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世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「わかれ」(長野良映)

2018.10.30 更新

 眠りから覚めてけだるそうに起き上がると、老人はそのまま通路を進む。この場所に住むようになってから、彼は同じように行動してきた。街が瓦礫の山と化してからずっと。
 開けた場所に出る。部屋の体裁を保っているが、壁の周辺だけでなく、石や木材の破片が散らばっている。顔ほどの大きさの天窓から日光が差し込み、部屋の中央のピアノに注いでいる。夜には月光が照らすその光景を、老人は見ることができない。視力を失っているのだ。
 がたつく椅子に腰を下ろした彼はピアノの蓋を開け、鍵盤をいたわるように撫でる。
 老人は若いころ、ピアニストとして名を馳せていた。その技術と音楽性は図抜けていた。バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトだけでなく現代作曲家の初演まで幅広くこなす。多忙なスケジュールの中でも、彼は音楽が与えてくれる美しさ、そしてそれを愛してくれた妻、息子への感謝を忘れなかった。
 老人はかつての輝かしい日々を毎日夢に見る。いまでは全て失われてしまった、あらゆるものについての夢だ。

 何も変わらない一日のはずだった。老人はモーリス・ラヴェルの小品を弾き終え、手首を回していた。最近、疲れが体に表れやすくなった。
 声をかけられたのはその時だった。若い女性の声。こんな場所でどうして、と声のする方へ向き直る。
「いきなり申し訳ありません」
 敵意は感じなかった。何でしょう、と老人は先を促した。誰かと会話をするのはいつぶりだろう。声がかすれた。
「いまの音は何ですか?」
「ピアノの音だ。ピアノのこと知っているかな」
「ええ、でも実際目にしたり聴いたりするのははじめてです。話でしか聞いたことがありませんでした」
「それならどうぞ、触ってみて」
 ためらうような間が一瞬空いたが、彼女はピアノへ近づいた。鍵盤に向き合い、指で押す。
 ポーンと弱い音がひとつ、宙に浮かぶ。
「……すごい」
「そんな遠慮なさらずに。もっと弾いてみていいから」
 鳴らすうちに、音の数が多くなっていった。ときに不協和音が混じったが、楽しそうな音だ。
「どうやったらおじいさんみたいにうまく弾けるんですか」
 彼女は感謝を述べたあと、続けて尋ねた。
「練習しかないよ。いきなりうまくなるなんてことはあり得ない」
「……よかったら、私をここに置いてもらえませんか」
 老人には思ってもみないことだった。
「それは構わないがわかっているのかい、ここがどんな場所なのか」
 彼女は答えなかった。老人は感情を抑えながら伝えた。十数年ほど前に大きな戦争があって、爆弾が落とされたこと。それで老人は家族をなくし、彼自身は生き延びたものの光を失ったこと。
 老人の視線の先には、埃をかぶった写真立てがある。家族3人が幸せそうに写っている。
「人体に悪影響を与える物質が滞留しているから、いるだけで蝕まれていくらしいがね。人っ子ひとりいなくなったが、私はここで死ぬことに決めている。それまではシェルターに残っている食糧でじゅうぶんもつだろう。きみがどうしようと、私に止める権利はない」
「もちろん、すべてわかっています。お願いします」
 今度は間髪入れずに答えた。
 上りはじめた月が天窓からちらと顔を出していた。

