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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第18回(最終回)

2017.10.11 更新

「結局、私のやることってみんなの補佐役なのね」
 駒子はワインを飲みながら、そんな話を達彦にしている。
「企画を起ち上げたり、実際に動くのは部下のやることで、彼らが動きやすくするために後ろで支えるっていうか。今日も、総務だの経理だのと一日中打ち合わせしてたわ」
「そんなもんでしょ。エライ人って」
 達彦はチキンソテーの皿をテーブルに運んできた。オーブンから出したばかりで、鶏の脂と香味野菜の焼ける香ばしい匂いがあたりに漂っている。その匂いに、駒子の食欲も刺激される。今日は海も志保も外出しているので、ふたりだけの夕食だ。
「自分でも企画を立てるんだけど、部下の出してくるものの方がいいのよね。いま何が話題になっているかということに敏感だし、自分の身の回りにアンテナを張っていて、そこから企画を出してくるのよね」
 今日、吉田が提案したのは、ビジネスウーマンのためのワークライフバランスの本だ。自分自身が直面している子育てと仕事の両立という問題についてだから、説得力もある。また、その本でいろんな人に取材し、そこからレインボーホールへの企画へと繫げたい、とも話している。いろいろ体制を整えてもらった分、仕事を頑張る、と吉田は張り切っている。駒子が「頑張り過ぎないでね」と、忠告するほどだ。
「いいじゃない、そういう仕事は若い連中にまかせればいいんだよ。駒子さんの働きどころは別にあるんだから」
「まあ、そうねえ」
 達彦もエプロンを外し、駒子に向かい合って座った。
「じゃあ、食事にしますか。いただきます」
「いただきます」
 今日は野菜のコンソメスープとサラダ、チキンソテーといったメニューだ。
「それで、昇進についての結論は出たの?」
「ん、今週末に権藤部長から時間を取れって言われたんで、たぶんそこで発表になるかなあ」
「部長はやっぱり岡村さん?」
「まあ、間違いないでしょうね。彼女の方はもう結果を出し始めているし。私の方は企画が動き始めたところだからね」
「もうちょっと時間があればよかったのに」
「うん。ほんとに」
 素直にそう思う。せめてあと半年あれば、起ち上げた企画も動いているし、岡村の部署と比較できる材料くらいは出せたと思う。
 最初に出遅れた。それがいつまでも尾を引いた。最初から覚悟を決めて、もっと積極的に動けばよかった、と思わないではない。だが、何より自分自身の考えを変えていくのに時間が掛かった。だから、こうなるのも仕方ないだろう。
 食事が終わって、達彦が食後のお茶を淹れるために立ち上がった。それを見計らったように、玄関の鍵を開ける音がした。
「あれ、志保さん帰ったのかな?」
「ただいま」
 海の声だ。
「おかえり、早かったね」
 駒子は椅子に座ったまま玄関の方に声を掛ける。返事はない。だが、玄関の方で何やら話している声がしている。
 あれ? 海ひとりではないのね、と駒子は思った。すぐに玄関からリビングへと来る気配がする。
「あの、ちょっといいかな」
 海の声に振り向くと、そこには海だけでなく志保、その後ろに見知らぬ中年の女性がいた。その顔を見ただけで誰かわかった。志保の母親だ。志保よりも丸顔で、陽に焼けて黒く、少しくたびれたような顔をしているが、とてもよく似ている。
「こちらは……」
 駒子が海に問い掛けると、女性の方がそれを制して語る。
「食事中、申し訳ありません。私、荒木雅恵と申します。志保の母の……」
「それは、それは」
 駒子は思わず立ち上がった。
「どうぞ、食事をお続けください。私たちはこちらで待たせてもらいますから」
「でも、もう終わりましたから。どうぞ、そちらにお座りください」
 駒子がリビングのソファへと案内する。志保の母、志保、海の順で並んで座った。
「このたびは娘がたいへんご迷惑をお掛けしまして、すみませんでした」
 志保の母はそう言って、頭を深く下げた。
「迷惑なんてとんでもない。志保さんがいるとうちも賑やかになって楽しいですし。……どうぞ、顔を上げてください」
 駒子は突然の志保の母の出現に、戸惑っている。
「これ、少しばかりですけど、うちの方の名産です。召し上がっていただければと思って」
 志保の母は持っていた菓子折りを差し出した。
「そんな、お気遣いなく」
「でも、お世話になっておりますし」
