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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第6回

2017.04.12 更新

「ただいま」
 帰宅してドアを開ける。
 達彦が留守をして五日目。その間掃除をしていないので、部屋の隅には埃が目立ち始めている。埃じゃ人は死なない、と言っても、あまり気持ちのいいものではない。かと言って、海も留守がちなのに、率先して部屋を綺麗にしようという気もない。達彦が帰宅したら、なんとかしてくれるだろう、と楽観している。
 しかし、この日家に帰って目にしたのは、埃よりももっと大きな障害物だ。玄関のたたきには薬屋の店頭に置かれているカエルの人形ほどの大きなリュックサックが、投げだすように置かれている。狭い玄関はそれだけでいっぱいだ。
「海、この荷物どうにかして。玄関上がるのに邪魔じゃない」
 駒子は玄関の奥にある階段に向かって大声でどなった。ほどなく、どたどたと音を立てて、海が下りてきた。
「ごめん、ごめん。置き忘れてた」
 海は重そうなリュックを、ひょいと肩に担ぎあげた。リュックの下からつぶれたスニーカーが一足出てきた。二四センチくらいだろうか。海のものにしては小ぶりだ。
「これ、あなたのじゃないわね。どうしたの?」
「ああ、これ友だちの。そうそう、今日からしばらく友だちが泊まるんだけど、いいよね?」
 ひとりっ子のせいか、海は昔から友だちを家に連れて来たがった。部屋が八畳と広めなのもあって、そのまま泊まっていく友だちもいた。
「えっ、いいけど。誰?」
「あとで紹介する」
 そう言って、どたどたとまた上に上がって行った。
「夕ご飯、食べたの?」
 駒子が息子の背中に向かって叫ぶと、即座に「まだ!」と返事がきた。
 やれやれ、そうなると私が作ることになるのか。駒子は溜息を吐く。達彦が仙台に出張して五日目。最初の三日は達彦が冷蔵庫に作り置きしてくれたものでしのぎ、四日目、五日目は土日で海も留守にしていたので、ひとり外食ですませた。今日は駅前で出来合いのお惣菜を買ってきた。それと、わかめスープですまそうと思ったのだ。
 しかし、友だちがいるとなるとそうもいかないわね。このお惣菜で足りるかな。少なくとも、味噌汁くらいは作らなきゃね。
 達彦は料理が得意だし、人と交流するのも好きだ。海の友だちも来るたびに歓迎して、いつも以上に凝った御馳走を出していた。それが目当てで来たがる子どももいたくらいだ。
 今日来ているのは誰だろう。前にも来たことがある子だったら嫌だなあ。パパがいないと、この家の食事は貧弱だったと言われたくないし。
 寝室で手早く着替えると、駒子はキッチンに入った。シンクを見てうんざりする。昼間に焼きそばか何か作ったのだろう。ふたり分の皿やコップと、汚れたままのフライパンが積まれている。
 自分で使った食器は自分で洗えって言ってあるのに。
 後で海に洗わせようと、駒子はそれを放置することに決めた。
 さて、何かあったっけ、と駒子は冷蔵庫を開けた。冷蔵庫はほとんどからっぽだ。野菜室に使い掛けのレタスときゅうりが一本、ピーマン一袋とトマトが一個だけ残っているくらいだ。達彦が買い置きしてくれていた肉や野菜は、この五日間で使い果たしている。
 困ったな。うちの近所、全然お店がないし、いちばん近いスーパーでも、自転車で一〇分は掛かるし。今から行くのは面倒だわ。
 そう思いながら、冷凍庫を見た。こちらはぎっしり詰め込まれている。冷凍の大豆や炒めた玉ねぎなど、達彦が下ごしらえした食材を冷凍しているのだ。その中に、ひき肉と玉ねぎの炒め物を見つけた。これはミートソースやコロッケ、オムレツの具などにも使える便利な食材だ。さらに、カレールーも発見した。達彦はカレーを作る時は市販のものを使わず、すね肉や野菜を半日煮込み、香辛料を大量に使って作る。それで余った分を冷凍し、いつでも本格的なカレーを食べることができるようにしているのだ。
