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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第8回

2017.05.10 更新

 七月一日から新しい場所に移って、新しい仕事が始まった。
「おはようございます。新しい部署のスタートですね。これから一緒に頑張りましょう」
 雑誌『俳句の景色』から来た四人は、編集長の中江武志(なかえたけし)、海老原晴男(えびはらはるお)、庄野善作(しょうのぜんさく)、池端澄子(いけはたすみこ)だ。みな五〇代、中江と海老原は正社員で、庄野と池端は契約社員である。編集者というより、皆学校の先生のような生真面目な雰囲気を醸し出している。無理もない。四人とも長年俳句一筋でずっとやってきたのだ。いまさら新企画事業部で何か新しいビジネスを起ち上げると言っても、それについて来られるかどうか、わからない。
「初めてですので、自己紹介から始めましょうか。では」
 そちらの端から、と駒子が言おうとするのを遮って、いちばん真ん中にいた中江がしゃべり始める。駒子が調べたところによれば現在五七歳、入社以来ずっと『俳句の景色』にいる、いわば俳句のスペシャリストである。恰幅がよく、白髪交じりの髪にブランドもののツイードのスーツが似合っている。靴もインポートの高級品だ。駒子よりずっと押し出しがいい。
「編集長の中江武志です。『俳句の景色』の編集を三〇年ばかりやっております。おかげで、俳句の世界じゃちょっとばかり名前が知られています。まあ、狭い世界ですからな。はっはっは。でも、最近はタレントが俳句を作ったりするテレビ番組が人気で、若い人でも入って来るようになりましてね。五七五の短い言葉の中に宇宙がある。それがまあ、いつの時代でも日本人のこころを捉えるんでしょうな。私も会社に入ってから俳句に触れるようになりましたが、三〇年関わってもまだ奥深い。終わりのない世界ですよ」
「ありがとうございます。では、次の方」
 ほうっておけば、いつまででもしゃべっていそうなので、駒子は強引に中江の話を切った。中江は不満そうにぎろっと駒子を睨んだ。
「副編集長の海老原です。どうぞよろしくお願いします」
 海老原はにこりともせず、必要なことだけをしゃべった。彼は五一歳。二〇代は純文学の部署にいたが、身体を壊したのだか、精神を病んだのだかで長期療養。仕事に復帰したと同時にこの部署に異動になり、現在に至る。細身で神経質そうで、いまだに独身。なかなか気を遣いそうな相手である。
「庄野といいます。私はもうすぐ定年ですから、それまで仲良くやりましょう。仕事の方は、自費出版をやっておりますから、口うるさい著者の相手には慣れていますよ。なので、困ることがあったら、いつでも言ってください」
 と、愛想よく自己紹介する。本人の言うとおり、あと半年経たずに六〇歳で定年を迎える。契約社員だが、奥さんが学校の教師で、親の家を相続しているから、お金には困っていないらしい。退職後は悠々自適の隠居生活を送る、とまわりに宣言している。
 いままでの中では一番まともだ。それなのに、すぐに退職というのは残念だな、と駒子は思う。
「池端澄子です。私は雑誌半分、自費出版半分でやっています。これといって得意なことはありませんが、よろしくお願いします」
 池端はもともとは正社員だったが、親の介護で一度退職。三年後に契約社員として復帰したという。実は編集部でも一番の切れ者という噂があり、俳人関係者にも信頼が厚いことから、乞われて同じ部署に復帰したといういきさつがあるらしい。年齢はこの春で五〇歳になったところだ。
 全員駒子より年上。それに俳句のスペシャリストという自負もある。彼らを率いてやっていくのはなかなか難しそうだ。
「花村咲良と申します。水上さんについて管理課から異動してきました。俳句についての知識はありませんが、前は文芸の方にいましたから、多少は編集的なこともできると思います。よろしくお願いします」
