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東 直子(ひがし・なおこ)

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第9回

2018.07.11 更新

 須藤は、いやでもまあ、といいながら、片手で髪をかきあげた。
「助かったよ、オレは、ポートーからさそわれなくなってさ」
 助かった……、と青は、低く、小さな声で須藤の言葉を繰り返した。
「あ、なんか言い方悪かったかな。でもさ、ああいうの中毒だからさ、とにかく、強引にでもやめる機会がないと、やめられないからさ。考えてみれば、あんな、非生産的な時間はないよな。まあ、オレは、けっこう小遣い稼ぎ、させてもらってたけどな。はは」
 須藤は明るく笑ってみせたが、目の前の女、つまり青が、真顔のまま目を伏せていたので、すぐに笑いは尻すぼみになった。目をそらされていることで、あらためてその顔を遠慮なく、じっと見た。こぶりな顔の中に清潔なパーツがバランスよく配置された顔立ちで、なんだ、けっこういい女になったじゃないか、と思った。そう思ったとたんにきりっとした表情で見返されたので、一瞬、心を読まれたような気がして、え、と思わず声が漏れてしまった。
「なんにも、ほんとうに言ってなかったですか? ポートー、いなくなる前に」
「あ、うん……、ほんとに、突然だったんだよ。オレらもすげえ、驚いて」
「他の人も、誰も、なにも聞いてなかったんですか?」
「まあ、来てたやつら全員に訊いたわけじゃないけどさ、誰も、分かんなかったんだよ」
「そうなんだ。誰も、なんにも……」
「あ、でも」
「でも?」
「明日はこないで、とは言ってた。いなくなる前の日に」
「へえ」
「でもさ、そういうの、ときどきあったからさ。何日かくるなって言ってくることもあったし。一応あいつ、司法試験? それ、受けてたんだろ?」
「はい。みたいですね」
「オレらも、まあ、一日とかせいぜい二日とかの話だと思ってたわけよ。そしたらあれ、何日たってもなんか連絡ないし、そういえば、君からの手紙も、届かなくなることに気付いて。ああ、あいつ本気でいなくなったんだって」
「私のところには、もう手紙は読めないかも知れない、みたいなのが来てたから、手紙を送るのはやめたんです。まさか、失踪したなんて思ってもいなかった。まじめに勉強することにしたのかな、ぐらいに」
「ほんとかあ?」
「え?」
「あいつが、急に、まじめに、勉強するってか?」
 須藤がまた片手で髪をかきあげた。青は、ああ、この人はちょっと負けてくるとこんなふうな仕草をしたな、と細かい記憶が蘇ってきた。あの頃はこの人、もう少し瘦せてたけど、と思いながら目を閉じて、四人の男たちがこたつ机を囲み、牌をてのひらでジャラジャラかきまぜている様子を頭の中で再現していた。再現しながら、あの音、嫌いじゃなかったな、と思った。

