キノノキ - kinonoki

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東 直子(ひがし・なおこ)

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第10回

2018.08.28 更新

「あった、あった、見つけたよ。捨てられたんじゃなかった、物置きにおしこめられてただけだった」
 佐和子が不必要になった物を、とりあえず庭の物置き小屋に入れていたことを思い出した青が、敬の部屋にあった炬燵机を探し出したのだった。青と須藤が二人がかりで青の部屋、つまり元の敬の部屋に、それを運び入れた。薫は黙って二人の後をついて歩いた。床に置いた土台に四本の脚を青と須藤がしっかりねじって止めつけ、ひっくり返した。天板の緑色のフェルトの面を上にして、青がそっとその土台に載せ、てのひらで、その表面をうっとりとなでた。
「そうそう、これこれー」
 隣にきょとんと座っていた薫に、青は話しかけた。
「薫も、ほら、さわってみなよ」
 促されて、薫がそっと深い緑色のそれに触れる。薫の目にゆっくりと光がともっていくのを、青はじっと見ていた。
「おお、すげえ、ポートーの。もう、だいぶはげてんな」
 須藤もてのひらで緑色の面をなでた。
「あんたたち、ずっとやってたもんねー。今さらだけどさあ、よく飽きないよねえ」
 青があきれたように言うと、いや、飽きないんだよな、不思議と、中毒性があるんだな、と須藤が少し照れたように言った。そんな二人の会話を断ち切るように、薫が麻雀の牌を天板の上に流し込み、両手を使ってざらざらとかき回しはじめた。
「おお、こういうことやるのは、知ってるんだな」
 須藤が言うと、薫がはにかむようにうつむいたまま頷いた。須藤も両手を天板の上にのばして、牌をかき回した。
「これがな、不思議に気持ちいいんだ。最近は機械で、自動でやっちゃうからさ、こういうのあんまりやらないんだよな。なつかしいなあ」
 青もまざってひとしきりかき回したあと、須藤が手を止めた。
「さて、と。どっから教えたらいいかな。えーと、そうだな、えっと、薫、ちゃん?」
 須藤に話しかけられて、薫がこくりと頷いた。
「どの牌が、一番好きかな? 直感で」
 急に自分に質問が及んだので、薫は一瞬戸惑ったが、様々な模様を見せてちらばっている麻雀牌を、眠っている猫にふれるようにそっとなでたあと、一つの牌を選び出して、須藤に手渡した。須藤は意外そうな顔をしてそれを受け取った。
「これかあ。これは、ハクっていうんだよ。真っ白だろ。白のこと、ハク、とも読むだろ?だから、この牌の名前は、ハク。たしかに、きれいな牌だよな。これを選ぶって、薫ちゃん、渋いね。すばらしいね。はい、じゃあ、もう覚えたね、これが、ハク」
「ハク」
 薫は、大きな口を開けて、声を出した。
「薫!」
 青が思わず立ち上がった。
「声! 声、出てる!」
 薫が、はっとして、口に手を当てた。
「しゃべったよ、薫、しゃべれたよ!」
 青は思わず薫を抱きしめた。そして、薫の耳に口を近づけて、ささやくように、話しかけた。
「もう一回、もう一回言ってみて、薫。ねえ、その牌の名前は、なんて言うの?」
「ハク……」
 薫は、自分自身に確認するように、小さな声でつぶやいた。それから腕をのばして、青から少し身体を離し、その目をしっかりと見た。
「ハク、だよ……、ハク、だよ」
 自分が言おうとした言葉が、自分の咽喉をふるわせて、声として響きながら出ていくのを、薫はとても久しぶりに実感した。胸の中に、いろいろなものがふくらんでくるようで、ゆっくりと深呼吸をした。
「わたし、知ってた、これ。ハク、って、ポートーが、名前、教えてくれた。いちばん、好き、だった」
「すげえ、好きな牌、すげえ、好きな牌で、声出た……」須藤が目を見開いた。
 薫が、須藤と青に、交互に視線を送りながら、えくぼを浮かべた。
「しゃべれる……。きもちいい……」
「よかったねえ!」
 青が、薫の両肩に手を添えてゆさゆさと揺らした。薫はうつむいて、少し恥ずかしそうに、ありがと、とつぶやいた。