 地味な中高年に囲まれて、ひとりだけ花が咲いたように花村の存在は瑞々しい。
「ああ、あんたが噂の。どんな娘かと思ってたけど、やっぱり美人だねえ」
 中江が無遠慮に花村の顔をながめる。花村は慣れているのか、
「そんなことありませんよ」
 と、軽くあしらう。噂のことも気にしていないふうを装っている。
「私は水上駒子といいます。管理課からこちらに異動になりました。これから皆さんと一緒に新しい部署を大きくしていきたいと思います。よろしくお願いします」
 駒子が頭を下げると、皆もあわせて頭を下げる。中江は軽くうなずいただけだが。
「さて、これからの事業計画ですが」
 駒子が言い掛けると、
「私らについては、これまでどおりでよいと心得ております」
 中江がまたも話を遮る。
「異動にあたっては、権藤部長からそのように伺っていますし」
 中江がほかのスタッフを見ると、彼らは「同意」というようにこくこく頭を上下させた。
「そもそも出版社は営利企業ですけど、文化事業でもあるわけです。この会社は元々戦後の混乱の中で創始者が我が国の文化の火を消してはいけない、という崇高な志から始められた会社です。そして最初に作られたのが、この『俳句の景色』なわけです。したがって、この雑誌と俳句の出版物は、会社創設以来の事業の根幹を成すものであります。そうした経緯から、代々の社長が我が編集部主催の俳句賞の選考委員にも名前を連ねており、四代目におかれましても、俳句に対する理解は深い。時代が変わっても、俳句の文化は残しておかねばならない、そうおっしゃっています。不肖私も、そしてここにいる『俳句の景色』の編集者たちも、それが自分の使命と心得、俳句に自分の人生を捧げてきた者たちであります。それをいまさら変えることは、次長殿といえどすべきではないことと思われます」
 事前に準備していたのか、淀みなく中江は話し続けた。話は長いが、要するに自分たちは今までどおりの仕事しかしたくない、ということだ。
 やれやれ、だ。もともと書籍事業部の文芸二課にあっても『俳句の景色』は特殊な編集部だった。ほかの部署との仕事上の交流はなく、売り上げとか予算管理についても細かく問われることはない。スタッフたちはいつも暇そうに机の前に座っている。書籍事業部のお荷物、と陰口をたたかれても「会社創設以来の伝統の部署」という建前を看板に、当人たちは胡坐(あぐら)をかいている、という感じに傍(はた)からは見えるのだ。
 押しつけられたかな、と駒子は思う。権藤部長が以前から『俳句の景色』のことを邪魔に思っていたことは知られている。俳句はごく潰しという陰口を、駒子も聞いたことがある。新企画事業部を起ち上げるにあたって、邪魔な部署を丸ごと処分したかったのではないだろうか。
「もちろん俳句と我が社との関係はよく存じておりますし、その歴史に私も敬意を表します」
 駒子は微笑みながら語る。中江は我が意を得たり、と言う顔で何か話し始めようとしたが、駒子はさらに続ける。
「しかし、書籍事業部からこちらに移ってきたのですから、今までとまったく同じということはありません。歴史を大事にしつつ、新しい読者を獲得するために、改めるところは改める。新しく始めることは始める。『俳句の景色』を未来に繫げるために、できるだけのことをしていきたいと思います。これから、力をあわせて頑張りましょう」
 中江は憮然としている。ほかのスタッフも懐疑的な目でこちらを見ているが、駒子は知らん顔をした。
「では、仕事に戻ってください。机や本棚の整理はなるべく今日中に終わらせてくださいね」
 駒子の言葉に、それぞれみんな自分の席へと戻って行く。駒子も自分の席の周辺の整理を始める。昨日まで管理課の引き継ぎに追われていたので、荷物の入った段ボールは管理課から運ばれたまま、机の上に積み上がっている。ガムテープを剝がして荷物の中身を取り出し、引き出しの中にしまっていく。
