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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおのけい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第3回

2017.02.22 更新

「ただいま」
 玄関のドアを開けると、奥からいい匂いが漂ってくる。
 これは肉を焼いているのかな。それに、トマトとローズマリーの匂いもする。
 ハイヒールを足から外しながら、駒子は献立の予想をする。
 今日は豚肉のトマト煮込みだろうか? 暑いからトマトシチューってことはないよね。
「お帰り。今日は早かったね」
 奥から出て来た達彦が声を掛ける。いつもなら一時間二時間は残業するので、帰宅は八時を回ることが多い。今日は定時に仕事を切り上げて帰ってきたので、まだ七時前だ。
「うん、今日は思ってたより仕事が早く片付いたんで、切りのいいところで帰ってきちゃった」
「もうちょっとでラムの煮込みができるところ。ビールでも呑んでる?」
「いいね、今日は暑かったから、ビールは嬉しい」
 ラム肉のトマト煮込みね。予想はそれほど外れてはいなかったな。
 顔を洗い、部屋着に着替えて駒子はリビングへ行く。テーブルにはグラスと三五〇ミリリットルの缶ビール、それにつまみの燻製チーズと野菜のスティックが用意されていた。チーズはもちろん達彦が燻したものである。
「ありがとう。さっそくいただくわ」
 駒子は手酌でビールをグラスに注いで、口に含む。ビール特有の苦みと芳香が口いっぱいに広がり、喉の奥へさわやかに抜けていく。
「ああ、おいしい」
 こんな日は、ビールに限る。仕事でむしゃくしゃした日には。
「僕もいっしょに飲もうかな」
 達彦もビールとグラスを持ってやって来て、駒子の前に座った。
「あら、食事の支度は?」
「大丈夫、スープはできてるし、サラダも用意した。あとは煮込みが出来上がるのを待つだけ」
「そう、じゃあ乾杯」
 駒子は自分のグラスを達彦のグラスに軽くぶつけた。
「乾杯」
 達彦もごくごくとひと息に半分ほど呑み干した。
「うまい」
 そうしてにこっと笑う。まるでビールの広告のようなみごとな呑みっぷりだ。
「喉渇いていたの?」
「うん。キッチンって火を使うから、暑いんだよね」
「クーラー入れればいいのに」
「だけど、まだ六月だろ。もったいないじゃないか」
 達彦はみごとに主夫だ。経済観念も駒子よりしっかりしている。
「ところで、会社の方はどう? あの子、えっとなんだっけ。さくらとかいう名前の……」
「ああ、花村さんのこと?」
「うん。しっかり仕事している?」
 達彦は以前駒子の会社に出入りしていたので共通の知り合いもいるし、権藤のことも知っている。セクハラ事件の話をすると、フェミニストである達彦は『セクハラのうえにパワハラ。自覚がないのが最低だね』と憤っていた。
「よくやってるよ。賢い子だから仕事覚えるのも速いし、ミスも少ないし」
「それはよかった。駒子さんも助かるじゃない」
「まあ、そうだけどね」
 とは言っても、正直花村の存在は重い。彼女の能力や給料に見合った仕事を与えられない、と駒子は思う。マンパワー的には十分なところにひとり増えたのだ。生産部署ではないし、急に仕事を増やすことはできない。
「ほかの子とはうまくやってる?」
「まあまあね。ほかの女の子はみんな契約社員だから、打ち解けるという感じにはいかないけれど、そつのない子だからあたりさわりなくやってるわ」
 それでもいっしょにお弁当を食べるとか、LINEを交換するという関係にはなっていない。話しかける時は敬語だし、双方どことなく遠慮がある。
「会社の人間関係ならそれで十分じゃない」
「まあ……ね。仲良くやるに越したことはないけど」
「駒子さんだって、会社の人とは食事に行ったり、呑みに行ったりはしないんでしょ」
