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新・世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「男と鯉」(長野良映)

2019.04.26 更新

 ある池のほとりに男が立っていた。
 それだけなら何てことはない風景だが、時間は真夜中で、その男以外には誰もいない。草むらに潜む虫たちの鳴き声が響いてくる。
 山の中にぽつんとある池だから、明かりもない。男はあてもなくさまよった結果、ここにたどり着いた。
「もうこの辺りにしよう。これ以上あがいても仕方がない。終わりにすればいいんだ……」
 ぶつぶつ呟きながら男は歩を進め、ぬかるんだ土に靴を汚した。それでも男は構わずさらに前に行く。靴も踝もあっというまに濡れた。男の膝が水に浸かったとき、どこからか声がした。
「やめろよ」
 男は立ち止まった。周りを伺ってみても、濃い暗闇が立ち込めているだけ。もう一度深みへと進もうとしたが、
「だから、やめろって」と聞こえた。
 やはり幻聴ではないようだ。また首を回して確認したが影も形もない。
「下だよ、下」
 男は目線を下げた。黒い水面に、魚のような赤い形がぼんやりと浮かんでいる。
「鯉?」
「そうだよ」
 この鯉が言っているのだろうか。何が起きているのかわからなくなった。
「鯉が話しかけてくるわけがない。死のうとしたところだったのに、すでにあの世に来てしまったというのか……」
「なに寝ぼけてるんだい。片足突っ込んだところをとめてやったんだ。いいから岸に戻りな」
 男は言われるがまま後ずさりして戻り、へなへなと座りこんだ。水でぐしょぐしょになったズボンが肌にくっついて冷たい。
 鯉は水際まで泳いできて、男の正面に位置を取った。
「何であんなことしたんだ」
 耳にというより脳に語りかけているような聞こえ方だった。
 男は寒さと怖さで口をわなわなとさせている。
「まさか、鯉が……」
「鯉が話しちゃいけないのか」
「そ、そういうわけでは」
「実際起こっていることに目を向けなよ。とりあえず落ち着いて、深呼吸すれば」
 鯉は深呼吸のつもりなのかえらを大きく開いた。男も口を大きく開けて空気を入れた。
「何があったか知らないが、ここで死ぬのはやめてくれ。俺の住みかなんだから」
「頼むから死なせてくれ。何をやってもうまくいかない。生きていても何もないんだ」
「おおよそ仕事や恋が思うようにいかないんだろう。目を見ればわかる。まな板の上の鯉みたいな顔しやがって」
 鯉自身にそう言われ複雑な思いもしたが、言われたことはそのとおりなので黙った。
「能力も顔も平凡だし、自分なりに頑張るんだけど失敗する。それを笑い飛ばせればいいんだけど、性格はくそまじめときてる。なんだかふっと死にたくなったんだ」
 うなだれる男に、鯉は他人事のような口調で言った。
「人間もいろいろ大変なんだな」
 男は、馬鹿にされた気がしてかっとなった。こんな鯉なんかに何がわかるというのか。鯉など、池という限定された世界で水を切っているに過ぎない。そこではどんな悩み、痛み、苦しみもあるにせよ人間の世界に比べれば矮小なことだろう。
 男はそのような内容を瞬時に思い浮かべたからか、熱の帯びた頭もまた冷却に転じた。
「鯉に何がわかるっていうんだ」
 男の言葉に鯉は沈黙した。いっそ男の側から離れればいいものを、その場で揺らぐ鯉の姿は男の神経を逆撫でするようだった。
「わかるわけがない」と鯉は嘲るような声で吐き捨てた。
「何?」
「鯉に下劣な人間の考えることなぞわからないと言っているんだ。我々の厳しい世界とはわけが違う」
「ふざけたことを言うな。人間世界の厳しさを知らないくせに」
「知っているとも」鯉は落ち着き払っている。「仕事なんていう、ある程度の苦しみを我慢すれば恐れるものなく、安全に、平和に暮らすことができる。食べたければ容赦なく他の生命を絶ち、恥ずかしげもなく自分の栄養とする。自分自身だけでは何も完結しない、甘い人間のことはな」
 自信満々の鯉の言い分に男は言葉を失った。だがすぐに気を取り直し、男は眉根を寄せて鯉をにらみつけた。
「想像だけでよくもべらべらと」
「そんなわけはない。見える鯉には見えるんだ」
「……ふうん、そうか。じゃあ鯉よ、あんたが住んでるのが厳しい世界と言ったな。それはそうかもしれない。野生では自分だけが頼りだからな」
「少し冷静になったようだな。そうだ、我々は冷徹な競争原理のもとで生きている」
「鯉にも競争があるのか?」
「この世界での頂点はただひとつ、一年に一度の機会に選び出され……鯉のぼりになることだ」
 男は吹き出した。つい先刻まで死を目前にしてやけになっていたのもあるが、この偉そうな鯉から出たにしてはあまりに牧歌的なように聞こえたのだ。
「何がおかしい」
「おかしくもなるさ。鯉のぼりとはお気楽なことだ」
「まあ、笑うがいい。水の世界から飛び出し、空に舞うことの誇りや喜びを、人間に理解できるはずはないからな。じゃあ聞くが、あんたに目標ってのはあるのか?」
 男は冷たい手で首に触れられる心地がした。大学を卒業して会社に入ってからというもの、毎日を乗り切るだけで精一杯で、それ以上の高みを目指す気力など全く残っていなかったと気づかされたのだ。