 全盛期の『俳句の景色』は一万人近くもの読者を獲得していたそうだが、俳句自体の衰勢、読者の高齢化、さらには俳人や結社自体の減少から長期低落傾向にある。管理課時代の駒子とこの編集部との一番の関わりは、『俳句の景色』の関係者の弔電や香典、葬儀用のお花を手配することだったというくらい、高齢化が進んでいるのだ。
 この雑誌をビジネスの中心に据えるのは無謀で未来もない。すぐにも何か新しい事業を起ち上げなければ自分たちの人件費すら出ないだろう。だが、ほんとうに彼らの協力を得られるだろうか。
 駒子は部屋の西側にいる岡村を見た。会議室の東半分が駒子の部署、西側が岡村の部署となっている。岡村の部署は先月のうちに引っ越しをすませ、すでに各自仕事に全力投球だ。部屋の隅のソファで岡村を中心に四人がHPの改革案について話し合っている。これまで総務で海外との版権ビジネスを担当していた帰国子女の男性が英語で電話を掛けている。残りのスタッフ四人もそれぞれ忙しそうに自分の仕事を進めている。岡村以外のスタッフはみな二〇代から三〇代。若々しいエネルギーが満ちている。新企画事業部という名前にふさわしいメンバーだ。よくこれだけの若手を引っ張ってこられたなあ、と駒子は感心する。
 こちらのスタッフは、花村以外は五〇代。長年同じことだけしかやろうとしてこなかった人たちの、どこか停滞した空気が充満している。机と椅子も岡村の部署と同じ、一〇席を用意はしてあるが、四席は空いたままだ。
 さて、これからどうしようか、と駒子は考える。とりあえずは、これまでの『俳句の景色』の状況をチェックすることだろう。
「中江さん『俳句の景色』の部数とか原価計算の記録はありませんか?」
「えっと、原価計算の記録とは?」
「部決会議の時に用意するでしょう?」
「部決会議って、部数決定会議ですか?」
「はい、もちろん。毎月発売前に営業部と会議をするはずですが」
「いやー、うちの雑誌はほかと違って治外法権でね。いちいち部決はしないんですよ」
「えっ? そういうことってあるんですか?」
 原価計算というのは、その本や雑誌を作るのに経費や印刷代がいくら掛かるか、どれくらいの値段で何冊売れれば採算点がクリアできるかをシミュレーションするものである。それがなければ、部数も価格も決めることができないはずだ。
「うちは毎号三〇〇〇部と決まっていますし、定期購読も多いですから」
 それは駒子も知っている。定期購読分の発送を運送業者に手配するのも、管理課の仕事だったのだ。それでも、毎号経費などは微妙に変わるし、部数も一〇〇冊単位で調整したりする。出さないはずはないのだ。
「会議はやらなくても、一応部決資料は作るでしょう? それは残っていないんですか?」
「資料? そんなものはありませんよ。僕ら編集はよい雑誌を作ること、よい俳人を見つけ、育てることが仕事ですから。数字とかそういう細かいことはほかの部署の仕事でしょう」
「とは言っても、部決資料は編集長に配られるはず。それは残っていないんですか?」
「ありません。そんなもの、何の役にも立たないし、自分が持っていてもしょうがない」
 そう言って中江は胸を張る。後から知ったのだが、中江は整理魔で、よけいな資料や書類は持たないことを誇りにしていた。だから、いらないものはどんどん処分するのだ。おかげで中江の席のまわりはすっきりしている。悪いことではないが、原価計算の書類は取っておくべきものではないのか。
 啞然としていると、横で話を聞いていた庄野が駒子に声を掛ける。
「もし、必要でしたら、文芸二課の東山課長のところに行くといいですよ。東山課長が今までのうちの上司でしたし、そちらの方で必要な書類は取ってあるはずだから」
「東山さんですか」
