キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

東 直子(ひがし・なおこ)

緑 ブック・カバー
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第6回

2016.09.16 更新

「薫、散歩しよっ」
 ドアが開くと同時に青の声が部屋中に響き、薫はバネ式の機械のようにベッドの上で跳ね起きた。
「さ、さんぽ……」
 窓の外を見ると、まだ明るい。水色の空にふわりと白い雲が浮かんでいる。
「えと、もう、学校は?」
「今日やんなくちゃいけない授業は終わったから。学校の部活でものぞく? それとも、学校の裏の山、行ってみる?」
「山」
「即答だね。わかった。とっておきの場所があるよ」
 薫はベッドからすとんと降り、両てのひらで頭を軽くたたいて、髪の乱れを正そうとした。それを見た青が、あ、ブラシならあるよと言いながらブラシを持って薫に近づき、その頭を軽く押さえて短い髪の毛をとかした。
「子どもの髪って、どうしてこうつやつやなんだろうね。でも、薫のは、特にきれい」
 薫は、突然ほめられて顔が熱くなり、思わずうつむいた。誰かに髪を梳(す)いてもらった記憶は、これまでになかった。
「これ、ブタ毛のブラシだから、さらにつやつやになってきた。これさ、実は佐和子さんのなんだよね。出ていくとき、勝手に持ってきちゃった」
 薫は、思わず青の顔を見たあと、その手が握っているブタ毛のブラシを注視した。
「出ていく日の朝もいつものように使ったあと、そのまま荷物に入れたんだよね」
 薫は、すでに真っ白だが毛量は豊かな佐和子の髪を思い出した。そういえばこんな感じのブラシで髪をとかしている後ろ姿を見たことがある。じゃあ、あれ、又同じようなの買ったんだ。薫は、目を閉じてその姿を思い出しながら、髪を触る青に大人しく身をゆだねていた。
 
 その後、青が着替えるのを待っていると、戸を叩く音と同時に入りまーすよー、という声がして佳乃が入ってきた。青が電話で連絡したのだ。片手に籐(とう)の籠を持っている。
「何?」
 着替え終わった青が薫の後ろから佳乃に声をかけた。
「おやつとお紅茶よ」
「なにそれ、赤毛のアン? 佳乃さん、うかれすぎ」
「よしのさん? 青さんの、お母さん、ですよね?」
 薫はとっさに、自分の理解が間違っているような気がして訊いた。
「うん、佳乃さんは、私のお母さんで間違いないよ。だって、昔から『佐和子さん』と『佳乃さん』だったんだもん。薫もそう呼びなよ。おばさんじゃあんまりだし、お母さん、じゃないもんね?」
「私のお母さんは、死にました」
 薫がきょとんと答えた。
「ええ、ええ、そうですってね。だいぶたってから、真一さんから聞きました」
 佳乃がフォローするように言った。すると、えっ、そうだったの!? と青が大きな声を出した。
「え? 前に言ったじゃない、亡くなったって」
「いや、それは聞いてたけど、あの人からっていうのは、初めて知った。佳乃さん、まだ連絡取ったりしてたんだ」
「一応連絡先くらいは伝えておきますよ。私とは他人になったようなもんだけど、青にとっては、たった一人のお父さんでしょ」
「お父さんだなんて思ってないよ」
「もう」
 青の眉間に皴が寄る。この人は、お父さんのこと、ほんとに好きじゃないんだな、と薫は察知する。同時に自分は父親を好きか好きじゃないかなんて、考えたこともなかったな、と思う。薫の眉間にも皴が寄りはじめたことに気づいた青は、ああごめん、どうでもいいことだった、よし、行くか、と薫の肩をぽんと一つ叩いて歩き出し、玄関のドアを開けた。薫はあわててあとを追いかけた。
 佳乃はすでに玄関の外に立っていて、けもの道? 山道? 普通の道? とうたうように青に訊いた。
「けもの道! で、大丈夫かな?」
 青は一度佳乃と目を合わせてから、薫を見た。紺色のTシャツとデニムの長ズボンとスニーカー。ちゃんと林間学校っぽいね、と青があらためて感心したように言い、けもの道、歩けるよね、と訊いた。
 学校の裏手から山を登っていくと、見晴らしのいい開けた場所があり、そこを目指すのだが、そこに行くための経路として、舗装された道と、土の道と、道なき道がある、のだった。三つ目の道なき道のことを、青と佳乃は「けもの道」と呼んでいる。文字通り、なんらかの動物が歩いた形跡のあるところを、二人が草をかきわけて歩いた道なのだった。
 ここに暮らしはじめた当初、なんとなくしょぼんとしている青を佳乃が連れ出し、腕を組んでぐいぐい草の中を歩いたのが最初だった。草や石に足を取られ、枝に引っかかり、葉で顔を打ち、まとわりつく虫を払い、どこに辿りつくのかも分からず、息が上がり、ふっと気が遠くなりかけたときに、光がさあっと一気にふりかかり、青は思わず目をつぶった。ついたー、と佳乃のトーンの高い、叫ぶような声に目を開けると、眼下に緑と遠い街並が広がっていた。きれい、天国みたい、と思わずつぶやいたことを、青は覚えている。
「ここがあるって知ってから、ここを選んで間違いなかったって思った」
 そのとき佳乃が満足そうに青の背後から声をかけた。
 青は、登りはじめてすぐに息が上がってしまっている薫の手を取りながら、遠い日の自分を思い出していた。そして、これから自分たちはどこに行こうとしているのだろう、と草の匂いを乱暴に吸い込みつつ、思った。

