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世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「鏡の上のアリス」(滝沢朱音)

2018.02.28 更新

「ねえ、亜里沙。うちから〝魔法の鏡〟を持ってきてくれない?」
 病室のベッドで母がそう言ったとき、私は困惑した。
「あんな大きな鏡、持ってきてどうするの。邪魔よ」
 四人部屋の病室。カーテンで仕切られたベッドまわりは、ただでさえ狭い。
 手鏡があるからいいでしょうと言っても、母は聞かなかった。
「あの鏡がいいの。あの鏡じゃないと……」

 亡き祖父に買ってもらったという、レトロな壁掛け鏡。
 童話好きの母は、幼い頃これで『白雪姫』や『鏡の国のアリス』ごっこを繰り返していたらしい。
 楕円形で、ゴシック調の美しいフレーム。上半身をゆったり映すことのできるこの鏡を、母は童話になぞらえ〝魔法の鏡〟と呼んでいた。
「他の鏡に比べて、不思議と顔色よく、綺麗に映るのよ。のぞきこむと元気が出る、まさに魔法の鏡なの」
 ――長引く入院。母は少しでも元気を出したくて、私に無理を言い、せがんだのだろうか。
 家に帰り、母の部屋に掛けられていた鏡を外した私は、テーブルの上に置いて埃をぬぐい、無心で磨いた。

 翌日、また病院に出かけようとしてテーブルを見た私は、目を疑った。
 鏡の上で、ちらりと何かが動いたのだ。
 目をこらすとそれは、信じられないことに――スケート靴をはいた、小さな小さな女の子だった。
 水色の衣装をひらひらと揺らし、女の子は気持ちよさげに鏡面をすべっている。
(幻? 目の錯覚?)
 思わず目をこすって、近づき顔を寄せたとき。
「ちょっと、揺らさないでよ!」
 鏡の上で、その女の子が叫んだ。
「あ、あなたは……誰?」
「あたしはアリス。このスケートリンクはあたしのものよ。ようやく見つけたんだから」
「こ、これは……私の母の鏡で……」
「あたしのリンクだって言ってるでしょ? とにかく、スケート大会まで時間がないの。邪魔しないで!」
 ぷりぷりと怒った彼女――アリスは、鏡の上を弧を描きながらすべり、スピンをまわり続けている。
 このままでは、とても鏡を持ち出せそうにない。

「――というわけなの」
 アリスについておそるおそる話すと、母はくすくす笑った。
「鏡の上を、こびとになったアリスがねえ……!」
「びっくりしたわ。魔法の鏡って本当だったのね」
「そうね……あの鏡には、不思議な力があるから」
 母は、疑う様子もなくうなずいた。
「じゃあ、家に帰ったらアリスに聞いてちょうだい。スケート大会はいつなのって。それが終わったら、私に返してねって」

 家に帰った私がさっそくたずねると、アリスは首をかしげた。
「さあ、知らないわ。明日、いえ、あさってかしら。あさってのあさってかもしれないわ」
「それじゃ困る。あなたにとってはスケートリンクでも、本当は鏡で、壁にかけて姿見として使うものなの。だから返してよ」
「そんなの、知らないよーだ!」
 アリスは、べーっと舌をつき出した。
「あたし、スケート大会で1位にならないと、元の世界に戻れないんだって。だから、がんばるしかないの」
 ぷいっとそっぽを向いたアリスは、私を無視してまたすべり始めた。
 いつのまにか彼女は、回転ジャンプも飛べるようになっている。この鏡のリンクで、よっぽど練習しているに違いない。

「――というわけなの」
 眉をひそめて続きを話すと、母はけらけら笑った。
「それは困ったわねえ……!」
「いっそ鏡を元どおりに掛けてしまえば、もうすべれなくなるんだろうけど……」
「それじゃあ、アリスがかわいそうね」
 ふと母は、ベッド脇の引き出しから小箱を取り出した。
「これ、アリスに渡してあげて。スケートの衣装に、ちょうどいい首飾りになるんじゃないかしら」
 小箱に入っていたのは、水晶のようなビーズを編み連ねた、繊細で美しい指輪だった。
 手芸の得意な母は、昔からよくビーズ細工で小物やアクセサリーを作っていた。きっとこれもその一つなのだろう。
「私の指にはもうゆるくなったから、外してたのよ」
 病が続き、か細くなった指を見つめながら、母はつぶやいた。

