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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第5回

2017.03.22 更新

 駒子と岡村の昇進が発表された途端、社内中に噂が駆け巡った。
「なんであの二人が?」
「女だから贔屓(ひいき)されてるんじゃないの?」
「部長に色仕掛けで迫ったとか?」
「愛人の岡村梓を昇進させるために、水上を当て馬に使ってるんだろ。前もそうだったし」
「うまいことやったよな。ろくに実績も上げないのに、いきなり次長だぜ」
「どれくらいやれるか、お手並み拝見だね」
 直接駒子に言ってくる人はいなかったが、たとえば駒子が部屋に入った途端、会話がぴたっと止まったり、遠巻きにこちらをちらちら見ながら笑いあっていたり、とあからさまな態度で噂話をしていることを見せつけられた。辞令が出るまではなごやかに談笑したり、駒子のいる管理課に雑談に来ていた人たちも、まったく寄り付かなくなった。部下たちでさえも、どこかよそよそしい。部屋の中に妙な沈黙が漂っている。駒子の後には、『カラーズ』編集長の井手が課長になることが決まっている。本来なら管理課のスタッフの誰かを昇進させるのが筋であるが、駒子以外の正社員は二人しかおらず、共にまだ二〇代と経験に乏しいということで、井手の方にお鉢が回ってきたらしい。井手は温厚な性格で、その分野心家の権藤には覇気がないとに思われたのか、あまり折り合いがよくなかったようだ。
 駒子と岡村、井手の辞令は七月一日付ということになっているが、内示が出された六月二一日以降は、落ち着いて仕事はできなかった。井手にもろもろ引き継ぎをしなければならなかったが、同時に新部署の場所をどこにするか、什器(じゅうき)をどうするか、人員配置をどうするか、考えること、やるべきことはいろいろあった。
 駒子は岡村に連絡を取ろうとした。しかし、内線に何度連絡しても、引き継ぎで出歩いているということで、なかなかつかまらない。総務との打ち合わせをやるので同席してほしいという伝言を残したが、それも届かなかったのか、用事があって来られなかったのか、スルーされた。そして三日後、ようやく内線が繫がった。
「岡村さん? ああ、よかった。ようやく捕まった」
『どういうこと?』
 電話の向こうの岡村の声は、いつものように冷静だ。
「今週あなたにずっと連絡してたんだけど、いつも外出しているって言われて電話が繫がらなくて」
『だったら、携帯に連絡くれればいいのに』
「だって、岡村さんの連絡先知らないし」
『昔と変わってないわよ』
 しまった、と駒子は思った。同じ部署にいた時は岡村の電話番号も登録していたのだが、部署を異動した時、もう必要ないと思って消してしまったのだ。
「ごめんなさい。携帯変えた時に番号移し損ねたみたい」
『いいわ、そんなこと。で、要件は何かしら?』
 岡村はきびきびと会話を促す。
「あの、いろいろ打ち合わせが必要かと思って。新しい部署の場所とか、早急に決めなきゃいけないし」
 市村の話しぶりから、新部署については事前に何も用意されていない、ということがわかった。何から何まで、こちらでやらなければいけないのだ。
『えっ、決まってないの?』
「ええ、そうよ」
『てっきり総務の方からあなたに指示があったのかと思ったわ。あなた、打ち合わせするって言ってたでしょ』
「あら、私の伝言、伝わっていたのね?」
『打ち合わせの件? ああ、いっしょに来てくれって言ってたんだっけ。ごめんなさい、その日は一日中引き継ぎで外回りしていたから行けなかったのよ。それに、そういう話なら、あなたひとりいれば大丈夫だと思って』
 駒子はむっとした。めんどくさいことはこちらに押しつけるつもりなのだ。この女は昔からそうだった。
「そんなわけにはいかないわ。場所をどこにするかって、大事な問題じゃない!」
 思わず強い口調になった。目の前に座っている部下たちが、はっとしたように駒子の方を向く。しまった、と駒子は思う。こういう言い方はなるべくしないように、と思っているのに。職場では穏やかにということを心掛けているのに、岡村は私のペースを乱させる。
 駒子は声のトーンを下げて、岡村に言う。
