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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第9回

2017.05.24 更新

「ねえ、私のシルクのカットソー知らない?」
 駒子はパジャマのまま階下に下りてきて、キッチンにいる達彦に問い掛けた。
「シルクのって、白いやつ?」
「うん。見当たらないんだけど」
「どうしたっけ……」
 達彦は料理をする手を一瞬止めて、考える。
「ああ、ごめん、まだクリーニングから取ってきてないや」
 駒子は調理台の上の皿をちらりと見て、朝食のメニューをチェックする。今朝はベーコンエッグにレタスにトマトときゅうりのサラダ。それにトースト。栄養バランスは取れているが、三日連続で同じメニューだ。少し前まではもっと凝ったメニューを、日替わりで出してくれたものだが。
「ええっ? 前に着たの、もうひと月前だよ」
「ごめん、ごめん。出張とか入ったから、取りに行くの、うっかり忘れていた」
 最近の達彦は、そういうことが多い。仕事を再開してまだ慣れていないせいか、家事が前より雑になっている。だが、それを責めるわけにもいかない。
「じゃあ、ほかのを着ることにするわ」
 駒子はそう言って寝室に戻る。
 あれは勝負服だから、ほんとは着ていきたかったんだけどな。
 今日は気の張る会議だ。新規事業部になって初めての部長会議。駒子は次長だが、いまの部署にまだ部長はいない。書籍事業部の権藤が名目上は部長だが、一時的なものだからと、こちらの仕事にはノータッチだ。部長会議には駒子と岡村梓の両方が出るように、と言われている。
 しかも、いきなり新部署の事業計画を発表しろ、ということだ。それで、岡村に、どういう内容を発表するかすりあわせしよう、と提案したが「それぞれ、これからやることを発表すればいいんじゃない? そんなことで打ち合わせをする時間がもったいないわ」と一蹴された。同じ事業部だが、まるで他部署の人間のようだ。岡村にとっては、駒子の部署は関係ないもの、と思っているのだろう。
 駒子はクローゼットからグレーのスーツを取り出す。気の張る会議の時は、これとシルクのカットソーが定番なのだが、今日は別のインナーにしなければならない。
 簞笥(たんす)の引き出しから白いレースのカットソーを取り出した。
 シルクのじゃなければこれかな。長袖だから、いまの季節にはちょっと暑いかもしれないけど。
 駒子はカットソーに腕を通し、さらにパンツスーツを身に着けて鏡を見る。
 ちょっと地味かな。でも、派手すぎるよりはましかも。おじさんばかりの会議だから、派手にすると悪目立ちするし。これに、パール一粒のネックレスもつけて行こう。そうすれば少しは華やかに見えるだろう。
 今日の会議にはどんなメンバーが集まるんだろう。部長会議は各部署の部長以外に、専務や常務も顔を出すことがあるらしい。今日は重要な案件はないから、専務までは来ないだろうけど。それにしても、いままで部長クラスが揃ったところで発言する機会なんてほとんどなかったから、やっぱり気が重いな。偉い人はなるべくいないといいんだけど。
 しかし、その考えは、会議室に入った瞬間に『甘かった』と気づいた。会議室の奥の上座には専務も常務も座っている。
 うわ、会社の偉い人、勢揃いだ。今日に限って、どうしてなの?
