キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

東 直子(ひがし・なおこ)

緑 ブック・カバー
バックナンバー  1...89101112 

第12回

2019.05.31 更新

「敬さん」という名前を口にした春枝の顔を、その唇を、佐和子は笑顔のままじっと見つめた。
「たかしさん」
 自分が幼い敬に向かって、そう呼びかけていたことを、佐和子は思い出した。今の春枝ほどではないが、もっと若かったころの自分を。それは、佐和子の脳の奥底に刻まれた、自分の名前「佐和子」を呼ぶ唇の形をもふいに思い起こさせた。

「さわこさん」
 自分の名前を呼んでる人がいる。薄暗い部屋の中で、その人の顔を見上げる。表情はよく見えないが、かすかな艶を持ってやわらかく動く唇は、それだけが独立した生き物のようだった。不思議な心地がして、その唇に指先でふれようと手を伸ばすと、身体がふっと宙に浮いた。抱き上げられたのだ。唇は目の前にある。幼い佐和子は、それにふれる。すると、その唇がそっと佐和子の耳元に移動して、かすかな風を送るように、ささやきかけた。
「かわいそうにねえ」
 はじめてその言葉をささやかれたとき、佐和子は幼すぎて意味がわからなかった。ただ、なんとなくこわいことを言われたのだと感じて不安になり、自分を抱いているそのやわらかい身体の表面を、指先に力を入れてぎゅっとつかんだ。
「痛い痛い、やめてくださいよ、さわこさん」
 その人は痛そうに身体をよじったが、佐和子は、指先の力をゆるめることができなかった。

 佐和子は、物心ついたときにはこの家にいた。広い家の中で、ほとんどの時間を若い母親と二人、一部屋で過ごした。食事もその部屋に女中さんが運んでくれたものを二人で食べた。同じ家の中で寝起きをしている父親とは、たまにしか顔を合わさなかった。父親には、佐和子の母親とは別に正式な妻がいて、二人の間に子どもも一人いたため、生活の中心はそちらの方にあったのだ。
 佐和子の母、芳子は、佐和子を妊娠したことで、この家に暮らすことになった。身ごもったことを告げたとき、相手から同居をすすめられたことに、芳子は最初はひどく戸惑った。しかし、この家ではめずらしいことではない、代々それでずっとうまくやってきた、万事問題ない、第一、おまえもその方が安心だろう、と畳みかけられ、説得された。「安心」という言葉を、芳子はしみじみと嚙みしめた。たしかに、なんの後ろ盾もない自分が、赤ん坊を抱えて女一人で生きていくことは、とても難しい。子どものいるお妾さんとして、別宅ではなく、別室が与えられると思えばいいのだ。
 母親の芳子と父親がどこで知り合ったのか、それまで何をしていたのか、佐和子は知らない。カフェーで働いていたとか、デパートガールだった、タイピストだった、とう噂もあれば、旅先の旅館で見初めた仲居を強引に連れてきたのだ、という説もあった。その真相を、佐和子は誰にも直接尋ねたことはなかった。
 佐和子にとって、実の母親とは、一部屋の薄暗い隅で、ただじっと座っている人のことだった。自分がそばに寄っていけば、歓迎もしないが、拒絶もしない。ただ、やや高く、少しかすれた声で「さわこ」と、自分の名前を呼んでくれた。ときには抱き上げてくれる。佐和子には、それで充分だった。
 芳子の乳の出が充分ではなかったため、しばらく乳母が通っていたことがある。その人は、芳子と同じころに子どもを産み、他の子に分けてもよいほど母乳のよく出た近所の主婦で、「ミチさん」と呼ばれていた。赤ん坊の佐和子は、ミチの乳を、ミチの実子と分け合って吸い、育った。
 離乳食が食べられるようになるまでのことだったので、さすがにミチの乳を吸っていたことを、佐和子は覚えていなかった。しかし、ミチが自分の子どもを連れて訪ねてきたときは、かすかに記憶が残っていたということだろう、佐和子はなんとも言えない懐かしさを覚えて、なにも言わずミチに駆け寄り、抱きついた。ミチも微笑みながら受け入れて抱き締めてくれたが、佐和子はふいに身体をぐい、と押された。ミチの子どもが、佐和子を自分の母親の身体から離れさせようとしていたのだ。
「こらこら、そんな風にいじわるするんじゃないよ、おまえたちはお乳を分け合ったきょうだいなんだから」
 そう言ってミチが、自分の子どもをたしなめたとたん、いつもは地蔵のように鎮座を決め込んでいる芳子が、突然立ち上がって風のように佐和子に近づき、ミチから佐和子を引きはがすように奪った。
「違います!」
 芳子は、ミチの顔を見ながら、大きな声で言った。
「この子と、あなたの子は、きょうだいなんかじゃ、ありません!」
 先ほどまでやわらかい笑みを浮かべていたミチの顔が、にわかに複雑な表情に変わった。芳子のあまりの剣幕にたじろぎつつもなにか言おうとしたが、まとまった言葉が出てくることはなく、なにかをあきらめたようにうつむくと、すみませんと小さな声でつぶやくように言って、頭を下げた。
 ミチの手が頭に置かれ、一緒に謝るように促されていた子どもは、しかしがんとして頭を下げようとはせず、上目遣いの鋭い視線を佐和子に向けた。光を放っているようだった。子どもの片手が、ミチの着物の裾をしっかりと握っていることに佐和子は気付き、胸がズキリと痛んだ。自分の母親を、取られまいとしているのだ、と佐和子は思った。このやさしげな人と自分は、仲良くしてはいけないのだ、と。
 違うんだ。この人たちと自分は、違うんだ。
 佐和子は、子ども心に、人には違いがあるということを悟ったのだった。

