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世にも小さな ものがたり工場

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「この世でもっとも甘い酒」(行方行)

2017.11.15 更新

 そのバーはマンションの一階にあった。
 エントランスを抜けて廊下を進み、一〇三号室の前で足を止める。ドアは無骨な鋼鉄製で表札にはなにも書かれていない。本当にここでいいのだろうか。間違えているか、そもそも担がれている可能性があるので不用意に呼び鈴を押せない。
 わずかに開いた小窓から、室内が覗けた。
 かなり暗いが間接照明のおかげで、どっしりとしたカウンターや鉄製の足置きや酒瓶が並んだ棚や、『lilac(ライラック)』と紫色で書かれた看板がよく見える。ここが勧められた店で合っているようだ。
 しかしカウンターにバーテンダーがいない。
 探すように身を乗り出したらドアがいきなり開いた。よれよれのジャケットを羽織った無精髭の男が転がり出て、胸板厚く上背もある白衣の男がドアの前に立ちはだかる。
 無精髭の男が白衣にしがみつき、酒臭い息を吐いた。
「頼む、飲ませてくれ一口だけでも。あの甘い甘い甘い酒を」
「売り物ではないものをお出しすることはできません」
「以前は舐めさせてくれたじゃないか」
「酔い覚ましのつもりだったのですが、いまは悔やんでいます。とにかく本日はお帰りください。──お客様もいらっしゃってますし」
 どうやら白衣の男がバーテンダーらしい。
 促され、無精髭の男を廊下に残して室内に入る。
 膝が悪く低い椅子がよかったが、カウンターしかないのでその端に座った。乾き物が溢れ、床でグラスが割れている。さっきの男の仕業だろう。バーテンダーはさっとそれらを片付けると私の前に立った。
「この店をご存知ということは、どなたかのご紹介ですね」
 職業安定所で知り合った男の名前を出すと、ご贔屓にしていただいています、とバーテンダーは頬を緩めた。
 ──すごく甘い酒を出すバーがあるんだ。
 立ち飲み屋でそう聞いたとき、私はまずミルクの入ったカクテルを想像した。
 ──そうじゃない。
 では貴腐ワインだろうか。
 ──それも外れ。もっととろけるような甘ささ。
 ごくりと喉が鳴った。なにより旨いのは想像上の酒ではないだろうか。私は我慢ができなくなって、失業保険をもらった当日にその『ライラック』というバーに向かった。
「甘い、とろけるようなすごい酒があると聞いてきたのですが」
 私がいうと、バーテンダーは困ったように頭を掻いた。
「あれは裏の裏メニューなんですよ」
「では表だ。せっかくここまできたのだからそこをなんとか」
 しばらく粘ると、
「秘密ですからね」
 とバーテンダーはカウンター横の倉庫から、いくつもの小瓶を持ってきた。
 なかの液体は黄色く、ひとつをグラスに注いでもらうとアンモニア臭がきつい。色と香りから尿を想像せざるをえず、これを飲むのか、と目で訴えるとマスターは無言で頷いた。
 飲むしかないらしい。
 目をつぶって、えい、と口に含んだ。
 唇が暖かくなる。酒というよりなめらかな指先の感触のようで、頬を辿って耳をつままれ首筋に移っていく。瞼の裏に浮かぶのはちろりと舌を覗かせたなまめかしい女性だ。胸はふくよかで腰回りはすっとしていてそのくせ力強く、若くて熱っぽい。辛抱できずに抱きしめると、高まった鼓動がほどよく重なり一つの個体になって目まぐるしく翻弄されたい衝動に駆られた。
 すぐに酔いが覚め、女性がかすみのように薄れていく。
 目を開けても抱擁の感触は消えない。火種のように衝動がくすぶって胸を焦がした。なんて強い酒だ。私は惚けるように呟いた。
「一瞬でしたが目まぐるしい甘さで、夢、のような」
「ある若手俳優の思い出から抽出したものです。ではこちらも」
 二杯目が置かれた。
 今度は苦もなく空にする。
 私は中学生で、下駄箱の前で佇んでいた。校舎裏で待っている、とだけ書かれたラブレターが入っていたのだ。差出人はだれだろうか。制服に埃がついていたら払ってくれて、実習で作ったクッキーをこっそり渡してきてくれて、雨の日だけ一緒に帰ってくれて、話すときに必要以上に顔を近づけてくる隣の席の女子かもしれない。校舎の陰から覗くと、やはりその子だった。緊張しているらしく、怒っているかのように唇を尖らせて手をぎゅっと握り、瞳を潤ませて震えている。私は早歩きになった。彼女が気付いてぎこちなく、微笑む──。