 志保の母が押しつけるように包みを駒子の方に向けるので、「ありがとうございます」と受け取るしかない。
 そこへ、達彦がお茶を持って現れる。「どうぞ」と言いながら、各自の前にお茶を並べる。志保の母は達彦の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「もしや、あなたがご連絡をくださった……」
「はい、海の父の達彦です」
 駒子は内心驚いていた。達彦がわざわざ志保の母に連絡を取っているとは知らなかった。
 達彦は志保をうちに置くと言ってたのに、一方でそんなことをやっていたのか。
「うちにいるにしても、親御さんにはちゃんと説明しておいた方がいいだろう? 志保ちゃんは親に何も話してないみたいだったし、僕が連絡取ったんだよ」
 達彦が当然のこと、というように駒子に説明する。
「連絡くださってよかったです。この子は何も話してくれないので、どんな状況か全然わかりませんでしたし。……この子の父親は昔かたぎの人間ですから、話しても許してくれないと思ったんでしょうけど」
 志保の顔を見る。志保は真っ白な顔をして、表情がない。
 駒子は母親に尋ねた。
「ご実家は熊本でしたね。地震の被害はいかがでしたか?」
「ありがとうございます。市内なので当初はいろいろ不自由でしたが、うちは最近建て直したところだったので被害はそれほどでもなく、まあなんとかやれています」
 震災で学校を辞めた、と志保は言っていたが、それは噓だったようだ。志保を見ると、うなだれて下を向いている。
「この子も話しにくかったんでしょうけど、だからといって人様にご迷惑をお掛けするわけにもいきません。この子はうちに連れて帰ります。お腹の子のことをなんとかしなければなりませんし、あとは、うちの方で……」
 連れて帰る、という言葉は、駒子にとっては嬉しい言葉のはずだった。志保を嫌いなわけではないが、このままずっと居すわられる、生まれてくる赤ん坊の面倒をみる手伝いをすることになる、それは気が進まないことだったはずだ。
 しかし、志保の母の言葉はどうにも引っ掛かる。
「なんとかする、と言うと?」
「堕胎できないか、地元の医者に相談してみます。もしダメでしたら、なるべく早い時期に養子に出したいと思いますし」
「そちらで育てるということはなさらないのですか?」
「もちろんです。こんな考えなしの甲斐性のない娘に、人ひとり育てられるものですか。現に、こちらでもこうしてご厄介になるばかりで、自分では何もできないじゃないですか。それに、父親もいない、ふしだらな関係から生まれた子どもなんて、世間さまがなんと言うか」
 当然のこと、と志保の母親は言い放つ。志保に似ている、と思ったのは顔だけのことのようだ。志保よりも頑なで、強気の女性らしい。
「それは、志保さんも納得していらっしゃるんですか?」
「もちろんですとも。ねえ」
 志保は黙っている。しかし、唇を嚙みしめ、両手の拳をきつく握りしめている。
「志保さん、自分ではどう思うの? 田舎に帰りたいの?」
 志保は助けを求めるような目でこちらを向いたが、その口から言葉は出てこない。
「いいんだよ、思ったことを言って。僕らは、志保さんの考えを一〇〇%支持する」
 達彦が言うと、海も自分の手をそっと志保の手の上に重ねた。
「この子の気持ちなんて……。親に逆らって、好き勝手したかっただけですよ。だけど、結局は親がなんとかしてやらなきゃ、どうしようもないんだから」
 母親の冷たい言葉に、志保はますます萎縮している。
「そんなふうに決めつけないでください。志保さんはもう二〇歳過ぎているんです。自分のことは自分で決められる年頃です。子どもを産むか産まないかも本人が決めることではないですか?」
 駒子が言うと、母親は「まあ」と言って息を呑む。他人である駒子に意見されるとは思わなかった、という顔だ。
「私は……」
 志保は蚊の鳴くような声で言う。
「なんなの、言ってごらんなさい」
 冷たい声で言う母親を、駒子は手で制した。
「そういう言い方はなさらないで。志保さんを追い詰めないでください」
「追い詰めるなんて、そんな……」
「私は……子どもを産みたい」
 志保は小さな声で言う。
「何を馬鹿な」
 母親が言い掛けた言葉を抑え込むように、駒子は強い調子で言う。
「いいのよ。思うことをちゃんと言いなさい。でないと、一生言えなくなるわ」
 駒子の言葉に志保はようやく決意したようだ。母親を見ず、駒子の方だけを見て話し始める。
