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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第2回

2017.02.08 更新

 会社に着いたのは九時二五分。いつもどおり定刻の五分前だ。書籍の編集が仕事の主体である書籍事業部の中で、唯一フレックスではない部署が駒子のいる管理課である。単行本や文庫の原価計算や印刷所の手配や交渉、ノベルティの製作や管理をはじめとして部内のありとあらゆる雑務、たとえばアルバイトの採用からつきあいのある作家の冠婚葬祭の手配、社内のトイレットペーパーの補充までを一手に引き受けている。編集部門が生産に徹するのに対し、それを後方支援、サポートするのが駒子の部署である。書籍事業部だけで八〇人ほどのスタッフがいるから、それなりに仕事は多い。課長である駒子と五人の部下でそれを分担している。
 編集部門は完全フレックスタイムを採用しているが、総務や経理などほかの管理部門の時間帯に合わせて、管理課の就業時間は九時半スタートと決まっている。
「おはよう」
 駒子は管理課の部屋に入ると、意識的に明るい声で言う。職場では上司の機嫌が現場の空気を支配する。だから、いつもなるべく機嫌よく、にこにこしていようと思う。
 特に一日のスタートである朝の時間帯は。
 だが、そんなことを意識している日ほど、そのご機嫌を崩そうとする輩が現れる。
「あ、課長、着いた早々すみません。この書類、昨日締め切りだったんで、大至急持って来いって営業部から言われて。申し訳ないんですが、すぐに目を通していただけますか?」
 部下の松井亮(まついりょう)が悪びれずに言ってくる。松井は今年入ったばかりの新人で、いまどきの子らしくすらっとした長身、目鼻立ち整った好青年だ。
 ほら、来た。
 駒子は膝を打ちたくなる。
 調子いい日ほど、こうして何かしら妨害が入るものだ。
 昨日の締め切りを忘れていたのは誰? 上長に印鑑をもらいたいなら、余裕を持って出さなきゃだめでしょ。
 昔ならそう言って注意したものだが、今はそうはしない。
「えっと、部決会議の資料だね。これに全部目を通すとなると一時間は掛かるよ。だけど困ったわね、十時から私、連絡会議が入っているんだけど」
 決して怒らず、諭すように言う。昔ならバカヤローで済んだことが、今では通じない。最近の若い子は大事に育てられているからか、叱られ慣れていない。叱られるとその事実だけに頭がいっぱいになって、どうして叱られたのか、どうしたら失敗を繰り返さずに済むかまで頭が回らなくなってしまう、という子も少なくない。松井もそういうタイプだ。だから、嚙んで含めるように説明するのだ。
「あー、そうでしたか。それは困りました」
「どうしたらいいと思う?」
「会議は欠席できないんですよね。だったら、それが終わってからやっていただければ」
「もし、その後に打ち合わせが入っていたら?」
「あ、そうなんですか?」
 松井の顔が初めて曇った。ようやくこちらにも都合がある、と気づいたようだ。
「どうしても、と言うなら、ずらすこともできなくないけど……」
「すみません、お願いします」
 松井は頭を下げた。やれやれ、ようやくまともな反応が引き出せた。今日はこれでよし、とするか。
「今回はやれるけれど、いつもできるとは限らないわよ」
「はあ」
「だから、次からは早め早めに渡してちょうだいね。君なら、ちょっと気をつければできることだから」
 怒ってないよ、と示すために、駒子は松井に笑顔を向けた。
「わかりました。今日はすみませんでした」
 松井は軽く頭を下げて、自分の席に戻って行った。
 根は素直でいい子なのだ。同じ会社員ではなく、まだ子どもだと思えば腹も立たない。これから少しずつ一人前の会社員に育てていくしかない。
「あ、水上さん、いた」
 目を上げると、文芸誌『カラーズ』の編集長、井手敏郎(いでとしろう)がいた。井手は駒子より三歳若い。細い目は少し垂れていてどことなく愛嬌がある。口うるさい作家にも受けがいいのは、垂れ目とおっとりした物言いのおかげだろう。
