キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

東 直子(ひがし・なおこ)

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第8回

2017.05.26 更新

 青は、一滴一滴落ちていく点滴のしずくを見つめていた。点滴の管は、ベッドに眠っている薫の腕につながっている。青はため息を一つつくと、薫の青白い腕の皮膚にそっとふれた。
「こんなに痩せちゃって」
 青を呼び出したのは、佐和子だった。青の勤め先の学校に電話をかけてきたのだった。佐和子は、「薫が倒れたのよ」と淡々と告げた。
「なにしろ、なにも食べないもんだから」
「食べないって、どういうことですか?」
 青は、受話器を持つ手がふるえるのを感じた。
「食べないのよ、いくら言っても、なにも食べないのよ。朝も、夜も一口も食べないで、学校でも、なんにも食べていなかったらしいわ」
「いつから……ですか?」
「そちらの、お山の学校へ行ったでしょう、一人で、勝手に。あのあと帰ってきてからずっと」
「あれから、ずっと……?」
「ずっと、っていうかね、だんだん残すようになって、ついにはなんにも食べなくなったのよ。あなたたちの、お山の学校から帰ってきてから、ずっと様子がおかしいのよ。あのとき、なにかあったのかしら、と思ってね」
 佐和子が、薫の拒食の原因をこちら側に見つけたがっているのだと、青は直感した。それは同時に、そうなった原因が佐和子側にあることを、佐和子自身がわかっているということなのではないか、とも思った。
 みるみる痩せていった薫は、ある日、授業後に「起立」という号令に合わせてクラスメートとともに立ち上がった瞬間、くずおれた。枯れ木がぱたりと倒れるような、あっけない倒れ方だったそうだ。
 学校から救急搬送された病院に、薫はそのまま入院した。いろいろ検査をした結果、極度の栄養失調によるものだと診断され、点滴を受けて続けている。
 薫のまぶたがゆっくりと開くのに、青は気づいた。薫は二、三度まばたきをしたのち、半開きのまま、視線を天井に向けている。薫、と青が小さな声で呼びかけると、頭をゆっくりと傾けた。
「か、お、る」
 青がもう一度、一文字一文字嚙みしめるように呼びかけた。薫の目がゆっくりと見開かれる。そこにいるのが青であることに気がついたのだ。くちびるがかすかに開いたが、声は出なかった。
「だいじょうぶ?」
 薫の目が、ますます大きくなる。細い腕で点滴を受けている薫のてのひらを、青が両手で包んだ。
「なんか、あった? あのあと」
 薫のくちびるがかすかに動いたが、やはり声は出ない。そのかわり、目に涙がみるみる溜まり、つーっとその頰を涙が伝った。
「やっぱ、なんかあったんだね」
 薫がくちびるをぎゅっと嚙みしめるようなしぐさをした。薫は、物を食べないだけでなく、言葉を発することができなくなっていた。そのことを、病院で会った春枝から青は聞いたばかりだった。なぜそうなったのかはわからないんです、とだけ春枝は言った。青は、ふっくらとした春枝の幸福そうな身体と、その眼の中の淋しそうな光を見てとり、胸の奥がきゅっと痛んだ。理由のわからないものに、この人も苦しんでいる。というか、巻き込まれて苦しまされている、と青は思った。
 春枝は、青を薫の眠る病室に案内すると、そっと部屋を出ていった。青は、目を覚ましたばかりの薫と二人きりで白い病室にいる。山の上で母親の焼いたスコーンを一緒に食べたことが、何年も前のことのように感じる。薫は、視線を青に向けたまま、眉間にかすかに皴を寄せ、なにか言おうとくちびるをふわふわと動かしている。しかし、そこからは何の声も出てくる気配がない。
「薫、いいんだよ、無理に話さなくても」
 青は、気持ちをその身体に直接伝えるように、握っている手に力を入れる。薫は、出てこない声のかわりのように、涙を流し続けた。
「言いたいことは、あるんだよね。書くのなら、大丈夫?」
 薫はまばたきをして、無言で頷いた。青も軽く頷き返すと、かばんからノートとボールペンを取り出した。その間に、薫はゆっくりと起き上がった。一瞬ふらりとしたが、頭をふってこめかみをぎゅっと押さえた。
「だいじょうぶ?」
 青が心配そうに声をかけると、薫はくちびるに力を加えてほのかに微笑んだ。青からボールペンを受け取ると、左手に持ったノートに顔をぐっと近づけ、ゆっくりと文字を書いた。

