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新・世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「逃水」(霜月透子)

2019.07.31 更新

 蝉がせわしなく鳴いている。男は額の汗を手の甲で雑に拭うと、改めて今日の漁場を見渡した。落ち着いた雰囲気の住宅街だ。住人はみな勤めに出ているのか、暑さを避けて家にこもっているのか、ひと気がない。猫も鳥も見当たらず、姿の見えない蝉の声が騒がしく響くだけだ。
 獲物が現れる気配はない。肩に掛けたクーラーボックスが、空っぽのくせにやけに重く感じた。釣果がないまま一日が終わろうとしている。とはいえ、漁に適した日射しの強い時間が終わろうとしているだけで、今日という日はまだたっぷりと残っている。
 男は、緩やかな坂を上っていた。強い日射しに頭を抑え込まれたかのようにうつむき加減に歩いていたが、そろそろ上り坂が終わるだろうと思い顔を上げた。道が途切れて見えた。そこから先は下り坂らしい。
 頂上の手前に、艶やかな水が溜まっているのを目にとめた。
「来た!」
 思わず声が出た。アスファルトに薄く貼りついた水には空が映っている。水不足が危ぶまれるほどの晴天続きだから、水溜まりではない。あれは、逃げ水だ。やっと見つけた。三日ぶりの獲物だ。
 男はたも網を握り直すと、逃げ水に向かって走り出した。

 男が家業を継ぐと決めたのは三年前のことだった。だが漁の教えを受ける前に、父は他界した。以来男は、幼少期に何度か連れていかれた漁の記憶を頼りに漁をしてきた。
 初心者の自己流であるから、当然、釣果は芳しくない。一度は社会に出たいなどといわず、すぐさま家業を継げばよかった。そうすればこんな苦労もなかっただろうに。父の技術を伝受していればと思わない日はない。
 ふいに、逃げ水で魚が跳ねた。
 獲物に集中しなければ。男は走りながらぶるりと頭を降って、懐かしい記憶を振り払った。
 逃げ水の大きさからすると、魚はたいしたことはない。魚にとっての逃げ水は、ヤドカリにとっての貝のようなものだ。己の身に合った逃げ水に入っているから、遠目にでも魚の大きさの見当がつく。
 満足のいく大きさの魚ではでないからといって諦めるつもりはない。父のような熟練漁師ならともかく、逃げ水を見つけることさえ困難な男に選り好みする余地はないのだ。わずかでも卸し、現金を得なければ生活が立ちゆかない。食用魚でなくてもいい。金魚みたいに小さな観賞魚だとしても、アクアショップへ持ち込めばいくばくかの金になる。
 しかしいくら追っても獲物との距離が縮まらない。近づけば近づいた分だけ逃げ水も先に行く。
 緩い傾斜とはいえ、ひたすら上りが続く坂道に足が進まなくなり、次第に逃げ水との距離が開いていく。やがて逃げ水は坂の頂上に達し、日射しを受けた鏡面をきらりと光らせて、坂の向こうへと滑り落ちた。
 男は重い足を牽引するように深い前傾姿勢をとり、一気に坂を上りきった。頂の向こうは長い下り坂になっていて、随分遠くまで見渡せた。だが、もうどこにも逃げ水の姿はなかった。

 男の漁の道具といえば、たも網とクーラーボックスだけだが、ほかの漁師は釣り竿や銛を使う者が多い。離れた場所からでも狙うことができるからだ。たも網だけで漁をする者など見たことがない。父も釣り竿を使っていた。
 父に教えてもらいたかったことのひとつは餌だ。父は撒き餌を使っていた。周囲に逃げ水が見あたらないとき、道に餌を撒いておびき寄せていた。
 しかしそれも幼い頃の記憶だ。どんな餌だったのか、もはや知ることは叶わない。父を真似て試しにいくつかの餌を撒いてみたことがあるが、猫やカラスが寄ってくるだけで、肝心の逃げ水は現れなかった。
 逃げ水漁は漁師ごとに特定の漁場を持つわけではないため、同業者と遭遇することもある。だが男は、未熟さを見られることの羞恥心から、同業者と鉢合わせしない場所を選ぶようになった。それはつまり漁に適していない場所ということだ。
 それでも漁師を続けているのは父への憧憬だった。釣り竿を掲げ、餌を撒き、去ろうとする逃げ水から魚を釣り上げる。ときには朱色の、ときには赤黒い餌を勢いよく撒く父。
 ……今日はもう諦めるか。
 男は逃げ水が去った道筋を辿って坂を下り始めた。
 ふと視界の隅に鮮やかな赤色をとらえ、そちらへ顔を向けると、路肩に子供用靴下が片方だけ落ちていた。抱いていた親が気付かないうちに脱げてしまったのかもしれない。道の前後を眺めても親子の姿どころか、依然ひと気がない。男は落ちている靴下を見なかったことにして再び歩き始めた。
 それからいくらも進まないうちに、今度はシャツが落ちていた。
 洗濯物が飛ばされたのだろう。立ち止まり、近くの家の庭やベランダを見渡してみるが、それらしき洗濯物を干しているところはなかった。適当な家の門扉にでもかけておいてやるかと伸ばしかけた手を止めた。シャツは、脱水もかけずに干していたのか、ぐっしょりと濡れている。男は触れるのをためらった。素早く辺りを見渡せば、やはり動くものはなにもない。またしても見なかったことにして足早にその場を離れた。