 白い英文字が一列に印刷された紺色のTシャツを春枝は丁寧に畳み、その他の薫の衣服の上に重ねた。まとめて持ち上げると、二階の薫の部屋に運んだ。薫の部屋はいつもきれいに整っていて、春枝は感心する。佐和子が常時手を入れていることもあるが、持ち物が少なく、散らかる要素が少ないのである。
 衣服も多くはなく、小さな洋服ダンスに必要最低限の数だけが収められていた。小さすぎるサイズのものはすべて処分されている。春枝がタンスを開くと、目に入るのは、紺か黒かグレー、あるいは白、だけである。小学生にしては地味だこと、とサーモンピンクのワンピースを纏っている春枝は思う。
 ふと部屋を見まわしても、ベッドのシーツや枕カバー、ペン立てなども地味な色ばかりで、ぬいぐるみの一つも置いていない。小学生女子の部屋にはとても見えないわねえ、と春枝は思いながら、ユニセックス、という言葉が浮かんだ。でもまあ、あの薫ちゃんだからねえ、と納得もしつつ彼女の衣服をタンスにしまった。
 薫の部屋のドアを閉めたとき、ふと隣の部屋のドアを見た。少し開いている。これまでにもこの部屋の前を通りかかることがあったが、いつもぴったりと閉じていたため、春枝はわざわざ開いて中をのぞくようなことは差し控えてきた。この家には、使われていない部屋が、他にいくつもあるのだ。先妻、つまり薫の母親がこの家で亡くなったことは知らされていたが、どの部屋を使ったかは聞かされていなかったし、知りたいとも思わなかった。この家の過去のことなど興味はなかった、はずだった。しかし、毎日実際に一緒に暮らしはじめると、物事に頓着しないはずの春枝の心も次第に軋みはじめていた。
 なぜここの家の人たちは、一人一人がこんなにもひんやりとしているのだろう。幼い一人娘を残して母親が病死するという悲しい出来事があった、というだけでは説明がつかない、もっと複雑な何かがあるように思えてならかなった。と同時に、深く立ち入れば、自分も気味の悪い泥に足を取られて、生き辛くなると感じてもいた。
 知らなくていいことは、知らなくていい。真実など、必要ないことである。と、自分の中の理性が言う。しかし一方で、秘密を知りたくてしかたがない、好奇心という名の本能が疼く。この日の春枝にとって、その開きかけているドアは、開いてくださいの合図に思えた。見えない糸に引かれるようにその部屋、つまり敬の部屋の前に近寄ると、そっとそのドアを押した。ドアはその力に抵抗することなく、ゆっくりと開いた。
 こたつと学習机とベッド。本棚には、大学受験用の赤本と法律関係の本が並んでいる。
「あれ?」
 春枝は、うっすらと薫の母親が伏せていた部屋ではないかと思いながらドアを開けたので、予想と大きく違うその部屋の様子に驚いたのだった。おそるおそるタンスを開いてみると、若い男性向けの衣服がぶら下がっていた。
「あっ」
 何か硬いものを踏んだ感触があり、足をどけると四角いものが落ちていた。しゃがんで拾い上げ、まじまじと見つめた。麻雀の牌だった。
「………ウーピン?」

 
 山の下に広がる景色を眺めながら、薫は放心したように両手をぶらんと下げ、やや猫背で佇んでいた。青はその様子を少しはらはらした気持ちで見守っていたが、佳乃は、籐の籠から大きな赤いギンガムチェックの布を取り出して広げ、「ピクニックのお茶の用意」に余念がなかった。
「ささ、お茶にしましょう。疲れたでしょう」
 薫は佳乃のほうを振り向いてこくりと頷いた。笑みを浮かべる佳乃と目が合う。その白い顔が、一瞬ポートーに入れ替わる。とたんに薫の胸の底からなつかしい歌が流れはじめた。

