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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第4回

2017.03.08 更新

「おはようございます。あ、今自分の珈琲を淹れるところなんですけど、水上さんもいかがですか?」
 職場に着くと、花村がそんなふうに声を掛けてきた。
「ありがとう。でもまだいいわ。あとで自分で淹れるから」
 この会社は男社会ではあるが、女性社員がほかのスタッフのお茶を淹れるという習慣はない。各自自分のことは自分でやることになっている。しかし、花村はほかの人のお茶を淹れることもいとわないし、誰より早く出社して、スタッフ全員の机を拭いたりしている。「そんなことしなくてもいいよ」と言っても、「自分のをきれいにするついでですから」と笑顔で返すのだ。
 花村は美人だ。近くにいるとつくづく思う。ファンデーションなど必要なさそうなきめ細かな白い肌、形のいい鼻、長い睫(まつげ)が大きな瞳をいっそう大きく見せている。それに、思わず触れてみたくなるようなふっくらした唇がセクシーだ。その女っぽい容姿を必要以上に強調しないよう、薄化粧で服装はシンプルなジャケットにパンツというビジネススタイル。アクセサリーも地味なものを選んでいるし、髪型はあっさりしたショートボブだ。だが、それが逆に骨格や肌のごまかしようのない美しさを強調している。女慣れした権藤がくらっときたのも無理はない、と駒子は思う。
 これほどの美人だと、よくも悪くも注目を浴びる。それで得することと損することとどっちが多いのだろう。出る杭は打たれる。何ごとも人と同じがいいという同調圧力の強いこの国では、突出した美人というのは生きにくいだろう。うちの部署でなかなか馴染めないのは、彼女だけ正社員で問題ありの異動というだけでなく、この美貌もあるんだろうな。自分は彼女よりずっと年上で、既婚で、管理職だから気にならないが、もし若い時に横並びの同僚にこんな人がいたら、やっぱり穏やかではいられないだろう。美人だけどいい人、と同性に認められるために、彼女は今までどれくらい気を遣ってきたのだろうか。
 そんなことを思いながら、パソコンを起(た)ち上げる。朝いちばんにメールをチェックするのが習慣になっている。届いているメールは七、八通。印刷所や部内の誰かからの連絡だ。ひとつずつチェックしていき、最後に開いたのは次長の市村からのメールだ。
『ちょっと打ち合わせしたい件がありまして、連絡しました。一五日の一三時から、A会議室に来てください』
 市村には珍しいほどそっけないメールだ。いつもなら、時候の挨拶だの、何かの件についての謝礼だのについてごたごた述べてから本題に入る人なのに。
 わざわざ会議室でやる打ち合わせって何なのだろう。内容に触れないのは不自然だ。しかも、今日の打ち合わせなのに、こちらの都合を聞かず、いきなり時間を指定してくる。気配りの市村次長にしては珍しいことだ。
 これは何かあるな、と駒子は直感した。
 花村絡みのことだろうか。面倒な話じゃないといいけど。
 嫌な予感を覚えながら、駒子はメーラーを閉じた。

 予定の時間の五分前に、駒子は会議室に出向いた。ノックをすると、中から「どうぞ」と市村の声がした。ドアを開くと、広い会議室の向こう側に、市村次長と権藤部長がいる。
 市村と権藤は並んで座っているが、態度は対照的だ。市村は所在なさそうに縮こまっており、権藤は不機嫌そうな顔で椅子にふんぞり返って座っている。
 部長同席だから、こちらの都合は聞かれなかったわけね。
 悪い予感は正しかったみたい。
「まあ、そこに座って」
 市村が自分たちの前の席を指し示す。駒子は一礼をして、その席に着いた。しかし、ふたりは黙っている。駒子の戸惑いを察してか、市村がとりなすように言う。
「もうひとり来るので、ちょっと待っててね」
 その言葉が終わらないうちに、ドアがトントンとノックされた。
「ああ、来たようだね。……どうぞ」
「失礼します」
 入ってきた人物を見て、駒子は目を見開いた。文芸三課の課長の岡村梓だ。岡村は駒子を見ても驚かず、平静を保ったまま駒子の隣に座った。メンバーは揃ったらしい。しかし、権藤が何も言わないので、市村が仕方なく、というように口を開く。
「ふたりに来てもらったのは、君たちに昇進の辞令が出ることを伝えるためだ」
「昇進?」
 思いがけぬことだった。嬉しいよりも何よりも驚きがまさった。
「七月一日付でふたりを新企画事業部所属とし、次長に昇進する」
 私が次長? ほんとに?
