キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

世にも小さな ものがたり工場 ブック・カバー
バックナンバー  1...7980818283 

「私の家庭」(長野良映)

2018.09.14 更新

「お帰りなさい」
 そう言った敏子に、「ただいま」と応える声はなかった。
――またやってしまった。
 もう何度目になるだろう、と肩を落とす。
 日が沈み、キッチンの細長い窓が夕陽に赤く染まるころ、敏子は重い腰を上げて夕食の準備にとりかかる。その途中、お帰りなさい、と口が勝手に動いてしまう。
 どうしてそうなるのか、自分でもわかっている。
 玄関のドアがぎいっと開いたような気がして。「ただいま」と幹生がひょいと顔を出すような気がして。
 呆けているのではない、と思う。一人息子の幹生が七年前に結婚して、女の子をもうけたこともしっかりと頭の中にある。
 幹生はまめに電話をくれる。他愛のない話題ばかりだが、話すと気が紛れた。
「うちのことだけどね……」
 幹生は妻や子供の近況を、いつも弾んだ声で語る。
 うちのこと。
 その言葉に胸をちくりとされながら、敏子は相槌を打つ。幹生にとっての家族に、私は入っているのだろうか。頭の片隅で思いながらつかの間の会話を楽しんだ後、幹生は決まってこう切り出す。
「こっちで一緒に住むこと、考えてくれた?」
「……そうね」
 会社を定年退職した夫は、その間もなく心臓発作であっけなく逝った。幹生は社会人になると同時に家を出ていて、飛行機で二時間ほどの距離に住んでいる。幹生からの電話がなければ、一言も言葉を交わさない日もざらだ。
「無理にとは言わないよ。ただ、父さんもいなくなってから長いだろ。ずっと一人にさせるのは不安だし、俺に余裕がないわけじゃないから」
 甘えてしまおうかとも思う。しかし、いざ決心しようとすると煮え切らない態度になってしまう。迷惑をかけることだけは、絶対にしたくない。
「母さん、健康に気を付けてね」
 しばらくして、幹生が告げた。
「幹生もね」
 通話が切れた音を確認してから、やっと受話器を離す。電話のあとに眺める部屋はいつもよりがらんとして見える。
 この家の部屋すべてに明かりがともったのは、どれくらい前になるだろう。