 あるとき佐和子は、芳子から黒い服をわたされた。
「あなたのおにいさまが、亡くなったのよ」
 黒い着物姿の芳子が、佐和子から目をそらしたまま言った。
「おにいさま……?」
 小学校への入学を控えていた佐和子は、「おにいさま」という言葉の意味が理解できたが、「あなたの」という部分がよくわからず、訊き返したのだ。
「亡くなったっていうのはね、死んだってことなのよ」
 佐和子が聞きたかったことからわざとずらしたかのように、芳子は、たんたんと答え、言葉を続けた。
「ずっと前から、ご病気だったのよ。お部屋で休まれたり、病院にお泊まりなさったりだったから」

 普段から、その家には、たくさんの人間が出入りしていた。誰が家族で、誰が使用人で、誰が訪問客なのか、子どもの佐和子には区別がうまくつかなかった。皆、そこにいるのが当然のような顔をしているばかりで、佐和子に目を留めて気遣って説明したり、名を名乗ったり、人物を紹介してくれたりする人はいなかった。佐和子自身も、大人の人は、「大人」のカテゴリーの中にざっくりと収めて、一人一人を識別することを放棄していた。
 けれども、「子ども」だと認識した人物は、違った。
 あるとき、つま先を立ててのぞいた窓から見えた庭の、隅に立っていたトンボのように細くて頼りない少年のことを、佐和子は覚えている。
 誰だろうと深く考えたわけではない。ただ、そこにいるな、と思ったのだ。そこに、自分と同じ子どもが、と。
 少年は、草の中に立ち、まぶしそうに空を見上げていた。半袖の白いシャツに濃い色の半ズボンを穿いていた。光を浴びている顔も、腕も、足も、白いシャツに負けないくらい白く、髪の色も淡かった。
 佐和子は、うたたねをしている芳子の目をぬすんで部屋を抜け出し、廊下を早足で抜け、庭に出た。しかしそこには草ばかりで、少年の姿はなかった。
「一人でそんなとこに出ちゃ、だめじゃない」
 佐和子がいなくなったことに気付いた芳子が、捜しにきたのだった。少し息が荒かった。
「そんなふうに、お靴もはかないでお外を踏んだら、虫にあんよを食べられてしまいますからね」
 芳子が低い声で重々しくそう言うので、佐和子はぞわぞわした。佐和子は裸足で庭に下りていた。足の裏がにわかにむず痒くなり、次第にちくちくした痛みに変わっていった。
 そこは、庭といっても雑草の生い茂る、手入れのなされていない裏庭だった。土はやわらかく湿っていて、よく見ると、光の中に黒い小さな羽虫が飛んでいるのが見えた。庭の隅の方に水場がある。芳子は、転がっていたバケツに水を汲み、佐和子の脇の下に手を入れて抱えあげ、小さな足をバケツの中に入れた。そうして佐和子を立たせると、その手を離した。
「自分でよく洗いなさい」
 バケツの中で不安そうに見上げる佐和子を、芳子は腕を組んで見下ろすばかりで、手を出そうとはしなかった。
 以来、佐和子は毎日のように背伸びをしては部屋の窓から庭を眺めたが、その少年をふたたび見かけることはなかった。