 新企画事業部? なにそれ? 聞いたこともない。しかも、なぜこんな中途半端な時期に?
 駒子の頭の中は驚きとさまざまな疑問が渦巻いて口もきけないでいるが、隣の岡村は平然とした顔で、
「ありがとうございます」
 と、頭を下げた。駒子も慌てて「ありがとうございます」と続く。
「おめでとう。ふたりとも優秀な人材だから、次長に昇進しても立派にやってくれると思う」
 次長ということは、駒子たちも市村と横ならびになるということだ。市村の想いは複雑だと思うが、いつもどおりの愛想の良さを崩さない。
「あの、新企画事業部ってどういう部署なんでしょうか?」
 駒子は混乱しながらも状況を理解しようと努めた。
「ああ、悪かったね。そっちを説明しないと……。率直に言えば、従来の出版ビジネスとは違うもの全般に携わる部署だ。たとえば電子書籍とか自費出版とか海外展開とか」
「でも、それはいままでもやってきたことでは?」
「確かに、それぞれの編集部がやれる範囲でやってきた訳だが、それでは片手間だし、長期的な戦略も打てない。それで、独立した部署を作って、もっと大きく展開していきたい、というのが会社の方針だ」
 ずいぶんざっくりした考え方だ。確かにそれで効率化される部分もあるかもしれない。だが、どこまで売り上げを伸ばせるか。電子書籍と自費出版と海外版権だけでは心もとない。
「それで、これは書籍事業部とは別にセクションを立てるということですか?」
 駒子は重ねて質問をする。岡村は黙ったままだ。
「いずれはそうなる。来年度には独立した部署として起ち上げるが、それまでは暫定的にうちの管轄になる」
「なぜ、こんな中途半端な時期に?」
 駒子の言葉を聞いて、権藤の眉がぴくっと動く。まずい質問だったか、と駒子は思う。市村は駒子の問いを無視して説明を続ける。
「岡村さんには電子書籍と海外事業関係、水上さんには自費出版の方をやってもらおうと思う」
 自費出版? よりによってそっちの方? 
 駒子の会社は戦後間もなく、俳句関連の書籍を出版するための会社として始まった。今で文芸二課の中に俳句の編集部は存在する。その関係から、一般的な書籍以外に俳句の句集を自費出版で作るという歴史は長い。大きな売り上げはないが、刷った部数すべてをクライアントが買い取るので無駄がない。出版不況の昨今では、大手出版社や新聞社までが素人の原稿を集めて本にする、というビジネスを盛んに展開している。駒子の会社ではなまじ自費出版の歴史があるだけに、それ以上積極的にパイを広げようという努力をしてこなかった。他社に出遅れている感は否めない。なぜいまさら新規事業として独立させようというのだろう。
 それに比べれば、電子書籍や海外展開の方がまだ可能性はある。
「それぞれ頑張って、売り上げを立ててほしい。それで、うまくいけば来年度、正式に事業部として起ち上げ、どちらか片方を部長に昇進させる」
 その言葉は衝撃だった。
 どちらかを部長? いきなりなぜ? 次長昇進だけでもありえないことだと思っていたのに、一年以内に部長に昇進なんて。
 駒子は再び絶句しているが、岡村は平然と挨拶する。
「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう、頑張ります」
 駒子の方は、咄嗟に頭に浮かんだことを口にした。
「なぜ、私たちなのでしょう? ……岡村さんはともかく、私は管理的なことをずっとやってきましたし、どうして選ばれたのかわかりません」
「それは、ね……」
 駒子の問い掛けに、市村が応えあぐねていると、権藤が初めて口を開いた。
「そりゃまあ、君たちが優秀だからじゃないのか。ほかにも課長や次長はたくさんいるのに、君たちのどちらかをいずれ部長にするっていうんだから」