 揺れは次第に大きくなった。何も見えないが、体で感じる角度からすると、山道を走っているらしい。バスに乗る前、運転手からアイマスクを渡され、身に着けるよう言われたのだ。
 しばらくしてバスが動きを止めると、誰かに手を引かれて歩かされ、また立ち止まる。
「お疲れ様でした。どうぞ、マスクを外してください」
 光に慣れると、目の前の男を認識できた。面接にいた男だ、と思い出す。
 敏子には夫の生命保険や退職金が残されていたが、減る一方の残高に心細くなり、何か仕事はないかと探した。すると、チラシに挟まっていた小さな求人広告が目に留まった。
 フルタイムで働ける方、家庭的な方歓迎。高給。
 この文面に加えて電話番号しか書かれていない。捨てかけた敏子は、「家庭的」の文字に射抜かれたように動きを止めた。これならできるかもしれない。ひとまずやってみようと電話番号を押した。
 面接は一回で終わらず、日を置いて何度も行われたが、最後には採用の通知を受けた。
 最初の出勤日、指定された場所へ向かうと、マイクロバスが待っていたのだ。
「何度も面接を設定してしまって申し訳ありませんでした。ただ私どもとしても優秀な人材を採用するために慎重にならざるを得ませんで」
 スーツを着た男は、かしこまりながら説明を続ける。
「応募者はかなり多かったのですが、採用したのは一名のみです」
「私だけ?」
「必要としているのはあなただけなのです」
「……そろそろ、何の仕事をするのか教えてください」
 広告でも明記されていなかったし、面接で聞いても「人のためになる仕事ですよ」とはぐらかされていた。途中で取り下げようかとも考えたが、仕事の正体が気になりすぎてしまい、やめられなかった。
「周りをご覧になればわかります」
 そこではじめて敏子は周りを確認し、目を丸くする。
「これは……」
 男が得意げな表情を浮かべた。
「面接で新婚当時の部屋について聞いていたのはこのためだったんですよ」
 敏子が昔住んでいた部屋とそっくりだった。部屋の間取りや家具の配置がほぼ正確に再現されている。今から見れば古くさいその頃の感じも漂ってきて鼻をつき、敏子は足元がぐらつく気がした。
「見事なものでしょう」
「どうしてこんな場所を?」
「すべては懐かしさのためですよ」
 ここは限られた人しか知らない、山奥の施設の中の一室に作られた特別な空間なのだという。
「社会的に地位のある方々だけのために存在する場所です。彼らは莫大な財産のおかげでたいていのことを解決できますが、時間を逆戻しにはできない。今は充実しているけれど、お金はなくても希望に溢れていた新婚時代にいっときでも戻りたいと思うこともある。この空間はそんな願いを手助けするために作られたのです。古い感じを出すために今では販売されていない昔の家電や調度品を金に糸目をつけず入手しました。なので作れたのは一部屋だけです。あなたはここで、お客様の相手をしていただきたい」
 敏子の体は強張った。危険な商売に巻き込まれたのではないかと頭をよぎったのだ。
「何の心配も要りませんよ。この部屋で夫の帰りを待つ新婚の主婦を演じてくださればいいのです。新婚というには年齢に無理がありますが、あなたは若く見えるから何とかなります。それにお客様の年齢も高齢の方がほとんどですから。何よりも落ち着いた、家庭的な雰囲気が大切です」
 じきに私が迎えにきます。それでその日の仕事は終わりです。
 男はそう言い残した。
 冷蔵庫を開けると、食材がたくさん用意されていた。料理を作りながら、どんな客が現れるのかと気を揉んだが、懐に余裕があるだけあって、身なりのよい老人ばかりだった。敏子と客は向かい合って食事をとり、ぽつぽつと話す。会話が弾まないこともあったが、客はこの空間を楽しめさえすればいいらしい。テレビをつけると昔の番組が映り、沈黙を埋めた。ある程度の時間が経つと、客はみな「ここに来て若返ったような気がするよ」と口を揃えて帰っていく。
 敏子はどこか冷ややかな目で客を受け入れていたが、ドアを開けて入ってくるその姿をかつての夫と重ねるようになった。
 あの人はよく鍵を忘れていたから、私が開けていたけれど。そういえば忘れっぽいのは幹生も同じだった。
 客がいなくなって敏子が一人になると、いつも男が迎えにきた。
 またアイマスクをつけさせられて帰るみちみち、男はバスの中で褒めてくれた。
「さすが我々が見込んだ方です。よい評価ばかりです。やはり家庭的な感じがあの部屋に調和するのでしょう」
 家の前まで送られた敏子は、夢の続きを見ている気分のままドアを開けた。
 もちろん「お帰りなさい」という声はない。