「あなたのおにいさまはね、死んだってことなのよ」
 芳子に念を押されるように言われたとき、佐和子はあの日、庭で見かけた少年のことを思い出した。あの人が「おにいさま」に違いない。トンボみたいに細くて、光に透けるように白くて、弱々しかった。
 死んだってことは、もう二度と会えないってことだ。 
 佐和子はそのくらいのことは、理解していた。
 そんなことを思ってぼうっとしている佐和子の着ているものを、芳子はさっさと脱がせ、用意した黒い服を着替えさせた。兄が死んだという事実を知っても、佐和子には実感がまるでなかった。悲しいと思う気持ちが浮かぶことはなかった。
 その後の葬式のことを、佐和子は不思議なほど覚えていない。兄の死を境に、佐和子の生活ががらりと変わってしまったことへの驚きの方が、大きかったからかもしれない。佐和子には、ベッドと簞笥のある一人部屋があてがわれ、芳子とは別の部屋で寝泊まりするようになったのだ。
 つまり、佐和子は突然母親と引き離されることになったのだが、そのことで泣いたり、ぐずったりすることはなかった。母と離れる寂しさよりも、自分用の可愛らしい部屋をあてがわれたことの興奮の方が勝っていた。
 身のまわりの世話も、芳子ではなく、サチという名の若い女中がするようになった。サチは不慣れながらも、佐和子と目が合うと、懸命に笑顔をうかべて気遣ってくれた。
 佐和子は、新しい生活に次第になじんだ。一方、芳子は、その家から姿を消した。佐和子がふと思い出して、母と一緒に寝泊まりをした部屋に行ってみると、物置きのように家具や荷物が詰め込まれていて、人の気配は消えていた。
 自分の実の母は、家からいなくなったのだ、と、佐和子は悟った。サチにそのことを訊いてみると、少し困ったような顔で、遠くで、お元気にしていらっしゃるそうですよ、とのみ答えた。
 芳子の代わりに佐和子の「母」となったのは、「おにいさま」の実母である孝子だった。佐和子の父親の、正妻である。孝子が産んだ、たった一人の息子が亡くなったため、妾の子である佐和子が、跡取りとしてその席にあてがわれたのだった。
 孝子は、おとなしい人だった。佐和子は孝子と、二人で食卓につくことが増えたが、孝子は少し眉の下がった哀しげな表情を浮かべるばかりで、言葉を発することは滅多になかった。口を開くのは、サチの耳に、小声でなにか指示を与えるときくらいだった。
 孝子は、自分の子どもが弱々しく生まれ、早く亡くなってしまったことでひどく落胆していた。
 芳子が身ごもったとき、家に呼び入れることを提案したのは、実はこの孝子であった。
 高齢でやっとさずかった息子は、病気がちだが、自分はもう身ごもることはできないだろうと、孝子は思っていた。その後ろめたさもあって、この家の血を受け継ぐ子がいるのなら、この家に迎え入れてほしいと願ったのだ。
 息子が亡くなった今、佐和子を跡取りの子として、自分の子どもと同じように育てよう、と孝子は考えた。だが、いざとなると、つい心の中で佐和子と実子を比べて考えてしまい、混乱した。なにかと沈黙が多いのは、心の中で混乱が常に起こっているからなのだった。
 佐和子は、目の前にいる孝子の顔を見ながら、実母はどこへ行ったのか訊いてみたい衝動にかられたが、口に出すことはなかった。いなくなったことさえ自分に教えてくれないという事実が、こちらから訊いてはいけない、という無言の答えなのだろうと、佐和子は察知していた。
 日曜日の夜には、父親とも食卓を囲んだ。父親も言葉少なだったが、もりもりと食事をする佐和子をいとおしそうに眺めて、「おまえはいいな、元気でいいな」といつも言った。
 傍らで聞いていた孝子は、健康ではなかった自分の子のことを責められているような気持ちになり、いたたまれなかった。しかし孝子のその気持ちに気付く人間は、一人もいなかった。
「おまえなら、この家を、しっかり守っていけるな」
 やさしげで威厳のある父親にそう言われて、幼い佐和子の胸は、高鳴った。自分が生きていることを、生まれてはじめて認めてもらったような気がした。佐和子は、無邪気に笑顔を浮かべて「はい」と元気よく答え、こっくりと頷いた。芳子のことは、佐和子の胸の底に、深く深く、沈んでいった。

