キノノキ - kinonoki

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東 直子(ひがし・なおこ)

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第5回

2015.09.18 更新

 その日、薫は青の部屋に泊めてもらうことになった。事情を聞いた学校側は、ゲストルームを使ってもいいと提案したが、姉妹なので大丈夫ですよ、と青がそれを明るくことわったのだった。
 薫は、春枝に林間学校で二泊する、とあらかじめ伝えておいた。春枝はおっとりと、あらいいわねえ、と言って目を細めただけで、場所や内容など、くわしいことを訊いたりはしなかった。どこに行くのかを訊かれたらこう答えよう、なにをするかを訊かれたら、こんなことをするとか言おうと、架空の林間学校の内容を準備していた薫だったが、一気に気が楽になった。自分に対してのんびりと無関心でいてくれる春枝に、感謝したい気持ちになった。
 佐和子には、学校の行事ですって、と春枝を通じてさらにざっくりした内容になって伝わり、佐和子もあらそう、の一言で軽く流したあとは、それを真一に伝えることもなかった。朝早く出勤し、深夜に帰宅する真一は、平日薫と顔を合わせることがなく、いてもいなくてもわからないからである。
 寄宿学校への山道を想定した当日のいでたちは、薫が林間学校に行くということをだれにも疑わせなかったのだった。

 青の部屋にある簡易シャワーを、薫は先に使わせてもらった。Tシャツとスウェットパンツに着替えて戻ると、青が真っ裸で立っていたので驚いた。薫が息を呑んだのに気付いて、ああごめん、と青が謝った。
「ずっと女ばっかりのところで暮らしてきたからさ」
 青は鼻歌を歌いながら、裸の胸をつきだすようにシャワー室へと入っていった。
「すごい……」
 薫は思わず小さな声でつぶやいた。青の身体は、手足がほっそりしているわりには胸のふくらみは豊かで、白くてなめらかな肌をしていて、子ども心にも美しい身体だと思った。あんなにきれいな身体を、こんな山奥に押しこめるように暮らしてるなんて、なんかもったいない。薫はそう思いつつ、押しこめられるような毎日も悪くはないな、とも思った。
 シャワーを浴びた青は、白いタオルを肩にかけ、濡れた髪のまま冷蔵庫を開けた。
「飲む?」
 薫の前にコーヒー牛乳の瓶を差し出してから、あ、コーヒー苦手だったんだっけ、と、その手を少し引いた。あ、いえ、こういうのは、ぜんぜん、学校でも、と薫があわてて言いながら手に取った。
「そっか、そういえば小学校の給食でも出たっけね。ここの購買部でもこういうのは売ってるのよ。やっぱお風呂上がりは、これだよね〜」
 薫は軽く頷いて、瓶の紙の蓋を取った。薫が一口をゆっくり飲んでいる間に、青も冷蔵庫から取り出したコーヒー牛乳の瓶を豪快に傾けて、ごくごくと飲み干していった。
「私の母親も、ここに住んでる」
 コーヒー牛乳を飲み終えたあとの沈黙を、青が静かに破った。
「え、ほんと? お母さんも、先生?」
「ううん、寮で、学生の世話。ココ、たまに車で通ってくる人もいるけど、生徒も先生も、事務とか掃除の人とか、基本、学校の中で寝泊まりして仕事してる。住む場所、仕事する場所、勉強する場所が一体化してるってわけ。母子家庭が生きのびるためにここにやってくるなんて、なかなかのアイディアでしょ」
「……あの……あの家を出たあと、二人とも、ずっと、ここに……?」
「そう、ずっと。あの家から直(ちょく)でココに来て、ずっと、ココ。私も山を下りないまま、就職しちゃったのよね」
「この学校が、好きだから?」
「うーん、どうかな」青はくすりと笑った。「それより、ポートーを見つけなきゃ」
 青はまっすぐに薫を見た。薫は、下唇を軽く嚙んで、こくりと頷いた。

