キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

東 直子(ひがし・なおこ)

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第7回

2017.02.07 更新

「どこに行ったかわからない……」
 春枝は、白い皿を白い布巾で拭きながらつぶやいた。
「どこに、行ったか……」
 きらりと光る一枚の白い皿を、すでに拭きあげた清浄な白い皿の上に重ねる。
「わからない……」
 春枝は、重ねたばかりの白い皿をじっと見つめ、おもむろに右手の人さし指で皿の中央に触れた。
「どこに行ったかわからないって……」
 人さし指の先に力を入れる。皿の上で指先がすべり、きゅっと音を立てた。
「それでいいと思ってるわけじゃ、ないんだ」
 いつの間にか背後に立っていた真一が春枝に声をかけた。春枝はびくりとして、少し顔を上げたが、振り返らない。
「でもさあ、どうしようもなかったんだよ。あいつのこと、誰も、なんにも知らなかったんだ。どうしようもないんだよ、捜しようがない」
「いつから、ですか?」
「え、いなくなったの? だから言ったじゃないか……」
「そうではなくて、いつから、知らなかったんですか? 息子さん、のこと」
「そうだな、それは……ずっと……大学生のとき……? いや、高校? うーん、そうだなあ、生まれた瞬間から、俺、なんにも、あいつのこと知らなかったんじゃないかって、思う……」
 春枝は、白い皿の上に人さし指をあてたまま固まっている。
「いや、悪かったと思う。そうだ、俺は、いい父親じゃなかった。若かったんだ。若すぎた。まだ父親になんか、なるべきじゃなかった。そう、あのときは、若すぎたけど……」
 真一はゆっくりと腕を広げ、背後から春枝を抱き、ふくらんできたその下腹にてのひらをあてた。
「俺は変わるよ。今度こそ、いい父親になろうと思う。生まれたときから、こいつのことはよく知りたいと思う」
 春枝は、真一の手に、そっと自分のてのひらを重ねた。
「いいも悪いも、ありませんよ。今が、あるだけです」
「そうか……? うん、そうだな」
「そうですよ……」
 と、春枝は、胃の内側から突然こみあげてくるものを感じ、真一の腕をふりほどくと、トイレにむかって走った。そのまま長い時間トイレの中にこもり、しずかな嘔吐を繰り返した。

「あ」
 青の部屋に戻ってトイレを使った薫は、思わず小さな声を出した。ショーツに茶色い染み。これは、あれだ、と薫は直感した。
 薫が青に小さな声で打ち明けると、あ、そうなの、今、はじまったんだ、へえー、と少し目を見開き、ちょうどよかったね、佐和子さんじゃ、ちょっと言いづらいっしょ、と言って、顔をくしゃっとさせた。
 あ、いいよ、新しいのあるから、あげるから、ちょーどよかったよー、と洋服ダンスをさぐり、透明なビニールのケースに入ったままのサニタリーショーツを薫に手渡した。それからこれね、と生理用ナプキンを一パック入れた茶色い紙袋も持ってきた。
「おめでとう」
 贈り物のように、青はそれを薫に差し出した。薫は小さくこくりとうなずいて、さっとそれを受け取り、トイレに戻った。薫はこの日、初潮を迎えたのだった。
 薫が着替えて戻ると、青がはい、とふんわりと湯気をたてるココアを手渡した。
「なんか、あれだね、私がこういう役目をするために、薫を引き寄せたのかもしれないね」
 青が薫の目をまっすぐに見て、ほほえんだ。薫は顔がかっと熱くなるのがわかった。目をそらしたまま、明日、帰りますから、と小さな声で言い、さらに小さな声で、ありがとうございます、と付け加えた。

