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世にも小さな ものがたり工場

ショートショート大賞優秀賞受賞者

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「あこがれ」(長野良映)

2017.11.30 更新

 男はいつも、虚無感とともに目覚める。それ以外のものは特にない。昔夢見た静かな朝にしたって、手に入れてしまえばそこまで感慨があるわけでもなかった。
 上半身を起こしてベッドの縁に腰かけると、男はチェストに置いた妻の写真と向き合った。その隣には青い小瓶がある。
 三十年寄り添った妻が亡くなってから、それなりの時間が経った。
 男は食事を済ませたあと洗面所で顔を洗い、ひげを剃った。決まった開店時刻はない。気分が乗れば早い時間から鍵を開けておくが、だいたいはだらだらするせいで遅めになる。
 もともと集客を期待していない店だからいっこうに構わないし、暇な余生を過ごすために開いたバーなのだ。
 カウンターに立つ前に、店の隅にあるレコードに針を落とした。クラシックを流すのを好んでいる。今日選んだのは、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」。運命がドアを叩く、と作曲家自身が語ったとされるリズムに身を委ねていると、不意に店のドアが開いた。
 現れた客を見ると、自分と同年代だろうと男は推測した。羽織っているコートだけでなく、顔もくたびれている。
「いらっしゃいませ」
 しずかにそう言うと、客は軽く会釈してから座った。
「ようこそいらっしゃいました。何にいたしましょう」
「よくあるやつじゃつまらないので、珍しいものをお願いします」
 それを聞いた男は、冷蔵庫から瓶を一つ取り出してカウンターに置いた。
「ビールというものです。今となっては詳しい製造方法など不明ですが、麦という穀物から醸造されたんだそうです。昔は、最初の一杯をこれと決めている人が多かったそうで」
「ふむ、初めて聞く名です。それをもらいましょう」
 栓を抜いた瓶を傾けると、グラスは黄金色の液体と白い泡で満たされた。ビールをおそるおそる口に含んだ客は、
「苦いけど不思議に爽やかな感じもある。最近では体験できない味ですね」
 と唸った。
「我々が口にするのは心地よい味覚のものばかりですからね。苦味自体、珍しいでしょう。ビールがよく飲まれたときは、この味を楽しめるか否かで大人かどうか判別されたそうですよ」
「昔の人の考えることはわからないな。まあこれからを生きる世代にとっても、私たちの考え方なんか理解できないのでしょうが」
 客は続く言葉をそのまま飲み込んだ。この先の世代がいるとすればの話だけど、と言いかけたのはさすがに店主の男にもわかった。
 人生のあらゆる場面において、人間の思考は不要の時代になった。毎朝何をせずとも身体全体がスキャンされ、必要な栄養素を過不足なく盛り込んだ食事が提供される。運動が足りていないと判定されると、格納されていた運動器具が出現し、決められたノルマをこなすためだけに身体を動かす。人生は簡素化されたのだ。
 当初は、それを味気ないと反対する意見の方が多かったようだが、一度楽をするとみな溺れていった。技術の進歩は急激に進んだ。押し止めようとする意思は簡単に流されていった。
 隠れ家のようにバーを経営する必要は男にはなかった。昔流行した酒を手に入れようとしても、酒の種類ごとに入手方法が異なってくるし、一度にたくさんは確保できない。非常に骨の折れる作業なのだ。黙って機械の指示に従えば百を優に超える年月を生きられるのに、こんなことを続けても寿命を縮めるだけだと思う。
 もちろん注文すれば今だって酒が配送されてくるが、健康を損なわない程度の代物で、ビールと比べれば水も同然だ。
 食の自動化が広まる過渡期を生きた祖父に、男はかわいがられた。幼い頃、祖父が隠れて本物の酒を飲ませてくれた。そのとき酔いに酔って、いまだにその感覚の虜になっているのだと思っている。
 しばらく黙りこんでいた客が口を開いた。
「今日は本当に良い日だ。本物の酒を味わえたのだから。あれも味わえれば思い残すことはないのですが」
「あれですか」
「……それで、わかるものなんですね。そうです。探しに探し、やっと得た筋からここのことを知りました」