 よし、これでキーマカレーを作ろう。
 駒子はピーマンを細かく刻んで炒め、それに解凍したひき肉と玉ねぎの炒め物とカレールーを混ぜ合わせた。一〇分経たずにカレーの出来上がりだ。
 味見をしてみる。香辛料のきいた深みのある味わいだ。
 うーん、やっぱり達彦のカレーは間違いない。こういう時、ほんとに助かるわ。
 カレーだけでは足りないので、サラダを作ることにする。といっても、レタスとトマトときゅうりを切って皿に並べただけだ。これに、冷蔵庫に常備されている達彦特製のドレッシングをかければいい。
 サラダをボウルに盛り付ける。きゅうりとレタスの切り方が雑なせいか、あまりきれいには見えない。
 うーん、達彦ならもっとおいしそうに見せるんだけどな。せめてゆで卵とオリーブも飾ることにするか。
 小鍋に水を張り、沸かしていると、海が下りてきた。
「海、ここ片付けてね」
 駒子がシンクを指差すと、「あ、ごめん」と素直に謝り、皿を洗い始めた。
「友だち、ひとりでいいのね」
「うん」
「ゆで卵ができれば全部出来上がりたけど……あ、ダメだ」
 炊飯器の蓋を開けて、駒子はご飯がほとんどないことを発見した。
「もう、これだから」
 達彦がいれば、夕食どきにはご飯が炊きあがるようにセットしてくれている。海にそれを期待するのは無理な話だ。今から炊くしかない。
 男の子ふたりなら、お米三合炊いても足りないかも。カレーとなると、馬鹿みたいにご飯を食べるから。
「早炊きモードで炊いても、あと二〇分は掛かるわね」
「あ、俺がやるよ」
 海が珍しく殊勝なことを言う。友だちを泊めるので気を遣ってくれてるのかな、と思いながら「じゃあ、お願い」と駒子はお釜を渡した。

 ピーという電子音が響いた。お米が炊きあがったという知らせだ。読んでいた本を机に置いて、駒子はソファから立ち上がった。コンロに火を点けてカレーを温め、鍋から水蒸気が立ち始めたところで、階段の下へ行く。
「ご飯、できたわよ」
 大声でそう叫ぶと、ドアが開く音がした。どやどやと階段を下りてくる足音がする。
 駒子はキッチンに戻り、カレーを盛り付け始めた。そして顔を上げると、海と海の友だちが部屋に入ってきたところだ。
「えっ?」
 思わずカレーの皿を取り落しそうになった。海が連れて来たのは、若い女性だったからだ。

「こちら、荒木志保(あらきしほ)さん」
「はじめまして」
 頭を下げた女性は二〇歳前後。どう見ても一六歳の海より年上だ。顔立ちは整っているが、左頰の笑窪に愛嬌がある。背もすらりと高く、海と並んでもほとんど高さが変わらない。一七〇センチ近くはあるに違いない。リネンのゆったりしたワンピースにスパッツを穿いている。
「はじめまして」
 駒子は志保に目を向けたまま、軽く頭を下げた。
 咄嗟に思ったのは、海と彼女はどういう関係なのだろう、ということだ。
 海が女の子を家に連れて来たのは初めてではない。男女問わず友だちが多く、武蔵野公園にも近いことから、小学校の頃は毎日のように子どもが家に遊びに来ていた。達彦が海の友だちを歓迎するので、ほかの親も安心して子どもを寄越していたらしい。中学校に上がってからもそれは変わらず続き、時には女の子ひとりで訪ねて来ることもあった。そんな折には「彼女なの?」と尋ねてみたが、「さあ、どうだか」とはぐらかすので、特定のガールフレンドはいないと思っていた。図体ばかり大きくなっても、内面はまだ子ども、とタカをくくっていたのだ。
 それがいきなり自宅に泊めるような関係の女性と引き合わされたのである。親としたら、どう対応すればいいのか、さっぱりわからない。
「すみません、しばらくお世話になります」
「それで、この方、あなたの部屋に泊めるの?」
 駒子は海に聞いた。志保とは目が合わせられない。
「そのつもりだけど。まずい?」
「まずいって、あなた……」