 おおーまきばーはーみーどーりー
 くさーのうーみーかぜーがふーくー
 おおーまきばーはーみーどーりー
 よくーしげったーもーのーだ
 ほいっ

 薫は、自分の身体の内側が緑色にどんどん染まり、目の前に広がる緑の中に、同化していくような感覚に襲われる。
「緑が、すごすぎる……」
 青は、意味がわからず、ん? と訊き返した。
「こんなに、こんなにすごい緑。誰にも、見つけられない」
「見つけられないって、それ、ポートーの、こと?」
 薫は答えず、唇をぎゅっと嚙んだ。
「まあ座って」
 ギンガムチェックの上で足をくずして座った佳乃が手招きをする。
「会えたわよ、私たちは。というか、薫ちゃんが、会いにきてくれたんじゃない」
 薫は無言のままそこに座り、佳乃が「お紅茶」と言って差し出した紅茶を飲んだ。水筒の蓋に注がれたそれは、あたたかく、甘かった。一口のあたたかみが咽喉を通り、胃に落ちていくのを感じつつ、すっと一度鼻をすすった。
「ポートーも、こんなふうに会いにきてくれたらねえ」
 風にめくれる布をしゃがんで押さえながら、青が言った。額に風を受けながら再び景色を見つめる薫の胸の中にふたたび「おお牧場はみどり」の旋律が流れはじめる。
「おおーまきばーはーみーどーりー」
 かすれた声で、胸に浮かんだ旋律をなぞるように歌いはじめた。すぐに青が歌声を重ね、佳乃が続けた。三人の歌声は、不思議なほどぴったりと寄り添い、深い緑色の山をなでる風のように流れ出した。

「あの、二階のお部屋は、誰の、というかなんのお部屋なの? 男の子のお洋服があって、床に麻雀の牌が落ちてたみたいですけど」
 春枝が真一に尋ねるのを、佐和子は耳に挟んだ。視線が定まらないまま、ああ、あれはだなあ、なんというか、実は、えっと、とあやふやなことばかり口にする真一の声を、佐和子が、大学生をね、と言って遮った。
「大学生をね、住まわせてあげてたことがあったのよ。それで」
「大学生というのは、下宿生……」
 佐和子の言葉を、今度は真一が遮った。
「おれの息子だ」
「え?」
 春枝が、今まで見せたことのない、ゆがんだ顔をした。
「真一!」
 佐和子がひどく低い声で叫んだ。
「すぐに分かってしまうことじゃないか。どうせなら、早いうちに分かっていたほうがいいんだ」
「息子さんが、いたの? 麻雀、するような?」
 春枝はすでに冷静さを取り戻し、かすかに笑みを浮かべている。なんだ、たいして気にしないクチなのか、と真一は一瞬気が楽になった気がしたが、春枝の唇の端が一瞬ピクッと痙攣したのを見逃さなかった。
「それで、今は、その方、どこにいらっしゃるんですか?」
 しかし春枝がゆっくりとそう言い終えたときには、もう唇の痙攣はおさまっていた。