「井手さん、何かありましたか?」
 こんな早い時間に、編集長自ら管理課の部屋までやって来るというのは、何か頼み事があるのだろう。管理課は編集部のあるフロアとは別に、一階の応接スペースの隣に隔離されている。
「あの、先日頼んだ読プレの件なんですけど」
「ああ、創刊一〇周年の」
 読プレすなわち読者プレゼントのことだ。読者に贈るノベルティグッズの製作を手配するのも、管理課の仕事である。『カラーズ』の創刊一〇周年の読プレは、確かオリジナルの絵柄が入った図書カードだったはずだ。
「一〇〇枚って頼んだんだけど、来週のイベントでも急きょ使おうってことになったので、あと五〇、刷り増しできませんか?」
「来週のいつですか?」
「水曜日なんですけど」
「水曜日ですか。だとすると、前日の火曜日中に届けてもらうとして……今日発注したとしても、土日挟むから営業日は中二日しかありませんね」
 かなりタイトなスケジュールだ。やってやれないことはないが、下請けの会社に無理をさせるのは、駒子はあまり好きではない。
「そこをなんとか。イベントで使えっていうのは、権藤(ごんどう)部長の指示なので」
 と、井手は拝むような仕草で駒子を見る。
 部長の思いつきか。駒子は軽くため息を吐いた。
 だったら仕方ない。
 体育会系の権藤啓二(けいじ)部長は、しばしばそんな無茶を部下に強いる。思いつきでものを言う上司の典型だ。
「まあ……印刷所に交渉してみますよ。なんとかしてくれると思います」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 井手は一件落着とばかりに、晴れ晴れとした顔で帰って行った。と、ため息を吐く間もなく今度はミステリ文庫の副編集長の高橋郁也(たかはしいくや)が現れた。こちらはまだ三〇そこそこの若さだ。
「あの、すみません」
 若い高橋は自分の感情を素直に出している。困った、と腹が立った、の両方の顔だ。
「はいはい、何の御用でしょうか」
 駒子はにっこり微笑んでみせる。
「うちのバイトが今月いっぱいで辞めることになったんですよ」
「あら、それは急なことね」
「ええ、困ってるんですよ。そろそろ新人賞の締め切りだから、やることはたくさんあるのに」
「じゃあ、急ぎの募集ですね。募集はひとり?」
「いえ、二人です。片方が辞めると言ったら、もうひとりの方も『僕だけ残ってもつまらないから』って。ほんと、若い奴らは何考えているんだか」
 駒子から見れば、高橋も十分若い。でも、だからこそ「若いやつら」と平気で言えるのだろう。自分たちの年齢になると「若いやつら」などと言ってしまうと、それに自分が含まれないことを認めてしまうことになるので、あまり使いたくないのだ。
「バイトですし、まだ学生気分が抜けないんでしょうね」
 駒子はあたりさわりのない返事をする。
「そうなんですよ。ほんと、最近の連中ときたら」
 高橋はそこから延々一〇分ほど、いまどきの若いスタッフの愚痴を言い続けた。駒子はにこにこしながら、時々「そうなの」「それはひどいわね」と、相槌を打つ。
 高橋は頼み事だけでない、愚痴を発散させに来たのだ、とわかったからだ。
 これを聞くのも、自分の仕事だと駒子は割り切っている。課長や部長などもふらっと顔を出し、ただ雑談していくことがある。仕事の合間のちょっとした息抜きの相手を求めているのだ。
「とりあえずはHP(ホームページ)で告知を掛けますが、情報サイトなどにも流しますね。告知の文面を急ぎで作ってください」
 高橋の愚痴をひとしきり聞いた後、駒子はそう切り出した。
「ありがとうございます。席に戻ったら、すぐにメールします」
 そして、高橋は自分の席に帰って行った。
 やれやれ、今日は朝から三連続だった。すっかり、頼まれおばさん状態だ。
 駒子はほっと息を吐く。
 管理課は、編集部みんなのお世話係だと駒子は思っている。生産する部署ではないが、うちがなかったら、編集部の機動力はかなり落ちるだろう。それくらいの自負はある。
「あ、水上さん、いたいた」