 男はさして驚かなかった。存在自体を大っぴらにしていないこのバーの情報と同時にそのことを教えられたのだろう。客の願いは当然と言える。
「わかりますが……あれはもうお出ししてないんです」
「そんなことを言って。騙されませんよ、どこかに隠してるんでしょう」
「隠しているわけではございません。ただ危険すぎるんです」
「どういうことです」
「あまりに清涼すぎて、精神がやられてしまいかねないんですよ、地球の空気は」
 急激な技術の進歩は急激な人口増加もまたもたらした。作っても作っても食糧の生産は追い付かず、人類の多くはやむなく宇宙へ出ることを選んだ。かつて希望とともに地球を飛び出した時代もあったのに、皮肉なことだ。
 それが祖父の時代だ。
 資源は乏しいが暮らしていけそうな星を見つけ、生活基盤を整えて定住し、人間は細々と暮らしていた。大きさは地球の半分ほどしかなく、国家という単位はない。住宅の密集するまとまりがあちこちに存在しているだけだ。暮らしていくのに必要な装置を制御する機構だけが働き続けている。
 昼夜のバランスも地球に似通っており、作物も一応育つので不毛というほどではなかったが、大気の成分に地球にはないものが含まれていた。そのため、人体にとってこの星の空気はわずかに毒で、世代を経るごとに肺が少しずつ大きくなってきた。そうすると逆に地球の空気はその肺には受け付けられない。結局人類は地球の環境に適さない生き物となってしまったのだ。
「どうしても欲しい。話の中でしか知らない地球の空気。行ったこともないのに、地球と聞いただけでなぜだか体の奥が疼くんです」
 客は頭をカウンターにこすりつける勢いで懇願した。
「そこまで言うなら……わかりました」
 壁の隠し扉から、厳重に密閉された小柄な瓶を取りだし、客に渡した。
「お代はけっこうです。ただし、これはご自宅で飲んでください」と男は付け加えた。「何が起きても責任は持ちません」
 そう言う声が届いていないように、客の目はぎらぎらと輝いた。もどかしそうに瓶をカバンに押し込むと、足早に店から立ち去った。
 静寂が戻ると、男は呟いた。
「……ですけどね、お客さん、それはトウキョウという場所の空気です」
 汚染が進んでいた都市の空気なら、人の命を奪うには至らないだろう。だが森林の新鮮な空気を飲めば、暗闇が光によって散らされるように、この環境に慣れきった人体の組織は破滅してしまう。
 店を閉めた。シャワーを浴び、ベッドに横になる。客が残していったビールを気まぐれに飲み干した男は酔っていた。記憶の奥底に押し込めている場面が、壁の裂け目から水が染み出るように思い出される。
 あのとき男の腕を振りほどいた妻の目は虚ろだった。
「もう決めたんだから、止めないで。目の前に素晴らしいものがあるってわかっているのに、それを見過ごせと言うの。このまま何も考えずに生きていくのでいいの?」
 呆然とした男は、妻のすることを見ているだけだった。妻は倒れた。新鮮な空気を詰めた瓶がそれで残り一本になった。
 それ以来、男は何かへの罪滅ぼしとして、手の届く場所に瓶を置いている。
 ただ何が妻をあの行動に走らせたのかいまだにわからない。無理に止めることだってできたはずだ。何もできなかった。普段感情を押し殺して過ごしているだけに、いったん思い始めると止まらなくなる。ひととおり苦しんだ後には虚無感が訪れる。
 思わず瓶を手に取りそうになるが、最後の理性で押しとどめる。弱虫だと常に自分を責めるが、死に向かうのが果たして勇気ある行動なのだろうか。だがその勇気も起こさなければいつまでも一人なのだ。
 こんな夜は何度目だろう。男は息を整えてから絞り出すように、
「おやすみ」
 と、妻の写真といつ空になるかわからない瓶、そして窓からかすかに捉えられる真っ赤な地球に挨拶をして、深い眠りについた。

(了)

長野良映さんの前作「酔いすぎた男」はこちら
http://kinonoki.com/book/monogatari-factory/factory03.html

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著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

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