「最初は嫌だった。自分はいい母親になんかなれない、と思ったし、育てる自信もなかったから……。だけど、最近お腹の子どもを感じるんです。ちゃんと生きて、自分はここにいる、って主張しているんです。それは私自身の都合でどうこうしていいものではない。そう思うんです」
「あなた、なんて馬鹿なことを」
「自分自身のエゴでほかの人を犠牲にしてはいけない、それは昔から親に言われていたことです。子どもを捨てて、自分だけ幸せになるなんて自分はできない。それで楽になったとしても、きっと一生後悔する。だから……」
 志保は勇気を振り絞るようにして、そこまで語った。
「よし、わかった」
 達彦が大きな声で言う。
「だったら、子どもを産みなさい。子どもは世の中の宝だよ。たいへんなこともたくさんあるけど、喜びもたくさんくれるものだ。希望そのものだ。産むという選択は正しいよ」
「そんな無責任な。あなた方には関係ない話じゃないですか。よその家の問題に口を挟まないでください」
「いえ、関係あるかもしれません。そちらで生まれた子どもを養子に出すというなら、うちで引き取ります」
 駒子の言葉に、その場の人間全員の目が集まった。
「もちろん、志保さんにその気があれば、ですが。あなた方は子どもをいらないと言うんでしょう。だったら、あなた方の方が関係ない。志保さんと、うちとで子どものことは考えます。志保さんのことだって……お腹の大きい娘を家に連れて帰るのは外聞が悪いんじゃないですか? うちに置いておいた方が目立たなくてすんでいいじゃないですか」
「それは……」
 母親はとっさに言い返す言葉がみつからないのか、しばらく黙っていたが、
「でも、これは我が家の問題ですから。他人様にどうこうしてもらう問題じゃありません」
 と、ようやく口にした。
「どうしてそんなに『家』ってことにこだわるのかな。家よりも家族の方が大事じゃない。血の繫がりがあったとしても、憎みあったり、軽蔑しあったりしていたら、楽しくないでしょう。血の繫がりがなかったとしても、お互い仲良くしよう、相手を大事にしようと思える場所にいた方がいいじゃない。あなた方、妊娠した娘が邪魔なんでしょう? だったら、我が家に来てもらった方がいい。うちはみんな志保さんのファンだから」
 達彦が駒子の援護射撃をする。達彦らしい論法だ。
「そんな、きれいごとを。他人はしょせん他人です。血の繫がりがあるってことは、何よりの絆なんです」
「僕はそうは思わないな。僕自身が、親に捨てられて、いまの両親に拾われた子どもだから」
 達彦の言葉に、その場の全員がえっと驚いた。駒子も、聞いたことのない話だ。
「あれ? 言ってなかったっけ? 僕も実は養子なんですよ。産みの親が育てられないということで、生まれた時にいまの親が引き取ってくれたんです。でも、そんなことは思い出しもしないくらい、僕の両親は愛情を注いでくれた。だから、血の繫がりが絶対なんて信じちゃいない。肝心なのは、ちゃんと家族になろうという意思があるかどうかなんです」
 達彦の言葉に、誰も返す言葉がない。駒子は達彦の両親のことを思い浮かべた。いつも明るく、固定観念に縛られない人たちだ。人が好き、という人たちだ。彼らだから、きっとそういうことができたのだろう。
 しかし、それをいままで言わないなんて……。達彦がわざと隠していたとは思えない。話す必要がないと思っていたのか、本当に忘れていたのか、どちらかだろう。
「世間体の方が娘の気持ちより大事というなら、世間体と仲良くしていてください。僕らは志保さんと、志保さんの子どもと仲良く暮らしていきますから」
 母親はぐっと息を詰めていたが、腹だたしい、というように立ち上がった。
「何をおかしなことを……。こんな頭のおかしな人たちと一緒にいるから、あなたもおかしくなったのね。いらっしゃい。熊本に帰りましょう」
 母親は志保の手を強く握って引っ張った。
「嫌!」
 志保はその手を振りほどこうとするが、母親はますます強く握りしめる。そのまま引っ張ったので、志保は前のめりになって膝を床についた。
「やめてください」
 隣にいた海が志保の腕から母親の指を一本ずつ引きはがそうとする。その時、志保が、
「苦しい」
 と、言って身体を二つ折りにした。驚いた母親が指を離すと、志保は両手でお腹を押さえた。顔色は真っ青で、脂汗が滲み出ている。
「赤ん坊が抗議しているんですよ、きっと」
 駒子が母親の目を見ながら言う。
「親が喧嘩したりすると、お腹がぎゅっと締め付けられるようになったり、子どもが足で蹴ったりするんです。私も、海を妊娠した時、経験しました。お腹の子どもにも意思はあるんです。子どもも熊本に行きたくないんでしょう」