 小学校の同級生から突然電話がかかってきて、麻雀できる? といきなり訊かれたとき、須藤はめんくらった。十年くらい会ってない、なんとか名前が分かるくらいの仲なのに、急に麻雀にさそわれるなんて妙だな、と思った。当時大学生で、時間がたっぷりあったとはいえ、これはいつのまにか変な壺とか買わされるパターンなんだろうな、といぶかしく思ったのだった。
 それでも当時覚えたての麻雀は、いつどこで誰と打ってもおもしろく感じられて好きだったし、さそわれたらよほどのことがない限り断ることなく参加した。雀荘では、初めて会う人と打つこともあったので、昔の同級生にさそわれて知らない誰かの家で打つ、ということにも抵抗はなかったのだった。
 立派な家の、道楽息子。まあ、ありがちだよなあ、というくらいにしか、ポートーのこと考えてなかったな、と須藤は改めて思う。最初にさそってきた同級生がそのうちに来なくなっても、須藤は参加し続けた。毎日のように顔を出したので、廊下などですれ違う青とも、だんだん話をするようになった。
「オレ、あんとき、大学留年しちゃったんだよなあ」
 須藤がぼそりと口にすると、それ、ポートーのせいだって、言いたいの? と青が低い声で訊いた。
「まあ、そういうわけでもないけど、そういうことは、言ったよな、ポートーに」
「え?」
「そしたら、オレもだよー、学校やめたーとか、アルバイト首になったーとか、彼女にふられたーとか、就職できなかったーとか、いろいろ人生の失敗を言い立てながら打ってたな。まあみんな、笑いながらだけどな」
「そんとき、ポートーも一緒に笑ってた?」
「んー、あいつはまあ、いつもあんまり表情変えないヤツだからさ、へらへらしてるだけだったけど。でもなんか、ぼそぼそ、言ってたな。お、おれだって、司法試験、受かんないし、とかは……」
「へえ……」
「あたりまえじゃん、麻雀ばっかやって、勉強してねえんだからって、みんなで言って、そしたら、そりゃそーだ、って感じでちょっと舌出してたけどな。でもあれだな、そういう話をしてから、しばらくしてからだな、あいつがいなくなったのって」
「そっか。じゃあなんか、自分の人生いい加減やばいな、とか考え始めてたのかな」
「そうだな、まあ、さすがにな。三十過ぎたしな」
「とにかく、ありがとうございました、今まで、手紙、届けてくれて」
 須藤は、青が敬との手紙の受け渡しを頼んだ相手なのだった。敬を捜すためにできることを考えはじめた青の脳裏に最初に浮かんだのが、この須藤だった。青は、かつて住んでいたこの街に戻ってくるとすぐ、須藤に連絡した。同じ街の中に住んでいる須藤と、商店街の中に昔からある薄暗い照明の喫茶店で待ち合わせた。昔から存在は知っていたが、青がその店に入るのは、初めてだった。
「なんか、そんなふうに改まって言われると、二度と手紙が届かないっていうか、なんか……」
 青は、はっとした。
「そうだよ、死んだわけじゃないもんね。私も、家に戻ってきたし」
「え、まじ!? 戻ってきたの? だって、あれだろ、君の親父、母親とは、離婚して、新しい……」
「そう。でも、いろいろあって、私だけ、戻ってくることにした」
「へえ……」
「薫、わかるよね」
「かおる?」
「ちっちゃい子、いたでしょ」
「おお、いた。よちよちしてるときから部屋にきてたよ。あれ、かおるって名前だったのか」
「そう、薫大将の薫」
「へえ、てっきり『緑』かと思ってた」
「緑? なんで?」
「だって、おたく、『青』だろ?」
「だからって」
「レコードかけてたしさ」
「レコード?」
「♪おおーまきばーはーみーどーりー」
「うわ」
 須藤が突然歌い出したので、青は思わず身をのけぞらせた。
「あれ、ポートーがエンドレスでかけるもんだからさ、もう、頭にしみついちゃったよ」
「そんなことしてたのか、ポートー」
「あの子がきたら、サービスだ、とか言って、かけてたんだよ。まあ、別にマメに面倒みるって感じでもなかったけどさ、ポートーによっかかって寝てたりなんかしてて、なついてんだなあ、とは思ったよ。あんなに歳、離れてんのに」
 ふーん、と何気なく相槌を打ちながら、胸の奥が少しひんやりするのを青は感じた。ポートーに寄りそうのは、それまでは自分の役だったのに。もしもずっと、自分と佳乃があの家にいても、ポートーは家を出たのだろうか、ということにも考えが及ぶ。年が離れすぎてなにもわからない薫ではなく、子ども時代を一緒に過ごしてきた自分や佳乃が、ちゃんとずっと、すぐそばにいることができていたら、どうだったのだろう。家を出たいという気持ちはあったにしても、どちらかにそれとなく話くらいはしたんじゃないだろうか。少なくともそんな気配を、自分たちなら感じ取ってあげることができたんじゃないだろうか。そんな「もしも」をひとしきり考えたところで、青は深いため息をついた。
(そんなこと、いくら考えたって、仕方ないか)
 青は、心の中でつぶやいた。まあ、どこでどう軌道修正すればよかったのかなんて、もはやあの家については考えるだけ無駄だ。青は、胸の奥がむずむずした。薫の、やせこけた顔のその目の、強い光が、胸の奥で光った。
「あの、あのさ、その薫に、会ってあげてくれる?」
「え? 会う? オレと?」
「そう」
「いつ?」
「今」

