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新・世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「ハハハの日」(山岐信)

2019.04.26 更新

 玄関から転がり出て、わき目も振らず隣家に走り、引き戸をバシバシ叩く。
「助けてください、助けてください」
 戸がガラガラと音をたててひらき、田中のおばちゃんが顔を出した。
「ああ、マサル君じゃない。どうかした? 母の日だけど、お母さんになにかプレゼントしたの?」
 死ぬか生きるかの一大事だというのに、おばちゃんときたらのんびりしている。
「助けて。お母さんが包丁を持って追いかけてくるんだ。お巡りさんに電話して」
 ニコニコしていたおばちゃんは、急にむすっとした表情になった。
「どうしてひどい噓つくのさ」
「噓じゃないんだ、本当なんだ」
「噓でしょうが。仕事や家事で疲れてる時はあってもさ、マサル君のことが何よりも大事なのよ。だってお母さんなんだからさ」
 次の瞬間、引き戸は閉じられた。まるで透明な命綱をブチ切るように、僕の鼻先でピシャリと音をたてて。
 背中に魂も凍るような殺気を受け、反射的に振り返る。と、白いワンピースを着てぼさぼさの長い髪を垂らした女が、髪に隠れていない片方の目で、僕を睨め殺そうとしていた。悲しきかなこれがお母さんだ。もっと悲しいことに、右手に僕を亡き者にするための凶器を握りしめている。
「あんた、言ったね」
 僕が黙っていると、お母さんはもう一度、
「田中さんに言ったね」
 風もなく暖かいのどかな日曜日の空気を、何かを切るか刺すか以外に使い道の思いつかない金属製の道具が切り裂いた。僕は危ういところでかわし、悪意に満ちた腕の下をくぐり抜け、表の道に躍り出る。
 走った。そうするしかないから走った。とりあえず駅前の交番に向かって。古くさい電気屋の前を通った時、店先のテレビで、母の日バージョンの洗剤のCMが流れていた。
〈ママ、いつもありがとう〉
〈あなたも、生まれてきてくれてありがとう〉
 小学校の角を曲がったところで、担任の和田先生にぶつかった。先生の横には、娘のミナちゃんもいた。隣のクラスの学級委員だ。
「どうしたんだ、マサル、そんなに慌てて」
「助けて、お母さんが包丁を持って追いかけてくるんだ」
 先生とミナちゃんは、お互い眼鏡の奥の目をまん丸にして、顔を見合わせた。と、プッと吹き出した。先生はアハハと笑いながら、
「マサル、さてはお母さんと喧嘩でもしたんだな。そういう時は、相手のことを大袈裟に悪く言ってしまうものだけど、噓までつくことないだろ?」
「そんなっ……ちがっ――」
「お母さんがマサルにそんなことできるもんか。母親たるもの、なにかあれば我が子のために盾になるもんだ。自分から傷つけられるわけがない。だって、お母さんなんだからな」
「パパとね、カーネーションを買ってきたところなの」ミナちゃんは目を輝かせて言った。「バアバの分も買ったんだけど、どうせ今日はあげられないし、マサル君に分けてあげるね。赤い花は売り切れで、白い花だけど」
 いらないと言うのを無視して、ミナちゃんはズボンのポケットに白いカーネーションを容赦なくねじ入れてきた。
「これでママと仲直りできるといいね」
 ミナちゃんはウインクをした。さもいいことをしましたといった浮かれたウインクを。
 僕は、ワーと馬鹿みたいな叫び声をあげながら走り出さざるをえなかった。もちろん、数メートル後ろの電信柱の陰に、お母さんが立っていることに気づいたせいでもある。けれど、それ以上に、怖かったんだ。
喧嘩なんて生易しいものじゃない。仲直りなんてできるはずもない。そういう関係性が親子の間にも存在しうるということに、一向に思い至らない普通の家庭の人たちが。
「助けてください、追われてるんです、刺されそうなんです」
 父子と別れた後、自転車に乗っているお巡りさんの前に、両手を開いて立ちふさがった。
「なんだって」
 お巡りさんは自転車を路肩に停めると、僕の目線に合わせるように屈んだ。
「どういうことか詳しく聞かせてくれる?」
「包丁を持っていて」
 僕の話を真に受けてくれる大人が現れたというのに、舌がうまく回らない。
「誰も助けてくれなくて」
「それで」
「僕、怖くて」
 お巡りさんは軽く咳払いをした。
「で、どんなやつ?」
「それが――」
 お母さんなんですと言ったら、この人もむすっとしたり、笑ったりするんだろうか。また噓つき呼ばわりされるんだろうか。
 答えるのをためらっていると、お巡りさんは僕から視線をそらして立ち上がった。
「聞きましたか、お母さん。息子さんは誰かに追いかけられているそうなんですが」
 ぎょっとして振り向く。と、すぐ背後にお母さんが立っていた。いつの間に髪を梳かしたのやら、後ろで綺麗に一本に束ねている。
 お母さんはしくしくと涙を流しながら、お巡りさんに訴えた。
「この子には虚言癖があるんです。私の育て方が間違っていたんです。父親と離婚して、私も家を空けがちで、寂しい思いをさせてしまいましたから、きっと大人の気を引きたいんですよ。私のせいなんです」
「ああ……」人の好さそうなお巡りさんは、眉を八の字にして同情するような声を漏らした。「お母さんのせいなんかじゃありませんよ。だって、立派なお母さんじゃありませんか」
 お巡りさんはお地蔵さんのような柔和な表情から一転、仁王像に似た厳しい形相で僕を見下ろした。
「おい、きみ。謝りなさい。自分を生んでくれた母親を泣かせるなんて、最低じゃないか」
「違うんだ。僕を追いかけていたのは、お母さんなんだ。捕まりたくないから噓をついているんだ」
「きみは感謝ができない人間なんだね」
 彼の熟れたトマトのように赤い顔面で、紫色の唇がわなわなと顫えている。
「母親が包丁を持って我が子を追いかけるだって? そんな馬鹿げた話あるわけないだろ。だって――」
「お母さんなんだから?」
 聞き飽きた言葉を、僕はこれ以上聞くに耐えなくて思わず引き取った。
「ほーら、本当はちゃんと母親の愛情に気がついているじゃないか」
「ちがう、今のは――」
 無情にもお巡りさんはフンと鼻を鳴らして僕の言葉を遮り、停めてあった自転車に乗って見回りの続きに出てしまった。
 ああ、味方がいない。大人はみんな包丁を持ったお母さんの肩を持つ。誰も助けてはくれない。この世のどこにも、逃げ場はないんだ。
 お巡りさんの背中が角を曲がって見えなくなった。瞬間、後ろからグサリとやられた。

