのか、この蟹には勝てないのか。すき焼き屋にきたというのに牛肉はおろか椎茸の1つすら口に入れられずに?
 驚嘆すべきプレイをやってのけた蟹に目を遣ると、蟹は箸を掴んだままフロアに起き上がれずにいた。
 瞬間、嫌な予感が走った。「おい、蟹、しっかりしろ蟹!」
 慌てて右手で蟹を掴むと、その身は火傷するほどの高温を持っていて、思わず取り落としそうになった。やはり蟹が鍋の上で生きていられるはずなどなかったのだ。「おい蟹っ、大丈夫か!」お絞りの上に寝かせてやるとすぐに意識を取り戻したらしい蟹は(触れるな)とでもいいたげに鋏で払う動作をし、あろうことかまた鍋の上に戻っていこうとするのである。
 やめろ、もういい。お前の…
 (勝ちだ)と言おうとして何故か言えなかった。

 …あぁ、わかったよ。やろうぜ、決着がつくまで。
 今夜、僕と蟹の長い戦いは始まったばかりだ。

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作品について

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
the world is wide(ザ・ワールド・イズ・ワイド):「「名たんてい 赤塚れい子のじけん薄」を読んで」で第3回優秀賞を受賞。
霜月 透子(しもつき・とおこ):「ぬか床ラヴァー」で第3回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。
山岐 信(やまき・まこと):「孕む壁」で第3回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回、第3回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した9名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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