 二泊三日の、青を訪ねる旅から戻った薫は、門を開く前にふと立ち止まり、自分の家を見上げた。一年以上も旅に出ていたような心地がした。ドアに設置されているライオンのレリーフのある金具をコンコンと叩き、ただいま戻りました、と声を出したが、返答はなかった。薫は、なんだ、だれもいないんだ、とつぶやきながら、洋服の下に紐で首から下げていた鍵をとり出し、ドアを開けた。
 冷蔵庫に、アリバイのごとく土産の野沢菜漬けをしまうと、早足で二階に上った。自分の部屋に直行すると、重いリュックサックを肩からはずしてむぞうさに床に落とし、目を閉じたままベッドにダイブした。ベッドに体がばさりと触れたとたん、強い睡魔に襲われ、そのまま眠りに落ちた。
 カチャリ、とドアが開く音がして薫がふたたび目を開いたとき、部屋の中は真っ暗だった。明るいうちに帰ってきたのに、すっかり日が暮れるまで眠ってしまっていたのだ。
「お疲れかしらね?」
 目がさめたばかりの薫のぼんやりとした視界に浮かびあがってきたのは、佐和子の顔だった。相変わらず真顔で、立ったまま薫を見下ろしている。薫は驚いて、がばりと起きあがり、あ、あ、と言葉にならない声を漏らした。
「担任の先生から、連絡が入りましたよ」
「え?」
「おかげんはいかがですかって」
「あ」
 薫の顔がみるみる青くなる。
「林間学校……って、たしか……」
「えと、あの、それは……」
「って言いかけたけど、それは言わなかったわ」
「…………………」
「お熱は下がりましたかって訊かれたから、ええ、下がっていますよ、今は気持ちよさそうに寝ています、とお伝えしたら、それはよかった、それはよかった、明日は元気なお顔が見られるかしら、って訊かれましたから、おそらくそうなると思います、とお答えしました」
「………ありがとうございます……」
「これは、どこで買ってきたのかしら」
 佐和子は、薫が冷蔵庫に入れた野沢菜漬けを掲げた。
「…………長野の、駅で……」
「長野? 長野で、なにをしていたのかしら? 林間学校ではなく?」
 佐和子は薫の肩を摑み、しゃがんで顔を寄せた。薫の呼吸が荒くなる。
「ごめんなさい、だって、どうしても、さ、捜したくて……」
「捜す……?」
「はい、ポー、じゃなくて、た、敬兄さんのこと……」
「敬を? 敬を捜しにいっていたの? あなた、長野に?」
 佐和子は薫の肩から手を離し、立ち上がった。薫は目線を上げて、佐和子の表情を捉えようとする。部屋は薄暗く、廊下からの光で逆光になり、顔がよく見えない。
「お姉さんなら、知ってるかもしれないって、思って、それで……」
「お姉さん……。青のことね。あの子に、会ったの?」
「はい……」
「青のことは、一度も話したことはなかったわよね。敬から訊いたのね」
「はい」
「居場所も、敬から?」
「いいえ……。手紙が、部屋に」
「手紙」
「麻雀する人が、届けてたみたいで」
「あら」
 佐和子は無意識のうちに親指の爪を嚙み、カチ、とかすかな音が出たところで我に返ったようにはっとして、あのね、と言いながら表情をやわらかくした。
「敬のことは、あなたは気にしなくても大丈夫なのよ。大人に任せて、ね」
 だってそっちはなにもしてくれないじゃん! という怒りのセリフが薫の胸に突き上げてきたが、唇を嚙んで押し込めた。
 佐和子は、こんどは両てのひらを薫の肩に添え、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「青に、あなたのお姉さんに、会ったのね」
 佐和子が薫と目を合わせたままゆっくりとまばたきをした。薫は催眠術にかけられた人のように抑揚のない声で、「はい、会いました」と答えた。
「どうでした、青は?」
「元気に、学校の先生してました」
「そう。それはもちろん、知ってましたよ。緑に囲まれた、いいところなんでしょう」
 佐和子が遠いものを見るように、目を細めた。
「あなたが生まれることになって、あの方たち、あちらへゆかれたのよ」
 佐和子はささやくように言いながら、薫の肩の上のてのひらに少し力を入れた。ぎょっとした薫は、反射的に身体が震えた。
「青さんが、お元気で、なによりです」
 佐和子は、にっこりと微笑んだ。薫は、自分の下半身から血がじわりと流れるのを感じると同時に、内臓が縮まるような痛みを感じて顔をしかめて体を丸めた。
「あら、どうかしたの?」
「おなかいたい……」
「あら、まあ、そりゃあ、そんな無茶してきたんじゃあねえ。身体が冷えたんでしょう。いいわ、しばらく休んでなさい。真一や春枝には、林間学校の疲れが出たんだって言っておきますから」
 ふたたび布団にもぐりこんだ薫は、佐和子が部屋を出ていったあとも、薄闇の中でずっと目を開いたままだった。部屋のドアを閉める寸前に、佐和子がふっと放った「かわいそうにねえ」という一言が、薫の頭の中を何度もかけめぐった。
 