 入口のところで駒子が立ち竦んでいると、
「あちらに座りましょう」
 と、後ろから岡村の声がする。岡村の姿に思わず目を奪われた。ネイビーのインナーと明るい水色のスーツにヴァン・クリーフ&アーペルのブレスレット。いつものパンツスーツではなく膝丈のスカートで、かたちのいい脛を見せている。初夏らしいさわやかなコーディネートだ。それに比べると、自分のグレーのパンツスーツは重苦しい。フォーマルを意識したつもりだが、岡村と並ぶと、季節外れで野暮に見えるだろう。
 ただでさえ気後れしているのに、駒子はますます身の置き所がない。会議室の出入り口に一番近い下座の席にふたり並んで座った。そこから全体を見回す。全員で二〇人ほど。机は会議室いっぱいにロの字型に並べられているので、それぞれ内側を向いて座る形になる。出席しているのは、社員総会でいつも檀上にいるような顔ばかり。全員ダークな色のスーツを着用していて、平均年齢も高い。五〇になったばかりの書籍事業部の権藤が若手に見える。
 場違いだなあ。
 自分と岡村の二人だけが女性。嫌でもほかとの違いを意識せざるをえない。それに、部内会議や連絡会議では上座の方に座っているけど、ここでは一番下っ端だ。実際、まだ部長ではなく次長なのだから。
 もうひとりの次長である岡村は、落ち着き払って自分のノートに目を通している。会議で発表する内容をチェックしているのだろう。駒子もそれを真似て自分のメモを見て、今日の発言の予習をすることにした。時間になっても会議はなかなか始まらない。駒子もメモの内容に没頭していたが、ふとざわついていた会議室が静かになった。あれ、と思って顔を上げると、奥の扉から社長が入ってくるところだった。
 思わず「げ」と声が出かかったので、慌てて手で自分の口を押えた。
 上座に座っていた専務と常務が、席を立って社長を誘導する。自分も席を立つべきかと周りを見回したが、ほかの部長連中は座ったままだが、しゃんと背筋を伸ばしている。駒子も慌ててメモ帳から両手を離し、膝の上に重ねる。
「みなさん、揃いましたので、そろそろ始めさせていただきます。社長、よろしいでしょうか?」
 司会を務める総務部の部長が、社長にお伺いを立てる。現社長の棚橋浩介(たなはしこうすけ)は五七歳。三代目というのが通称だ。正確には四代目なのだが、そう呼ぶ人は社内にはほとんどいない。二代目が七年ほど前に事故で急逝し、その妻であり、現社長の母親でもある棚橋衿子(えりこ)が社長に就任した。だから、衿子夫人が三代目のはずだが、彼女が半年経たずに脳溢血で倒れたため、会長職に退いた。もともと衿子夫人は息子の浩介が就任するまでの繫ぎだと思われていたし、就任期間も短かったし、嫁いできた人間だから根っからの棚橋の血筋ではない、ということもあるのだろう。三代目とは認識されていない。衿子社長時代は、なかったことのように扱われている。
「ああ、今日は新規事業部の所信表明があると聞いて参加することにした。……えっと、岡村さんと水上さんだったね」
 社長が満面の笑顔でこちらの方を見る。社長は小柄で小太り、黒縁眼鏡と垂れ下がった頰と顎の肉ばかりが印象に残る。頭も薄くなりかかっていて、押し出しはあまりよくはない。社員たちの前に出る時は、いつも人好きのする笑顔でにこにこ愛想よくしている。だが、それは表の顔で、根はかなりの切れ者で神経質、側近に対しては激しい言葉で叱責することもよくあるらしい。
「はい、そうです」
 咄嗟に答えられない駒子に代わって、岡村が落ち着き払った表情で返事する。
「発表、楽しみにしているよ」
 岡村の方に、いつもの笑顔を向ける。
「ありがとうございます」
 岡村が頭を下げるので、駒子も慌ててそれに従う。
 こんなおおごとになるとは思わなかった。会議資料も、もっと凝ればよかったかな。
 でも、仕方ない。
「では、今年度の上半期の予算達成率についてから始めたいと思います」