 駒子は唇を引き結ぶ。東山潔(ひがしやまきよし)はその名前とは真逆で、清潔とか潔癖とは縁がない。いつも薄汚れたヨレヨレのジャケットを羽織り、机の上は会社でも一、二を争う汚さだ。書類だの雑誌だのが山を成していて、平らな面がまったく見えないのだ。東山は課長だからデスクワークも多いはずなのに、いったいどこで仕事をしているのか不思議なくらいだ。忙しさにかまけて整理整頓を怠る人間は編集者には珍しくないのだが、東山はその最たるものだった。ある時、編集部にテレビ局から取材が入り、汚い机の前で撮りたいという提案が出た。それで東山の机の前はどうか、と編集サイドが推薦したら「ここまで汚いとやらせだと思われるので、やめておきます」と言われたくらいなのだ。
 それでも、課長になったくらいだから、仕事はできるはず。傍からみたら汚い机でも、彼ならではの美学なり価値観なりで独自の分類がなされているのかもしれない。
 そんな希望を持って、駒子は東山の元を訪ねた。
「おや、水上さん、何か用ですか?」
 机の上は汚いが、東山は愛想は悪くない。にこにこと駒子を迎える。
「あの、ちょっとお願いがあってまいりました。新しい部署では『俳句の景色』も管轄になりましたので、その関係の書類などがありましたら、いただけないかと思うんですよ。部決の書類とか、昨年度の決算の書類とか」
「はいはい。それはそうですね。確かに、確かに。その辺もそちらに引き渡すべきですね」
 東山は初めて気づいた、という顔をする。
「はい、すぐに出しますよ。管轄の書類が減るのは、こちらも助かりますしねえ」
 その返事を聞いて、駒子は胸をなでおろした。やはり、東山は書類をちゃんと持っているのだ。
「待ってください。えっと、俳句関係の書類ですね」
 東山はわさわさと机の上の山を漁った。そして、黒の分厚いファイルを取り出す。
「えっと、これかな?」
 ぱらぱらとめくるが、中には三年前の文庫フェア関係の書類が入っている。
「違った。えっと、まとめてあったと思うんだけど」
 再びがさがさと書類の山と格闘を始める。そして新たなファイルを出すが、それも違った。
「これも違うか。おかしいな、絶対に捨てるはずはないから、すぐに見つかると思うんですけど」
 そうして机の山を引っ搔き回す。そんなことを二、三度繰り返した後、東山の方が音を上げた。
「すみません。すぐには出てこないみたいです。後で探してお届けしますから、それでいいですか?」
「はい、わかりました。では、お待ちしています」
 そう答えたものの、東山はあてにならないだろう、と駒子は思った。いったいあの山は何年分の書類の積み重ねなのだろう。あそこから目的のものを見つけ出すのは砂浜に落とした指輪を拾うくらい困難だ。
「あ、でも、もしお急ぎなら、経理に行くといいですよ。あそこならすべてのお金の流れを把握していますし、そのデータも取ってありますから」
 東山が最後にくれたアドバイスだけは有用だった。確かに、経理であれば原価計算だけでなく、人件費の詳細や経費の内訳なども把握しているだろう。昨年度の決算についての数字も出るに違いない。
 そうして経理に向かう。しかし、経理の課長はけんもほろろだった。
「もちろん数字はちゃんとありますけどね。今すぐ出せと言われましてもねえ。こっちもいろいろと仕事があるんでね」
「そこをなんとか」
 管理課にいる間は、経理部とも頻繁にやりとりがあったし、課長とも何かと交流があった。わりといい人だと思っていたのだが、そんな空気は微塵もない。
「今週中は無理ですね」
「来週でもいいですから。新しい部署の数字を把握しておかなければ、これからの方針もたちませんので」
 駒子の懇願に、管理課の課長は仕方ない、というような大げさな溜息を吐いてみせた。
「来週必ずという確約はできませんけど、書類を出すようにはしてみます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 駒子は頭を下げて経理の部屋を出た。
 次長昇進が決まってから、駒子を遠ざける人間は何人もいた。いままで比較的うまくやってきた、と思う人間にもよそよそしくされるのは、ちょっとへこむ。
 しかし、『俳句の景色』の過去のデータを知りたい。たったそれだけのことなのに、それすらなかなかできないなんて。