 薫が帰った夜、佳乃の部屋を青が訪ねて遅い夕食を二人で共にした。食事が終わってから、佐和子さんに連絡しておきましたから、と佳乃に言われ、ええっ、と青は思わず大きな声を出した。
「なに言ってるの、薫は、林間学校に行ってるってことになってたんだよ」
「佐和子さんの方から連絡があったのよ、夕方。学校にも家にも噓を言ってどこかに行ってるらしいけど、もしかしたらこっちに来てないかって」
「すごいな、佐和子さんのカン」
「あの人は、なにもかもお見通しよ、昔から」
「こわっ」
 青は両手で自分を抱くようなしぐさをして、腕をさすった。
「……ねえ、どうするの?」
 佳乃がゆっくりと訊いた。
「どうする……って?」
「ポートーのこと」
「そりゃあ、捜すよ、薫と一緒に。約束したもん」
「そうよね。薫ちゃん一人じゃどうしようもないだろうし。といってあの家の人たちがなにかしてくれるってこともなさそうだし」
「うん」
「ねえ、青」
「ん?」
「この際、あなた、山を下りてもいいのよ」
「え?」
「山を下りて、町で暮らして、それで、恋愛とかして、結婚とかして、子ども産んだりして、って、いや別にそんなありきたりな人生を青に送ってほしいって意味じゃなくて、その、一つのサンプルとしてね。なんていうか、もうちょっと、社会と関わる、そうね、発展性のある人生を歩んでもいいんじゃないかなって、お母さんは思うのよ。まだ、若いんだし」
「え、なに? 今更なに言ってんの?」
 青のほの白い眉間に、深い皴が寄る。
「ここにあたしを連れてきたの、お母さんなんだよ」
「そうよ、だから言ってるんじゃない。ここで暮らすのは、あのとき————急にあの家を出なくちゃならなくなったときには、最良の方法だったと思うわ。そのことは、今でも全く後悔してない」
「あたしだって。ナイスアイディアかあちゃん! って感じだよ」
「でもね、もう、青、大人じゃない。ていうか、若者じゃない」
「はぁ……」
「世捨て人みたいに、生きなくてもって、思ってたの、前から。お母さんは、もう、これでいいけど」
「お母さんだって、世捨て人やるにはまだ若いんじゃない? っていうかさ、あたし別に世の中捨てたわけじゃないし。ちゃんと働いてるし、教師やってるし、社会貢献してるって。充実してるって」
「ほんと? ほんとうにそう?」
「なに、急に。ほんとにそうだよ。好きでこうしてるの! 前にも言ったはずだよ」
 青は床にあぐらをかいて、唇をとがらせた。
「それなら……それならいいんだけど。なんか、青のこと、巻き込んじゃったから、なんか、いろいろあきらめちゃったのかなって、思えて。お父さんたちへのあてつけ、とか」
「あてつけなんて! なんも見てないじゃん、あの人。なんも見てないじゃん、あたしのことも、お母さんのことも、薫のことも、ポートーのことも、なんも見てなかったじゃん! どうでもよかったんじゃん! 子どものことなんて、妻のことなんて! なんも思ってないよ! あんな人、こっちも世の中に存在してるって、思ってないよ!」
 叫びながら青が立ち上がると、目から涙がさーっと流れ落ちた。そのことに自分で驚き、涙を振りちぎるかのように頭を激しく振った。
「ポートーは、捜す。ぜったい、捜す」
 佳乃に背中を向けたまま、うなるようにそう言うと、ドアを乱暴に開けて飛び出していった。