「やってみると、案外おもしろいものねえ、あれ」
 春枝は、真一に食後のお茶をふるまいながら言った。
「あれ、って?」
「あれは、あれよう、ロン、とか言って」
 春枝は、真一の顔を見ながら、からからと笑った。顎を引くと、白い顎がふんわりと二重になるのを、真一は少しけげんな顔で見た。
「麻雀か。おまえ、やってるのか」
「あら、この間言ったじゃない、薫ちゃんに誘われたんだって」
「ハク」をきっかけに、声を取り戻した薫は、言葉を発することの喜びに目覚めたかのように、以前よりもずっと生き生きと話をするようになった。これまで遠慮がちにしか接してこなかった春枝にも、親しげに話しかけるようになり、「もう一人いたら四人になるからちょうどいいんだって!」と言って春枝を麻雀に誘ったのも、たしかに薫だった。薫に引っ張られるようにして、おずおずと青の部屋に入った春枝に、悪いねえ、まあ、遊んでってよ、と気さくに青が声をかけた。須藤は、どうも、と視線を一度、瞬間的に春枝に送った。
「なんか。妊婦さんと、こんなこと、いいですかねえ」という須藤の低い声を春枝が思い出したそのとき、真一が「胎教に悪いんじゃないか?」と言ったので、春枝は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うんだよ」
 真一は、少しむっとして言った。
「だって、そんな、だって、だってさ……」
 春枝は、次に続く言葉を言おうとすればするほど、笑いが込みあげて仕方がなくなり、お腹を押さえながら、本格的にけらけらと笑ってしまった。なんで「胎教」なんてことを、真一がいまさら気にするのか、おかしくて仕方がなかった。気にすべきところが、この人はあきれるほどずれている、という、絶望からくるやけくその笑いだったのかもしれない。
 でも、これから生まれてくる子どもについて思いやる気持ちを、この人はちゃんと持っていたのだ、と冷静になった春枝は思い直し、胸がすっと軽くなるのを感じた。

 佐和子は、深夜の灯を落とした暗い部屋の中で仰向けに寝具に収まり、目を見開いていた。このごろは、長い夜をずっとそうしていることが多くなった。闇の中で目を開けているが、意識は淡く、脳は半分眠っているような状態で、ふわふわと唇が動いた。声が少し漏れているが、意味のある言葉ではなく、ただ暗闇の中に一瞬浮かんでは溶けてしまう声だった。
 佐和子は近ごろ、家事を全面的に春枝に任せ、真一の夜食作りもしなくなっていた。夜遅く帰ってきた真一は、春枝が作った家族のための食事の残りものを食べ、それで不満はなかった。むしろ、安堵していた。あの日々はなんだったのだろう、とさえ思うようになった。夜中に母親との会話を強制されることで、自分はずっと母親に支配され続けていたのではないか、と思い始めていた。真一は、春枝が作った、やや甘い卵焼きを口の中で溶かすように、ゆっくりと嚙んだ。
 
「よかった、よかった」
 眠りに落ちる前に、春枝は声に出して言った。隣で真一は、もうすっかり寝入っていて、春枝の声には気付かなかった。
(よかった、よかった)
 今度は、心の中だけで思った。
(薫ちゃんの声が戻って。麻雀で一緒に遊べてよかった。青さんとも、そのお友達とも、お話しできてよかった。真一さんに、生まれてくる子のことを思いやってもらえて、よかった)
 一つ一つの「よかったこと」を確認しながら、目を閉じた。暗い視界の奥に、ふっと佐和子の顔が浮かび上がって、春枝は、はっと目を開けた。悪夢を振り払うように首を横に振り、ふたたび目を閉じた。
(佐和子さんは、何も言わない。でも、それが佐和子さんという人。それも、きっとよかったこと。何も言わなければ、何もないのだから)
 春枝は、ゆっくりと深呼吸を一つすると、深い眠りに落ちていった。