「私は管理職だし、私の方から誘うと強制になるもの。上司と食事に行って嬉しい部下なんていないから、まわりを誘わないようにしているだけ」
 ひとりが寂しいのか、毎日部下と連れ立って食事に行く上司もいるが、一部の部下と仲良くするのはほかの部下に対してフェアではない。その部下が問題を抱えているとか、じっくり話をしたいと思う時以外は誘わないようにしている。そして、誘ったからには奢る、というのが上司の矜持(きょうじ)だと駒子は思っている。
「じゃあ、駒子さんは上司とか同じ課長なら行くの?」
「それも難しいね。上司と行くのは私も嫌だし、同じ課長とでも、特定の男性社員とばかり食事に行くといろいろ噂も立つし」
「女性の課長っていないんだっけ?」
「いるけど、気が合うとは限らないでしょ。だったら、ひとりで食べるのがいちばん気楽」
 女性課長は駒子の会社では数が少ない。社員五〇〇名の中で、わずか七人だ。同じ書籍事業部には駒子のほかに岡村梓がいるが、彼女とランチに行くくらいなら、食事を抜いた方がましだ。
「なるほどねえ。女性管理職って孤独なんだね」
「そうね。なんのかんの言っても、うちの会社は男社会だから。女性の方が能力高くても、なかなか昇進はさせてもらえないのよ」
 ガラスの天井というが、それは防弾ガラスくらいの強度がある。男性優位の状況は、ちょっとやそっとでは壊れそうにない。
「だったら、駒子さんは課長になれただけまし?」
「そうかもね。だけどこれ以上の出世は望めないわ。私は運が良かったから課長になれただけ。前の課長が定年で辞める時、たまたま管理課の正社員で私がいちばん年上だったというだけだから」
「そんなことないだろ。駒子さんはちゃんと仕事をして、みんなに信頼されてるじゃないか」
「信頼……だといいけどなあ」
 駒子が花村を引き取ったということで、案の定いろんな噂が立った。おもしろいことに、権藤への点数稼ぎという見方と、権藤へのあてつけという見方と両方あるらしい。前者はともかく、後者は意地悪な見方だ、と思う。
 駒子自身もかつては権藤の下で編集者として働いていた。もう一〇年近く前、権藤が文芸誌『カラーズ』の編集長をしていた時期で、駒子と岡村は共にその雑誌のスタッフだった。わずか六人しかスタッフのいない雑誌だったが、権藤が昇進して編集長を外れる時、同時に岡村が編集長に昇進し、駒子が管理課へ異動になった。ヒットメーカーと言われていた駒子は、次の編集長の最有力候補と言われていたから、この異動は不自然だった。権藤と岡村がつきあっているという噂もあったから、権藤が自分の愛人を後釜に据え、邪魔な駒子を追い出した、と見る人も多かった。それは半分当たっていたが、半分は違っている。だけど、真実のところは誰にも話したことがない。達彦にすら、話したくはない。
 だが、いまでもその当時のことを覚えていて、自分が権藤を恨んでいる、と思っている人間もいるんだ、というのはショックだった。何年経っても、人々の記憶から悪い噂を一掃するのは難しい。自分では、なるべく忘れようと思っているのに。
「あ、そろそろお肉が煮えたかな」
 達彦が腰を上げてキッチンの方へ行く。続けて「うーん、ばっちり。いい具合」と、声が聞こえてくる。
「何かやることある? 私も手伝うよ」
 駒子も空になったグラスと、ほとんど手をつけなかったつまみの皿を持ってキッチンへ向かった。

「あれ、今から神社に行くの? もう八時だけど」
 達彦が駒子の恰好を見て、行先を悟ったらしい。駒子は白い上着に紺の袴という姿である。
「九時までは開いてるから大丈夫。久しぶりに引いてくる」
「そうなんだ」
 なんとなく残念そうな言い方である。
「なにかあるの?」
「ん、後でも大丈夫。もう着替えちゃったんだから、早く行った方がいいよ」
「うん、行ってきます」