「あの、お義母さま。お義母さま……?」
 春枝の声で繰り返し呼ばれて、佐和子は、はっとした。一瞬、自分が誰で、今どこでなにをしているのか、見失っていた。
「えっと……」
 佐和子は何度かまばたきをしてから、春枝の顔をじっと見た。
「今、敬さんがどうしておられるのか、お義母さま、なにかご存知なのでしょうか」
「あ、ああ、敬、敬のことね。そうね……」
 話しながら、佐和子は春枝と話していた記憶をたぐりよせ、そうね、そうね、と繰り返した。
「ご存知だったのですね!?」
「そうね……」
 

 この人は、いろいろなことをよく知っている目だ、とその店員の目を見ながら、薫は思った。
 薫は、密かに持ち歩いている敬の写真を見せた。
「あの、注文とかじゃなくてすみません。私たち、人を捜してるんです。この人、ここに、パフェを食べにきてたらしいのですが、覚えていませんか?」
 店員は、失礼します、と小さな声で言って、薫から写真を受け取った。青と水口と須藤も、その様子をじっと見守った。
 店員は、眼鏡をはずして、写真を顔に近づけた。
「そうですねえ、毎日いろいろなお客様が来られていますからねえ……」
「あの、この人と一緒だったり」
 薫は、水口を手で示して言った。
「ああ、いつもありがとうございます。思い出しました。男性二人でリピートしてくださるのは、比較的めずらしいので」
 水口が、照れたように笑いながら首をすくめた。
「あ、でも、そういうことでしたら、わたくしにお尋ねになるというのは、どういった……?」
「あのさ、この人、こう、なんていうの、中年の女の人と一緒だったりしなかった?」
 薫が言葉につまっているのを見かねて、青が口を開いた。
「あ、いや、この人のお母さんらしいんだけどね、子どものときからここに来てた常連さんらしいから、なにかこの人について、ご存知ないかな、と思って」
「あの、さしでがましいようですが、こちらからもお訊きしたいのですが」
「はい、どうぞ」
「その方と、そのう、みなさんのご関係は……」
「兄です」
 薫と青が、同時に言った。
「あ、オレらは関係なくて、いや、関係ないってことはないな、友達、友達です」
 須藤が、作り笑いのような笑みを浮かべて言った。
「突然、家に帰ってこなくなって……」
 ウェイターは、目を閉じ、「承知しました」と言って眼鏡をかけ直し、うやうやしく頭を下げた。
「お写真、少しお借りします。少々お待ちください」
 そう言って、写真を指先に持ったまま、カウンターへと戻っていった。
 そうして、もうひとりの老紳士風の店員に写真を見せ、語りかけた。

バックナンバー  1...89101112 

作品について

著者プロフィール

東 直子(ひがし・なおこ)

1963年、広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。歌集に『青卵』『東直子集』『十階』。
2006年、『長崎くんの指(文庫改題『水銀灯が消えるまで』)』で小説家デビュー。小説、エッセイ集に『とりつくしま』『さようなら窓』『ゆずゆずり』『千年ごはん』『鼓動のうた』『キオスクのキリオ』『いつか来た町』『いとの森の家』、共著に『回転ドアは、順番に』『愛を想う』『短歌があるじゃないか。』など、著書多数。
最近では自著や歌誌「かばん」に描くイラストも好評。この連載ページ上部のイラストも著者自身による。

作品概要

三人の孫を持つ佐和子。
しかしそれは、決して幸せの象徴ではなく、複雑な事情を抱えたものだった。
息子の相手を決して受け入れず、生まれた子どもたちにも愛情を持たず……。
母親が違う三人のきょうだい、敬、青、薫をめぐる物語。

おすすめ作品

魔女たちは眠りを守る

第三話 雨のおとぎ話

村山早紀(むらやま・さき)

悪夢か現か幻か

第17回 客間の壺

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か

第16回 呪いの家

堀真潮(ほりましお)

魔女たちは眠りを守る

第二話 天使の微笑み

村山早紀(むらやま・さき)

悪夢か現か幻か

第15回 交差点

堀真潮(ほりましお)

ページトップへ