 司会が口火を切って、会議が始まった。しかし、会議の内容は頭に全く入ってこない。事前に配られていたレジュメでは、自分たちの発表は最後になるらしい。それまで、淀みなく発表できるように、声を出さないように注意しながら練習していた。
 会議は滞りなく進行し、最後に司会者が言う。
「では、この七月に発足しました新規事業部について、事業計画を発表していただきます。発表はどちらが?」
 みんながこちらを見ている。
 どちらが先にしようか、と駒子は岡村を見るが、岡村の視線はまっすぐ司会者の方を見ている。そして、はっきりした声で告げる。
「現在、新規事業部には一課と二課があります。一課は水上次長が、二課は私岡村が管理しております。それぞれの事業計画を、順番に発表していきたいと思います」
 ええっ、そういう言い方をされたら、私の方が先に発表しなきゃいけないじゃない。
「じゃあ、一課の水上次長、お願いします」
 司会者に促されて、駒子は仕方なく立ち上がる。そして、持参したレジュメを左右に配る。紙の束が手渡しで回されて、各自に行き渡ったのを確認すると、
「お手元の会議資料をご覧ください」
 と、始める。バサバサと紙を広げる音がする。
「えっと、現在一課では『俳句の景色』を中心に、自費出版のビジネスを行っております。それをベースに、自費出版の枠組みをどう広げていくか、ということを検討しております」
 駒子は自費出版ビジネスの現状を語り、後発の我が社がどうするべきか、ということを説明する。
「まずは、ベースとなる俳句の書籍ですが、いままでは句集や歳時記など、俳人を中心にしたビジネスを展開してきました。でも、それでは先細りですし、もっと俳人の枠を広げる試みをしていければ、と思います。そこで、近年テレビなどで俳句に興味を持った若い層を取り込むため、子供向けの入門書、芸能人による句集などの企画を考えています」
 部長連中の反響は薄い。さして目新しい提案でもないことは、駒子自身にもわかっている。気持ちが沈みそうになるのを奮い立たせて、発言を続けていく。
「……自費出版については、従来の句集だけでなく、一般にも対象を広げていくことが大事かと思われます。そのために、文芸誌などを中心に自社広告を打ち、広く告知することが必要です。まだこれは案ですが、新人賞の告知と並べて自費出版の広告を出したり、自分史や小説の書き方講座などを開催し、そこから自費出版の営業へと繫げることも検討しております。また、自費出版の書籍を刊行するにあたっては、書店での取り扱いも可能にするなど、なんらかの付加価値をつけることを検討していければと思います……」
 一通りの説明が終わると、質問タイムに移る。
「宣伝費はどれくらいを見込んでいるの?」
 宣伝部の部長の里中が質問の口火を切った。
「いえ、まだそこまでは試算できておりません。自社広ですので、できるだけ無料での掲載をお願いしたいと思っていますが……」
「書店での取り扱いって、棚を買うとか、そういうこと?」
 続いて、営業部の部長が鋭く突っ込む。自費出版専門の会社では、特定の書店にお金を払い、書店内に自社製品を置く棚を常設しているところもある。
「棚を取るのはタダじゃないし、それをやって見返りがあるだけの売り上げを立てられるの?」
「これは提案のひとつですし、具体的に棚を買うということまではまだ……。でも、自費出版でも良いものは流通に流すということも検討してもいいのでは、と」
 駒子の言葉が終わるか終らないうちに、書籍事業部の権藤部長があざけるような口調で言う。
「それは無理だろ。うちが年間何点出版しているか知ってるか? この出版洪水のなか、プロの作家のものでさえ書店に置かれずに埋もれて行くものも多いのに、数百単位しか出せない自費出版のものを流通に流すなんて、とんでもない」
「ですから、まだ今の段階では検討材料のひとつですから」
「検討するまでもなく、こんな提案は無理だろう。企画書のための企画でしかない」
 権藤の厳しい言葉に、駒子は反論することができない。権藤の言うことは事実である。会議に出すために、急遽希望的な意見を書き連ねたにすぎない。