 袴姿の駒子は裾を踏まないように気をつけながら自転車に跨(またが)った。駒子の行先は川向うにある神社だ。自転車なら五、六分あれば行ける距離だ。住宅街の細い道を抜け、橋を渡るとその突き当たりに神社はある。神社の敷地に入ると駒子は自転車から降り、ハンドルを押して、神社の奥まで進んでいく。小学校の校庭くらいはありそうな広い敷地で、欅(けやき)や桜の大木がそこここに植えられている。社務所や隣接する民家からは明かりが漏れているが、駒子のいるあたりは光が木に遮られて真っ暗だ。自転車のライトを頼りに奥に進んでいくが、石につまづいて転びそうになった。
 こんな時間に来るんじゃなかったかな、と思いかけた時、スタン、と空気を切り裂く冴えた音が耳に届いた。 
 やっぱり来てる人がいるんだ。
 駒子は意を強くして、自転車を進めた。
 スタン……スタン。
 その音は駒子が進むにつれ、ますます大きくなる。そして、本堂の横を通り過ぎたあたりから、明かりも見えてくる。弓道場の明かりだ。境内の一角を区切って、弓道場が作られているのだ。
 スタン。
 弓を引く人の姿も見えて来た。男性が二人ほどいる。確か、島田さんと中谷さんと言ったっけ。
 建物の脇に自転車を止め、玄関を入る。
「こんばんは」
 駒子が声を掛けると、的に向かっていた二人が振り向いた。島田さんは五〇代、中谷さんは二〇代後半の男性である。ふたりとも会社員なので、仕事が終わってから弓を引きに来ているのだ。
「おや、水上さん、珍しいですね」
「はい、いつもは土日にしか来れませんが、今日は仕事が早く終わったので、久しぶりにこの時間に来てみました。よろしくお願いします」
 駒子は礼をしてから靴を脱いで玄関を上がる。そして、奥の神棚に向かって礼をする。日本の武道全般がそうであるように、弓道も礼に始まり礼に終わる。弓道を始めたのは八年前のこと。最初はお辞儀の仕方ひとつとっても『さまになっていない』と注意された。歩き方、座り方、立ち方、お辞儀の仕方。弓を引くことより、そうした動作を正しくすることの方が難しい。日本人だからなんとなくできるつもりでいたが、弓道を始めると、いままで自分がどれほど無造作に手や足を動かしていたのか、というのがよくわかった。八年経っても、まだまだ自分は雑だと思う。
 駒子が弓道を始めたのは、ほんの気まぐれだった。毎月届けられる市の広報紙の情報欄に、すぐ近所の神社で無料の講習会がある、という記事を見つけたのだ。いつもならスルーするのだが、この時期駒子は落ち込んでいた。編集部から管理課への異動が決まった時期で、これから先何をモチベーションに仕事をすればいいのか、迷っている時期だった。それで気晴らしがしたかった。頭よりも身体を使って、つまらない考えから離れたかった。そんな状況でなければ、九月の土日を使った八回もの講習会なんて行く気にはなれなかったろう。
 そして、講習会の後は弓道をやめるつもりだった。だが、最終日、偶然放った一矢が的のど真ん中を射抜いた。それまで的に中(あた)ったことは一度もなく、的の外側の壁に届かせるのがやっとだったのだが。その感激と快感が、駒子の考えを変えた。講習会が終わった後、講師に誘われるまま弓道会に入会したのだ。
 神社の一角にあるから、弓道場の建物は決して広くはない。弓を引くための二〇畳ほどの板の間と、その奥に六畳の和室があり、そこで弓道会の会員が休憩したり、打ち合わせしたりする。夜八時を過ぎた今は弓を引くふたり以外に人はいない。駒子は和室の脇の荷物置き場に持っていたバッグを置いた。更衣室もあるが、駒子は家から近いので、あらかじめ着替えてからここに来るのだ。胸当てと弽(ゆがけ)を装着すると、天井の梁を利用して作った弓置き場から自分の弓を取り出し、家から持ってきた弦(つる)を張る。
「よろしくお願いします」
 駒子は先に来ていたふたりに挨拶し、いちばん下手に立つ。
 身体の前、頭上高くに弓を掲げ、それから的を狙って構え、左右の肩を広げるようにして、きりきりと弓と弦を引き分ける。背中と腹と踏みしめる脚に力が入る。そうして右手の弦を放すと、矢は緩くカーブを描いて的の脇の壁に中った。ほお、とひとつ肩で息を吐くと、駒子は次の矢をつがえた。
