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世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

世にも小さな ものがたり工場 ブック・カバー
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「黒い本」(長野良映)

2018.08.15 更新

 待ち合わせ場所を駅にしたのは失敗だった、と彼は後悔した。
 朝から降り続いている雨の勢いは強まるばかりで、水溜まりが点々とできている。緊張のせいなのか三十分以上もはやく来てしまった。晴れのときより気温が低いとはいえ、夏の湿気は重苦しい。待てない時間ではないが、会った後の話を想像すると落ち着かない。彼は買ったばかりの青色の傘をさし、時間をつぶす場所を探し歩くことにした。
 カフェに入るにしても払うお金と時間の釣り合いがとれない気がするし、コンビニでも最近では立ち読みができないよう本に封がされている。歩き続けていると、不安な思いがまた立ち上がってくる。
「頭で描いたシナリオどおりにうまくいくだろうか」
 そのとき、古本屋が視界に入った。
 家の一階を店舗にしている昔ながらの佇まいで、壁の色はくすみ、時代から取り残されたように両隣のテナントビルから浮いていた。傘を叩く執拗な雨音が、一瞬遠くなる。
 ここならちょうどよさそうだ、傘を畳んで入った途端、かびと埃の臭いが鼻をついた。狭いスペースに本棚がいくつも据えられている。奥に見える旧式のレジのところには誰もいなかった。
 ずらりと並んだ本を眺めながら、狭い通路を奥へと進んだ。古びた小説や実用書が脈絡もなく居並ぶ中に、タイトルの書かれていない黒い本が目に留まった。
 取り出して調べたが、表紙にも奥付にも、タイトルはおろか著者の表記さえ見当たらない。材質の劣化なのか少しべたべたする。そのまま戻そうとも考えたが、謎めいた感じに惹かれ、本を開いてみた。
 最初から文を追っていくと、外見とは裏腹に、理解しやすい筋の小説のようだった。
「なんだ、意外と普通じゃないか」
 彼はちょっと肩透かしを食らった気がした。
 話はまず、ある男の生い立ちを綴っていた。男は中流の家庭に生まれ、さほど優秀でもない大学を卒業し、中規模の企業に就職する。
 要約すれば何でもないことを、書き手は余計な情報を加えつつ書き進めていく。
「おいおい、じれったいな」
 そう思いながらもページを繰る手を止めなかったのは、ところどころで彼と符合する点が見つかったからだ。中学、高校ではバドミントン部に入っていたこと。大学二年になってはじめての彼女ができたこと。
 入社から数年後、友人の紹介で、将来を考える女性と付き合うようになったのも同じだ。
 小説に仕立てあげるほどでもない、誰にだって送ることのできそうな人生。だが彼はページをめくる手を止めない。
 一緒に時間を重ねるにつれて、彼女は結婚を匂わす言葉を口にするようになった。男はそのたびに、巣食いはじめた感情を無視しようとした。それは退屈とも倦怠とも名付けられる。
 はっとして、彼は顔を上げる。
 自分と共通点が多すぎやしないか。いや、こんなことは物語を読んでいれば誰でも、多かれ少なかれ遭遇するはずだ。ここに書かれているのは自分のことだ、なんて。
 彼は気を取り直して本に目を戻す。
 男は異動した部署で、年下の女性に出会った。付き合っている彼女と比べても容姿や知性のあらゆる面で勝っていた。自然と同僚の女性になびいていく。彼女の存在は内緒にしていた。
 彼女と会う時間が明らかに減る一方で、同僚の女性と仲を深めていった。少なくとも、互いの部屋を行き来する程度には。
 だが、そうした事態を彼女が全て把握していたのは、男にとって誤算だった。
 彼は心臓を掴まれた思いがして、あたりを見回した。何の変化もなく、古びた店内の光景があるだけだ。
 まさかあいつが全て知っている? そんなはずは、馬鹿な、と首を振る。
 たかだか文字の連なりじゃないか。小説が現実であるわけがない。本当のことは、こちら側にしかない。
 男は久しぶりに彼女に連絡をとり、待ち合わせ場所を駅に指定して、会う約束を取り付けた。当然、別れを告げるためだ。これ以上関係を続けるよりは、きっぱりと切ってお互いに新しい方を向くべきだと自分を納得させて。どうすれば穏便に別れられるか、話の進め方を考えに考え抜いた。
 朝から雨が降り続いていた。早めに着いてしまった男は駅でそのまま待つ気にもなれず、街をぶらぶらと歩き、一軒の古本屋を見つけた。
 そこに入る姿を、彼女は確認した。
 しばらく経っても男は出てこない。彼女はそっと古本屋の敷居を跨ぎ、中を見渡すと、男を奥に見出した。彼女は足音が立つのも気にせず足を速めて、バッグからナイフを取り出し、勢いのまま彼の脇腹にナイフを突き刺した。
 本が床にばさりと落ちた。

 雨がやみ、雲の合間から漏れ出る西日が水溜まりに反射した。
 店主がうちわを扇ぎながら帰ってきた。カウンターにつこうとして奥へ進むと、眉を寄せた。
 隅の本棚の前に、落ちている本が一冊。その傍らには青色の傘。
「やれやれ、また落ちてしまったのか」
 店主は真っ赤な表紙の、べたついた本をゆっくりと本棚に戻した。

(了)

長野良映さんの前作「着想」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory72.html

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著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した6名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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