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世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「けんけん」(長野良映)

2018.08.31 更新

 古林(こばやし)はベンチに腰を下ろした。かすみが隣にちょこんと座る。相当酔っていたが、夜風がほどよく当たって心地よかった。隣から甘い香りが漂ってくる。彼女は白く細い肩に紺のカーディガンを羽織り、微笑んでいる。光のオーラでもまとっているみたいに輝いて見えた。
 会社の近くのはずなのに、この公園に来たのははじめてだ。芝生が夜露に濡れ、高い木々の群れが空に黒い影を作っている。ベンチから離れたところにぽつんと立つ街灯が、あたりをぼんやりと照らしていた。
 一か月前、かすみが古林の会社に派遣社員としてくると、男性社員の間で噂がまたたく間に広がった。すらっとした長身で、目がぱっちりとした美人だった。街を歩けば声をかけられることも多いだろう。
うちのと大違いだな、と最近ぶくぶくと太ってきた妻を思い出しながら、古林は自身を憐れんだ。
 かすみと同じフロアではあるが、隣の課なので言葉を交わすことはない。ただ顔を拝めるだけで満足だった。自分みたいなさえない男など眼中にないだろう。
 だから、今こうして面と向きあえているこの状況を夢のように思った。
 今日の午後、古林が倉庫に書類を探しに向かうと、かすみが中にいたのだ。軽く挨拶を交わしたが、向けられた笑顔に心臓が飛び出そうになった。離れたところで目的のものを探すふりをして息を落ち着けているとかすみが近寄ってきて、
「古林さん……ですよね。ファイルを一緒に探してくれませんか?」
 と潤んだ目で頼んできた。
 しどろもどろになりながら見つけると、かすみは白い歯を見せて礼を述べた。よほど舞い上がってしまったのだろう。自分でも信じがたいことを口にしていた。
「あの、もし時間があったら、今日の夜、食事でも……」
 いきなりすぎる、と後悔しても遅すぎたが、
「いいんですか?」
 とかすみは華やいだ表情で応えた。古林のほうがひどくたじろいでしまった。まさかそんな反応をされるとは。浮かれた気分を差し引いて考えても、言葉と態度に嘘はなさそうだった。
「え…え、本当にいいの? 予定とかないの?」
「はい。家に帰っても一人なんです。古林さんの方こそ、家のことは大丈夫なんですか?」
 妻は友人と旅行中なのだととっさにごまかした。こんなチャンスは二度とない。もともと夫婦の仲は冷えきっていて、家にいる時間を少しでも短くしたかったのだ。
 仕事ばかりで、家のことなど何も顧みなかった。これで出世でもすれば妻の不満を多少は抑えられたのかもしれないが、容姿も冴えず、要領の悪い古林は会社での評判が芳しくなく、閑職の地位に甘んじている。両親の圧力に負けて見合い結婚をした妻と会話をした記憶も、最近ではまったくない。「おかえり」という挨拶すらないと気づいた頃にはもう遅かった。
 ただ漫然と、家と会社を往復する毎日。
 だから、というわけではないが、今日くらい息抜きをさせてもらってもいいだろう。
 なじみの店で杯を重ねた。古林も飲むほうだが、かすみも負けずについてくる。かすみとの会話も弾んだ。古林の数少ない自慢話に対しても目を大きく開けて驚き、軽い冗談にもころころと声を上げて笑う。いつまでも会話が続きそうな気がした。
「こんなに楽しいのはいつ以来だろう」
 そう呟いたのがかすみに聞こえたか微妙だったが、どちらでもかまわなかった。
 二人とも酔いすぎた。店を出たかすみはもつれた舌で、
「ちょっと、酔いを覚ましましょう。せっかくですからもっと話したいです」
 と古林の肩にもたれかかった。終電のことが頭をかすめた古林は腕時計を確認しようとしたが、どうでもよくなってやめた。
 かすみに誘導されるがまま、狭い路地を奥へと進んだ。通ったことのない道だ。いったいどこに連れて行かれるのだろう、と子供のようにわくわくした。
 そろそろ休みたいと思っていたところで、光が急に押し寄せるように空間が開け、公園に出たのだった。住宅街の中、ビルの屋上庭園のようにひっそりと広がるこの空間のことなど知らなかった。
「知る人ぞ知る、という場所のようだね」
 二人以外には誰もいなかった。
「のんびりしたいときよく来るんです」
外国に行ったときなど、身体はそこにあるのに、自分の大事な部分は元の場所に置いてきてしまった……古林はそんな感覚に酔うことがあった。それに似ていて、気分は妙にすっきりしていた。
 帰りたくなかった。この満ち足りた時間にもう少しだけでも浸っていたかった。
「小学生のころとか、道端の石を蹴りながらよく帰ったんだ」と古林は話題を出した。
はい、とかすみは大事な話でも聞くみたいに目をまっすぐに合わせてくる。
「……石はごつごつしているから、慎重にやらないと側溝に落ちてしまう。ゆっくりゆっくり、いつしか熱中して進んでいってふと顔を上げた瞬間、あれ? となる。自分がどこにいるかわからないんだ」
