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世にも小さな ものがたり工場

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「愛人パスポート」(滝沢朱音)

2018.09.14 更新

「おかえりなさい」
 カードをかざすと、電子錠がかちゃりと音を立てた。ドアを開けて出迎えてくれたのは、顔見知りの美しい女だ。
 どぎまぎして立ち尽くす僕を尻目に、彼女は微笑んで言う。
「待ってたわ」
「えっと……あの……」
「さあ、早く中に入って」
 マンションの1フロア下、7階の部屋。間取りは同じはずなのに、若い女性らしくコーディネートされた室内は、我が家とくらべて別天地のように感じられる。
 少し前に越してきた彼女は、夫婦や家族住まいが多いこのマンションでは珍しく、1人暮らしのようだった。
 エレベーターで居合わせるたび、「なんて綺麗な子だろう」とは思っていたが、こうやってソファで間近に座ってみると、つい見とれてしまうほどに美しい。
(本当だったんだな、あの男の話は……)
 まだどこか信じられなくて、胸ポケットの中身を確かめようとした僕の肩に、そっと頭をあずける彼女。彼女のまとう甘い香りが、僕の理性を一気にかき消してゆく――

「愛人パスポート?」
 けげんな顔をした僕に、男はうなずいた。
「はい。今のあなたにぴったりじゃないかと思って」
「ぴったりって、どういうことだよ」
「だってあなた、愛人がほしいんでしょ?」
 ぬめっとした目で笑う男に、僕は不快感をあらわにした。
「何を言うんだ。僕には愛する妻がいるし、もうすぐ子どもも生まれる。愛人なんか作ってる暇はないよ」
「またまたぁ。いりませんよ、そんな建て前や、理想論は」
 近所のバーでただ隣り合わせただけの関係なのに、男はなれなれしく僕の肩を抱いた。
「里帰り中の奥さんにバレずに、女遊びしたくないですか? この愛人パスポートを持っていれば、どんな女性の家を訪ねても、浮気相手として無条件に受け入れてもらえるんです」
 男は、名刺サイズのカードをひらひらとかざしてみせた。黒地にピンクのハート。愛人パスポート――きわめてわかりやすいデザインだ。
「有効期間は2ヶ月。費用は確かにお高いですが、2ヶ月の間、いろんな女と遊び放題だと思えば、安いものでしょう。しかも期限が過ぎれば、相手の記憶も削除されるシステムなので、あとくされもなく安心ですよ」
 そして、男の誘いに乗ってしまった僕は、申込金だけ先に支払い、前から気になっていた階下の女性で、まずは試してみたというわけだ。

 彼女――莉緒は、僕を受け入れてくれた。
「夢みたい。あなたの愛人になれるなんて……」
 僕の腕の中で、莉緒は夢見心地につぶやく。
「夢みたいって、どうして?」
「だって、このマンションに引っ越してきたときに、あなたにひとめぼれしたから……」
 赤くなる彼女。
「奥さんがいるってすぐにわかったけど、恋心なんてすぐには消せないでしょ。エレベーターやエントランスで顔を合わせるたび、カッコいいなって、きゅんきゅんしてたの」
「何いってるんだ。僕のほうこそ、莉緒にひとめぼれだったよ」
「ほんと? うれしい……!」
 僕にしがみつく莉緒は、本当に可愛くて、まさに理想的な愛人だった。
 妻への後ろめたさや罪悪感をふりはらい、僕はすっかり莉緒に夢中になった。もちろん、パスポートの残金は、貯金を下ろして全額支払った。

 愛人パスポートを手にして1ヶ月経った頃、妻は無事に出産した。
 日々の仕事が忙しい中、休日は赤ん坊の顔を見に、妻の実家との往復を繰り返す。その合間をみて、僕は莉緒の部屋をできるだけ訪れた。
 パスポートの有効期間は残り1ヶ月。期限を過ぎれば莉緒自身の記憶は無くなるとしても、同じマンションの住人にバレるわけにはいかない。
 僕は人目を忍び、エレベーターは使わずに階段で昇り降りするなど、細心の注意を払いながら、彼女との関係を続けた。
 そして、莉緒以外の女性も愛人にできるとわかっていても、僕はなかなかその気になれずにいた。
「来月になれば、奥さんが帰ってくるのね。かわいい赤ちゃんを連れて……」
 美しい顔をくもらせる莉緒は、愛人パスポートの存在は知らなくても、いずれくるであろう、別れの予感に苦しんでいる。
(今は、彼女をひとときも手放したくない……!)
 僕は残り期間、莉緒だけをせいいっぱい愛し抜こうと決めたのだった。

 お宮まいりを済ませ、妻と子どもを連れてマンションに帰ってきたとき、エレベーターから降りてくる莉緒にばったり出くわした。
(まずい……!)
 冷や汗をかいたが、莉緒は他人行儀な笑顔を浮かべ、僕たちに会釈する。
(ごめんな、莉緒。またあとで……)
 目くばせを送ろうとしたとき、僕は彼女の目の色に、悲しみや嫉妬が一切隠されていないことに気づいた。
 なんの感情も見せず、彼女は僕に背を向け、去っていく。
(ああ……)
 僕はそっと、胸ポケットから愛人パスポートを出した。カードに小さく刻まれた有効期限は、昨日の日付になっている。
(そうか、終わったんだな。ただの顔見知りに戻ったってことか……)
 まるで失恋したような気持ちで、感慨にふける僕に気づかず、妻は言った。
「あの子、こんなファミリー向けの高級マンションに住むなんて、若いのに珍しいわよね」
「……あ、ああ」
「1人で住むには広すぎるでしょう。家賃だってけっこう高いのに。綺麗だから、愛人とかやってたりしてね」
 妻の言葉にぎくりとしたが、僕は必死で冷静を装った。
「おいおい。そんな言葉、子どもの前で言うなよ」
「あら、まだ言葉なんてわからないわよ。でも……そうね。気をつけなきゃね」
 妻は笑い、それからふと上を見上げた。
「そういえば、9階の田中さんとこの奥さん、出産予定日は私と2ヶ月違いだったはずだけど、もう里帰りしてるのかしら」
「さあ、どうだろうね」
 妻とかわす、所帯じみた噂話。現実世界に戻ってきたことへの倦怠感に、僕は妻に気づかれないよう、ため息をついた。

『恋心なんて、すぐには消せないでしょ』
 かつて莉緒がそう言ったとおり、僕は彼女への未練をなかなか消せずにいた。
 莉緒と過ごした2ヶ月は、愛人としてではなく、青春のような純愛の思い出に満ちていた。僕の人生の中で間違いなく、最高に美しい日々となるだろう。それを汚(けが)したくはない。
 だけど――
(どうにかして、関係を続けられないものだろうか)
 狂おしい妄執の中、ひそかに莉緒の部屋の様子をうかがい続けていた、ある日。
 僕は、1フロア上の9階に住む男――妻が噂していた田中さんが、なぜか階段でよく昇り降りしていることに気づいた。
 気になって物陰に身を潜めていると、彼は7階の莉緒の部屋の前であたりの様子をうかがい、胸ポケットをさぐった。
 中から取り出したのは、小さなカード――黒地に、ピンクのハートだ。
 そのカードを玄関にかざすと、電子錠がかちゃりと音をたて、物狂おしいほど懐かしい声が聞こえてきた。
「おかえりなさい」

(了)

滝沢朱音さんの前作「不機嫌なナビ」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory81.html

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著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した6名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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