 駒子が弓道場に来るのは、ここならひとりになれるからだ。家庭も職場も関係ない。ひとりの人間としての自分。弓と矢と的と、それを引く自分自身。
 そう思いつつも、昔のことが頭に浮かんでくる。駒子は以前、ある売れっ子作家の担当をしていた。一生懸命作家に関わっているうちに、その作家に気に入られ、恋愛感情を持たれてしまったのだ。その作家はまだ三〇そこそこと若く、飛ぶ鳥を落とす勢いだったから、何が何でも原稿を取ってこい、と権藤には命じられた。恋愛感情を持たれているなら好都合。それをうまく利用しろ。
「男の編集者が作家に好意を持ってもらうために、どれだけ努力するかわかっているか? 何回も呑みにつきあい、作家にいろんな話をして、それでようやく面白いやつとか自分の作品をわかってくれるやつ、と認めてもらえるようになる。だけど、女はそうじゃない。一度も呑みに行かなくても、美人だったり、ちょっとばかり親切にしてやると男の作家はころっと騙される。男が何カ月も掛けてやっと築いたものを、女はほんの五分で軽々上回ることも可能なんだ。それを利用しないでどうする」
 権藤はそうけしかけた。駒子が既婚だとか、子どもがいるということは関係なかった。
「何も寝ろ、と言ってるんじゃない。うまいことたらしこんで、うちのために仕事をさせるんだ。それがおまえの仕事だ」
 権藤の言うことは正しいのだろう。小説に資源はない。作家の頭脳だけで生み出されるものだ。その作家に仕事をさせるのが編集者の仕事なのだから、よりよく書けるように作家の感情を鼓舞させることも大事なのだ。作家と編集者の関係は虚々実々(きょきょじつじつ)。原稿が欲しいためにお世辞を言ったり、作家をいい気持ちにさせるための噓を吐くのは日常的なことだ。
 それはわかっている。だけど、いまどき珍しいほどすれていない、純朴な作家の無邪気な笑顔に、駒子は負けた。原稿目当てに、恋愛芝居を続けるのが苦しくなったのだ。自ら担当替えを権藤に進言し、それで権藤の信頼を失った。編集者としての覚悟が足りない、と言われたのだ。
 それで駒子は管理課へ異動になった。その時期が権藤の次長昇進と重なっていて、同時に岡村梓が編集長に昇進した。結果的に、新編集長になった岡村が邪魔な駒子を追い出したように見える。新編集長は自分の雑誌のスタッフについて決める権限があるのだから、ほんとうにそうだったのかもしれない。岡村と駒子は当時から折り合いが悪く『小さな雑誌なのになんで女性が二人も必要なのかしら』と、岡村が発言したのを、駒子も聞いたことがある。駒子の異動を図ったのが権藤だったか、岡村だったのか、駒子自身にもわからない。
 だけど、今となればどっちでもいい。仕事も家庭もまあまあ快適な状態にある。編集者をしていた頃の、ふるえるような達成感や会社の売り上げを自分たちが支えているというような使命感には遠く及ばないが、ほかの人たちの仕事を助け、支えるという喜びがある。時間に追われることもなく、こうして夜、弓道場に来ることもできる。
 駒子は二矢目をつがえ、的を狙って弓を射た。弓は的から大きく外れて、壁の右上の方に突き刺さった。
 いけない。やっぱり心が乱れている。
 駒子は次の矢を矢立(やたて)に取りに行った。そして、矢をつがえたところで大きく深呼吸した。
 しかし、考えまいとすればするほど、仕事のことが頭に浮かぶ。
 今日、権藤に偶然会った。同じ会議に出席し、それが終わって部署に戻る時に、出口のところで鉢合わせしたのだ。
「水上さんとこ、最近調子はどう?」
 何気ない調子で質問された。
「まあまあです。人が増えたので、仕事が楽になりましたし」
 どうせ社交辞令だと思って、あたりさわりのない受け答えをする。それを聞いた権藤は口だけで笑みを浮かべた。見る側が不安になるような薄ら笑いだ。
「お人よしもほどほどにな。無駄な情に流されるのはよくないクセだ。管理職なら、もっとシビアにならないと」
 権藤はそれだけ言うと、ぷいと離れて行った。
 情に流される? 花村さんのこと?