 おかしいと気付いたのは三ブロックほど進んでからだった。
 思い出したのだ。
 父が使っていた餌は魚だ。捕った魚を潰して撒いていた。においなのか見た目なのかわからないが、仲間のそれに惹かれて逃げ水が寄ってくるのだった。
 日陰でもないのに、すうっと身体が冷えた。
 男は来た道を振り返った。だがここからでは、あの濡れたシャツは見えない。
 絞れそうなほどに濡れた洗濯物が風に飛ばされるだろうか。強風が吹き荒れる日ならいざ知らず、今日は息苦しくなるほどの無風だ。それに干されていないとはいえ、これほどの日射しのもとで濡れたままなどということがあるだろうか。
 街にひと気がないのは、勤めに出ているからでもなく、暑さを避けて室内にこもっているのでもない。
 いないのだ。この街にはもう、人はいないのだ。

 坂の下から逃げ水の群れがやってくる。逃げるから逃げ水と呼ぶのであって、向こうから迫ってくるとは思いもしなかった。水銀のように艶やかに地を這う水は黒光りしており、その鏡面に空と街を映し出している。
 男はクーラーボックスを肩から下ろした。たも網を構え、すぐさま動けるように足を広げて腰を落とす。逆光に目をすがめ、獲物の動きを注視した。
 逃げ水の群れは、先頭を頂点とした三角形の編隊を組み、その底辺は道幅いっぱいに広がって男に迫ってくる。突破させるつもりはないという強い意志を感じた。
 逃げ水から何匹もの魚が跳ねる。高ぶる気持ちを抑えきれないように。獲物を威嚇するように。
 早まる鼓動を鎮めようと、男はことさらにゆっくり呼吸する。どれだけ向かってこようとも相手は魚だ。人がひるむことはない。
 しかし、魚の姿が見えるところまで近づくと、それの上半身は人であった。人魚だ。みな、手に銛を持っている。
 先頭の人魚が息を吸い、口を開いた。ガラスを掻くような、震えるほど不快な声だった。従う人魚が一斉に銛を肩の上に構えた。
 男は自分の手にあるものの無力さに気付き、一歩二歩と後退する。とうに捕らえる気力は失せていた。
 人魚が叫び、反動をつけるように、揃って銛を持つ腕をわずかに引いた。
 来る!
 後ずさった男のかかとが、地面に置いたクーラーボックスにコツンと当たる。均衡を失った男は尻からそこに突っ込んだ。尻は蓋を突き破り、すっぽり中におさまった。
 逃げ水をまとった人魚たちはクーラーボックスを引きずりながら、男が身につけているものを剥ぎ取っては投げ捨てた。水に濡れた服が、髪が、熱せられたアスファルトに投げつけられてはべちゃりと音を立てた。
 男は、自分の肩が、頬が、剥ぎ取られていく中で、不審そうにそれらを辿ってくる人影を見た。この街で初めて目にした人影だった。
 来るな、と叫ぼうとした口をちぎり取られる。
 人魚たちが三角形の陣形を取り始め、男の残骸は粗雑に放り出された。倒れた男の視界には、鏡面のような水が薄く広がっている。まだ自由になる視線を動かし、水中を覗き込むと、空や街が広がっていた。その街には、買い物帰りの主婦や走り回る子供たちが溢れている。ごく当たり前の街の風景だった。
 ああ、みんなここにいたのか。男は穏やかな心地で意識を手放した。

(了)

霜月透子さんの前作「星合」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory113.html

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作品について

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
the world is wide(ザ・ワールド・イズ・ワイド):「「名たんてい 赤塚れい子のじけん薄」を読んで」で第3回優秀賞を受賞。
霜月 透子(しもつき・とおこ):「ぬか床ラヴァー」で第3回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。
山岐 信(やまき・まこと):「孕む壁」で第3回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回、第3回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した9名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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