 母の指輪を、アリスは目を輝かせて受け取ると、さっそく首にかけた。
 それはまるであつらえたかのようにアリスにぴったりで、きらきらと首元を飾っている。
「うれしい! お母さんにありがとうって伝えてね」
 よっぽど気に入ったのだろう。アリスは上機嫌で鏡面をすべりはじめた。
 くるくるくるとターンするたび、宝石のようにビーズがきらめく。気分が上がったせいか、ジャンプもさらに増えたようだ。

「――というわけなの」
 得意げにそう話すと、母はおだやかに笑った。
「アリスに喜んでもらえてよかったわ。……でもね」
 急に、母は私の手を握った。
 ――幼い頃の記憶とは違う、骨ばったその感触。
「魔法の鏡、やっぱり早く持ってきてほしいの」
「……だ、だから今は、アリスがスケートを練習してて……」
 私の言葉を制し、静かに母は言った。
「お願いよ、亜里沙。あの鏡に映して、確かめたいことがあるの。アリスもきっとわかってくれるはずよ」

 家に帰ると、鏡の上でアリスが膝を抱え、うつむいていた。
 私の帰宅に気づき、顔を上げた彼女の頬には、涙のあとが残っている。
「今日、大会だったの」
 小さな声で、アリスは言った。
「……ダメだった。スケート、失敗しちゃった。もう元の世界には戻れない」
 アリスは顔を伏せ、泣き出した。
「どんなに願っても、この世にはかなわないことがあるのね」
 私は、泣きじゃくる彼女に伝えなければならなかった。
「アリス、こんなときにごめん。明日こそは、母に鏡を持っていかなきゃならないの」
「……」
「あなたを元の世界に戻せないままなのは、心残りなんだけど……いいかな?」
 私の言葉にアリスは涙をふき、答えた。
「いいわよ。もう必要ないし。でも……まだ気づいてないの?」
「何のこと?」
 問い返した私に、アリスは言った。
「本当は気づいてるんでしょ。あたしが、あんたの物語の登場人物にすぎないってこと」
 ――そのとたん。
 アリスの姿は忽然と消え、鏡の上には、ビーズの指輪だけが残った。

 病室に鏡を持ち込むとき、ナースステーションの看護師たちは、大きさに驚いてはいたものの、とがめ立てはしなかった。
「ありがとう。ずいぶんと綺麗に磨いてくれたのねえ」
 母は嬉しそうにそう言うと、ゆっくりと上体を起こし、壁に立てかけた鏡をのぞきこんだ。
「……どう?」
 いつもの手鏡と違い、少しは顔色よく見えるだろうか。
 しかし、母は押し黙ったままベッドから降り、よろよろと立ち上がろうとする。私はあわてて背中を支えた。
「どうしたの?」
 母は鏡の前に立ち、口もとを引き締めると、前をほどいた。
 入院着がはだけ、すべり落ちる。
「……お母さん!」
「ああ……やっぱり。こんなにも痩せちゃってたのねえ、私」
 ――痛々しいほど痩せおとろえた、母の身体。
「確かめるのがずっと怖かったの。この鏡なら、少しはマシに見えるかもと思ったんだけど……魔法はかからなかったわね」
 娘への配慮か、さばさばと笑ってみせる母だが、涙は止まらない。
 そのとがった肩にショールを掛けながら、こらえようもなく私も泣いた。
「私に鏡を……この姿を見せたくなくて、アリスの話をしていたあなたは、子どもの頃と同じようだったわ。いつもそうやって、自分で作った物語を熱心に話してくれてた」
「……」
「今ではそれを仕事にしているんだから、大したものね。亜里沙……あなたは私の誇りであり、生きた証よ」
 たくさん童話を読み聞かせてくれ、私の作る物語も面白そうに聞いてくれる。そんな母がいたからこそ、私は童話作家になれた。
 そう伝えたいけれど、嗚咽で言葉にはならない。
 ――母は、逝こうとしている。
『どんなに願っても、この世にはかなわないことがある』
 アリスが吐いた台詞は、まごうことなき私自身のものだった。

 主を失い、再び家に戻った鏡を、私はあえてテーブルに横たえたままにしている。
 またアリスがひょっこりと姿を現し、「ここはあたしのスケートリンクよ」と言い出したら、今度こそ元の世界に返してあげなくてはならないから。
 あの指輪をはめた手で、私はつづる。母のために紡いだ物語の続きを。

(了)

滝沢朱音さんの前作「スケートリンク缶」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory28.html

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著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

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