 薫が複雑な麻雀のルールをすっかり覚えたころ、須藤が一人の男を連れてやってきた。坊主頭にピアスだらけの右耳、というファッションが威圧的で、薫は一瞬おびえたが、敬が行きたいと言ってた場所を知っているらしい、ということを須藤が伝えると、薫の目が光った。
「ポートー、どこにいるんですか?」
 薫にいきなりそう訊かれた坊主頭の男は、一瞬ぽかんとした表情になり、少し沈黙したあと、どこにいるって、そんなの、はっきりしてるわけじゃないけどさあ、と、思いの他高い、若々しい声を出した。
「会いにいくって、言ってたからさ」
「え、誰に?」
 須藤の後ろから様子をうかがっていた青が、反射的に訊いた。
「誰って、あいつの、母親だよ」
「ははおやあ? だって、死んだんじゃないのか?」 
 そう言う須藤の声を、青がかき消すようにかぶせた。
「死んでないから」
 薫は、青の顔を黙って見た。青は薫に目線を送って小さく頷いた。
「死んでないよ。ポートーの母親は、多分、死んでない。どこにいるか分からないってだけで……」
「死んだのは、私のお母さんです」薫が、淡々と言った。
「え、あ、そうだったの!? あ、ごめん、なんか」
 須藤が薫を見て、恐縮したように肩をすくめると、薫は大したことじゃないよ、と言うように、かすかに首を横に振った。
「なんかさ、複雑じゃん? おたくんち」
 坊主頭の男が顎を少し上げて言った。男は、水口と名乗った。
 水口は、ポートーの部屋にときどき麻雀を打ちに来ていたメンバーの一人で、須藤とも何度か顔を合わせていた。学校をさぼって雀荘にいたときに、ポートーに声をかけられたのだった。
「なんか、麻雀だけでなくてさ、ときどき、パフェおごったげるー、とか言って、喫茶店に誘われたりしてさ」
「パフェ、おごってもらったんだ」青が反射的に訊いた。
「はい、なんか、子ども扱い? まあ、おいしかったから、いいんスけど」
 青は、こんなコワモテにパフェおごるか? とあきれつつ水口の顔を眺め、ファッションに似合わない幼い顔立ちに気付くと、ふいに切ない気持ちが込み上げてきた。水口をかわいがることで、ポートーは自分の中の何かを満たそうとしていたんじゃないかと、ふと思ったのだ。
「で、パフェ、食べながら、言ってたんスよ。オレ、ほんとの母親に会おうと思ってるって」
「あの、あのさ、ほんとの母親って、なんなん?」
 須藤が、まばたきを繰り返しながら、訊いた。
「はい、説明しまーす」
 青が、手を上げながら言った。白い紙を取り出し、ボールペンで小さな円を描くと、その中に「真一」という文字を書き入れた。
「これが、私の父。この家のすべての子どもたちの父にして、諸悪の根源」
「青、言いすぎ」薫が、小さな声で青に耳打ちした。
「あー、これは失礼。とにかく、この薫ちゃんも、このワタクシも、「真実」の「真」に、「一番」の「一」と書いて「真一」、この男を父として生まれたのです。この人がいなければ、われわれはこの世にいません。そして、その真一を産んだのが……」
 青は、「真一」の丸から上に線を引っ張り、同じような大きさの円を描いた。その中には「佐和子」と入れた。
「これが佐和子さん、父の母。つまり私たちには、おばあちゃん。会ったこと、あるでしょ」
「うん、いた、おばあさん」
「うん、いたいた、会った」
「ちょっと、なんか」
「恐そうな」
「そうそう、すんげえ恐そうな」
「そうだな」
「そうそう」
 須藤と水口が交互に頷いた。
「で、あるとき、お嫁さんが来て」と青は言いつつ「真一」の円から横線を引いた先に円を描くと、その中に、少し迷って、「女」と書き入れた。
「なんだそれ」須藤が思わずつぶやいた。
「だって、ポートーのお母さんの名前、マジで知らないんだもん」
「知らないのか」
「うん。誰も教えてくれなかった、というか、そういう話題、したことない。まあ、それがなんでかっていうことは、とりあえずおいといてだね、つまり、こうね」
 青は、「真一」と「女」の間から下にのばした線の下に円を描き、「敬」と書き入れる。
「これ、ポートーの本名ね。けい、じゃないよ、たかし、だよ」