 水面の反射のせいか、鯉の目が光ったように見えた。
「答えられないってことはそういうことだな。命が守られていることにかまけて、漫然と生きていたんだろう。その点、私は違う。幼い頃より両親から鯉としての栄誉を教授され、ただそのためだけに生きてきた。遊びや享楽にふけることなく、他の鯉に打ち勝つためにな」
 鯉に表情などあるわけがないと理解していたものの、男の目には鯉が自信に溢れているように見えた。そして、もし自分が鯉ならこいつには勝てないだろうと思ったのである。ばかけた想像ではあったが、これまでも男はそういう表情を浮かべた人間に負けてきた。
「ふん、勝って何になると言うんだ。鯉のぼりになったって……」
 声が震えそうになるのを抑えながら男は言った。
「そう口にする時点で負けを認めているんだ。勝者の努力を認めようともしない、妬みの混合したその言いぐさ。なるべくして敗者となっていることの証だ」
 鯉は悠然とした口調で言い切った。途端、男は信じがたい現象にとらわれた。鯉の姿の外側に、うっすらと奴の顔が現れたのだ。奴といっても一人ではない。男の短くも情けない人生の中で、好いていた恋人を奪った奴、仕事の成功を奪った奴、男の些末な特徴をあげつらい、皆の笑い者にした奴、それら男を踏み潰していった有象無象が総合して、鯉に重なって出現した。男は息を呑み、自分の弱さを呪った。結局は負け続けの人生。思えば男は最初から奴らに対抗しようとしなかった。信ずる力がなかったのだ。負けを覚悟しながらも、少なくとも引き分ける方向に振り切ろうとする自信が。男はそもそも土俵に上がる以前に白旗を掲げていたのだった。
「どうしたというのだ」
 鯉の言葉にはっとしたが、さらに広がった光景に目を覆いかけた。ふと見たところ、青白く光る固まりが鯉の周りに散らばっていた。それらは蛍を思わせ、むしろ幻想のようではあったが、目を凝らすと正体がわかった。鯉の形をした幽霊の一群だったのだ。
「お前、自分に何が取りついているのかわかってるのか」
 腰が抜けそうな男とは対照的な態度で鯉は答えた。
「ああ、こいつらか。どれも俺が負かした鯉さ。この狭い世界の中で、俺は勝ち続けてきた。勲章としてはしみったれているがな」
 心臓を一瞬鷲掴みされた思いに苦しくなりながら、男は亡霊と化した鯉たちに同情を寄せた。つまりは俺も彼らと一緒なのだ。勝者の踏み台になり、恨みを内に抱くことしかできない……。
月の光が突然瞬いた。かと思うと、光は一本の奔流となり、池にまっすぐに降り注いだ。その先端は鯉に届いていた。
 男は眼球が飛び出るほどに目を見開いた。一匹の鯉がゆっくりと空中へ上がっていく。
「やっとこの瞬間が来た。満月の夜にやっと空へのぼることになっていたのだ。貴重な場面に居合わせて運がいいな。よく見ておけよ……」
 月光に包まれて黄金に光る鯉を目の前にして、男の心に生じたのは諦めのような負の種類の感情ではなかった。光に魅入られるうちに、一度、何かに勝たなければという思いがじわじわと湧き出てきたのだった。そしてその感情が、男を突き動かした。
 男は鯉に飛びつき、両手で鯉の体躯をがっしりと掴んだ。鯉は激しく抵抗したが、男も負けなかった。鯉の抵抗が強ければ強いほど、男の心に自信が植えつけられていくのだった。しばらくのせめぎ合いの末、鯉は池に跳ね落ちた。ぽちゃんという間の抜けた音に続いて、月の筋光が天空に戻っていく。
 池に静寂が戻った。
 今のことは夢だったのだろうか。尻餅をついた男がおそるおそる右手に目をやると、光る破片がついている。鯉の鱗だった。
 光を放つそれを、男はポケットに大事にしまい、勝利の気分に酔いしれながらその場を後にした。
 今度こそ、池に完全な静寂と暗闇が訪れた。

(了)

長野良映さんの前作「わかれ」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory90.html

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作品について

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
the world is wide(ザ・ワールド・イズ・ワイド):「「名たんてい 赤塚れい子のじけん薄」を読んで」で第3回優秀賞を受賞。
霜月 透子(しもつき・とおこ):「ぬか床ラヴァー」で第3回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。
山岐 信(やまき・まこと):「孕む壁」で第3回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回、第3回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した9名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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