 会議室は静まり返ってふたりのやりとりを見ている。と、そこへ、
「コミックはどうかな」
 というのんびりした声がした。社長の声だ。みんなの視線が一斉に社長の方へ集まる。
「コミックとは?」
 権藤が問い返す。
「いや、俳句普及のための手段だよ。ほら、最近将棋とか囲碁とかかるたとか、コミックでは和物がヒットしてるじゃない。だったら、俳句だってできないことはないだろう?」
「俳句コミックですか、それは斬新な」
「さすが、社長、素晴らしいご提案です」
 すかさず、みんなは褒め称える。駒子は思わぬ救い主の言葉にほっと息を吐く。
「それはぜひ、実現したいと思います」
 コミック事業部の部長の沖田が力強く宣言する。
「そう、沖田くんのところの『ヒーローズ』でやるといい」
 それを聞いて、沖田の顔がひくっと動いたように見える。『ヒーローズ』はコミック事業部の看板雑誌だ。そこでやれ、ということは、大きく扱え、とプレッシャーを掛けるに等しい。
「最近ヒットしている将棋漫画も、監修がしっかりしている。コミックの中に登場する対局も本格的だ。実際にやってる人間が見ても感心するよ。コミックとしての面白さはもちろんだが、そういうところを手抜きしないことがヒットの要因だろう」
 将棋は社長の長年の趣味である。かなり強いらしく、段も持っているという噂だ。
「うちがやるからには、俳人も感心するようなものにしないと。水上くんと協力して、俳句の面でもいいものに仕上げてほしい」
「はい、わかりました」
 社長の意を汲んで、沖田は表情を和らげ、承諾する。
「それから、水上くん、講座というのはいい発想だ。それ自体でも、ビジネスになるかもしれない。レインボーホールも生かせるし。その辺、少し検討してみてくれないか」
 社長の好意的な言葉に、駒子は救われる思いだった。レインボーホールというのは、一昨年、第一本社ビルを建て替えた時に、一階に作ったフリースペースだ。ちょっとした講演会やファンとの交流会などにも利用できる、という触れ込みだったが、現状はほとんど生かされていない。組合の会合などでたまに利用されるくらいだ。
「ありがとうございます。ぜひ実現できるよう、企画を考えます」
「ではもう時間もありませんので、次、岡村さんの発表の方、お願いします」
 司会の言葉に、駒子はほっとして自分の席にへたり込む。短い時間だったが、神経が疲れた。今日はもうこのまま帰宅したいくらいだ。
「ちょっとセッティングしますのでお待ちください」
 岡村は会議室の隅の机のところに移動した。そこには、あらかじめノートパソコンが置かれている。
「すみませんが、窓際の方、カーテンを閉めてくださいませんか」
 どうやら、プロジェクターを使ってプレゼンするつもりらしい。
 しまった。岡村はそこまで準備していたのか。
 駒子は臍(ほぞ)を嚙む思いだ。
「新規事業部二課の今年度の事業計画について発表させていただきます」
 岡村の落ち着いた声が会議室に響いた。部長たちも、興味津々という様子で岡村の説明を待っていた。

「岡村くんの発表はたいしたものだね」
「さすが、やり手編集者で鳴らしただけのことはある」
 自分の席から動けないでいる駒子の耳に、そんな会話が飛び込んでくる。
 岡村の発表した事業計画は立派なものだった。現状の電子書籍や版権ビジネスの問題点とこれからの展望を、パワーポイントで作った表やグラフを駆使して、わかりやすく説明した。
 そして、何より注目されたのは、電子書籍の海外販売についてだった。
「我が社は特に海外でのコミックの売り上げの比率が高い。メディアミックス戦略が功を奏して、欧米でもコミックの需要は伸びています。しかし、同時に海賊版の増加によって、売り上げに大きなダメージを受けています。そこで、海外でのコミック展開は、電子書籍を主眼に切り替えていきたいと考えています。国内のコミック雑誌販売と同時に、英語版の電子書籍を発売する。そうすれば、海賊版が出回る前に、海外のファンに公式版を届けることができます」