 嫌味たっぷりな口調だ。あきらかにこれは権藤の意向とは違うのだろう。
 だとすると、誰の意向? 部長以上……取締役会で決まったことなのだろうか。
「何にしたって、いいことじゃないか。どちらかは部長への昇進が約束されている。会社も君たちに期待してるってことだよ。滅多にないチャンスだ。頑張るだけの意味があるんじゃないか」
 権藤とは逆に、市村はおだてるような口調になっている。
「片方はいずれ部長に昇進ということですが、昇進できなかった方はどうなるんですか?」
 駒子はさらに問う。
「その場合は次長として新部長を支える仕事をしてほしい。どちらにしても、君たちで協力して新しい事業部を作っていってほしいということなんだ」
 つまり、実績をあげた方が部長、もうひとりはその部下になるってことか。
 協力してやれ、と言いながら、実のところ部長というたったひとつのポストを目指して闘え、と言ってるようなものだ。
 嫌だな、と咄嗟に駒子は思った。そういうかたちで会社は自分たちを競わせようとするのだ。女同士闘わせるのが面白い、とでも思っているのだろうか。
「これはもう、決定事項なのでしょうか」
「と言うと?」
「私が管理課に残るという選択はないんですね」
「それはない」
 権藤がきっぱり言う。
「すでに、次の管理課の課長の人選も始まっている。それも追って発表されるだろう。ものごとはすでに動き出しているんだ」
「なぜ、そんなに急ぐんですか? 新規事業がどうなるかもわからないのに。部署を起ち上げるかどうかは、その結果を待ってからでもいいんじゃないですか?」
 駒子の言葉を聞いて、権藤はせせら笑うように唇を歪めた。
「水上はなぜ、が多すぎる。とにかく会社が決めたことだ。会社員なら、会社の方針に素直に従えばいいんだ」
 吐き捨てるように言うと、権藤は席を立った。
「もう説明はいいだろ。とにかく、すぐに新しい仕事にかかれ」
 そう言い捨てて、権藤は会議室を出て行った。
 権藤がいなくなると、広い会議室がさらに広くなったような気がした。困ったような顔の市村が、おずおずとふたりに問い掛ける。
「ほかに何か聞きたいことはある?」
「あの、それで新しい事業部の場所はどこに? それから私たち以外のスタッフはどうなるんでしょうか?」
 駒子にとっては仕事内容だけでなく、その辺も大きな関心事だ。場所と人員をどううまく整備するか。そんな仕事を一〇年近くやってきたのだ。そのうちなんとかなる、と楽観的に思うことはできない。
「ああ、そうだね、場所の問題があるね。どうしようか、あとで相談させて」
 場所も人員配置もまだ決まっていないのか。どれだけ慌ただしく決まったことなのだろう。
 しかし、考えてみればそれも当然だ。書籍事業部のどこかの部署が引っ越しするとか、別のスペースを借りるというような案件であれば、まっさきに自分に相談が来る。それを手配し、実行するのは管理課の仕事だから。
 私が知らないということは、誰もスペースのことを考えていないということだ。
 やれやれ、自分はそこから考えなきゃいけないのか。
「スタッフについては、今までそれ専任でやっていたスタッフがいるから、彼らを配属する。他所から異動してきてもらうこともある。だけど、ある程度はきみたちの希望に沿うようにするよ」
「はあ……」
 希望も何もない。まだそこまで考えられない。どういう仕事をしていくか、まずそこから考えなければならないのだ。
「あの、説明は以上ですか?」
 岡村が市村に聞く。岡村はさっきから質問はしていない。いつもどおり冷静だ。
「ああ、そうだね。まあ、細かいことはこれからいろいろ出てくると思うけど、とりあえず今日は内示ということだから」
「わかりました。では、今日はこれで私も仕事に戻らせていただきます」