 
「スコーン、焼いたのよ、さっき。生地を冷凍しておいたのがあったから。食べるわよねえ」
 佳乃の手から、薫の小さな手ですっぽり包めてしまうような小さなスコーンが手わたされた。薫はまず、くんくん、と匂いを嗅ぎ、いい匂い、と心の中で思ったあと、小さな声で、いただきます、とつぶやき、スコーンを齧った。とたんにほろほろとくずれ、口の端からこぼれた。赤い布の上に落ちた薫の食べこぼしを、すぐに風がさらった。
「おいし」
 薫はうつむいたままつぶやいた。
「おいしいか、よかった」
 と言いながら、青が薫の横に座った。
「あのさ、薫。薫も、ここ来る?」 
「え?」
「ここの、この学校に入学するってこと。つまり、ここで暮らすってことだよ」
「この、学校。山の、中の」
「そう。あの家さ、佐和子さんの。あ、佐和子さんのってこともないけどさ、その、ちょっと、息苦しいとこあるじゃん。私は、案外佐和子さんのことは嫌いじゃなかったけどさ、なんか、ね。それに、シンイチ、いいかげんだしさ。居づらいじゃん、子どもには、なんか」
「……………」
「またさ、新しいお母さん、来るんでしょ、じゃなくて、もう来てるのか」
「うん」
「で、新しい妹だか、弟だか、が、もうすぐ生まれるんでしょ」
「……うん」
「私さ、家を、突然追い出されることになって、そりゃあ、ヤだったよ、腹立ったよ。むちゃくちゃ悲しかったよ。だけどさ、あそこから出て、何年も経つとさ、つくづく思うんだよね。ああ、よかったなって。あの家出られて、ほんっと、よかったなって」
 薫は、視線をちらりと佳乃に向ける。薫を、青と挟むようにして座っている佳乃は、放心したように遠くに目をやっている。薫はふたたび青に顔を向け、ここの方が、いいの?と訊いた。
「うん。自分の、自分だけの時間を生きてる気がしたよ」
「山から、降りないの? ずっと、ここにいるの?」
「降りても、いいんだけどさ。ここで、十分じゃん、って思えたから、ここにいる」
「なんで?」
「え、なんでって?」
「なんで、ここで十分って、思えるの?なんで、他のところに行かなくてもいいって、決められるの? なんで、あの家じゃないほうがいいって、分かるの?」
「ううん、そうだなあ。あらためてそう聞かれると、うまく言えないんだけど、えーっと、なんとなく」
「なんとなく」
 そう繰り返す薫の眉間に淡く皴が寄っているのをみとめた佳乃は、なんとなくって、いいものよ、とゆったりと言った。
「なんとなくって、理由がないようにみえて、あるのよ、かならずそうすべき理由が。なんとなく選びとったものが、その人にとっていちばんいいほうを選んでいるものなのよ。いいいのよ、薫ちゃんは、薫ちゃんがなんとなくいいと思うほうを選んで」
 そうそう、と青が続ける。
「ここに入ってもいいし、家に戻ってもいいし、別のところに行ってもいいし。薫の人生は薫が選んでいいってこと」
「選ぶ」
「そう、自分で選ぶ。その選択肢の一つとして、ここに来てもいいんじゃないかなって、おすすめしてるわけ」 
「じゃあ、青さんは、どうして選ぶことができたんですか、ここに住むこと」
「いや、最初は選ぶもなにも、私もまだ子どもだったからさ、佳乃さんが選んだところに付いていくしかなかったってだけで」
 薫は思わず佳乃の顔を見た。佳乃はそれに気づき、少し戸惑ったように二、三度まばたきした。青は、佳乃に問いかけるように目を合わせた。佳乃がふたたびまばたきをして、私には、ここしかないように思えたわ、と低い声を出した。
「ここ以上に安全で安心な場所もないわよ。なんだか尼さんになったみたいではあるけど、ここで死ぬので、かまわないって、強く思ったわね。こんなに静かできれいなところにも、すぐに来られるし」
「という、私の母親の心に共鳴しちゃったのかもね」
 青が、頭をこりこりと掻いた。その時、自分には共鳴できる母親がいないのだという事実に、薫は気付く。ここに入るってことは、青と自分との違いをつきつけられながら暮らすってことなのだ、と思う。でも家に帰っても、きょうだいだけれど、ほんとうの母親のいる弟か妹と、暮らすことになるわけだから、こういう気持ちのもっと濃いのを味わうってことかもしれなくて……。
「きゃっ」
 ふいに突風が吹いて、思わず目を閉じた瞬間に、薫は手に持っていたスコーンを落とした。スコーンは風にあおられ、砕けながら、転がり落ちていった。
 風が吹いたとき、佳乃はとっさに籐籠を押さえ、青はめくれあがった布を押さえたので、薫のスコーンの行き先は見ていなかった。薫は、空になった手のひらをつくづくと見た。
「私、帰ります」
 薫は、スコーンとともに去っていった風に返事をするかのように、視線を遠くに預けたまま言った。空に浮かぶ雲が、やわらかな桃色に染まっていた。

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著者プロフィール

東 直子(ひがし・なおこ)

1963年、広島県生まれ。歌人、作家。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。歌集に『青卵』『東直子集』『十階』。
2006年、『長崎くんの指(文庫改題『水銀灯が消えるまで』)』で小説家デビュー。小説、エッセイ集に『とりつくしま』『さようなら窓』『ゆずゆずり』『千年ごはん』『鼓動のうた』『キオスクのキリオ』『いつか来た町』『いとの森の家』、共著に『回転ドアは、順番に』『愛を想う』『短歌があるじゃないか。』など、著書多数。
最近では自著や歌誌「かばん」に描くイラストも好評。この連載ページ上部のイラストも著者自身による。

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