 今度は次長の市村直人(いちむらなおと)だ。市村は何か菓子折りのようなものを持っている。
「これ、この前のお礼。お世話になったので」
 市村の差し出した包みは、六花亭のお菓子の詰め合わせの大きな箱だ。北海道出張の土産だろうか。しかし、六花亭でこのサイズなら、土産というより贈答品といった方がいいお値段のはずだ。うちへの貢ぎ物としては悪くない。
「わあ、これ大好き。ありがとうございます」
 駒子は笑顔で受け取る。先日のトラブル対応についての謝礼と思えば、高くはない。あれはめんどくさかった。
「それはよかった。どうぞ、みなさんで分けてください」
 市村はにこにこと邪気のない笑顔を浮かべる。市村は仕事もできるし、人柄も悪くないのだが、妙に気が小さい。喧嘩とか人の感情が爆発するような場面は逃げたがる。気に入らない相手とはしょっちゅうぶつかる権藤部長とは対照的だ。
 こういうタイプの上司は、あんまり嬉しくないのよね。トラブルが起こった時、盾になってくれないから。
 それが駒子の市村評だ。その市村の頼みで、面倒なハードクレーマーの対応をしたのがつい先週のこと。新品の本に印刷ミスがあるので取り替えろという主張だっだ。その商品は人気アニメのキャラクターブックで、値段も三千円するから、本としては高額商品の部類だ。だから、完全無欠なものが欲しい、というのが客の言い分だった。しかし、指摘されたのは小さな印刷ムラで、ほとんど目立たず、刷り直しをするほどのものではない。製作したすべての本にあるものなので、取り替えることはできないのだ。しかし、相手は納得しない。こちらが『お金を返すから返品してくれ』と伝えても、完全な商品が欲しいと譲らない。その恫喝めいた言い方が怖いと、市村もその部下たちも恐れをなしている。それで、駒子の方で応対することにしたのだ。一度で終わらず、しつこく何度も電話が掛かってきたが、駒子は粘り強く相手をした。客はそのアニメがいかに素晴らしいか、自分がどうしてそのアニメに惹かれたのかを延々しゃべり続けた。
「ほんとうに作品がお好きなんですね。この作品も、こんなに熱心なファンに恵まれて幸せですね」
 そんなふうに話してやると「いやー、僕なんてまだまだ」と謙遜しながらも、満足げな声を出す。そんなやりとりをしているうちに、相手は満足したのか、それともしゃべるのに飽きたのか、一週間後には電話は掛かってこなくなった。
「ほんと、あの時は助かりましたよ。理屈の通じない相手ですから、こちらもどう対応したらいいかわからなくて」
「ああいう人は、クレームの内容がどうあれ、ただ話を聞いてほしいってことも多いと聞いたことがあるので、それを実践してみたんです。まあ、ちょっと時間は掛かりましたけど、話すだけ話したら満足してくださって、よかったです」
「いやもう水上さんだからこそ、ですよ。ふつうはあんな風に落ち着いて対処はできませんから」
 まるで母親に認めてもらいたい子どものように、一生懸命駒子を褒めちぎる。駒子はそれを否定も肯定もせず、にこにこしながら聞いている。まるで母親のように。
 会社のおふくろさん。
 みんなに求められている自分の役割はそれだ。陰で編集スタッフを支え、時に慰めたり、褒めたりしてくれる。編集者同士は仲が良くても、売り上げの数字でなんとなく順列がつく。他部署はライバルでもあるが、管理課だけは違う。自分たちの味方だし、安心できる存在だ。そして、自分はそこの課長だから、そして女性だから、よけい安心できる存在なのだろう。
 それならそれで、その役割を果たすまで。
 駒子はそう割り切っている。
 市村はひとしきりお世辞を言うと、部屋を出て行った。
「これ、今日のおやつ。置いておくから、適当に分けてね」
 駒子は市村の貢ぎ物を、目の前に座っている光村麻友(みつむらまゆ)に渡した。
「でも、まだ昨日の萩の月も残っていますけど。それに三上(みかみ)さんがくださった豆大福も」
 駒子の部署は、駒子を入れても六人しかいない小さな部署だ。しかも、そのうち三人は契約社員。ほかと比べて正社員率は低い。出張もないし、外回りもない。だけど、こうして毎日のように貢ぎ物が届けられるので、茶菓子には事欠かない。ふたつみっつ重なると、小さな部署では持て余すこともある。