「知らなかった……」須藤が思わず小さな声でつぶやいた。
「で、この、名前も知らない敬ことポートーのお母さんは、ポートーをこっちに置いたままいなくなってしまったらしい」
 その理由を尋ねるように、全員が青の顔を見た。
「なんでかは、私も詳しいことは知らないよ。多分、佐和子さんがそうするようにしたんでしょ。父親がそんなこと言ってた気がするし」
 青は、「真一」と「女」の間の横線に×を小さく入れた。
「敬は赤ん坊、しかし世話をしてくれる母親がいない。そこで、住み込みのベビーシッターを雇うことになりました。佳乃さんです」
 青は、少し離れた場所に「佳乃」と書いて円で囲った。
「なんとこの佳乃さんと、真一が、仲良くなってしまって」
 青は、「佳乃」の円と、「真一」の円を線でつなぎ、さらに真ん中から縦に線をのばしていった。
「赤ん坊が生まれます。青、と名付けられました。つまり、私」
 青は、線の先に描いた円に「青」と書き入れた。
「私が産まれることになって、真一と佳乃は晴れて夫婦になりました。で、しばらくは、この家族構成で、それなりにおだやかに暮らしていました。ポートーが麻雀覚えて、そればっかりするようになったのも、この頃だけどね。でもね。真一ったら……」
 青がふと薫の顔を見ると、真っ青だった。
「あ、ごめん、薫……、やめるよ、この先は」
「え、なに、薫ちゃんのお母さんは、死んじゃったって言ってたよね? その、ベビーシッターだった、佳乃さんとは違う人ってこと?」
 須藤が額にひとさし指を当てながら訊いた。
「青、止めないで。続けて」
 薫が、青の顔を見上げながら、少しかすれた声で言った。とても真剣な表情で。
 青が戸惑っていると、青の手からペンを奪い取った。
「私の、お母さんの、登紀子さんという人が、真一さんの前に現れて」
 薫が、「登紀子」という名前を書いて、円で囲んだ。
「真一さんとの間に赤ん坊を産みました」
 薫は、登紀子と真一の間から線をのばし、「薫」という名前を円で囲った。
「これが、私。私が生まれることになって、佳乃さんと青は、家を、家を出なくちゃいけなくなって……」
 薫は、込み上げてくるものを押さえられなくなったかのように、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「ごめんなさい……」
「薫、泣くことないよ……」
 青が薫を抱きしめた。「ごめん、私が、調子に乗ってこんなこと、解説したりするから。こんなことしたら、みんな傷つくのに、うちの家は……」
「あのさあ、どうでもいいんだけどさあ」
 ずっと黙っていた水口が、口を開いた。
「ポートー、この」と言いつつ紙に書かれた「女」の円を指さした。
「この母親に会いたいって、ほんとに誰にも言ってなかったの?」

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作品について

著者プロフィール

東 直子(ひがし・なおこ)

1963年、広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。歌集に『青卵』『東直子集』『十階』。
2006年、『長崎くんの指(文庫改題『水銀灯が消えるまで』)』で小説家デビュー。小説、エッセイ集に『とりつくしま』『さようなら窓』『ゆずゆずり』『千年ごはん』『鼓動のうた』『キオスクのキリオ』『いつか来た町』『いとの森の家』、共著に『回転ドアは、順番に』『愛を想う』『短歌があるじゃないか。』など、著書多数。
最近では自著や歌誌「かばん」に描くイラストも好評。この連載ページ上部のイラストも著者自身による。

作品概要

三人の孫を持つ佐和子。
しかしそれは、決して幸せの象徴ではなく、複雑な事情を抱えたものだった。
息子の相手を決して受け入れず、生まれた子どもたちにも愛情を持たず……。
母親が違う三人のきょうだい、敬、青、薫をめぐる物語。

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