「総務に相談したら、とりあえずふたつ提案されたのだけど……どちらに決めたらいいか、岡村さんの意見も聞きたいわ。場所の問題以外にもスタッフのこととか相談したいので、打ち合わせの時間を取ってもらえないかしら」
 部署を起ち上げるには、いろいろな雑用が降りかかってくる。それは岡村にも等分に働いてもらう。私だけやるなんてことはしない。
 駒子の口調に断固とした決意があることを感じとったのだろう。数秒の間を置いて返事があった。
『わかったわ。今日一時から編集部の会議があるんだけど、その後でもいいかしら』
「ええ、大丈夫よ。今日は一日デスクワークだから」
『じゃあ、会議は三〇分くらいで終わるので、終わったら連絡します』
 面倒なことは極力避けたがるが、やると決めたら、岡村はてきぱきとものごとを進める。そのあたりも昔と変わっていないようだ。
「よろしくお願いします」
 駒子は電話を切った。

 岡村から連絡があったのは、一時一五分頃。思ったよりずっと早かった。指定された会議室に行くと、岡村がひとりで待っていた。今日は真っ赤なワンピースに黒のカーディガン。アラフォーだというのに、派手な格好だ。もっとも、目も鼻も口も大きい、化粧映えのする派手な顔立ちの岡村には、華やかな格好が似合っているのだが。
「会議、早く終わったのね」
「どうせ、私にはもう関係のない会議だから。最低限の連絡だけして解散したの」
「でも、引き継ぎとかいろいろあるんじゃないの?」
「そんなこと、新しいスタッフが考えればいいことよ」
 突き放したような言い方に、駒子はぎょっとした。
 いくらなんでも冷たすぎる。
 駒子の思いに気づいたのか、岡村が自らをフォローする。
「そんな顔しないで。私がいなくてもやっていけるだけのスタッフに育てたつもりはあるわ。それに、私の後釜は、私にあれこれ言われるのを嫌がるでしょうから」
「そうかしら」
「そういうものよ。部署も変わるし、私はもう関係ない人間だもの」
 さばさばした岡村の言葉に、駒子は黙り込んだ。いままで精魂(せいこん)傾けてきた組織なのに、そんなにあっさり考えられるものだろうか。私の方は、管理課の今後が気になってしょうがない。経験のない井手に、長年ここで働いているスタッフがついていけるのか、ちょっと不安だ。
「それより、総務はなんて言ってるの?」
 岡村は話題を本筋に戻した。無駄なおしゃべりは不要、という態度はいかにも岡村らしい。
「総務の方も、急な話なので、まだ進んでいないみたい。とりあえず近隣に一部屋借りるか、ここの二階のフロアの隅を空けてもらうかしかないそうよ」
 駒子も無駄な説明は省いて、簡潔に話をする。
「二階の隅?」
「いま、『月刊 俳句の景色』が使っている辺りを整理して、新部署の机を一列に並べたら、ってこと。どうせ俳句のスタッフはうちの部署の所属になるし」
 駒子の提案を、岡村はにべなく拒否した。
「それは却下。一列分空けるとなったら、ほかの部署にもしわ寄せがいくし、きっと嫌われるわよ。スタッフの人数がそれで納まるかどうかもわからないし。それより、部屋を借りてくれるなら、そっちの方がいいじゃない」
 やっぱり岡村はあまり深く考えていない、と駒子は思う。総務との打ち合わせにも欠席するくらいだから、場所はどうでもいいのだろう。
「だけど、部屋を借りるとなると、その経費が新しい部署に加算されるわよ。家賃だけじゃなく、光熱費とか水道代とかも。二階なら自社ビルの中だから家賃は掛からないし、光熱費なども書籍事業部と案分ということになるから、単独で支払うよりはるかに安いはず。新しい部署でどれだけ売り上げが立てられるかわからないのに、なるべく出費は抑えた方がいいわ」
「それはそうだけど」
 岡村は不満そうだ。
「書籍事業部とは別の部署なのに、その隅に間借りするってのもおかしいでしょ。それに、人数が増えたら収まりきらないし。ほかにどこか空いたスペースはないの?」
「そんなスペースがあったら、別の用途に使っているわよ」
 駒子はむっとして答えた。総務だって、そんな場所があればちゃんと提示してくれる。いろいろ相談して、やはり二階のフロアを空けてもらうしかないだろう、という結論になったのだ。その打ち合わせに参加しなかった人間が、今さら何を言う。