「私に話していないことは、もう、ございませんでしょうか?」
 春枝は、極力おだやかに響くように、細心の注意を払い、真一に話しかけた。食卓で湯吞みを右手に持って新聞を読んでいた真一は、思わず春枝の顔を見た。ふっくらしたくちびるの両端がかすかに上がっていて、微笑みをたたえている。しかしその目はやや潤み、まぶたは開ききっていない。本心からの微笑みでないことは、明白だった。
「な、なんだよ、なんのことだよ」
「その、この家のご家族のことで。今この家にはいない人であったり……」
「そこか。いや、ない、ないよ、もう、なにもない。前に話した通り。以上」
 水を含んだ綿を指先で軽く押したときににじみ出る水のようななにかが、春枝の胸を支配し始める。
「以上って……。もちろん、信じていますけど、もうすぐ新しい家族が、増えますから」
 そう言って春枝がにっこり笑う。目尻がやわらかく下がる。和む笑顔だな、と真一は思う。おれの最後の女だ。これが終着点というものだ、と思いながら、大事にしてやらないとな、と自然に口をついて出た。
「名前も、そろそろ考えておかないと」
「はい、でも、それは、お義母様にお任せになっても、よろしいんじゃないですか?」
「え、なにか言われてるのか」
「いえ……、でも、名前は大事ですから、相談してくださいね、と、何度も」
「そりゃあ、相談くらいするさ」
「でも、青さんのときも、薫さんのときも相談してもらえなかったって」
「気に入らないんだな。青は、おやじのつけた名前だったんだがな。薫は前の、奥さんと決めたんだが、薫大将は男だとか、いろいろ後で言われたなあ。まあ、後でねちねち言われるくらいなら、最初からお願いしといた方が楽かもな」
「そんな気がしています」
「ま、さすがに最後だろうからな、好きなようにさせてあげるか」
 湯吞みに残っていたお茶を一気に啜って、真一は立ち上がった。
「あの」
「ん?」
「敬さんは……」
 真一はさっと春枝の背後にまわりこみ、その先の言葉を遮るように後ろから手を回して抱きしめた。
「ああ、なんとかする、なんとかするよ……」

 部屋の窓から西日が差し込んでいた。壁にもたれかかってしゃがんでいた薫は窓のほうを向き、顔をかすかにしかめた。子どもがなにやら叫んでいる声が聞こえたのだ。少し開いた窓から入ってきたかすかな風が、白いレースのカーテンを揺らしている。薫はゆっくりと立ち上がり、カーテンを開き、窓を全開にした。小学生が三人、もつれあいながら遠ざかっていくのが見えた。
 退院して二ヶ月が経つが、薫はいまだに言葉を口にすることができない。自室にこもり、学校は休んだままである。ただ、クラスメートが毎日届けてくれるプリント類を律義にこなし、翌日新しいプリントを持ってきてくれたクラスメートにそれを渡す、ということを繰り返している。プリントの受け渡しは、薫本人ではなく、春枝がかわりに行っていた。薫がクラスメートに会うことを拒否したのではなく、佐和子がそうさせたのだ。瘦せ細り、言葉も発することができない状態の薫を、外の者にさらけだすことを、極力避けようとしたのだった。
 薫は、プリントを受け取るくらいできるとは思っていたが、佐和子に逆らってまでなにかをしようとするほどのものはなかった。クラスメートが来ていることには、気付いているので、二階の窓からその出入りをそっと眺め、春枝と交わされる短い会話に耳をすませた。
 いつ学校に戻れるのか、勉強が遅れてしまうのではないか、という不安や焦燥感は、薫には不思議と起きなかった。ただ目の前に与えられた課題をこなす。言葉を口に出すことは、あきらめたというより、最初からそんなことはできなかったのだ、と身体ごと思い込んでしまったようだった。
 考えない。感じない。自動的に動く機械のように、生理的に必要なことと業務をこなす。自分を抑えることで生きてきた薫が、生き延びるために無意識のうちに選び取った処世術だったのかもしれない。
 しかし、遠ざかるクラスメートを見届けたあと、視線の隅に、青ともう一人の人物が入ってきたのを感知すると、あ、と小さな声が漏れた。