 彼女を引き取ったことに対する嫌味?
 確かに花村さんについては気の毒に思った。それは、私自身も似たような経験をしたからかもしれない。それが甘いと言いたいのだろうか?
 社内には、駒子が花村を引き取ったことを部長が不快に思っている、という噂も広まっていた。“あてつけ”と言い出したのは、ほかならぬ権藤かもしれない。
 三矢目も、やっぱり大きく外れて、的のすぐ前の地面に刺さり、そこで跳ね返って勢いで的のところに達した。皮肉なことに、的のど真ん中を射抜いている。
 地面に刺さるなんて情けない。集中力が足りないなあ。
 スタッと音がした。反射的に顔を上げると、島田の引き締まった横顔が見えた。島田が放った矢はみごとに矢の真ん中をまっすぐ射抜いている。しかし、島田は顔色ひとつ変えず、次の矢をつがえ、流れるような動作で放った。矢は再び的の真ん中に突き刺さる。島田は弓を下し、下手へと下がる。そのひとつひとつの所作(しょさ)が美しく、駒子は自分の矢を放つことを忘れ、思わず見惚れていた。
 弓道では、矢を的の真ん中に中(あて)ればいいというものでもない。決められた手順を、美しい所作で行うことの方が大事なのだ。たとえ的の真ん中に矢が中ったとしても、所作が間違っていれば昇段試験では落とされるし、矢が的から外れても、所作が正しければ昇格することもある。それが弓道の評価なのだ。だから、勝ち負けのようなものはあってもないに等しい。いかに自分に集中するか。それが大事なのだ。
 それを鍛えるためにこそ、自分は弓道をやっているのだ。
 駒子は自分の手元を見た。弽も矢も年季が入って、いい具合に古びている。私も昨日今日始めたわけじゃない。ちゃんとやればできるはず。
 大丈夫。別に部長が不快に思おうと、私は間違ったことをしたわけじゃない。それに次の異動の時期になれば、彼女はうちの部署から去っていく。それまでの辛抱だ。そうすれば、部長も安堵するだろうし、彼女がうちの部署にいたことも忘れるだろう。
 そう、そんなことより、この一矢。二度とない、この一矢を大事にしよう。
 四矢目を放った。今度は的の端に中った。
 そう、その調子。たとえ明日会社で問題があったとしても、それは明日のこと。明日考えればいい。今はただ目の前の矢を無心に放つだけ。
 夜は更けて月が輝きを増す。足元から冷たい空気が立ち上ってくる。それを感じながら、駒子は無心に矢を射続けていた。

 その翌朝のこと。駒子はいつものように達彦の作った食事に舌鼓(したつづみ)を打っていた。今朝の朝食はポーチドエッグと厚焼きのハム、グリーンサラダ、自家製のスコーンにラズベリージャムとクロテッドクリームが添えられている。達彦のスコーンは絶品だ。焼きたてでほかほかしているスコーンを二つに割り、イギリス流にジャムとクリームをどさっと載せる。
「あのさ、駒子さん」
 と、達彦があらたまった調子で話しかけてきた。
「なに?」
「あの……僕、ずっと考えていたんだけど、カメラマンの仕事を再開しようかと思うんだ」
 思わず、スコーンを取り落としそうになった。落としはしなかったがスコーンを逆さにしたので、山盛りに載せたジャムとクリームが皿の上にぽたっとこぼれる。
「仕事を再開?」
 思いがけぬ宣言だった。達彦はすっかり主夫の仕事に満足しているように見えていたのだ。駒子は何気ないふうを装って、こぼれたジャムをスプーンですくい、スコーンに塗りたくった。