「薫ちゃんがいないと、静かですねえ」
 春枝は、庭に面した窓から、空を眺めていた。
「ほとんど満月。いや、満月そのものなのかな。あの月、今ごろ眺めていたりするのかしらねえ」
「あいつは、ほとんどしゃべらないだろう。あいつがいないから静かなわけじゃない」
 真一は、春枝の横にあぐらをかいて座っている。
「たしかにあまりしゃべらないけど、気配はとてもにぎやかよ」
「気配?」
 春枝は、歯茎を少しのぞかせて、にまっと笑った。
「いろいろ考えてるのよ、薫ちゃんは。いろんな考えを、言葉にしたりなんてしないで、流れの早い川にビーチサンダルがさらわれていくように、思考が、どんどん流されていってるの。それがわかるから」
「へえ……」
 薫の内面のことなど、慮(おもんばか)ったことのない真一は、春枝の話に心から感心する。
「まあそういやあ、なにかいつも考えているふうではあったな。黙ってるから、なに考えてるか、わからんが」
 春枝は、手を伸ばして真一が床についている手の上に、自分のてのひらを載せた。
「わかろうとなんて、しなくていいのよ」
 ゆっくりと言いながら、もう片方の手で、自分の下腹に触れた。少しふっくらとしているが、それはもともとの春枝の体形によるもので、新しい命の影響はまだわずかである。しかし、そこにてのひらを当てると、じわじわと温まるのを春枝は感じていた。結婚さえあきらめかけていたのに、こんなに順調に子どもができるところまでたどりついて、春枝は心から満足していた。
「名前、なににしましょうかねえ。薫ちゃんにとっては、初めての妹か、弟でしょう」
 そう言いながら春枝は、真一の身体に自分の身体を預けた。真一は、う、ああ、うん、そうだなあ、と小さく声をちぎった。
 二人の背後に、足を少し開いて、佐和子が静かに立っていた。

 青に届いた敬の最後の手紙を、薫は見せてもらっている。青は、ベッドの上でストレッチに余念がない。

《青、お元気ですか。
 いつも、手紙をくれて、ありがとう。
 ぼくは、相変わらず、です。
 これからも、相変わらず、なんだけど、
 でも、たぶん、手紙は、
 しばらく、読めなくなる、
 かもしれないから、送らなくても、いいと、
 思ったりも、します。

 じゃあ、元気で。

 青は、いつまでも、お元気で。

              ポートー》

 点の多い文章だと感じながら、薫は、敬が書いた文章を読むのは初めてだと気付いた。こんな字で、こんなふうに書くんだ。丸っぽくて、粒がそろった小さな文字。さよなら、とは書いてないな、と思ったところで、ふいに鼻の奥が痛くなって、涙があふれてきた。目を固く閉じて、涙が落ちるのを止めようとすると、咽喉(のど)の奥から、がまんができない、という感じに、くぅ——————、と高い声が漏れ出てきてしまった。
「どうした?」
 青が、逆さ自転車こぎの体勢で声をかけた。と、薫の中でなにかが決壊し、大きな口を開け、上を向いたまま子どものようにうわーんと泣き出した。青はあわててベッドから下り、薫を抱きしめた。そうか、と薫に聞こえるか聞こえないくらいの小さな声でつぶやいた。
「そうか……」
 二度目の「そうか」は、もう少し大きな声だったが、薫の豪快な泣き声にかき消された。
 薫は、泣かない子どもだった。泣いても無駄であることを、赤ん坊の頃から佐和子によって知らされてきたのだ。こんなに大きな声で泣いたのは、記憶にある限りでは初めてのことで、しかし、自分でも制御できない大きな力が身体の奥からこみあげてくるその感覚に、薫自身がとまどっていた。しかし、青の「そうか」という、低く、しかし温かなその声は、青の胸の奥に、確かに届いた。そんな誰かの声を、薫はずっと求めていた、ような気がした。
(ポートーの声に似ている。いや、似てない。ポートーの声って、どんなだったっけ。)
 薫は泣きながらそんなことを考えていた。
「まあ、今日は、余計なこと考えずに、このまま寝なよ。疲れてるだろうし」
 そう言われてはじめて、自分が疲れていることに気付いた。ん、と、返事ともつかないような返事をひとこと発して、布団にうつぶせに寝転がると、とたんに深い眠りに落ちた。