 気がつくと、僕はコンクリートの地面にくずおれている僕自身のなきがらを見下ろしていた。ズボンのポケットから飛び出した白いカーネーションが、血だまりに浸かって半分ほど赤く染まっている。
まったく何が母の日だ、このカーネーションが赤いのは、僕の赤血球が赤いせいじゃないか、なんて言葉が、つい頭にのぼって、幽霊のくせに目のふちから涙が溢れ出た。
見ず知らずの男の人が、お母さんを取り押さえている。
「お巡りさん、こっちです」
 ふいに聞こえた声に思わず振り返ると、近くの高校のジャージを着たお兄さん二人が、さっきのお巡りさんを引き連れてきた。
 そのあとは、てんやわんやの大騒ぎだ。誰かの呼んだ救急車が僕の体を運んでいき、パトカーが何台も来た。道の両側に規制線が張られて、通行止めになり、人が集まってきた。
 続々と増えていく野次馬の中に、買い物袋を下げた田中のおばちゃんと、和田先生親子も交じっている。どうだ、と思った。噓じゃなかったろと思った。
「なんてひどい!」
 他の野次馬から事情を聞いたらしい田中のおばちゃんが、金切り声をあげた。
「ああ、かわいそうなマサル!」
 先生もショックを受けた様子で叫んだ。
 遅すぎるけれど、それでも死んでからようやく味方ができたんだと感じて、胸がじんと熱くなる。――と、パトカーへ連行されていくお母さんに、二人が怒った声で、
「あんたはマサル君を愛してあげるべきだったんだ。だって、お母さんなんだからさ」
「どうしたらこんなことができるんです? まったく信じられませんよ。何かの間違いでしょう? だってお母さんなんだから」
 ハハハと乾いた笑いが口をついて出る。だってお母さんなんだから。だってお母さんなんだから! ハハハ。これが笑わずにいられるだろうか。この人たちは、同情してくれる。憤ってくれる。死んだ子どものためではなく、彼らの宗教のために。僕が生きていようと死んでいようと、ただ一貫して、自分の価値観を母という存在に押しつけているだけなんだ。
「あなたたちの神話に殺されたんだぞ」
 一人の幽霊の恨みごとは、おばちゃんにも、先生にも、野次馬にも――誰の耳にも届かずに、五月の生暖かい風にさらわれてしまった。

(了)

山岐信さんの前作「ポトフ元年」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory100.html

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作品について

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
the world is wide(ザ・ワールド・イズ・ワイド):「「名たんてい 赤塚れい子のじけん薄」を読んで」で第3回優秀賞を受賞。
霜月 透子(しもつき・とおこ):「ぬか床ラヴァー」で第3回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。
山岐 信(やまき・まこと):「孕む壁」で第3回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回、第3回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した9名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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