「覚えてる?」
 青がうながすと、大きな目を見開いていた薫が、ぱちりと一度目を閉じてから、深く頷いた。
「よかった、覚えていてもらえて」
 そう言いながら須藤は、髪をかきあげた。薫は、なにか言いたくてたまらないような切なげな視線を青に送った。三人は、元ポートーの部屋、現在は青の部屋に集まっていた。
「うん、もう訊いたよ、ポートーがどこへ行ったか知らないかって。でも、なんにも、わからないんだって」
 薫は、唇を少し嚙んで、それはわかっていたよ、とでも言うように、細かく頷いた。
「別に、その、誰と一番仲よかったとか、ないからさ、ポートー。ぜんぜん有力情報伝えられなくて、ごめんな」
 須藤が申し訳なさそうにそう言うと、薫は、須藤に目線を向けたまま、首をかすかに振った。ふと、思いついたように部屋を出て、なにかを手に持ってすぐに戻ってきた。それを床の上に置くと、蓋を開いた。そこには麻雀牌がきれいに顔を揃えていた。
「ポートーの、だね」
 青に訊かれて、薫はしっかりと頷いた。
「返してもらったんだ、佐和子さんに」
 またしっかりと頷く。薫は、旅に連れていった後で戻したハクとイーソーの牌が、牌たちの真ん中に鎮座しているのを確かめ、そっと人さし指の先でそれに軽く触れてから、ざざざっとそれをひっくり返した。床にこぼれた牌を両手で少し掬って、須藤の前に差しだした。それから口を大きく開いたり、閉じたりした。同じ口の動きを薫が何度もするうちに、それが(お・し・え・て)と告げているということに、須藤も青も気付いた。
「教えてって、これを?」
 青が尋ねると、須藤が続けた。
「麻雀を、教えろってことか」
 薫は、唇をぎゅっと結んで、少し恥ずかしそうな表情を浮かべてこくりと頷いた。
「あ、わかった」
 青の目が光った。
「いつか、ポートーが帰ってきたときに、一緒に遊べるように、だね?」
 薫が白い歯を少し見せて、微笑んだ。

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作品について

著者プロフィール

東 直子(ひがし・なおこ)

1963年、広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。歌集に『青卵』『東直子集』『十階』。
2006年、『長崎くんの指(文庫改題『水銀灯が消えるまで』)』で小説家デビュー。小説、エッセイ集に『とりつくしま』『さようなら窓』『ゆずゆずり』『千年ごはん』『鼓動のうた』『キオスクのキリオ』『いつか来た町』『いとの森の家』、共著に『回転ドアは、順番に』『愛を想う』『短歌があるじゃないか。』など、著書多数。
最近では自著や歌誌「かばん」に描くイラストも好評。この連載ページ上部のイラストも著者自身による。

作品概要

三人の孫を持つ佐和子。
しかしそれは、決して幸せの象徴ではなく、複雑な事情を抱えたものだった。
息子の相手を決して受け入れず、生まれた子どもたちにも愛情を持たず……。
母親が違う三人のきょうだい、敬、青、薫をめぐる物語。

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