「じゃあ、こっちの方、適当に持って帰っていいわよ。六花亭だと、ご家族にも喜ばれるから」
「ありがとうございます」
 駒子の言葉を聞いて、女性社員三人が、さっそくお菓子の物色を始める。女の子たちは六花亭のお菓子が大好きだ。市村は小心だが、貢ぎ物のセンスは悪くない。
「バターサンド、私いただいてもいいですか?」
「どうぞどうぞ、私はこっちの苺のチョコをいただきます」
 仲良さそうにお菓子を分けている三人を、駒子は微笑みながら眺めた。女の子たちが楽しそうにしているのは、駒子も嬉しい。駒子は男性の部下よりもどちらかと言えば女性の部下に目を掛けている。女性は全員契約社員で、給料も多くはない。だけど、管理課の仕事は地道にコツコツやる女性の方が向いている。女性の契約社員の頑張りに支えられているのだ。だから、大事にして、少しでも長くここで働いてもらいたいと思う。
 お茶菓子くらいで機嫌よくなってくれるなら、結構なことだわ。
 駒子はそんなことを思いながら、会議に出る準備をする。一〇時から連絡会議だ。総務からの伝達事項の発表と、二階のレイアウト替えについての段取りの説明、それに司会進行が今日の駒子の役目だ。取り立てて問題になるような議題はないし、いつもどおり無事に終わるだろう、と思っていた。

 しかし、その日の会議は雰囲気がどこかおかしかった。月に一度書籍事業部の管理職と編集長が集まり、情報を共有する会議だが、いつもは同席する部長の権藤が会議直前にドタキャンした。そのせいか、妙にざわざわしている。それでも粛々と会議は続いていったが、最後の最後になって、
「ほかに議題がなければ、今日はこれで終わりにします」
 と、駒子が告げた時、「すみません」と、一人の男が挙手をした。文芸一課の課長の沢崎蓮(さわざきれん)だ。文芸一課はエンタテイメント系の小説の単行本を編集する部署で、売り上げも大きく、文芸賞などで注目を浴びることも多いから、社内でも花形部署として知られている。その課長の沢崎は四〇代後半の働き盛り、細身で眼光鋭く、見るからに切れ者、という感じだ。
 駒子がどうぞ、と指名すると、沢崎は立ち上がった。
「お騒がせしましたが、うちの花村(はなむら)の問題、解決しました。本人が訴えを取り下げました」
 その言葉に会議室はどよどよとざわめきが大きくなる。
 そうか、花村さん、取り下げたのか。
 駒子は意外な気持ちで沢崎の言葉を聞いている。
 あそこまでやったからには、徹底抗戦するつもりかと思っていたけど。
 花村咲良(さくら)は名前の通りぱっと目立つ美人である。二年前に入社した新人編集者だが、花形部署の文芸一課で大物作家を何人か任されている。美人で人あたりもいいので、気難しい作家にも気に入られているらしい。その花村が、上司である書籍事業部の部長の権藤啓二をセクハラで訴えたのはひと月前のことだった。
 権藤は凄腕の文芸編集者として社内だけでなく、広く業界にも知られた存在である。ヒット作を連発するだけでなく、すべての文芸編集者が一度は経験したいと夢見る、担当した作品が直木賞を獲るという栄誉を、今まで二度も手にしている。ノミネートだけなら五回という強者だ。部長となった今でも、権藤でなければ書かないという大物作家は何人もおり、現場の仕事も続けている。実質文芸一課を仕切っているのは沢崎でなく、権藤なのだ。
 しかし、仕事でパワーを発揮する男は、同時に女性に対しても執着が強い。独身の権藤は有名作家や女優とも浮名を流している。そういう面でも、名前の知られた男である。その権藤が、なぜか若い部下に目をつけた。作家接待などで同行させているうちに気に入ったのか、一説では、営業部への配属が決まりかかっていた花村を強引に書籍事業部に引っ張ったのは権藤だというから、最初から気に入っていたのかもしれない。それで、仕事にかこつけて何かと花村を呼び出した。花村の担当でない作家の接待も『女性がいると作家が喜ぶから』と同行させる。花村が自宅に帰宅した後、電話で呼び出されることもあったらしい。そのうち、それだけでは飽き足らなくなり、仕事でない時でも酒の席に呼び出されるようになった。そして、酔った勢いで口説かれる。花村はいまどきの女子なので、内心嫌だと思っていても、それを顔には出さずやんわりと断っていたのだが、それが権藤を勘違いさせた。