 ほおーっと、感服したような声が上がった。
「しかし、作業的にそれは可能なのかね」
 社長が疑問を呈する。
「はい、雑誌掲載のもの全部は難しいかもしれませんが、特に人気の作品、海賊版が出されやすいものについては、やるべきではないか、と。ネームが上がった段階で、翻訳に回せば不可能なことはないかと思います。実際に、次号の『ヒーローズ』の連載のうち、人気のトップ3を試しにやってみよう、ということで編集部とも話がまとまっております」
「ほう、早くも次号からか」
 社長は満面の笑みを浮かべる。
「なかなかやるじゃないか」
「ありがとうございます。これも沖田部長や『ヒーローズ』編集部のご協力の賜物です」
 岡村は、ちゃんと他部署の人間を立てることも忘れない。
「もちろん、それらが単行本として販売される時も、同時刊行をいたします。さらに、小説の方も、もっと強く海外展開を進めて行こうと考えております。こちらは電子ではなく、やはり紙ものでの展開になりますが」
 ほお、と社長が声を漏らす。もっと小説の海外展開ができないものか、と常々言っていたからだ。
「近年台湾や韓国ではミステリを中心に翻訳化が進んでおりますが、欧米についてはまだまだ遅れている感が否めません。村上春樹や吉本ばなななど一部の純文学については認知が深まっていますが、エンタテインメントについてはまだまだ遅れており、輸入過多の状況にあります。ですが我が社の小説コンテンツの中には、海外でも十分通用すると思われるものが多々あります。それらを積極的に向こうの出版社に売り込むようにしたいと思います」
「そちらは具体的な施策はあるのかね?」
 社長は身を乗り出している。岡村の提案に興味津々だ。
「はい。海外のブックフェアで展開したり、プルーフを作って売り込むなどを試みるのはもちろんですが、それだけではなかなか難しいと思われます。日本の小説が欧米で受け入れられにくい理由のひとつは、名前や地名が馴染みにくい、ということがあります。英語圏の人間には読みにくく、発音しにくいものも多いですから。我々が翻訳小説を読みにくいのと、同じ理由ですね」
 小さく笑い声が起こる。あざけりではなく、好意的な笑い声だ。岡村の発表にみんなが聞き入っている証拠だ。
「ですから、思い切って『超訳』という形で発売してみたいのです」
「超訳?」
 超訳とは、意訳よりもさらに踏み込んでわかりやすく翻訳する技法で、原作の文章を元に、わかりにくい描写をカットしたり改ざんしたりすることもあり、作家や読書家にはあまり評判はよくはない。
「はい。ただ描写を簡略にするだけでなく、地名とか人名を、欧米人に馴染みのある形に変え、生活習慣などの描写も変更します」
「つまり、鈴木とか田中を、スミスやジョーンズに変えるってことか?」
「はい、その通りです。地名も、たとえば神戸市ではなく、サンフランシスコにしてみるとか」
「面白い試みだが……それで作家が納得するかね?」
 自分の文章の一言一句にこだわるのが作家の習いだ。ルビの振り方ひとつとっても、ないがしろにしない作家も少なくないのだ。
「幸い、英語の場合はある程度理解できる作家も少なくありませんし、ちゃんと自分が監修できるのであれば、という方もおられます」
「ほう、具体的に候補がいるのか」
「はい。波野雫(なみのしずく)先生が大変乗り気で、いっしょに検証を始めたところです」
「なるほど、波野先生か。それならうまくいくかもしれんな」
 波野雫は、若い層に圧倒的人気があるミステリ作家だ。人間描写よりも謎解きに主眼が置かれた作風なので、ある意味、翻訳しやすいと言える。また、新しい試みが好きで、横書きの本を出したり、読者の意見を聞いて展開をどんどん変えていく、自ら『統合小説』と名付けたネット小説を試みたりしている。
「はい。先生は英語も達者なので、翻訳者に直接指示を出したりすることも可能ですし、自分もなるべく翻訳に携わりたいとおっしゃってくださいます。うまくいくかどうかわかりませんが、我が社のミステリを海外に広げるために試してみたいと考えています。すでにニューヨークのP出版に打診して、好感触を得ています」