 つまり、この女性は海の彼女ってことなのか。いっしょの部屋で何日も過ごすというのは、そういう関係ってことなのか。
 海はこの八月で一七歳だ。早熟な子なら、そういう関係の相手がいてもおかしくはない。しかし、まさか海が、と駒子は混乱している。
「話はあとにして、とにかくメシにしてよ。俺も彼女もお腹ぺこぺこだよ」
 そう言われて、駒子も自分の空腹に気がついた。もう九時近くだ。海の言うとおり、まずは食事を済ませる方が賢明だ。
「じゃあ、いただきましょうか」
 そして、初対面の女性とテーブルを囲むことになった。
「これ、ありあわせでごめんなさい。お客さまが来ると知ってたら、もうちょっと考えたんだけど」
「急に押しかけてすみません。でも、すごくおいしそう」
 志保という女性は、一応常識はありそうだ、と駒子は安堵した。まだ一六歳の子どもとつきあいたがる女性というものをどう理解すればいいのか、駒子は判断しかねていたのだ。
 志保は手をあわせて「いただきます」と小声でつぶやいた。ちゃんと礼儀もわきまえているらしい。
「これ、おいしいと思うよ。おやじのカレーの素を使っているから」
「おやじのカレーの素?」
「うちは母が一家の大黒柱で、おやじが専業主夫なんだ。だから、おやじの方が料理も上手い。男の料理だから凝りまくって、カレーなんかはスパイスを一〇種類くらいぶち込んで作るんだ」
「そんな、ネタばらししなくてもいいじゃない」
 駒子は赤面する思いだ。初対面の相手に、そこまで言わなくてもいいのに。
「ああ、おいしい。確かに、香辛料がきいてますね。うちで作るカレーとは全然違う」
「でしょ、おやじの自慢料理なんだ」
「ひき肉のカレーにしたのもいいです。私、キーマカレーがいちばん好きだから」
 志保は駒子に気を遣って、料理法を褒める。
「これも、おやじの作り置きのひき肉と玉ねぎの炒めものを使ったんだよね。おやじ、手間の貯金とか言って、下ごしらえしたものを暇な時に作り置きして冷凍しているんだ。男のくせに、マメだよね」
 またまた余計なことを。思わず海の顔を見てにらむが、海は駒子の方を全然見ていない。志保の方ばかり見ている。
「ほんと、うちって変わっているからさあ。だけど、おふくろの方が仕事できるし、会社でもなかなかやり手らしいんだ」
 海の声がいつもより半音高い。しゃべるスピードも速い。ちょっと興奮している口ぶりだ。
「あ、ごめんなさい」
 志保が福神漬けの皿を取ろうと手を伸ばし、水の入ったコップを倒した。すると、海がさっと立ち上がり、キッチンへ行って台拭きを持ってきた。
「大丈夫? 洋服濡れてない? タオル持ってこようか?」
 かいがいしく世話を焼く海を、駒子はあっけにとられて見ていた。
 いつもなら、こういう時は「おふくろ、台拭き」と怒鳴るだけの子だったのに。
「お水無くなったね。新しいの、持ってくるわ」
 こんなに気を利かせる海を見たことがない。
 その時、はっと気がついた。
 ああ、そうか。この子は志保さんがすごく好きなんだ。
 志保さんに気に入られたくてたまらないんだ。
 それに気づいて、駒子は心にずんと響くものがあった。
 いっしょに夜を過ごす間柄なんだから、相手のことを好きなのは当たり前のことかもしれない。だけど、こんなふうに女性に対して好意をむき出しにしている息子を目の当たりにするのは、なんだか寂しい。
 昨日まで、そういう相手はいないもの、と思っていた。自分がいちばん近い存在だと思っていた。
急に息子が遠くに行ってしまったような気がする。
 スプーンを運ぶ手が止まる。しかし、海はそれに気づかず、志保の方ばかり見ていた。

「きれいな人ね」
 食後志保が部屋に先に戻ったので、駒子は海に話し掛けた。正直、本人に悪い印象はなかった。受け答えから頭の良さが感じられたし、食べ方もきれいだった。食後は自分から全部の皿洗いを引き受け、鍋やボウルも洗い上げて布巾で手早く拭いた。最後は台拭きでテーブルをきれいにした。家事をするのを厭わない子のようだ。
