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新・世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「鱗片」(霜月透子)

2019.03.29 更新

 いつしか狭く薄暗い廊下を歩いていた。水族館のようだが、館内に入った記憶がない。気づけば人の流れに乗っていた。
 足を止めずに素早く辺りを見渡す。人の流れは緩慢でありながら誰ひとり足を止める者はいない。追い越すことも追い越されることもなく進む。引き返そうにも、流れに逆らうにはこの廊下は狭すぎる。そうこう考えているうちにも押し流されていく。
 館内の様子が見えてきた。黒い壁にマス目のように小さな水槽が並んでいる。青い光で浮かび上がる水槽の明かりだけを頼りに進む。黙々と進む。聞こえるのは、かすかな息づかいと衣擦れの音だけだ。

 たどり着いたのは広い空間だった。壁から天井に至るまで硝子のドームになっている。誰もがその場に立ちつくし、視線は半球の内側をくまなく撫でていく。
 硝子の向こうでは光の粒が泳ぐ。目を凝らすと、粒は魚の形をしていた。大量のしらすが、水面から降り注ぐ日差しを受けて光を散らしている。館内よりも水槽の方がはるかに明るい。逆光のせいで、硝子越しに水中を眺める人々が影となる。
 しらすの群れが旋回し、ひと際大きな煌めきがおこった。人々の口から感嘆のため息が漏れる。
 色彩を欠いた身に、砂粒のような目がやけに目立つ。透き通った体の一部が薄っすらと赤く色づいているものもいる。尾ひれを振るたび、あるいは身を翻すたび、軽やかに光が散る。
 ぱあっと群れが割れた。奥から、ずっと大きな魚が数匹、こちらへ向かってくる。しらすの花道を抜け、ドームの側面に接するすんでのところで、すいっと上昇した。サヨリだった。
 ペン先のような細長い口先で、泳ぎながらついーっと水中に細い線を引いていく。線はドームの天頂を伝い、反対側へと下る。そして、充分に下りきると、サヨリはドームから離れ、奥へと去っていった。ほかのサヨリたちも、一匹目が引いた線をたどり、次々と姿を消した。
 すべて通り過ぎると、しらすの群れは花道を閉じ、ふたたび泳ぎ出す。
 人影は静かにざわめく。その声は、硝子に隔てられ届くはずのない水音のようでもあった。聞き取れない言葉。文字になる前の空気を震わせるだけの音。
 しばらくして、今度は朱を帯びた魚が現れた。やはりドームを越え、遠のいていった。鯛だった。その後もアジやサワラや、名を知らぬ魚たちがやってきては去っていった。
 気づけば、人影はまばらになっていた。ざわめきも聞こえない。代わりに、しらすの煌めきが聞こえる。
 やがて、しらすの群れが上昇をはじめた。光の帯となってドームを越えていく。その場にいる者はその流れを視線で追った。
 一切の曇りない硝子は、こちらとあちらの境界をあいまいにする。しらすを眺めているのか、しらすに眺められているのかわからなくなり、いつしか共に泳いでいるかの錯覚に陥る。
 ドームを越え、奥へ向かうしらすの群れを、人の群れが追った。人影が次々と硝子を通り抜け、奥へと消えていく。
 なにが起こっているのかわからず、消えていくのをただ眺めていた。人の流れが途切れたところで、深く息を吐いた。ずっと息を止めていたらしい。そして、ひとり残されたことにようやく気づいた。人も魚もいなかった。辺りはしんと静まり、からっぽの水槽は暗く冴え冴えとしている。
 たっぷん。
 水の揺れる音がした。と同時に、視界の隅に動くものがあった。見れば、いくつもの泡が上っていく。泡は、魚や人が去った辺りから浮かんでくる。
 すぐさま駆け寄った。壁面の一部に、人の背丈ほどの半円の横穴が開いている。その先には、硝子の隧道が緩いカーブを描いて伸びていた。
 しかしそれは見ている間にも狭まっていき、既に首を曲げなければ通れない高さになっている。道が閉じようとしている。慌てて足を踏み入れた。
 歩を早めるも、上も横も狭まってきて、ほとんど四つ這いになるほどに腰を折って進む。歩きにくいことこの上ない。
 すると、いきなり足を踏み外した。身の内を氷で突かれたかのような冷たい痛みが走る。よろめいたが、どうにか転ばずに態勢を保った。胸の奥に刺さった氷がゆっくりと溶けていく。小さな段差があったようだ。足元が柔らかい。うつむいたままの視線の先に草が生えている。
 顔を上げると、そこは屋外だった。まろやかな風が吹く。腰を伸ばして、辺りを見渡した。空には魚が泳ぎ、草地には書架らしき棚が並んでいる。
 ぱらり。
 風に運ばれた小さな欠片が棚に収まった。次々と。次々と。光を散らして。
 あれは、葉だろうか。花びらだろうか。
 草を踏み、棚に近づく。本の大きさよりも細かく仕切られていた。書架ではないようだ。小指の爪にも満たない小さな欠片がひとつひとつ収まっている。
 ぱらり。
 目の前の棚に光の欠片が収まる。葉でも花びらでもなかった。鱗だ。
 視線の先を影が横切った。見上げると、頭上を鯛の群れが泳いでいた。日差しと風によって乾いた鱗が剥がれ落ちる。剥がれ落ちては棚に収まっていく。
 絶え間なく、桜吹雪のように赤く煌めく鱗が降る。そっと指先に取ると、文字が裏返しに浮き上がっていた。横から手が伸びてきて、指先に乗せた鱗が摘まみ取られた。あっと短く叫んで振り向けば、片手ほどの木箱を持つ人影があった。その人に目鼻はなく、全身は風景が透けるほどに薄い影をしている。
 空を泳ぐ魚から鱗が降る。影はみな木箱を持ち、棚に手を伸ばしては鱗を集めている。
 まるで活版だ。棚に近づきよく見れば、鱗は刻印になっていた。魚たちは活版活字を身にまとっているのだ。泳いで集めた物語を鱗に刻みつけてきたのだ。
 隣の活字棚にはサヨリ。そのまた隣にはアジやサワラ。鱗が降り、人影が黙々と刻印を文選箱に詰めて植字する。
 文選箱で刻印が連なると、ざわめきが聞こえてきた。鱗のままでは言葉にならなかったざわめき。聞き取れなかった言葉。それらが今ようやく並べ替えられて意味を成す。囁き声が物語る。
 ぱらぱらと砂が降る。額に手をかざして見上げれば、しらすの群れが旋回しているところだった。
 ぱらぱらぱらぱら。
 砂粒を拾う人影の文選箱を覗き見る。砂粒は、ルビだった。
 色彩を欠いたしらすの姿は日の光に透け、空に溶け込んでいる。やけに目立っていた砂粒の目さえもどこにあるかわからない。いや、その目こそがルビなのだ、と気づく。鱗同様、日差しと風に乾かされては落ちてくる。
 ぱらぱらぱらぱら。
 活字棚に手を伸ばす。空の文選箱が見当たらないため、手のひらに刻印を並べてみる。小さな物語が紡がれていった。
 ぱらぱらぱらぱら。
 頬が濡れる。砂粒でもしらすの目でもないものが降り注ぐ。
 雨だ。細い雨が、無数の釣り糸のように垂れている。
 日差しは薄れ、影は透けていく。人の形を保てなくなった影の手から、次々と文選箱が落ち、草地に刻印が散らばった。
 雨は降る。
 草は濡れ、色濃く染まって物憂い匂いを立ちのぼらせる。細い雨は物語る囁き声を絡めとる。
 雨は降る。
 辺りは濡れ、潮の香りが漂う。そして、やがて海となる。空も草地も水の中。
 すいっと手の上を魚がかすめ、刻印を持ち去った。日差しと風で乾き落ちた鱗や目が、水を含んで元の姿に還っていく。
 たっぷん。
 水の揺れる音がした。
 アジが、サワラが、サヨリが、しらすが、雨空を大きく回遊していた。雨が渦を巻き、半球の空間を作り出す。空と地上が硝子のドームで隔てられていく。
 意識が薄れゆく中で、日差しが戻ってくるのを感じた。