「うん。海が高校卒業するまではいままで通りにって思っていたけど、さっさと辞めてしまったし、もう僕がずっと家に居る必要はないだろう?」
「それは、そうね」
 駒子は動揺していた。今まで達彦が仕事に復帰することなど考えてもみなかったのだ。
「実は、友だちから声が掛かっているんだ。ちょっと手伝わないかって」
「えっ、じゃあ、すぐに始めるってこと?」
「そう、いけない?」
「そんなわけじゃないけど、急だったんで驚いただけ」
 達彦が本格的に仕事に戻ったらどうなるだろう。家事もふたりで分担することになるのだろうか。今まで楽をしてきたから、正直面倒だな……。
「駒子さんは僕が仕事をすることに反対?」
 達彦がこちらを見る。怯えたような、緊張したその目を見て、駒子ははっとした。
 夫の反対で働きに出られない、と嘆く専業主婦の話をたまに聞く。なんてわがままな夫だろうと思っていたけど、自分も同じだ。自分自身が楽だからという理由で達彦が家に居てくれる方がいいと思っている。ここで反対したら、自分もわがままな夫連中と同じポジションに成り下がってしまう。
「そんなことない。今までずっと家のことをやってくれていたんだもの。そろそろ外の仕事もしたっていいわよね。うん、いいんじゃない、やってみたら?」
 動揺を隠して、ようやくそれを言えた。
「ありがとう。駒子さんならそう言ってくれると思った」
 達彦の顔が安堵で緩む。
「でも、急に言われたんでびっくりした。もっと時間のある時に言ってくれたらよかったのに」
「ほんとは昨日言おうと思ったんだ。だけど、駒子さん、弓道に行っちゃったから」
「ああ、そうだったわね、ごめん」
 そういえば、昨晩達彦は何か話したそうだった。しかし、面倒な話を聞く気分になれなかったので、弓道場から帰るとさっさと風呂に入り、ストレッチをして寝てしまったのだ。
「駒子さんがいいって言うなら、友だちに詳しい話を聞いてみるよ。どうやら一週間ほど出張になるらしいんだけど……」
「復帰していきなり大仕事ね。でも、それもいいんじゃない? 家庭モードから仕事モードに切り替わるには」
 駒子はスコーンを頰張った。いつもよりぱさついていると思うのは気のせいだろうか。飲み込むのが難しい。
「ありがとう。じゃあ、とにかく頑張るよ」
 そこへ息子の海が二階から下りて来た。
「あ、スコーン、うまそう」
 テーブルの上に置かれたスコーンに海が手を伸ばしかけた。しかし、達彦がさっとスコーンの皿を引っ込めた。
「まずは顔を洗ってきなさい。まったく、いつまでも子どもみたいな注意をさせないの」
「ちぇ。顔を洗うのは食後でもいいのに」
 ぶつぶつ言いながら海が洗面所に向かう。子どもの躾(しつけ)も今までは達彦にまかせっきりだった。これからは私もやらなきゃいけないんだろうな。
 駒子はぼんやりそんなことを考えていた。

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著者プロフィール

碧野圭(あおのけい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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