 そう言って、岡村は会議室を出て行く。落ち着きはらったその態度を見ながら、駒子は思う。
 もしかしたら、岡村さんはこのことを事前に知っていたのだろうか。
 そうであったとしても彼女はそれを明かさないだろう。情報通で秘密主義。それが岡村のやり方だ。そして、人の良い駒子はそういう岡村が苦手だ。
 入社した当初、新入社員九人のうち女性はふたりだけ。しかも配属されたのが同じ書籍事業部だったから、岡村と駒子はよく比較された。第一印象から苦手なタイプと思っていたが、まわりが勝手にライバルだと決めつけて、けしかけるようなことを言うので、ますます敬遠するようになってしまった。それでも同じ部署にいる間は必要に迫られて話をしたり、協力して仕事をすることもあったが、自分が管理課に異動になってからはそれもない。岡村は管理課との折衝は必要最低限に留め、極力部下にやらせようとしていた。いまさら協力しろと言われても、どうすればいいのか途方に暮れる。
 岡村に続いて会議室を出て行こうとする市村を、駒子は「待ってください」と押し止めた。
「あの、どうしていまこの時期に昇進なんですか? それも、半年後には部長なんてびっくりです。いままで女性は次長にもいないというのに」
 駒子の質問に、市村は一瞬口ごもったが、
「さっきも、権藤さんが言ってたじゃない。それは君たちが優秀だからだよ。それ以上のことは僕にもはっきりとは……」
 それだけ言うと、駒子の追及から逃げるように立ち去った。ひとり残された駒子はただ溜息を吐くばかりだ。

 その日は早めに帰宅した。混乱して、集中して仕事できる気分ではなかったのだ。
「次長に昇進ってことは、お給料も上がるの?」
「それはたぶんね。だけど、仕事は確実にたいへんになる。給料据え置きでいいから、今のままがいいなあ」
 駒子は達彦と向き合ってシャンパンを呑んでいる。いつもの家呑みは千円台のボトルだが、これはその倍はするだろう。昇進と聞いて、達彦が急遽買いに走ったのだ。つまみは燻製のチーズに作り置きのローストポーク、スライストマトに自家製のピクルスだ。
「昇進、嬉しくないの?」
「嬉しくないわけじゃないけど……腑に落ちないことが多すぎて。なんで今なんだろう。それに、なんで私なわけ?」
「それは駒子さんが優秀だからだって、上司も太鼓判押してくれたんだろ?」
「優秀ねえ。どうなのかな。管理部門の実績って数字では計りにくいから、私がそんなに評価されていたとは思えないんだけど」
「そうなの?」
「とくに女性の場合、はっきり見える実績をあげないと、なかなか評価されないのよ。うちの会社でも、女性で課長になってるのはほとんど編集部の人間。編集者は売り上げが数字で出せるからね。私が課長になれたのは運が良かっただけ。なのに、ほかの課長を差し置いてなぜ自分が、って思うのよ。そもそも部長への昇進が約束されてるなら、市村次長がやればいいのに」
 駒子は手酌でシャンパンをグラスに注いだ。上等なシャンパンだけに、水のようにくいくい入っていく。
「確かにねえ」
 達彦の顔は赤らんでいる。達彦はあまりお酒に強くない。ワインやシャンパンを呑むとすぐに顔が赤くなってしまうのだ。それでもお酒は好きなので、たまにこうして家呑みをする。会社の連中とは必要以上につるむことのない駒子にとっては、いい息抜きになっている。
「それに、これから部署をひとつ起ち上げるってたいへんなことだよ。しかも、相手が岡村梓じゃねえ。彼女は部長になるチャンスだと張り切っているかもしれないけど」
「じゃあ、そちらの方にバリバリ働いてもらって、駒子さんはのんびりやればいいんじゃないの?」
「これがそうもいかないのよね。彼女、私のことが邪魔だと思ったら、追い出しかねないから」