《ポートーの、へやのにもつ、ぜんぶ、なくなってた》

 文字を覚えたばかりの子どもが一生懸命書いたような薫の文字は、少しふるえていた。ポートーの、へやのにもつ、ぜんぶ、なくなってた、と、青が確認するように声に出し、改めて薫の顔を見た。つぶらなその瞳からさらに涙がぽろぽろとこぼれ落ちていった。
「ポートーの荷物が、全部捨てられちゃったってこと?」
 薫は、何か言おうと口を開いた。が、やはり声にはならず、ひゅうひゅうとすきま風のような音がもれるだけだった。薫は、泣きながらすきま風をもらしつつ、大きく頷いた。その息はだんだん激しくなり、やがてしゃくりあげはじめた。きゅうーっと金属音のようなかすかな音を出して、薫が泣いた。なんて悲しい泣き声だろうと思いつつ、青はもらい泣きをしそうになった。青は、金属のような声を出し続ける薫の肩に手を回してやわらかく抱いた。
「ひどいよね、ひどすぎるよね……。ひどいって、思ってもいいんだよ、薫。思いっきりひどいって思っても……」
 薫が、まだ何か書きたいことがある、というように、ボールペンを持った片手を上げた。青が身体を離すと、一度ちらりと青と目を合わせてから、ノートに視線を落とした。

《ポートーは、いきてる?》

 「?」の文字が現れて、青は一瞬はっとした表情をしたが、すぐにまじめな顔になり、そうだよ、とささやいた。
「あたり前だよ、生きてるよ、ポートーは。ポートーのことだからさ、ぷかぷか海に浮かぶ浮き輪みたいにさ、この世のどっかで、生きてるよ。うん、生きてる、ぷかぷか」
 薫は、ゆっくりと青の顔を見た。

《うん》

 薫が書いた大きな文字を、青は人さし指の先でしずかになぞった。
「ポートーが帰ってくる場所、もう一度作ってあげようね」

《うん》

 さらに大きく薫が書いたその文字を、青がてのひらでぱたんとはたいた。
「よっしゃ」
 薫がくすりと笑った。涙がやっと引いたようだった。

 
 深夜に会社から戻った真一がいつものようにダイニングに行くと、佐和子ではなく青が立っていたので、真一は思わず大きな声をあげた。青は眉間にかすかに皴を寄せて、するどい目線を真一に投げかけている。
「他人だと思ったでしょ」
「青……か」
「そうよ。もう、忘れた?」
「いや……その、あれだな、薫の……。悪いな」
「なんで、ああなっちゃったか、わかる?」
「いや、それは、医者も」
「医者じゃないでしょう!?」
 真一の言葉をさえぎって、青が大きな声を出した。真一は、反射的に肩をびくりとふるわせた。
「医者とか、そういう問題じゃないよね!?」
「じゃ、じゃあなんなんだよ。こっちもわけわかんないんだよ。あいつが、おまえのとこに勝手に行って、帰ってきてからこうなったんだぞ」
「知らないの? ポートーの部屋のこと」
「あ?」
「部屋。ポートーの。出ていってからも、ずっとそのままだったあの部屋。片づけちゃったんでしょう」
「……知らない」
 青は、真一の手をぎゅっと握り、引っ張った。