「それをなんとかしてうちのために空けてもらわなきゃ、だわ。そうね、第四会議室なんかどう? スペース的にも手頃だし」
「手頃って……ちょっと広すぎるんじゃない?」
 第四会議室は学校の教室くらいはあろうかという広さだ。参加者が四、五〇人いる会議のためのスペースだが、そうした会議は本社ビルの方で行うことが多いので、書籍事業部と同じ第二本社ビルの中にあるこちらの会議室の稼働率は低い。
「そんなことないわ。少なくとも二〇人くらい入れるスペースはないと」
「二〇人? 多すぎない?」
「最初はそうかもしれないけど、一部署として成立させるには、最低でもそれくらいはいるでしょう。それに、資料や本を置くスペースもいるじゃない。そこでも狭すぎるくらいよ。……ああそうだ、一階の打ち合わせスペースを区切って使うっていう手もあるわね。そっちの方が広く取れるかしら」
「それはそうだけど、打ち合わせスペースは稼働率が高いから、そこを狭くするとクレームが来るわよ」
「じゃあ、会議室を第一候補ってことで、総務に交渉してくれない?」
「え、私が? あなた、それ……」
 私ひとりに押しつけるつもり? という言葉が口から出掛ったが、岡村がそれを遮って言う。
「その代わり、権藤部長の承認は取っておくから。もともと書籍事業部しか使っていない会議室だし、部長がいいと言えば総務も反対しないでしょ」
「それは……そうだと思うけど」
 岡村は権藤部長を説得するのに、絶対の自信を持っているようだ。その自信はどこからくるのだろう。ふたりがつきあっているとかつきあっていたという噂は本当だったのか。
「じゃあ、手分けしてやることにしましょう。それから、ほかに話すことは?」
 手分けしてやる、というのも岡村らしい。そう言われれば、駒子も反対する理由がない。
「総務からは、什器をどうするか、机や椅子はいくつ必要かって聞かれているわ。でも、スタッフが揃わないと決められないし」
「あなた、まだスタッフのあたりつけてないの?」
 岡村が驚いたように聞き返す。
「ええ、そんな時間は取れなくて。あなたの方は?」
「だいたいこんな体制でいきたいっていう希望はまとめたわ。社内で異動させたいと思うスタッフには声を掛けているし」
「もうそこまで」
「新しい部署で何が大事かって、やっぱり人じゃない。そりゃいちばんに考えるわよ」
 すばやい。もしかして岡村がなかなか捕まらなかったのは、新スタッフ獲得のために動いていたからなのだろうか。私はまだ何も動いていないのに。
「とりあえず、机を二〇人分入れてもらったら?」
「えっ、いきなりそんなに?」
「私の方、今のところ七人確保しているし、あと二人くらいあたりをつけてるから。あなたの方もそれくらい必要でしょ?」
「まあ、そうね……」
「余った分はフリーの人に使ってもらえばいいし、それで総務に交渉してくれないかしら。部屋の打ち合わせのついでにでも」
「……それは、そうね」
「それでレイアウト考えなきゃね。それによって什器を選ばなきゃ。什器のカタログとかはもらえるのかしら?」
「たぶん総務がくれると思うわ」
 岡村の積極的な態度に、駒子はたじたじだ。自分は明らかに出遅れている。
 とりあえずは、場所を決めてからレイアウトを考えようということで、打ち合わせを終えた。会議室を出て、管理課の自分の席に戻ると、駒子はぼんやり考えた。
 自分はまだ新しい環境になることに、気持ちがついていっていない。今までの仕事に対する未練がある。だから、新しい部署の仕事になかなか移れないんだ。
『駒子さんは情が深すぎる。仕事の時はもっと割り切った方がいいよ』
 その昔、達彦に言われたっけなあ。それはあんまり変わってないのかもしれない。仕事関係の人間と深入りしないようにしているのも、情で判断を狂わせないように、と思ってるからなんだけど、それでもやっぱり性分は変えられないなあ。
「あの、ちょっといいですか?」
 耳元で声がして、駒子ははっと我に返った。部下の花村咲良が机の前に立っている。
「あ、何?」
「いま、お時間ありますか? ちょっと相談したいことが」
 いつも浮かべている笑顔がなく、眉根に力が入っている。緊張しているようだ。
「え、ああいいけど」
 花村が周囲をちらっと見回す。こちらを見ていた部下のひとりが、慌てたように顔を伏せる。
 なるほど、人には聞かせたくない話なのか、と駒子は推察する。