『俳句の景色』は、ほんとにこの会社のビジネスとして成り立っていたのだろうか。誰も、そのほんとのところを確かめようとしていないのではないか。
 その時、ふと気がついた。
 そうだ、原価計算だけなら、管理課に残っているはずだ。
 なんで最初に思いつかなかったんだろう。
 駒子が課長をしていた頃に、原価計算についてはデータを紙にプリントアウトして、それを雑誌別にファイリングするようにした。だから、管理課に行けば原価計算は手に入るはず。
 駒子は管理課に顔を出した。
「こんにちは」
 スタッフの視線がこちらに集まるが、歓迎してくれるというより、どこかよそよそしい雰囲気だ。
「いらっしゃい」
 課長の井手だけは明るい声で駒子を迎え入れた。
「異動早々、こちらに顔を出すとは、何かありましたか?」
「あの、私の管轄になった『俳句の景色』について調べているんですが、過去の原価計算とか、人件費とかのデータがほしいんです。こちらでいただけませんか?」
「原価計算?」
「雑誌ごとに分類して、ファイリングしてあります」
「ああ、そうでしたか。……えっと、それはどこに?」
「あ、出します」
 契約社員の光村が立ち上がって壁に作りつけの棚のところに行く。そこから黒いファイルを持ってきて駒子に手渡した。背のところに『俳句の景色』と書かれたラベルが貼られている。
「ありがとう。これ、お借りしてもいいですか?」
「えっと、どうでしょうか。なるべくならこちらで見ていただいて、必要なところはコピーを取っていただけるといいかと思いますが」
「そうですね。じゃあ、そちらの机をお借りします」
 駒子は部屋の隅の作業用の机のところに行き、ファイルを開いた。『俳句の景色』の原価計算が過去三年分ファイルされている。項目をチェックする。
「うわ……」
 思わず声が出る。赤字であることは予想通り。もっとも、一号あたり二〇〇万くらいだから、それほど大きな数字ではない。しかし、内訳をみると、間接費が四〇%を越えている。これはなかなかの数字だ。生産に直接関わる原稿料や印刷代、紙代などを除いた出費を間接費というが、これはおもに人件費や会議費、交際渉外費などで、できれば二割以下に抑えたいところだ。
 これはどう考えても人件費だな。五〇代の正社員が二名、契約社員が二名というのはいかにも人件費が高い。さらに、もし売り上げがほかで立てられなかったら、自分と花村の分もこれに上乗せされるのだ。
 過去のデータを見ていく。中江の話とは違って、毎号ちゃんと経費や刷り部数も変わっている。数百の単位だが上下があり、少しずつ減っている。現在は二七〇〇部に落ちている。
 ふうむ、自分の雑誌の部数も把握していない編集長か。
 駒子は溜息を吐く。
 数字の読めない編集者は意外に多いが、雑誌編集長がこれでは困る。
「雑誌以外の、自費出版の数字も見せていただけますか?」
 そう尋ねると、光村が別のファイルを持ってきてくれた。
「ありがとう」
 自費出版についてはもちろん黒字だ。すべて買い取りだし、原価計算が赤字になるようなら元から作らない。そういう意味では無駄がないが、部数がせいぜい五〇〇部程度なので、あまり収益は上がっていない。刊行点数は思ったより多く、月三点ほど出している。
 担当編集者の名前も書かれているが、自費出版のうち三分の二は女性の池端が作っている。残りは庄野と海老原の仕事だ。雑誌の仕事もあるのでこれだけでは判断できないが、仕事量の配分はどうなっているのだろう、と駒子は思う。中江の仕事ぶりでは、部下の仕事量の配分など考えてもいないだろうな。
 最新のものをいくつかコピーして、駒子はファイルを戻した。ここで入手できる資料は入手できたので、管理課を後にした。
 部屋に戻ると、池端と花村以外誰もいない。ホワイトボードを見ると、「本郷 直帰」と書かれている。
「本郷って、何があるのかしら?」
「昔からのつきあいの俳人が亡くなられたんです。今日はお葬式なので、そのお手伝いに」