「ちゃんと見てよ」
 青が開けたドアから、真一はおずおずと敬の部屋へと入っていった。敬が使っていたひんやりとした部屋を見回して、ふうっとため息を一つついて、座り込んだ。
「ただの部屋だ」
「こんなんじゃなかった。ずっと、麻雀ばっかりしてたのよ、ここで、人呼んで。でしょ? 私がいた頃から、ずっとそうしてきたんでしょ? なんで、それ、ぜんぶ捨てたの? なんで、全部なかったことにしようとするの? まるで、死んじゃったみたいに……!」
「捨てたのは、俺じゃないよ……。まあ、なんか、あれだ、すっきりしたじゃないか」
「ポートーのこと、追い出してすっきりしたんだ」
「そういう意味じゃないけどさ」
「そういう意味じゃん」
「………」
「あたしと、あたしのお母さんも、追い出して、すっきりしたんだ」
「…………」
「ねえ、答えてよ」
 真一の肩を、青がゆすった。なにも言わないので、さらに激しくゆすった。
「薫のことも、追い出したいの? ねえ。お父さんいったい、なにがしたいのよ。ねえ、答えてよ」
「どうせ、怒るんだろ」
「は?」
 青が手を止めた。
「どうせ、そうやって、俺がなに言ったって、怒るんだろ」
「なに、逆ギレ?」
「おまえたちは、生まれてきただけじゃないか」
「え?」
「生まれてきただけで、そうやってみんな、被害者みたいな顔しやがって」
「被害者って……」
「俺はなあ、おまえのことも、おまえの母親の、佳乃のことも、大事に思ってたんだぞ。もちろん、薫だって。薫の、母親の……登紀子だって、大事に思ってた。登紀子は病気だったんだ、どうしようもなかったんだ」
「佳乃さんは、病気でもなんでもなかったと思いますけどー」
 青ができうるかぎりの低い声を作って言った。
「あれは、まあ……魔が差したっていうか、悪かったよ……」
 真一は、両手で抱えた膝の上に頭を落とした。青は眉間に皴を寄せている。
「ポートーは?」
「もちろん、ポ、敬だって大事さ。長男じゃないか。敬の母親の……あれ」
「思い出せないんだ、名前」
「一時的に思い出せないだけだ。もう、ほら、年だからさ」
「年なのに、今さら、また子どもだなんて」
「ああ、もう知ってるのか。そうだよ、おまえの、新しいきょうだい誕生だ。春枝のことも、もちろん大事さ」
「何人巻き込めば気が済むの?」
「巻き込むもなにも、見合いで結婚したんだぜ。むこうだって結婚したくて来たんだ。需要と供給が合致したっていうわけだ。いい嫁さんだぞ、母さんが見つけてきたんだ、よろしくな。ははははははははは」
 青は険しい顔でつかつかとベッドに近づき、布団をめくると、中に入り込み、頭の上まで布団をかぶった。
「おい」
「今日から、ここで寝るから」
「は? おまえ、戻ってくるのか」
「そう」
「おまえ、山の学校で教師やってんだろ。どうするんだよ」
「辞める。先生は辞めて、ここでポートーを待つ」
「いや、辞めるのは、やめろ。あいつはもう戻ってこないって」
「わかんないじゃん」
「わからないもののために、おまえが犠牲になることないだろ」
「じゃあ、死んじゃってもいいの?」
「え?」
「このままじゃ、死んじゃうよ、薫」
「薫か」
 青は布団をがばりとめくり、起き上がった。真一をにらむ。
「なんにも食べてなかったんでしょ。なんにもしゃべんなくなったんでしょ」
「うん……。知らなかったんだが」
「知らなかった?」
「ふだん、ほとんど、会わないからな。仕事で、夜遅いし。そこを、責められてもな、困るんだな」
「困りなよ」
 青が、ベッドから出た。
「自分が困ることしたんだから、ちゃんと困りなよ。ちゃんと見て、ちゃんと困りなよ」
 真一は黙って立ち上がった。
「あたしは、困るよ。ちゃんと困ってみる。こんなとこに戻ってきて、ちゃんと困ってみるし、困らせてもあげるから」
「邪魔するなよ。新しい子どもが生まれるのに」
「薫を見殺しにするの?」
「あいつはちゃんと入院して治療してる。医者に任せとけばいいって。おまえがあいつになにかできるってわけじゃないだろ。だいたい、今までなんの関係もなかったじゃないか」
「なに言ってるの、あたし、佐和子さんに、頼まれてきたんだよ。薫のこと、みてくれって」
「あの」
 春枝が、半開きのドアの向こうから声をかけた。
「タオルとか、必要そうなもの、まとめときましたので」
 春枝は、そろそろと部屋の中に入り、大きなふろしきの包みを青に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 青は、まばたきをしながらそれを受け取った。
「他に必要なものがあったら用意しますので、なんなりとおっしゃってください」
 春枝はにっこりと笑った。両方の白い頰にくっきりと笑窪が浮かんだ。なんていい笑顔なんだろう、と青は思いつつ、なぜだか泣きたいような気持ちになる。と、なんかおまえ中居さんみたいだな、ははっと能天気な笑いを浮かべた真一の脛に、青は蹴りを入れた。

 佐和子は、灯を落とした部屋の布団に入ったまま、目を開けていた。二階からかすかに漏れ聞こえてくる、真一たちの会話に耳をすませていた。ふっと口を開いて、つぶやいた。
「みんなみんな、どうしようもない、ムジナだこと……」