 次に薫が目を覚ましたとき、「授業に出てます」という書き置きだけが寝室の机の上に残されていた。しかし、水を使う音がして、そっとドアを開けてダイニングのほうをのぞいてみると、起きた? と声をかけられた。青ではない。思わず、きゃっと声を上げてしゃがみこんだ。
「ああ、びっくりさせてごめんねえー。ご飯、食べるでしょ。ああ、私、青の母親。青に様子見といてって頼まれちゃって」
「あ、ああ……」
 薫はそろそろと立ち上がり、ゆっくりとダイニングへ足を踏み入れた。青の母親、つまり佳乃は、ひっつめにした後ろ頭を見せたままシンクの前に立ってなにやら調理をしていた。
「卵焼き、甘いほうがいい? 私はあんまり甘くしないほうが好きなんだけど」
 薫が答えず黙っているので、佳乃は、ん? と眉を上げて振り返った。痩せていて、ほうれい線の目立つ顔だが、きつい印象はない。
「た・ま・ご・や・き」
 佳乃は、笑顔で一文字、一文字確認するように問い直した。
「あま、あまく、ないほうが、いいです。あ、ありがとう、ございます」
「あら、礼儀正しいのね。さすが、佐和子さんの孫ね。ま、同じ孫でも青はどうだかわかんないけど」
 佳乃が焼いた卵焼きは、だし汁などを足さずに、塩と胡椒で味付けしたものをバターで焼いた、オムレツのような味だった。佐和子がいつも作ってくれる、だし汁の入った甘くて柔らかい卵焼きとまるで違い、薫は湯気を立てるそれを見た途端、へえ、と声を上げた。
「佐和子さんのとは、違うでしょ。私のもともとの家では、卵焼きっていうと、これなの。楽にできるからね。私の実の母は、だいたいこういう人だったわ」
 まっしろなご飯の横には、ほうれん草の入ったみそ汁、黄色い沢庵、くし切りにしたトマトが添えられていた。
「青が冷蔵庫に入れてたもので適当に作ったものだけど、召し上がれ」
 はい、でもあの……、と薫は戸惑っている心を示すように、佳乃に目線を合わせたまままばたきをした。
「ああ、私? 私はいいのよ、もう食べてきたから。寮母(りょうぼ)の朝は、とっても早いのよ」
 薫は、壁の時計をちらりと見た。八時を過ぎていた。こんなに遅い時間まで自分は寝ていたのかと、今さらながら驚いた。
「じゃあ、いただきます」
 薫は神妙に手を合わせ、一瞬目を閉じた。
「はい、しっかり食べてください」
 薫がふたたび目を開けたとき、にっこり笑う佳乃とばっちり目が合った。なんでこの人、自分に笑顔なんて向けられるんだろう、自分が生まれることで、家を追い出されたのに。そう思ったとたん、つん、と鼻の奥が痛くなり、また泣きそうになったが、こらえた。
「おいしいです」
 しぼりだすようにそう言い、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「見られてたら、食べにくいか。まあ、それ、食べてて。また、様子見に来るから」
 佳乃が立ち上がると、薫も箸を持ったままあわてて立ち上がった。
「あの」
「え?」
「あの……」
 薫は、なにか言いかけて、言えず、空中に浮かせていた箸を握ったままの手を下ろし、箸をテーブルの上に置いた。
「ごめんなさい」
 とても小さな声だった。
「は?」
「ごめんなさい」
 今度は少し、声が大きくなった。
「あやまったりなんて、ダメ。あなたはなにも悪くない。ね?」
 薫は黙ったまま佳乃を見た。
「ね?」
 薫は、まだ黙り続けている。
「ポートー、見つけたいんだよね。一緒に、見つけようね」
 薫の、力をこめて結んでいた口が、かすかにふるえた。ふるえを止めるように、くちびるにさらに力を入れると、こっくりとうなずいた。
 
 真一は、佐和子が持ってきた茶わん蒸しに、小さな木のさじを差し入れた。さじはなめらかに淡い黄色の中に沈んでいく。軽く一さじ掬(すく)って口の中に入れて溶かしながら、不思議な酸味を感じていた。
「春枝さん、いい子でしょう」
「あ、ああ、まあな」
「私が選んできただけあって」
 真一はふっと鼻から息を漏らした。
「母さんのすること、言うことには間違いがないって、この年になって、ようくわかりましたよ」
「そう、よかった。熱いお茶飲む?」
「あ、はい、お願いします」
 佐和子は返事のかわりにゆっくりとまばたきをし、お茶を淹れにいくためにくるりと背を向けた。
 そうだよ、結局のところ必ず、この人の思う通りになっていってしまうんだ。その背中をじっと見つめながら、真一は思う。でも思う通りにしていていいのだろうか。せっかく育てた子どもたちが次々にこの家を去っているのも、この人の望んだことなのか? 自分の意に沿わない人の子だから……。
 一瞬身体が震えるような感覚を覚えたが、まさかそんな、とすぐに否定し、茶わん蒸しをまた一口含んだ。やはりすっぱい。すだちでも入れたんだろうか。それとも……。考えているうちに突然睡魔が襲ってきた。もうろうとした頭に、ポートー、いや、敬は、捜してやらなくていいのか。このまま、このままでいいのか、と、普段は心の底に抑えつけている疑問がわき上がってきたのだった。