「どこか、ほかの場所で話す?」
 駒子が問い掛けると、花村は表情を緩める。
「ええ、できれば」
「会議室でもいいけど、久々にまともな珈琲が飲みたいな。ちょっと外に行こうか」
「はい。お願いします」
 駒子は財布とスマートフォンをポーチに入れて、ホワイトボードに「打ち合わせ 三時戻り」と記入した。
「じゃあ、行こうか」
 花村を促して外に出る。何もしていなくても、会社の外に出るだけで気持ちが緩む。この日は六月下旬にしては暑すぎず、五月のようなさわやかな風が吹いていた。
「ちょっと歩くけど、私の好きな店に行っていい? そこだと会社の人もいないと思うし」
「もちろん大丈夫です」
「たまにしか行かないんだけど、そこの珈琲、すごくおいしいのよ。マスターがネルドリップで一杯ずつ淹れてくれるの。最近まともな珈琲を飲んでないから、珈琲欠乏症なの」
「最近飲んでないって、どうしてですか?」
「いつも淹れてくれる夫がしばらく留守にしているのよ。自分で淹れてもいまいちなのよね」
「留守?」
「最近仕事始めたのよ。それで仙台に行ってるの」
「仕事って、何を?」
「元はカメラマンだったのよ。子どもが大きくなったんで、仕事を再開したの」
「そうだったんですか」
 花村は賢明にもそれ以上は聞こうとしない。駒子がプライベートのことを語りたがらないのを十分承知しているのだ。
 その後はあたりさわりのない世間話をしながら、ぶらぶらと歩いた。駒子のお気に入りの喫茶店は、大通りから脇道に引っ込んだところにある。会社から裏道を通って七、八分掛かるだろうか。京都の町屋のように、間口が狭く奥に細長い。手前に二人掛けの席が二つ、その奥にカウンター、さらにその奥には四人掛けの席が二つある。店はそれほど混んでおらず、カウンターに一人、奥に二人いるだけだ。駒子と花村は手前の席に座った。
「こんなところに喫茶店があったんですね。初めて来ました」
 花村は物珍しそうに辺りを見回す。窓はなく、漆喰(しっくい)の壁に赤いビロードのカーテンが映える。室内にはアンティーク家具が置かれ、本物のレースのドレスを着たアンティークドールや手回しのオルゴールが飾られていた。
「ここは穴場なのよ。会社からちょっと離れているから、会社の人にも会わないしね。たまに息抜きに来るのよ」
 駒子が説明していると、ウエイトレスがメニューと水を持って来た。ウエイトレスは銀髪を後頭部にお団子に束ね、細い銀縁の眼鏡を掛けている。たぶんマスターの奥さんなのだろう。ウエイトレスが若い女性でないことも、駒子は気に入っている。
「ご注文がお決まりになりましたら、お声をお掛けくださいまし」
 鈴を振るような優しい声である。この声を聞くと、いつも安らいだ気持ちになれる。
「私は深煎り珈琲にするけど、花村さんは?」
「えっと、カフェオレでもいいでしょうか?」
 珈琲専門店でカフェオレを頼むのは邪道だと思ったのか、花村が遠慮がちに言う。
「もちろんよ。じゃあ、それでオーダーしましょうか」
 ウエイトレスを呼んでオーダーを頼むと、駒子は花村に向き合った。
「話があるって、何かしら」
 単刀直入に質問する。ここに来るまでに雑談はしているので、いきなり本題に入っても大丈夫だろう。
「あの、水上さん、新しい部署に異動になるんですね」
 おずおずと花村が切り出す。そうか、私が異動になった後のことをこの子は心配しているのか。
「ええ。だけど心配しないで。あなたのことは次の課長の井手さんにお願いしておくから。井手さんは温厚な人だし、あなたのことも悪くはしないわ」
「ありがとうございます。でも、それより水上さんの新しい部署に、私も連れて行っていただけませんか?」
「はあ?」
 思ってもみなかった提案だ。花村は次の異動で書籍事業部とは関係ない部署に移りたいのだろう、と思っていたのだ。新企画事業部は独立を予定しているといっても、当分は書籍事業部の中に位置づけられるのだ。
「出過ぎたことを言ってすみません。でも、新部署には書籍事業部からも何人か異動になるって聞いてますし、だったら私でもいいのではないかと思って」
「えっと、ごめんなさい。まだ新しい部署のスタッフについては、全然考えていないのよ。私は自費出版をやることになっているので、『俳句の景色』のスタッフは引き取ることになりそうだけど、それ以外は……」