 給料は月末に振り込まれていた。予想をはるかに超える金額だったが心はさほど浮き立たなかった。
 最初は週に二、三回の出勤だったが、必要なものを持ち込んで泊まり込みで働くようになった。古いとはいえ家電はちゃんと動くから、生活には困らない。
 移動時間が長くて面倒になったのだと言い訳をしたが、自宅に帰るとどこかよそよそしさを感じ、眠れなくなったのだ。反対に偽物のはずのあの部屋では、目をつむるとすぐ眠りに落ちた。敏子の新婚の記憶は深く底に沈んでいたが、ここで息をしていると、つい数日前の出来事のように立ち上がってきているのを感じていた。
 敏子は毎日家事をこなし、料理を作って「夫」の帰りを待った。「夫」たちの目はみな輝いて見える。新婚の日々は、多くの人の中に美しいものとして残っているようだ。私の新婚時代、と敏子は甘い思い出に浸る。
ある夜、夕食のあと満たされた気分で座り、持ち込んだ写真を眺めていた。敏子、夫、幹生の家族全員が笑顔で写っている。普段はたんすの奥に隠しているその一枚を、飽くことなく見つめる敏子の耳に、どこかから音が届いた。
 新聞をめくる音。誰かが走り回る音。
 確かに聞き覚えがある。夫が、幹生が出していた音に違いなかった。
 台所に目をやると、それらの音が生み出される一つ一つの瞬間を微笑んで見守る敏子自身が半透明の姿で立っている。
 家族とともに生きていたじぶん。
 過去に存在していたその姿に見とれていると、家具の隙間から、風呂の排水溝から、かつての日々の思い出が空気としてじわじわと滲みだし、敏子を包んでいく。
 敏子はそれに抵抗せず、布団をかぶり、幹生や夫のことを一つでも多く思い出そうとした。ずっとこのままでいたい。部屋の外から、起きるように迫る男の声がかすかに聞こえたが、無視した。声はすぐに消えた。
 朝、目が覚めてみるといつもと異なる感じがして眠気が醒めた。何かがおかしい。起き上がって部屋の中を見やるとすぐにわかった。
 建物の中に作られた部屋のはずなのに、太陽が昇っている。
 敏子はかじりつくように窓へ走りよった。日の光は部屋を、当時の記憶にある街並みを照らしている。いったいどうしたのだろう。前からそうだったと言われるとそうかもしれない。
 気を取り直し、顔を洗おうと洗面台に向かった敏子は声を失った。顔に巣くっていた皺が跡もなく消えている。まるで二十代の肌のようだ。関節のきしみはなく、体が軽やかに動く。生まれ変わった姿に戸惑ったが、敏子はふいに、自分がここで何をしているのか、思い出せなくなった。
 だが次第に思い浮かんでくる。そうだ、今日は結婚式を終えたばかりの月曜日だ。ええと、今日は洗濯をして、それから……。
 敏子は軽々と家事をこなしていった。夕方、食事の用意をしていると、
「お帰りなさい」
 という言葉がふいに口をついて出た。まだ誰も帰ってきていないのに。どうしてしまったのだろう。
 呆然としているとドアをノックする音がして、敏子は振り向いた。同時に、開けてくれないか、と声がする。敏子は考えるよりも先に鍵を開けた。
「また鍵を忘れちゃってな」
 ばつが悪そうな顔をした男が頭をかきながら靴を脱いだ。口をきかない敏子に、「どうしたんだ? 一日家にいてぼけちゃったか?」と苦笑する。
 夫だった。今度は、言う相手がいる。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
「ごめんなさい。すぐごはん用意するから」
「ああ、まだ早いから急がなくていいよ。それに大事な時期なんだから、無理するな」
 夫は少し前屈みになり、敏子のお腹を優しくさすった。
 敏子は壊れやすいものを包み込むように夫の手に自分の手を重ね、思い出した。はじめての子どもをこの身に宿していることを。それから、夫には教えていないが、その子はきっと「幹生」と名付けられるであろうことを予想しながら。
 夫の手が止まる。
「どうしたんだ?にやにやして」
「ううん、なんでもない」
 なぜかはわからないけれど、「お帰りなさい」という言葉を、まだ産まれてもいないこの子にかけたくなって、心の中で呟いたのだった。
 キッチンの細長い窓は、夜の青に染まっている。

(了)

長野良映さんの前作「けんけん」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory78.html

バックナンバー  1...7980818283 

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した6名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

おすすめ作品

いろはノート

紅をさす

いい女.bot(いいおんなボット)

世にも小さな ものがたり工場

「愛人パスポート」(滝沢朱音)

ショートショート大賞優秀賞受賞者

世にも小さな ものがたり工場

「不機嫌なナビ」(滝沢朱音)

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ページトップへ