 青が病室に入ってきたとたん、薫は、あらかじめ質問を書いておいたノートをさっと掲げた。

《学校、やめちゃったの?》
 
 うん、辞めたー、と軽く言いながら、青は視線をはずした。薫は、少し怒ったような表情を浮かべて、文字を続けて書いた。

《やめちゃだめ》

「なんで? 薫も、前に山を下りないのって、言ってたじゃん」
 薫は、激しく首を横にふった。

《ちがう》

「あのさ、あたしが学校辞めたの、薫のためみたいになってるけどさ、別にそれだけじゃないよ。もういいかげん山の上にばかりいるのも飽きちゃってたからさ、ちょうどよかったんだよ。この世の中にちゃんと関わって生きてみるのも悪くないかな、って」
 薫は、首を横にふり続けている。
「ほんとだって。こっちで、山から下りて生きてみたくなったんだよ。あたしも、あの家で生まれたんだよ? 自分が生まれた家に戻ったら、いけない?」
 薫は、目に涙がにじんでくるのを自覚しつつ、首を横にふった。
「はい、春枝さんの焼いたパン。あの人、料理上手だね」
 薫は、ほんのり焦げ目のついたロールパンを受け取って、しみじみと眺め、匂いをかいだ。
「パンを焼くっていいね。家中いい匂いがしてさ。帰ったら一緒に焼きましょうって伝えてください、だって、春枝さん」
 薫は、二度小さく頷いたあと、ぱくりとパンをかじった。さくっとした嚙み心地のあと、ふんわりとした甘さが口の中に広がる。少しもっちりとしている。このパン、春枝さんって感じがする、と思い、薫は笑いそうになり、頰骨が上がる。おいしいよね、それ、春枝さんって感じだよね、と、自分が思っていたことと同じことを青が言うので、薫はびっくりしつつ、何度も頷いた。

 一カ月後、摂食障害による栄養失調から脱した薫は退院し、青が加わった家に戻ってきた。小食ながらも普通の食事を摂ることができるようになったが、まだ声を発することはできなかった。
「おかえり」
 佐和子がおごそかに言った。一カ月の入院中に一度も見舞いに訪れなかった佐和子だが、退院の日には玄関に立って出迎えていたのだ。薫は、佐和子の姿をみとめると、それまでうれしそうにしていた表情が一気にこわばった。薫は、佐和子から目をそらすと、小走りで家に駆け込んだ。蹴散らすように靴を脱いで階段をかけのぼり、自分の部屋へ飛び込んだ。
「あーあ」
 残された青がため息をつくと、佐和子も深いため息をついた。
「ちゃんと説明してくださったのかしら、青さん」
 少し濁ってきた瞳で、じっと青の顔を見据えた。
「はいはい、言いましたよ、ぜんぶ捨てたわけじゃないっていうのはね」

 部屋に駆けこんだ薫は、なにかに足をぶつけて転びそうになる。ぶつけたものを確認して、あ、と心の中で声を出した。しゃがみこんでそれをいとおしそうにてのひらでなでた。それは、敬の使っていた麻雀の牌を入れた箱だった。
 パチンと留め金をはずして、中を開いた。つやつやした白い面に描かれた、なつかしい記号、なつかしい文字が目の中にとびこんでくる。きっちりと箱のなかにつまったそれに、牌二つ分の空間が空いている。薫は自分の引き出しを開け、赤いきんちゃく型の小さな袋を取り出した。紐をゆるめててのひらの上でそれを軽くふった。麻雀牌が二つ、てのひらの上に現れた。緑色の孔雀の絵が描かれたイーソーと、真っ白なハク。いつか、敬の部屋から持ち出したものだった。薫は、麻雀牌の入れ物の中の空白に、その二つの牌をカチ、カチ、と置いた。表面がそろった牌が、誇らしげに輝きを増した気がした。

(おうち。あなたたちの、ここは、おうち。ずっと、いっしょにいていい、ここは、おうち)

 薫は心の中で、敬の牌に呼びかけた。

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著者プロフィール

東 直子(ひがし・なおこ)

1963年、広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。歌集に『青卵』『東直子集』『十階』。
2006年、『長崎くんの指(文庫改題『水銀灯が消えるまで』)』で小説家デビュー。小説、エッセイ集に『とりつくしま』『さようなら窓』『ゆずゆずり』『千年ごはん』『鼓動のうた』『キオスクのキリオ』『いつか来た町』『いとの森の家』、共著に『回転ドアは、順番に』『愛を想う』『短歌があるじゃないか。』など、著書多数。
最近では自著や歌誌「かばん」に描くイラストも好評。この連載ページ上部のイラストも著者自身による。

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