「上司と部下だからといって、遠慮することはないよ。恋愛は自由なんだから」
 と言ったらしい。花村も自分に好意を持っているけど、社内的な立場を考えて踏み出せないのだ、と思い込んでいるのだ。華やかな恋愛遍歴を持つ権藤は、自分に絶対の自信がある。仕事の力量を知ってる女はみんな自分になびくと思い込んでいる。花村が耳当たりのいいお世辞を言い続けてきたことも、その自信を裏付けたのだろう。
 大手出版社のやり手部長だから、自意識が肥大しちゃったんだろうな、と駒子は冷ややかに思っている。誰も権藤さんのことを批判しない。みんなおべんちゃらしか言わないから、今でも若い時同様もてるのだ、と思い込んでいるのだ。
 はたちそこそこの女の子から見れば、自分の倍も年取った人間は恋愛対象外、めんどくさいおやじくらいにしか思われていないのに。
 困った花村は上司の沢崎に相談するが、
「酔っ払いの対処くらい自分でちゃんとしなさい。女性編集者は作家に勘違いされたり、セクハラされることもよくあるんだよ。そこをうまくやり過ごすのも、編集者としてのテクニックのうちだ」
 と、言って取り合わない。そうしているうちに休日も連絡が来るようになった。居留守を使ったりしてやり過ごしていたが、ある晩、外出から帰ると、自宅マンションの前で権藤が待ち伏せしていたのだ。恐怖を感じた花村は総務に訴えたが、相手が権藤と知って総務の方も及び腰になる。権藤は最近ヒラの部長から取締役部長に昇進、いずれ社長になるのでは、と噂されている男なのだ。総務が力になってくれないと悟った花村は、ついに労働基準監督署に訴えたのだ。それには会社の人間はみな驚いた。花村は権藤の件については沢崎と総務にしか相談しておらず、悩んでいる態度を一切見せていなかったのだから。
 それまでにこにこしていたのに、いきなり大胆な行動に出るというのもいまどきの子だ。
 駒子はため息を吐く。外部の人間を参入させればセクハラ自体はなくなるものの、花村の会社員人生はつらいものになる。こうする前にもうちょっとなんとかできなかったのかな。
 しかし、社内でも極秘に処理されていたはずのこの件が、どうして社内中に広まり、さらに他社にまで広がっていったのかは駒子にはわからない。総務かどこかの人間がリークしたのだろうか。マスコミの人間にとって同業者のスキャンダルほど愉快なものはない。権藤の名声、過去の女優との交際が同業者の嫉妬を買っていたのだろう。たちまちセクハラ騒動は広まり、週刊誌やネットのニュースにおもしろおかしく書きたてられることになった。TwitterやFacebookなどのSNSでの拡散もこの騒ぎに拍車を掛けた。社内の噂話に疎い駒子が今回の経緯について詳しいのも、こうした記事で詳細を知ったからだ。
 その後、どんな話し合いがなされ、どういう調停がされたかを駒子は知らない。訴えを取り下げたということは、お金で解決したのだろうか。
「訴えを取り下げたと言っても、このまま花村を文芸一課に置いておくのはどうも……、本人もできればほかに移りたいと言ってますし……」
 沢崎の言葉に、駒子は我に返る。
 まあ、そうだろう。結局、権藤は取締役という肩書は外されたものの、書籍事業部の部長というポジションは変わらなかった。社長が権藤の実績を高く評価し、留任を認めたのだという。だから、花村がこのまま文芸一課に残れば、仕事上頻繁に顔を合わせる状況は変わらない。花村が異動を望むのであれば、そうする方がいいだろう。
「他部署への異動ができればいいのですが、年度中途ではそれも難しく……」
 沢崎は奥歯にものが挟まったような言い方を続ける。怜悧(れいり)で、いつもシャープな物言いをする沢崎にしては珍しい。
「そういうわけで……どなたか、花村を引き取ってもらえないでしょうか」
 沢崎が言うべきことをやっと言い終わると、みんなは再びざわめいた。連絡会議に二〇名近くの人間が出席している。文庫や雑誌の編集長で、現場の責任者だ。