 佳乃が作った朝食を食べ終えると、薫は食器類をすぐにシンクに運び、使ったお皿を一枚一枚丁寧に洗い、布巾を使ってきゅっ、と音が出るまで拭(ふ)いた。小さな食器棚には、なにもかも一種類ずつの皿やコップが並べてあった。同じ皿が、最低十枚ずつくらい並ぶ、自分の家の食器棚とは全く違う様子のその棚をしばらく感心して眺めた。眺め飽きて、ふたたびダイニングの椅子に腰かけると、薫にはもう、することがなにもなかった。
 ポートーを捜しにきて、ポートーは、いない。
 薫は、一人になった部屋をもう一度見渡してから、ポケットに手を突っこんだ。中から麻雀の牌を二つ、取り出す。ハクとイーソー。ポートーを捜す旅のお守りとして、敬の部屋から持ち出したのだった。
 ダイニングテーブルの真ん中に二つを立てて並べ、しばらく眺めた。
「ポートー、ここにはいませんでしたね。いま、どこにいますか。たのしく、くらしていますか」
 窓ガラス越しに、きーんと耳に響く鳥の高い鳴き声が響いた。
「あおさんに、わたしの、おねえさんにあいました。とてもすてきなひとです。このひとと、いっしょにくらせたらよかったのに、とおもいました。でも、あのいえでいっしょにくらせなくしたのは、わたしとわたしのおかあさんなのですね」
 演技の下手な子役のように、棒読みで牌に語りかけた。語りかけながら、なんて恥ずかしいことをしてるのだろう、と薫は思った。
 ここにはポートーの入りこむ隙はどこにもない。この山の中の学校は、中高大、すべて女子校なのだ。
 薫は、二つの牌を同時に握って、ポケットの中に戻した。と、突然とてつもない眠気に襲われ、ふらふらと寝室に行き、ベッドの上にどかっと寝転がった。いろんな匂いがする、と思う。どこにもない、ここだけの匂いがする、と。そして生きていても、いなくても変わらないのは、ポートーも自分も同じだと思う。それなら、ここで、この白いシーツの隙間にずっといさせてもらいたい。あのやわらかいポートーのかわりに、いろんな匂いのするシーツをもらうんだ。
 ポートー……生きているの……?

 カチャン。
 かすかな音が聞こえて、春枝は目を覚ました。
 カチャン……カチャン、カチャン……。
 断続的に続くその音に、春枝ははっと飛び起きる。
「お皿……、すみません」
 音は、キッチンで佐和子が食器を洗っている音だった。
「いいのよ、春枝さんは休んでて。だるいでしょう。赤ちゃんのためにも」
 口調はおだやかだが、佐和子は真顔のままである。最初はそのことにぎょっとした春枝だったが、いろいろ親切にしてくれる態度は一貫していたので、そういう顔立ちなのだろうと春枝は解釈し、悪いようには取るまい、と思った。いろいろな人間関係が悪くなる要因は単なる深読みである、というのが、春枝のこれまでの人生で得た教訓なのである。
 なにごとも悪いように思わない。今起こっていること、今なさねばならないこと、それが最良のことなのだ、神様がこの場所に連れてきてくれたのだ、なにがあっても結果的に悪いようにならない。
 そう思いながら、「悪いようにならない」の「悪い」って、具体的にはどんな状態を指すのだろうか、と思った。どんな状態も「悪い」とさえ思わなければ、悪くない、のだ。夫となった人のことが好きかどうか、夫の母親と仲良くなれるかどうか、夫と前の人との間の子どもが懐いてくれるかどうか、新しく生まれてくる自分の子どもが、いい子に育つかどうか、そんなことの全部が、気にする必要のないことなのだ。いくら思いわずらっても、ものごとはなるように流れていって、どうしようもないものなのだ、思いわずらってばかりで過ぎていく時間は、損だ。
 春枝は、そんな結論に至るまで長い時間をかけて考え通し、満足そうに長い息を吐いた。
 私はこの世界から愛されている。どんなに苦しい思いをしても、私はこの世界から愛されるために生まれてきた。私は、誰にも負けない。美しくも、立派でもないけれど、誰にも負けない心だけは持っている。何も欲しくない。胸の中に静かな心が一つあれば、それでいい。
 春枝は、窓を少し開いてまぶしそうに空を見た。
「あら、雨が降ってきたみたいです」

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著者プロフィール

東 直子(ひがし・なおこ)

1963年、広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。歌集に『青卵』『東直子集』『十階』。
2006年、『長崎くんの指(文庫改題『水銀灯が消えるまで』)』で小説家デビュー。小説、エッセイ集に『とりつくしま』『さようなら窓』『ゆずゆずり』『千年ごはん』『鼓動のうた』『キオスクのキリオ』『いつか来た町』『いとの森の家』、共著に『回転ドアは、順番に』『愛を想う』『短歌があるじゃないか。』など、著書多数。
最近では自著や歌誌「かばん」に描くイラストも好評。この連載ページ上部のイラストも著者自身による。

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