 彼女のおかげで老人の生活はぐっと楽になった。これまで老人は食材の袋を手探りで適当に取っていたが、食べたいものを言えば彼女から渡してもらえる。歩くときには肩を貸してくれるので、壁にぶつからずに済むようになった。
 老人は彼女の名前を知らない。名前を明かさなかったし、老人も聞かなかったのだ。
 日を重ねるごとに、老人は、灰色に塗り固められていた心の中のキャンバスに色が加えられていくような心地がした。彼女が来るまで老人はピアノを弾く以外の時間を無為に費やしていたが、彼女との会話に置き換わった。
「私の世話は苦じゃないか?」
「全然です」
「助かっているし、感謝している。だが、いつまでいるつもりだい?」
 彼女がいつかここを離れることになったら寂しくなるだろうなと老人は思った。
「もしよければ、ずっと」
「本気で言っているわけじゃないだろうね」
「私を迎え入れてくれる場所は他にありません。生まれてからずっと、避けられて生きてきました」
 嘘には聞こえなかった。彼女には辛い記憶があるからこそ何かしら思うところがあるのだろう。苦労してきた者同士、何か力になれればいいのだが。
 老人は空いた時間にピアノを教えることにした。彼女は手を叩いて喜んだ。
「わたしも弾けるようになりたいです」
「練習すれば大丈夫。時間はたっぷりあるからな」
 まず楽譜の読み方から教えていった。学校ではいつからか音楽を教えなくなっていたのだ。老人は彼女に頼んで、本棚の古い教科書を音読してもらった。老人がそれに解説を加えた。
「四分音符、八分音符……こんな形をしているんですね」
「オタマジャクシみたいだろう」
「おたま……なんですか?」
「私が子どものころに絶滅した生き物さ」
 彼女はピアノへの強い意欲を示した。それなら、と老人は教本を使うこともなく、指の置き方やペダルの踏み方まで実際にやってみせた。彼女の呑み込みは早く、みるみる上達した。
 粗末な非常食をとったあとの寝るまでの時間、二人はろうそくが灯るなかで過ごした。
「私のおじいさん、そのまたおじいさんくらいのときにはよく使っていたらしいね」
「光は小さいけれど、暖かくてほっとする感じ……不思議ですね」
「不思議といえば、君もそうだ。ピアノにあれほど熱中するとは。もしもっと早くに生まれていたら、私の弟子にして手塩にかけて育てただろうな」
 ピアノに興味を示さず別の道に進んだ息子を思い出し、老人は苦笑いを浮かべた。
「生まれてから何も楽しみがなかったんです。行くあてがなくてさまよっていたところにおじいさんの音が聞こえてきて、救われる思いでした」
「私が歳を重ねるにつれて、ピアノだけじゃない、クラシック音楽は衰退の一途で、私のピアノが役に立つなんて思ってもみなかった。それにしても、君の音は美しいよ」
「そんなことないです。それならおじいさんの方が」
「いや、技術はあるのかもしれないが、肝心なのは音それ自体の質だ。君には才能があるのかもしれない」
「信じられません。ずっと……私は醜いと言われ生きてきたんです」
「まさか。それは間違っている。私が保証する」
 彼女は老人の言葉を噛み締めているようだった。
 気の遠くなるような沈黙のあと、ろうそくの火は吹き消された。
しばらくすると、老人は名作曲家による作品を教えはじめた。ドビュッシー、ラヴェル、そしてショパン。弾きこなすだけの技量が彼女に備わっていると考えたからだ。
 老人が一区切りまで弾いてみせ、彼女と交代する。老人は賞賛の声を惜しまなかった。「指の動きがとてもなめらかで、素晴らしいタッチだ。美しい」
 彼女のピアノに酔いしれるうち、老人の声に、いつしか張りが戻っていた。声だけではない。頭のてっぺんから爪の先まで、瑞々しい血流がどくどくと流れるのを感じた。
 彼女は疲れも知らずピアノと向き合った。老人の一日はピアノの音色とともにはじまるようになった。
 夢中になっている彼女のことが心配になり、尋ねてみたことがある。君はまだ若い、世界中で戦争が行われているわけではないのだし、限られた平和な場所を求めて旅してはどうか、と。しかし彼女は決まりきったことのように答えた。私に平和な場所は似合わないのです、と。
 天窓から射す光が薄らいできた秋の日、老人は変化を自覚した。まぶたの暗闇のスクリーンに光が一瞬映ったのだ。間違いではないだろうか。だがたしかに光は闇を追い出すような動きを見せ始めていた。
 老人は光を失ってから、すべてに対して期待をしてはならないと自戒していたが、いまや彼は希望とともに未来を待ちわびている。そうなれた理由は、彼女をおいて他にはいない。
 老人は夕食のあと、彼女に繰り返し感謝した。「本当に君のおかげだ。近いうちにピアノを弾く君の姿を目にすることができるだろう」
 彼女も老人の手をとって喜んだ。

 月は天窓から部屋を見下ろしている。朝はまだ先のようだ。彼女は暗い中、ピアノの椅子についた。覚えた中で一番のお気に入りを弾こうと、鍵盤に手を置いた。楽譜はすべて頭に入っている。
 最初の一音が出れば、手の震えは止まる。あとは流れ出るメロディに自分で酔いながら、思考と体を一致させようと集中した。
 世の中にこんな楽しみがあったなんて。彼女は弾くたびに今でも感動してしまう。絶望と苦しみしかない世界だと思っていたけれど、今は違う。光をくれたとおじいさんは言ってくれたけれど、私だってそうなのだ。
 だからこそ、残念だとつくづく思う。ここを離れなければならないとは。
 老人がピアノの音で目覚め、距離を置いたところで耳を澄ましているのが彼女にはわかった。恩返しのつもりで、ショパンの遺した「別れ」を演奏する。
 ゆったりとした速さで綴られる甘美なメロディ。この曲が奏でられる意味を、彼は読み取ることができないだろう。彼女の失踪を理解するまで。
 これで間違っていないのだ、と彼女は自分を抑えるようにして思う。視力を取り戻したおじいさんは私の醜い姿を目に入れるだろう。
 母の体の中で被災した。戦争で拡散された物質によって、歪んでしまった姿。せめて美しいままの記憶が彼の中に残っていてほしい。
 音楽が二人の間だけに紡がれるこの光景を月だけが見ている。
 そしてしなやかに動く彼女の4本の腕をくっきりと照らしていた。

(了)

長野良映さんの前作「ごゆっくり、おやすみなさい」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory84.html

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作品について

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した6名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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