「しばらくでいいんです。次の異動の時期には他部署に移すことで総務とも話し合いがついていますから」
 沢崎が言葉を重ねるが、みんな沢崎の方から顔を背け、ざわざわと自分たちの話に夢中になっているふりをしている。
 引き取り手はいないだろう、と駒子は思う。半年足らずだけ預かるというのも面倒な話だし、そもそも花村は被害者とはいえ、上司を外部の人間に訴えるというタブーを犯した人物だ。そういう人間を部下に持ちたいと思う上司はいない。少なくとも、権藤が部長である間は避けたいことだ。
 しかも、列席しているのはほとんど男性。セクハラされる痛みには理解がない。レイプされたわけでもあるまいし、と内心思っているのだ。事実、権藤部長が若い女にのぼせて失敗したと笑い話にしている人間も多い。その程度の問題だと思っているのだ。
 この場に女性は駒子と、文芸三課の課長の岡村梓(おかむらあずさ)しかいない。岡村は、隣の席の人間と雑談して笑っている。自分には関係ない、という顔だ。百戦錬磨の岡村はこれくらいのセクハラには眉ひとつ動かさないだろうし、そもそも要領のいい岡村が、訳アリの人間を部下に加えるはずはないだろう、と駒子は思う。
「花村、どうして会社を辞めないんだろうね」
 誰かの声が耳に届く。まあ、それがこの場の男どもの本音なのだ。
 そういう行動に出た場合は会社を辞めてしまうことが多い。残ったとしても、上司や周りの人間は腫物に触るような扱いをするだろうし、その後会社で出世する目もなくなってしまう。辞めてくれた方が、周りの人間はほっとするのだ。
 しかし、花村は被害者だ。なぜ被害者の方が退職して、加害者である権藤がそのまま居座るのだろう。たかがセクハラくらい、と男どもは思っているだろうが、花村にしたら、どれほど苦痛だっただろう。駒子の胸は痛む。
 性的関係を強要されたわけでなくとも、自宅の前で待ち伏せされるなんて、ほんとうに怖い。何をされなくても、そこまで相手が思いつめていることに、女性なら誰でも恐怖を感じるだろう。自分だったら叫びだすかもしれない。
 ましてそれが上司なら、拒絶するのも難しい。セクハラの上にパワハラでもある。さらにストーカーという罪状も加わる。
「どなたか、お願いできませんでしょうか? 花村は作家受けがいいし、文芸の仕事でしたら、どこへ移っても即戦力になると思うのですが」
「いや、それはまずいでしょう」
 沢崎の提案に、『カラーズ』の編集長の井手が言う。
「文芸であれば、やっぱり部長との関わりは続きますから。それに文芸の作家は噂好きです。今回の騒動も作家たちの間では有名ですよ。花村さんってどんな子だって、僕も何人かの作家に聞かれましたし。文芸の仕事は外した方がいいですよ」
 雑誌の記事などでは権藤の名前は出ても、被害者である花村の名前は伏せられていたはずだ。しかし、すでに文芸の作家たちの間では広まっているらしい。
「じゃあ、ライトノベルの方では?」
「ラノベは特殊ですからねえ。今欲しい人材はこのジャンルのスペシャリスト。ゲームやコミックスからも題材を拾ってこられるような即戦力なんです。花村さん、どうなんでしょうか」
 ラノベの雑誌編集長の武末伸二(たけすえしんじ)がにべもなく断る。
「やっぱり編集部では難しいかもしれませんね」
 そう言いながら、沢崎が駒子の方に視線を向ける。ほかのみんなもなんとなくこちらを見ている。
 なんとかしてください。
 みんなの無言のプレッシャーを感じる。
 困った時の水上頼み。
 陰でみんながそう言っていることを、駒子は知っている。駒子は小さくため息を吐いた。
 これ以上スタッフを増やすと人件費が上がるのでやっかいだが、花村のことを思えばそうも言っていられない。それに、こういう時に動くことを、自分はみんなから望まれているのだ。
「いいですよ、うちで引き取ります」
 駒子は沢崎の目をまっすぐ見て言う。
「いいんですか?」
 遠慮しているような口ぶりだが、沢崎の顔は嬉しそうだ。
「花村さんならうちの仕事もちゃんとやってくれると思います。それに、うちなら編集部とフロアが離れているから、部長と顔を合わせる機会も少ないでしょうし」