 真一の前に、ほどよく焦げ目のついた秋刀魚(さんま)の塩焼きが置かれた。湯気がふわりと立ち香ばしい香りが漂う。佐和子が七輪でじっくりと焼き上げたものだ。つんと山をなす大根おろしの頂点に、細切りにした大葉が散らしてある。いただきます、と手を合わせてから真一は、ゆっくりと秋刀魚の肉に箸を入れた。
 三十分後の皿の上には、頭と尾のみを残した、きれいな白い骨だけになった。内臓もあまさず食べたのだ。
「真一の食べたあとは、いつもほれぼれするくらいきれいねえ」
 佐和子は、工芸品でもながめるようにその皿をじっくりと見ながら言った。 
 真一は、その発言をさして気に留めるでもなく聞き流しながら、熱いほうじ茶を含んでいた。
「今日、学校から連絡があってね、それでわかったんだけど、薫、あの子、林間学校なんかじゃなかったのよ」
 佐和子が声をひそめて言った。
「え、どういうことだ?」
「青に、会いに行ってたんですって」
「青に!? なんで、青のいるとこ、薫が知ってるんだ?」
「麻雀仲間からの手紙、見たらしいのよ、青の。それで住んでるとこわかったって」
「で」
「で?」
「あいつ、噓ついて、青に会ってたんだろう? で、なんて言ってたんだ。敬にも会えたのか」
「敬は、わかりませんよ」
「青ならなにか知ってるかもしれないって、俺も思ってた」
「そうかしら」
「青は、元気なのか」
「元気で、学校の先生をしてるって」
「それは、佳乃から訊いた」
「連絡、取ってたんですか」
「そりゃあ、青のこともあるし」
「あら、そう。まあ、別にいいですけど。佳乃さんったら、あなたと連絡取ってることなんて、なんにも言ってなかったわね」
「まあ、いいじゃないか。で、薫は?」
「なんだかお腹痛いとかで、寝てます」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫よ、生理が始まったからでしょ」
「え、そうなのか」
「ええ、佳乃さんから連絡がありました」
「ああ、もう、連絡があったのか」
「あったわ。心配してるといけないからって」
 実際には佐和子の方から連絡を取ったにも関わらず、その頭の中で組み立てた論理で物事が進んでいるのだった。
「じゃあ、その時教えてくれればいいのに」
「心配ごとを増やすこともないかと思って」
「なんだよそれ、俺は、薫の父親なんだぞ」
「ほとんど顔も合わせてないじゃない」
「それは、しょうがないじゃないか、仕事があるんだから」
「春枝さんは、いい人だわ」
「……あ、ああ……」
「私が見つけてきただけのことはあるでしょう」
「まあ、そうかもしれないな」
「だから、こんど生まれてくる子のことは、しっかり見てあげなさいよ。私も、さすがに面倒を見られるのは、今度が最後だって思うから、しっかり育てるわよ。今度こそ。どこかにふらふら出かけたりなんて、しないような子に」
「……もしかして」
「ポ……、敬のこと、ほんとうは知ってるんじゃないのか。どこで、なにをしてるか。なにか、援助してたりするんじゃないのか? 母さんが」
「なにを急に言い出すの、この子は。もしそうだったとしたら、なんであなたに隠さなくちゃいけないんですか。私が敬をこそこそ匿わなくちゃいけない理由なんて、どこにあるの?」
「それは、ぜんぜんわかんないけど……。だいたい、母さんの考えてることなんて、なんにもわかんないからさ」
「あなたは誰のことも分からないままでしょうね。でも、いいのよ、それで。深く考えない方がうまくいくのよ。この家も、いろいろあったけど、まあなんとかそれでうまくやってきたんだから」
「うまく……」
 佐和子は、骨だけになった真一の秋刀魚の尾を、指でつまんでぶら下げた。白い骨が、たよりなげに揺れた。真一は、無言でその動きを追った。

 薫は、目をぱっちりと開いたまま、夜の暗闇の中に起き上がった。部屋の電気をつけることなく手探りで自室のドアをそっと開き、廊下に出た。つま先立ちで音を立てないように、隣の敬の部屋へとむかった。
 ゆっくりゆっくり、どんなに小さな音も立てるものか、という心持ちでドアノブを回した。それからそうっと扉を開いた。
「え?」
 違和感を覚えながら部屋のスイッチを押し、電灯をつけた。明るくなった部屋を見回して、薫は息を飲んだ。部屋が、違う。すっかり片づけられている。
 麻雀をするために万年床のように置きっぱなしだった炬燵(こたつ)が片づけられ、畳がぽっかりと顔を出していた。ほんのり青い。机やタンス、ベッドなど家具はそのまま置かれていたが、床に落ちていたものはすっかりなくなり、机の上に置かれていた棚は取り除かれ、何も置かれていない平たい面がつめたく光っていた。
 薫は震える手で机の引き出しを開いた。中はからっぽだった。すべての引き出しを急いで開いたが、何一つ、入っていなかった。麻雀の牌も、青の手紙を入れていた牌の箱も、点数票も、司法試験の受験票も、なにもかも、なにもかも、なくなっていた。
「ひどい」
 薫は、敬がこれまで生きていたということを抹消されたような気がして、真夜中の部屋の真ん中で呆然と立ちつくした。

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著者プロフィール

東 直子(ひがし・なおこ)

1963年、広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。歌集に『青卵』『東直子集』『十階』。
2006年、『長崎くんの指(文庫改題『水銀灯が消えるまで』)』で小説家デビュー。小説、エッセイ集に『とりつくしま』『さようなら窓』『ゆずゆずり』『千年ごはん』『鼓動のうた』『キオスクのキリオ』『いつか来た町』『いとの森の家』、共著に『回転ドアは、順番に』『愛を想う』『短歌があるじゃないか。』など、著書多数。
最近では自著や歌誌「かばん」に描くイラストも好評。この連載ページ上部のイラストも著者自身による。

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