 以前もそうだった。駒子を編集部から放り出したのだ。たとえ権藤の意思だったとしても、新しい編集長の岡村自身がそれに同意しなければ実現はしない。岡村にとって自分はいらない人間だったのだ。
「じゃあ、駒子さんは追い出されないために、実績を作らないとってこと?」
「そうね。別に部長になりたくなんてないけど、正直あの人の部下になるくらいなら、自分がなった方がいいと思う」
「ダメダメ、そういう言い方」
 達彦が人差し指を立てて左右に振る。
「どういうこと?」
「冗談でも、同じ会社の男連中の前では、部長になりたくないなんて言っちゃダメだよ」
「えっ、なんで?」
「男はね、女より出世したいと思っているからさ。駒子さんは次長に昇進して、次は部長になるチャンスもある。なのに、部長になりたくないなんて言ったら、出世できない男連中はどう思うだろう?」
「それは……」
「男の嫉妬は怖いからね。注意した方がいいよ」
 確かにそのとおりだ。この辞令が公になったら、会社の男たちはどう思うだろう。嫉妬して、中傷してくる人間もいるだろう。
「なるほどねえ。それは気づかなかったわ。ありがと。とにかくチャンスではあるから、前向きに頑張るよ」
 駒子はグラスを掲げて、達彦のグラスにかちんとぶつけた。こういうアドバイスをしてくれるから、達彦はありがたい。
「ところで、達彦くんの方はどう? 仕事の話、どうなった?」
「実は、今日さっそく担当者に会って来ちゃった」
 照れくさそうにしているが、聞いてくれるのを待っていた、という顔だ。
「えっ、もう?」
「うん。友だちに電話したら、すぐに担当者に連絡しろって言われてさ。電話したら、すぐにも来てくれって。それで新宿まで打ち合わせに行ってきた」
「へえ、それでどんな仕事?」
「仙台のガイドブックを作る仕事。予定していたカメラマンが病気で倒れたんだって。急なことだし、一週間の出張が入るから、困ってたみたい」
「どこの仕事?」
 達彦は飯田橋に本社がある、地図やガイドブックを専門的に手掛けている出版社の名前をあげた。
「へえ、大手なのね」
「実際には、そこの仕事を専門にやってる編集プロダクションからの依頼なんだけどね」
「ふうん。それで出張はいつになるの?」
「来週の火曜日」
「来週? ほんとに急な仕事なのね」
「そう。ものごと、動く時には動くんだね。久しぶりの仕事、楽しみだよ」
「じゃあ、今日は達彦のお祝いでもあるのね」
「そうなるかな」
 なるほど、いつもより高いシャンパンの理由は、それもあるのか。
「じゃあ、ふたりの仕事がうまくいくことを祈って、乾杯!」
「乾杯!」
 そうしてグラスを掲げる達彦の目は生き生きと輝いている。こういう達彦の顔は最近見なかったな、と駒子は思う。
 やっぱり達彦みたいな男でも、外で働く方がいいのかな。
 駒子の胸はちくっと痛んだ。その達彦に仕事をあきらめさせ、家に縛り付けていたのは自分なのだ。
「仕事うまくいくといいね」
 駒子は繰り返した。自分の仕事も達彦の仕事も。
「うん、お互い頑張ろう」
 達彦は笑顔でうなずいた。見ているこちらまで明るくなるような、気持ちのいい笑顔だった。
 まあ、いいか。
 どうせものごとなるようにしかならない。ここでぐちぐち悩んでいても仕方ない。
 駒子はグラスの中身をぐいっと呑み干した。
 達彦が仕事を始めたらいろいろ大変だろうけど、やるしかない。
 達彦のこの笑顔が続くように、自分もできるだけ協力しよう。自分自身もこころから笑っていられるように、これからの仕事を頑張ろう。
 駒子の身体に力が漲(みなぎ)ってきた。ようやく明日からの仕事に前向きになれる気がしていた。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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