「でも、高橋さんの異動は決まったそうですね」
「高橋って言うと……」
「高橋郁也(いくや)。ミステリ文庫副編集長の」
「えっ、ほんとに?」
 高橋は若いが仕事では頭角を現している。新規事業部のような、先の見えない部署によくぞ異動する気になったものだ。
「はい。岡村さんに口説かれて、ついていくことになったそうです」
「それは、誰が言ってたの?」
「みんな噂してますよ。噂の出所はおそらく郁也くん本人じゃないかと思うんですが」
 やれやれ、と駒子は思った。駒子は会社の人との関係はできるだけ軽くしようと思っている。だから、噂話を知るのもいちばん遅い方だったが、よりによって自分自身の仕事に関係したことを、みんなより遅く知ることになるとは。
「ほかに誰が行くとか、噂はあるの?」
「うちの松井さんにも岡村さんは声を掛けたらしいですよ。どうするか、まだ決めてないらしいですけど」
「えっ、松井くんにも?」
 まだ決めてないということは、心は動いているということだ。松井は正社員だ。本来なら新しい課長を助けて、部署をまとめていく立場にある。それなのに、異動に心動かされるというのはどういうことだろう。
「仕方ないですよ。松井くん、管理部門より生産部門に行きたいってずっと言ってましたから。電子書籍でも編集者的な仕事はできるし、いまのまま管理課にいるよりは楽しいと思ったんじゃないでしょうか」
「そうなんだ……」
 そんなこと、ちっとも知らなかった。松井が今まで管理課に対する不満を言ったことは一度もない。今の部署でずっと頑張るつもりだとばかり思っていた。
「松井くん本人がそう言ってたの?」
「ええ。私と帰りの方角がいっしょなので、たまに同じ電車で帰るんです。そうすると、編集部に行きたいって話ばかりしてますから」
 つい最近異動してきた花村に、松井はそんな話をするのか。
 入社してから正社員としてちゃんとやっていけるように育てていこうとしていた自分には、そんな話はまったくしなかったのに。
 駒子はショックを受けて黙り込んだ。それに気づいた花村はフォローしようとして言う。
「松井さんが私にそういうことを話すのは、私とあまり利害関係がないからだと思います。どうせ私は一年も管理課にはいないし、その間だけ仲良くしていればいい、という気楽な関係ですから」
 そうかもしれない。敏感とは言い難い松井でも、自分を育てようとしている私には、さすがに言えなかったのだろう、と思い直す。
「私は松井さんは管理課に残った方がいいと思うのですが、私の場合はどうせ管理課にいられるのも半年ですし、新しい部署に移るなら、水上さんのところがいいと思ったんです」
「それは……どうして?」
「水上さんは女性なのにフェアな上司ですから」
「女性なのにって?」
「女性の方がやりにくいことも多いんですよ、私の場合。上司でも、感情的になられる方が多いですから……」
 花村はそうして遠くを見るような目になった。長い睫が白い頰に影を作っている。憂いを含んだまなざし、とセンチメンタルな男なら言いそうだ。だけど、言いたくなる気持ちもわかる。そしてその美貌ゆえに、年齢問わず嫌う女性がいることも。
「だけど、新企画事業部はどうなるかわからないのよ。もしかして、失敗するかもしれないわ」
「その時はその時です。それに、水上さんも岡村さんもそこらの男性よりずっと優秀ですもの。きっと成功すると思うんです」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど……」
「及ばずながら私も力になります。どうぞ、私を新しい部署に連れて行ってください」
 そうして花村はテーブルの上に手をついて深々と頭を下げた。そこへ珈琲が運ばれてくる。ウエイトレスは何事か、という顔でこちらを見ている。
「頭を上げて。珈琲が置けないわ」
 花村が顔を上げる。ウエイトレスが珈琲をセットするのを二人は黙って見ている。
 この申し出はどう考えればいいだろう。
『俳句の景色』から四人引き取ることは決まっているが、皆五〇代以上のベテランばかりだ。若いスタッフが入ってくれるに越したことはない。だけど、将来性の見えない新しい部署にそうそう若い、やる気のあるスタッフが来てくれるとは思えない。岡村はどうやって高橋を口説いたのだろう?