 今まで仕事を頑張ってきた花村が、こんなことで厄介者扱いされるのは気の毒だ、と駒子は思う。
だったら、自分のところでちゃんと迎えてやろう。
「ありがとうございます。長くはご迷惑をおかけしません。次の異動の時には、きっと総務になんとかしてもらいますから」
「はい。短い間でも、花村さんが仕事をしやすいように私の方でも考えます」
 駒子はにっこり微笑んだ。会議室全体が安堵の雰囲気に包まれた。面倒を抱えずにすんだ、とほかのみんなが安心した瞬間だ。
 この瞬間から、この厄介ごとはみんなの頭から消えるのだろう。自分たちには関係ないこととして。私にとってはこれから仕事が始まるのだが。
 花村にどの仕事を振ろう。契約社員の女の子たちと波風立たないようにするには、どうしたらいいだろう。増えた人件費をどのように名目立てしよう。
 管理職として、いろいろ考えることはある。
「じゃあ、これで会議は終わりにしましょう」
 司会の駒子が告げると、ざわざわとみんなが部屋を出て行き、沢崎と駒子だけが残った。
「すみません、この借りはどこかできっと」
 沢崎が申し訳なさそうに肩を丸めている。
「いいんですよ。うちの部署は、こういう時のためにあるのですから。それより、花村さんの方がうちへの異動はつまらないと思わないかしら。編集に比べれば、うちの仕事は地味ですし」
「いやいや、実は花村の方も、できれば水上さんの下がいい、って言ったんですよ」
「花村さんが?」
 駒子は驚いて目を丸くする。花村のことは知っているが、ほとんど関わりはない。たまに、文具の補充に来たり、原価計算を頼みに来るくらいで、接点はほとんどない。
「水上さん、女性社員に人気ですからね。うちの会社の、上司にしたい課長ナンバー1だそうですよ」
「私が?」
「知りませんでしたか? 仕事では頼りになるし、子どもがいても仕事の第一線でがんばっているところがいいみたいですよ。みんなロールモデルって思ってるんじゃないのかなあ」
「それは光栄です」
 確かに、管理職で子どもがいる女性は、この会社では自分だけだ。もともと課長以上の女性は少ないが、ほとんどが独身か、既婚でも子どもはいない。だから、自分を目標としている女子社員もいるのかもしれない。
「それに、こういうことのあとだし、男性上司じゃない方がいいと思うんですよ。かといって、岡村女史の下ではやりにくいだろうし」
「確かに、ね」
 岡村梓は駒子とは同期だ。同じ課長という役職ではあるが、独身で、次に次長になるのは彼女だろうと噂されるやり手である。その仕事ぶりは激烈で、仕事に女を使うことも躊躇しない。自分の担当作家に賞を獲らせるため、審査員の先生と寝た、という噂もあるくらいだ。さらには、権藤部長とつきあっていた、という噂もある。そんなところに部下だった花村を移すのは、クールな沢崎でもためらわれるのだろう。
 いまさらそんなふうに気遣うのだったら、最初から花村の話を聞いてやればよかったのに。
 駒子は頭に浮かんだその想いを、すぐに振り払った。
 沢崎にはそれも難しかったのだろう。ほかの部下以上に、沢崎は密接に権藤と関わっている。権藤の腰巾着と陰口を叩かれるほどだ。権藤と花村の間に挟まれて、いちばん気を揉んだのは沢崎であるのは間違いない。
「花村さんが仕事をしやすいように、私も考えます」
 駒子はなるべく丸い声を出すようにした。沢崎の罪悪感が少しは楽になるように。
「よろしくお願いします」
 沢崎は深々と駒子に一礼した。沢崎の頭頂部が駒子の腰のあたりまで下がっている。沢崎の頭頂部が目に入った。驚くほど毛量が少ない。この事実には初めて気がついた。沢崎は長身なので、頭のてっぺんまで目に入らなかったのだ。
 沢崎さん、苦労が多いからなあ。このままだと四〇代のうちに禿げるかもしれないな、と駒子は場違いなことを考えていた。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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