「うん、まあそうだね」
 そう言いながら、満更でもなさそうに海は鼻の下を搔いた。ほんとに、わかりやすい反応だ。
「どこで知り合ったの?」
「バイト先。同じ工場で何度かいっしょになってさ」
「そう。じゃあ、彼女もフリーターなの?」
「う……ん、そうなるかな。ちょっと前まで美大の学生だったんだけど、授業料払えなくて退学したって言ってたから」
「授業料払えないって……」
「彼女、実家が熊本なんだ。例の震災で、実家が全壊したんだって」
「そう、それはお気の毒な」
 熊本の震災については、まだ三ヵ月も経っていないのに、東京の人々はもう忘れ始めている。遠い土地の遠い出来事のように思っている。だけど、そこに住んでいる人たちの多くは、まだ被災の傷と闘っているのだ。
「で、家賃も払えなくなったって言うんで、しばらくうちに来たら、って言ったんだ」
「そういうことだったの。それじゃ、仕方ないわね」
 海の彼女だし、人助けだと思えば、しばらく置いてあげるのもいいだろう。
「だけど、いつまでいるつもりなの?」
「うーん、いつまでかな。とりあえずは仕事が決まって、新しい住み処に移れるようになるまで」
「それだと長くなりそうね。一週間や二週間ではどうにもならないかも。うちのほかに、当てはないの?」
「あ、もちろんただでとは言わない。光熱費とか食費は入れてもらうことになっている。彼女の稼ぎだけで足りないなら、俺も協力するから」
 家に生活費を入れたことのない海が、彼女のためならやると言う。そこまで懸命に彼女を繫ぎ止めたいのだろうか。
 その懸命さが、駒子のこころを重くする。彼女が居る限り、その賢明さをずっと見続けることになるのだ。
「お金の問題じゃなくて、いつまでも男友だちの家に居候するのは、ご家族も心配なさるでしょう。一度田舎に帰って相談された方がいいんじゃない? もし熊本の親御さんのところに帰るなら、旅費くらいはカンパするけど」
 気の毒だと思うが、息子の彼女とひとつ屋根の下でいつまでもいっしょにいたくはない。
 嫉妬かもしれない。そんなことを思うのは、人として度量が狭いのかもしれない。
だけど、ここは我が家だ。どこよりもこころ穏やかに過ごしたい場所なのだ。 
「彼女の両親は震災で亡くなっている。お兄さんはいるけど、家もないし、妹の面倒をみるどころじゃない。誰からも援助を受けられないんだ」
 そういう事情だとなおさら無下にはできない。だけど、やっぱり気が重い。
「だけど、ひと一人居候させるってうちとしたら大きな問題よ。パパの意見も聞いてみなきゃ。家事をするのはパパの方だし」
 まったく、なんて時に達彦は留守をしているんだろう。息子が彼女を家に引き入れて、ずっとうちで面倒みるなんてこと、自分ひとりで引き受けられない。
 息子に彼女がいたことだけでも、ずいぶんショックなのに。
「きっとおやじは気にしないよ。人が多いのを喜ぶ人だから。それに人助けにもなるし」
「なし崩し的にこんな大事なことを決めるのはよくないことだわ。ここはパパとママの築いた家なんだから。パパが帰ってきたら、ちゃんと相談しましょう」
 駒子はきっぱりした口調で言う。
「わかったよ」
 海は不満そうに返事をして、自分の部屋に上がって行った。
 駒子は深い溜息を吐いた。
 この後、ふたりは密室でどんな時間を過ごすのだろうか。ひとりでいると、それが気になって仕方ないだろう。
 達彦が早く帰ってこないかな。
 この日ほど、夫の不在が重く感じられたことはなかった。
 仕事の愚痴も聞いてもらいたいし、早く明後日になるといいのに。
 駒子はそれだけを祈るような気持ちで思っていた。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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