 池端が答える。池端はグレーのスーツに身を包み、眼鏡に髪も後ろにひっつめている。化粧っけもほとんどなく、ひたすら地味な印象だ。いまは男連中がいないせいか、表情が少し和らいでいるようだ。
「お葬式? 喪服に着替えたのかしら」
「はい。うちの部署では喪服は必需品なので。皆さん、ロッカーの中に喪服と黒いネクタイは常備していらっしゃいます」
「お葬式、そんなに多いんですか」
 部下とはいえ、自分より一回り近く年上の女性にぞんざいなしゃべり方はできない。つい敬語になる。
「俳人も高齢化していますし。いままでうちとのおつきあいのある先生と、そのご家族のお葬式には出ないわけにはいきませんから。編集長は土日というと句会か葬式に出ている感じです」
「それは、たいへんですね」
「でも、そうした場所にマメに顔を出すことで俳人との関係も深まりますし、自費出版の仕事にも繫がりますから」
「なるほど、葬式外交というか、それが営業の手段にもなるんですね」
 駒子は感心した。それぞれのセクションでそれそれのやり方があるものだ。
「池端さんは出ないんですか?」
「私は留守番です。全員出払ってしまうと、何か連絡が入った時、困りますから。それに、私の場合は母の介護があるので、定時に帰らないといけないので」
「葬式に出ると、定時には帰れないの?」
「時と場合によりますが、そのままお酒の席に流れ込むこともありますから。……私はそういう席は苦手なので、かえって助かります」
 なるほど、営業的なことは中江やほかの男性たちが引き受けて、事務的なことは女性の池端が担当するのか。それはそれでうまく分業できている、ということにはなるのだが。
「あの、次長」
 背後から呼びかけられて一瞬誰のことかと思うが、すぐに自分のことだと思い直す。振り返ると花村が立っている。
「なんでしょう」
「これ、他社で自費出版を手掛けている会社のことを調べてみました。自費出版を増やしたいということなので、参考になるかと思って」
 花村がA4の紙の束を駒子に手渡した。
 頼まなくても、ちゃんと仕事をみつけて行動するのは、いまどきの若者としては珍しい。
「ありがとう。助かるわ」
 駒子は自分の席に着いて花村のレジュメを読む。レジュメはよくまとめられていた。各社のサービス内容、値段、募集要項などをまとめている。それぞれの特徴が一目瞭然だ。
 自費出版は確実な儲けを出すということで、いまやそれ専門の会社だけでなく、大手出版社でもこぞって手を出している。文芸の版元から生活雑誌の専門出版社までと、幅広い。競争が激しい分、値段を下げたり、各社さまざまなサービスを行っている。書店と契約して発刊した本を書店の棚に並べているところもあれば、装丁をふつうの新書そっくりにして、自費出版でないように見せかけているところもある。新聞社でも自費出版を積極的にやり始めた。文章が書けない人の代わりに、新聞記者が聞き書きをするプランも提示している。そうして発刊した本を新聞の中で紹介する。広告ページだが、素人目には記事のようにも見える。
 こういうことをやられたら、うちじゃ太刀打ちできないなあ。文芸の老舗だったりすると「ここで出したい」という顧客もいるかもしれないが、うちのように、コミックやラノベの方が目立つような版元では、立ち位置が難しい。
 俳句に関しては伝統があるし、うちで出すのがステイタスだと俳人には思われているらしい。その分、誰でも出すという訳にはいかない。ほかの俳人も納得するような人のものを出す、ということなのだそうだが。
 しかし、俳句に関しては先細りだ。何か新しい突破口を見つけないと、部署としての売り上げが立たないだろう。
 どうしたらいいのだろうか。
 いまさらながら仕事の先行きの暗さに駒子は頭を抱えていた。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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