 だから、花村が自ら来たいと言ってくれるのは、渡りに舟、すごくありがたいことではある。だけど、なんとなく気が進まない。いい子だし、過去の件にこだわっているわけじゃないけど、なんか気が重い。
 駒子はあまり論理的な方ではない。どちらかと言えば直感にしたがっていままでやって来た。それで間違いはなかった、と思っている。その直感が、止めた方がいい、とささやいているのだ。
「あの、ほんとのことを言うと、私、怖いんです」
 駒子が躊躇しているのを感じたのか、花村が言葉を続ける。
「怖い?」
「ただ一生懸命仕事をやってるだけなのに、相手が男の人だとヘンに高く評価してくれたり、勘違いされたり……。仕事相手だけじゃなく、上司とか社内の人にもそういうふうに思われたりすることがあるから、どうしたらいいか、わからなくて……」
 ああ、そうなのだ。この子ほどの美貌だと、男は平静でいられなくなる。作家ものの編集者のように、相手の人間性と向き合う仕事の場合、それはとてもつらいだろう。自分自身の経験からもそれはわかる。
 さらにこの子は、上司にも変な勘違いをされてしまったのだ。どうしたらいいか、わからない。そう思うのも無理はない。
「だから、管理課に来た時、ほっとしたんです。水上さんがフェアな方だから、職場も風通しがいいし、感情的なもつれとかもないし」
それは駒子が常日頃気に掛けていることだ。そこをちゃんと評価してくれるのは、悪い気はしない。
「上司が違うと、職場の雰囲気も変わるんですね。正直この会社に入って、初めてほっとしたんです。……だから、これからも水上さんについて行きたいんです。どうか、私を連れて行ってください」
 花村は再び頭を下げた。
「そんなことしなくてもいいわ」
 駒子は花村の肩を押して、顔を上げさせた。
「あなたがそんなふうに言ってくれるのは、ほんとうに嬉しいし、ありがたい。私の一存だけで決まることではないけど、あなたに来てもらえるように総務と交渉してみます」
 花村の顔がぱっと輝いた。
「ほんとうですか? ありがとうございます」
 花村は手を伸ばして駒子の手を摑んだ。細く長い指はひんやりと冷たかった。
「私、新しい職場で仕事頑張ります。水上さんに後悔させません。どうぞ、よろしくお願いします」
 その嬉しそうな表情を見て、駒子は『まあ、いいか』と思った。この子が今以上にいい部署に異動できるとは思えない。上司を訴えた女という汚名は付いて回るだろう。
 だったら、私のところで引き受ければいい。少なくとも、私はそういうことでこの子が非難されるような不当なことはさせない。
 駒子の中の義侠(ぎきょう)心が猜疑(さいぎ)心に勝った。
 もともとあまり人を悪く思うのは苦手な性質(たち)なのだ。
「異動が決まったら、よろしくね。いっしょに新しい部署で頑張りましょう」
 駒子の言葉に大きくうなずいて、花村は握った手にぐっと力をこめた。その手の冷たさに、駒子は一瞬身震いした。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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