 いつしか狭く薄暗い廊下を歩いていた。やがてたどり着いたのは広い空間だった。壁から天井に至るまで硝子のドームになっている。硝子の向こうでは光の粒が泳ぐ。館内よりも水槽の方がはるかに明るい。逆光のせいで、硝子越しに水中を眺める人々が影となる。
 光の群れが旋回し、ひと際大きな煌めきがおこった。人々の口から感嘆のため息が漏れる。ため息の数だけ泡が浮かぶ。
 たっぷん。
 硝子の向こうで、水の揺れる音がした。

(了)

霜月透子さんの前作「豆鬼」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory93.html

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作品について

著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
the world is wide(ザ・ワールド・イズ・ワイド):「「名たんてい 赤塚れい子のじけん薄」を読んで」で第3回優秀賞を受賞。
霜月 透子(しもつき・とおこ):「ぬか床ラヴァー」で第3回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。
山岐 信(やまき・まこと):「孕む壁」で第3回優秀賞を受賞。

作品概要

あなたはどの作品がお好きですか?
第1回、第2回、第3回ショートショート大賞で優秀賞を受賞した9名の方の競作連載。
共通のお題だからこそ浮かび上がる、作家ごとに異なるオチ、着想、作風etc。
きっと好みの作品に出会えます。

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