「ほお、それはなかなか……。ぜひ、実現させてください」
 社長は岡村のすばやい行動にすっかり満足したようだ。

 いきなり差をつけられちゃったなあ。
 駒子は大きな溜息を吐く。
 そもそも、ずっと管理部門にいたので、新しい企画をプレゼンするとか、いろいろ根回しをするとか、そういう感覚が鈍くなっていた。 
 営業部長にも、事前に話を通しておくべきだった。
 岡村さんは、編集部の第一線でずっと頑張ってきたんだもんな。プレゼンの実力も磨いてきたんだろうな。
 駒子は感嘆するばかりだ。
「先に戻ります」
 岡村が席を立って会議室を出ようとする。
「あ、私も戻ります」
 駒子も慌てて立ち上がる。
 廊下に出て、突き当たりにあるエレベーターホールに行くと、宣伝部の部長の里中と、コミック事業部の部長の沖田がいた。
「岡村さん、なかなかいい発表だったね」
 里中が声を掛けてきた。
「大手のK社でも、国内の売り上げが下がっているのに、版権ビジネスがうまく回って、昨年度は売り上げが上がったそうだね。うちも海外での展開にもっと本腰を入れなきゃ、と思ったよ」
「はい。うちもコミックに力があるので、海外での展開ももっと広げられると思います。ですので、コミック事業部ともっとうまく連動していければ、と思っています」
 岡村の自信に満ちた態度を、駒子はいいなあ、とうらやましい気持ちになる。自分の方は新しい役職にも、新しい部署にもまだまだ慣れていない。とても岡村のように自信を持った受け答えはできないのだ。
 この人と私のどちらかを部長に、なんて、もう答えはわかりきっている。岡村さんの方が私の十倍適任だ。権藤部長にしても、岡村さんのことはバックアップする気があるみたいだし。自分は、岡村さんを部長にするための当て馬にすぎないんじゃないかな。課長だった岡村さんをいきなり部長にはしにくいので、適任かどうかを競わせるという体裁をとっただけじゃないだろうか。
「だけど、コミックは翻訳が難しいんじゃないですか? 小説とはまた違ったノリも必要だろうし」
 里中が岡村に尋ねる。
「はい、ですが幸い適任がいるんですよ。UCLAの大学院まで出たインテリなんですけど、日本のコミックとかアニメ好きが高じて来日したっていう人物が。フリーランスで翻訳をやったり、日本のアニメやコミックをアメリカの雑誌に紹介したり、っていう仕事をしているんです」
「へえ、そんな人が」
「向こうにも、日本のコミックに興味を持つ人は多いんですよ。サンディエゴのコミコンにも、うちの作家が呼ばれたりしていますから」
 沖田がにこやかに答える。駒子の前で三人の話は盛り上がっている。駒子だけ会話に加われず蚊帳の外だ。下りのエレベーターが来た。
「じゃあ、ここで失礼します」
 上階に向かうふたりと別れて、岡村と駒子はエレベーターに乗り込んだ。すると、岡村はそれまでの笑顔を消し、むっつりと黙り込む。駒子も強いて声を掛けたりはしない。一階の玄関からふたりは外に出る。駒子たちの職場のある第二本社ビルは、部長会議を行った第一本社ビルとは道路一本隔てた反対側にあるのだ。道路を渡りながら、駒子は思い切って岡村に話し掛ける。
「あの、今日のプレゼン、とてもよかったわ。私も、もっと頑張らなきゃ、と思っちゃった」
 それを聞いて岡村は立ち止まり、駒子の顔をじっと見た。
「本気で言ってる?」
「え、ええ、もちろん」
「ふうん。だとしたら、私の方はちょっとがっかりしたわ」
 それだけ言うと、岡村はさっさと道路を渡って、第二本社ビルの中へと入って行く。
 どういうこと?
 駒子は岡村の気持ちがさっぱりわからず、ぽかんとした顔で立ちつくしていた。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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