 情感のおかげか、口当たりが爽やかで甘酸っぱさがほどよく残った。
「こんな思いをしてみたかったなあ」
「あんがい、お忘れになられているだけかもしれませんよ」
 マスターは三杯目を注いでくれた。
 飲む。
 私は女性になっていて、花嫁衣装を着ていた。由緒正しい神社での神前式で、多くの友人知人が笑顔で祝福してくれている。いや、ひとりだけ仏頂面の男性がいた。起業し成功したと聞いていたとおり身だしなみは立派になっていたが、見間違わない。昔の恋人だ。挨拶をすると彼は俯いたまま、おめでとう、といった。
 ──ありがとう。
 彼は私を盗み見て、
 ──すごく綺麗だ。おれはどうしてあのとき……。
 と、心底から後悔しているように表情を歪ませた。
 涙も落ちていたかもしれない。
 そのしょんぼりとした姿がたまらなくて、私はうっとりと吐息を漏らした。
「こういう甘さもあるんですね」
「人生の味付けは絶妙ですから」
 次を待った。
 しかし、マスターは前後左右に揺れて四杯目を出してくれない。違う。私が酔って上体をふらふらさせていただけだ。飲みやすさに比べてアルコール度数は高いのかもしれない。
 尿意も催してトイレの場所を聞くと、
「あの酒を飲まれた方は、こちらです」
 と、倉庫を示された。
 入ってみる。狭い個室に無数の小瓶が並び、目立つところに大きな空のビーカーが置かれていた。
 これにしろ、というのか。
 我慢の限界だったので用を足すと、どぼどぼと驚くほどの量が出て、なぜかどす黒い。
 酒のせいで身体を悪くしたのだろうか。
 カウンターに戻ると、すぐにバーテンダーが倉庫から尿の入ったビーカーを抱えてきた。色を確かめ臭いを嗅いでから一升瓶に入れる。私は、つい顔をしかめた。
「まさか、それを別の客に飲ませるんですか」
「ええ。ですがこのままではお客様の喜怒哀楽が濃厚に混ざり合っていて、甘い思い出を味わうことができません。ですので上澄みだけをすくい取ります」
 しばらく置いておくと、私の尿は分離していった。
 うえが黄色く、下方に黒々とした液体が澱のように沈んでいる。
 それが甘くない記憶というなら、幼少期の事故で膝が曲がりにくいことも、結婚して建てた家が地震で倒壊したことも、子供ができないことも、会社が潰れたことも、離婚されたことも、新しい仕事が見つからないことも、その底に溜まっているのだろう。
 バーテンダーは澄んだ部分を小瓶に移すと、私の前に差し出した。
「いかがですか、あなたの甘い思い出は?」
 結婚式だろうか。高校二年生の夏休みに浜辺で恋人と手を繋いだときかもしれない。株で儲かっていたころもありえるし、会社で仕事を任されていたときだって頼られている実感で幸せだった。ひとくち含めば、どれかが思い出される。
 私は首を左右に振った。
「どれも、そのあとの顛末を知っていますから」
 バーテンダーは、小瓶を持って倉庫に入っていった。
 見計らったように、無精髭の男がそっとドアを開けて忍び込んでくる。ためらいなくカウンターのなかに立って、黒ずんだ液体が残るビーカーに舌なめずりした。
「こりゃ飲みごろだ」
「きっと、かなり苦いですよ」
 忠告すると、男はビーカーを口に持っていって歯をむき出しに、笑った。
「甘いさ。ひとの不幸は蜜の味だからな」

(了)

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著者プロフィール

ショートショート大賞優秀賞受賞者

ショートショート大賞 優秀賞受賞者
恵誕(けいたん):「超舌食堂」で第2回優秀賞を受賞。
高山 幸大(たかやま・こうだい):「雨女」で第1回優秀賞を受賞。
滝沢 朱音(たきざわ・あかね):「今すぐ寄付して。」で第2回優秀賞を受賞。
長野 良映(ながの・りょうえい):「ヤンタマ」で第2回優秀賞を受賞。
梨子田 歩未(なしだ・ふみ):「靴に連れられて」で第1回優秀賞を受賞。
行方 行(なめかた・ぎょう):「紙魚(しみ)の沼」で第1回優秀賞を受賞。

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