「ええ」
「慌てて駆け出して道を確かめると、なんてことはない。家からひとつ通りを外れただけだったりする。普段と違う角度で見たから、すぐには認識できなかったんだろう。ここにたどり着いて、そんな思い出がよみがえったよ」
風が吹き、古林の頬を撫でていった。足元の芝がさらさらと揺れる。
 古林はふと疑問に思った。夏の夜なのに虫の鳴き声ひとつ聞こえない……。
「私にも、そんな話が」
 かすみが唐突に切り出した。古林の思考が途切れる。
「ああ」
「小さい頃は転校が多くて、先々で友達を作るのが大変で。ひとりで遊ぶことが多かったんです」
 前もって準備していたように、よどみなく話す。かすみの整った横顔にできた影が妖しく見えた。
「ある日、退屈しのぎに小さな公園で砂遊びをしていたら、いつの間にか男の子が立っていて、遊ぼうよと言われました。山に遊びにでもいくような軽装です。深く考えもせずその子についていくと、あまり車の通らない道路に出ました。男の子はなぜかないしょ話でもするみたいに囁いたんです。『横断歩道の白いところだけをけんけんで踏んで、渡ってみて』と」
「それで、そのとおりに?」
 白い部分だけを辿って大股で渡った記憶は、古林にもある。
「断れない雰囲気があって。その子はけんけんであっという間に向こう側へ渡ってしまいました。私はなぜだか、かけっこのスタートみたいに気合いを入れて渡りはじめました。
 けんけんで飛ぶのはなかなか難しいのですが、それでも最後の線に乗りました。するとその瞬間、足がぐらりと揺れました。すると、信じられないことに、険しい山に架かっている吊り橋を渡っている感覚になったんです。真下には川が激しく流れている。大きな岩がごつごつした中を、生き物みたいに。そんな映像がはっきりと浮かんだんです。ここで踏みとどまらなければ落ちてしまう。それではっとして、最後の力を振り絞って渡りきったんです。大量の冷や汗が流れて、へたりこみました。やはりと言うべきか、男の子の姿はもうなかったのです。どうしてそんなイメージが想起されたのかわかりませんが、横断歩道の白い部分は、いっときだけ、たしかに橋の木の板に変わったんです。
 あのとき私がつまらなそうにしていたから、男の子が呼びにきたのかもしれませんね」
 話が終わったことを示すように、かすみは唇の端をくっと上げた。形の良い唇が三日月みたいな弧を描く。
 古林は思わず自分の肩を抱いた。湿気をたっぷりと含んだ空気の気配はすっかり消え、どこから忍び込んできたのか、渓流沿いのような冷気が古林の腕を粟立たせていた。こんなに冷えるなんて予想外だ。かすみとの時間も惜しいが、温かい場所に行きたい。
「……もうそろそろ、行こうか」
「そうですね」とかすみは立ち上がった。「でも、帰ってもつまらないんでしょう? ちゃんとわかってます。お話しましょうよ。ね、もう少し。あそこに道路がありますね……そこを渡ったら、もっと素敵なところに出ますよ」
 かすみは誘うように手を差し出した。細い指が白く光っている。
 その肌のなめらかさに触れてみたくて、思わず古林はその手を取ってしまった。あんな近くに横断歩道などあっただろうか、と頭の片隅に浮かんだものの、酒ではないなにかに酔ったように、ふらふらと身体を持ち上げた。

 リビングの電話が鳴った。表示された番号を見て、彼女は電話に飛びついた。
「新しいことがわかったんですか」
「今朝、交番に鞄が届けられました。中身から古林さんのものと判明したんです」
「主人は」
「……いえ、鞄のみです。それが不思議なことに、水に浸かったようにぐっしょりと濡れているんです。行方が分からなくなってから一週間になりますが、その間は雨が一滴も降っていないのにもかかわらず、です」
 彼女は立ち尽くしたまま、言葉を継ぐことができなかった。警官の事務的な声が受話器から漏れてくる。
「大丈夫ですか」
「……はい」
「もう一つ情報が得られたのですが、もしかしたら不快に感じるかもしれないので」
「いえ、何でも聞かせてください」
「昨日、ご主人が最後に立ち寄られた店を見つけ、店員の話を聞けたのですが、独り言をにこやかに話されていたそうなんです。まるで誰かと会話しているような……」

(了)

長野良映さんの前作「黒い本」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory74.html

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作品について

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した6名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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