「それは……」
「今日のところはお引き取りください。あなたがいると、きっと志保さんの具合はよくならないから」
 駒子の言葉に、母親はしばらく黙っていたが、
「仕方ないわね。ほんと、お父様がなんとおっしゃるか。あなたみたいな親不幸な娘がどうしてできたのかしら」
 そう捨て台詞を吐いた。達彦がそれを止める。
「早くお引き取りください。それ以上母体に毒になる言葉が出てこないうちに」
 その言葉に腹を立てたのか、母親は憤然として玄関の方へ行く。達彦がその背中を追いかける。しばらく玄関でなにごとか言い争っているようだったが、やがてドアが大きな音を立てて閉まった。
「大丈夫、きっともう来ないと思うよ。二〇歳過ぎた娘にあれこれ干渉する権利は親だってないんだからね」
 と、達彦は言う。
 ソファにもたれてお腹を押さえている志保に、駒子は近寄って行った。
「大丈夫? すぐに布団を敷くからね。……海」
 駒子が声を掛けると、海はわかった、というように立ち上がり、二階へとすっ飛んで行った。
「大丈夫だから。心配しないで」
 駒子は志保の背中を優しく撫でる。
「子どもは宝よ。うちのみんなであなたとその子を守ってあげるから」
 志保は「ありがとうございます」とささやくような声で言う。目には涙が溜まっているが、顔色は少し良くなっている。
 家とか血の繫がりなんてどうでもいい。それより大事なものは確かにある。夫婦だって、もとは他人だ。他人でも、家族になろうという意思があれば、なんとかなるはずだ。
 駒子は志保がほんとうの娘のように思えて、優しく、優しくその背中を撫で続けていた。

 その週の金曜日に、駒子と岡村は権藤から第一会議室に行くように言われた。いよいよどちらが部長になるかについての正式な発表があるのだろう、ということはわかっていた。
 岡村さんに間違いない。
 この短期間で実績を上げていること、それに、部長になるということについても、自分より覚悟ができている。自分よりずっと適任だ、と駒子は納得していた。
 頑張っている部下のために、ほんとうは自分がなれたらよかったのだけど、仕方ない。
 むしろ清々しい気持ちで駒子は会議室にいた。会議室の机は二つずつ向かい合って並んでいる。駒子はドアに近い方の席に座った。駒子の隣には岡村、そして権藤部長もいる。三人とも黙ったままだ。
 権藤が横並びにいる、ということは、誰か別の人間が来て、結果を発表するのだろう、と駒子は思った。総務部長か、もしかしたらその上の常務か専務だろうか。
 決められた時間から五分ほど遅れて会議室のドアが開いた。入ってきたのは人事課長、さらに総務部長、そして専務と続く。
 ずいぶん大勢だな、と他人事のように眺めていた駒子は、最後に入ってきた人物を見て驚いた。社長だ。権藤が立ち上がったので、駒子たちも立ち上がって社長を迎えた。社長は奥側の席に座る。
「まあ、座って」
 社長の声に、一同は着席する。
 わざわざ社長まで足を運ぶとは。私たちの人事はそんなにたいへんなことなのだろうか。
 いまさらながら駒子は考えている。
「今日集まってもらったのは、保留になっていた新規事業部の部長の件についての報告をするためだ。ふたりともいろいろ頑張ってくれた。岡村さんは海外との事業を積極的に推し進めているし、水上さんは俳句雑誌の立て直しを頑張ってくれた」
 専務が滔々と説明する。
 ああ、一応自分も『俳句の景色』のことは、評価されているのか、と駒子は思う。
「だが、どちらかひとりを部長に、ということであれば、今回は岡村さんがふさわしい、ということになった。岡村さん、お願いします」
 やっぱり、と駒子は思った。当然の結果だ。わかっていても、ちょっと胸がちくんと痛むけど。
 専務が辞令を取り出した。
 岡村は席を立って、専務の方に行き、それを両手で押し頂いた。
「ありがとうございます。謹んでお受けいたします」
 見ていた権藤が拍手し始めたので、駒子も拍手をする。いつもはクールな岡村は頰を染め、さすがに嬉しそうな顔をしている。岡村は席に戻り、こちらを向いて一礼してから座った。
 それを待っていたように、社長が口を開く。 
「今回は異例のことだが、こうして二人の候補を立てて部長を決めた、それは……」
 すると、突然ドアが開いた。
「待ちなさい」
 一同がドアの方を向くと、そこには会長の棚橋衿子が立っていた。黒いレースのワンピースに、黒のストッキング、黒の靴、そして右手は杖をついている。
「会長」
 権藤がさっと立ち上がり、会長の傍に行った。足の悪い会長を支えようと手を差し出したが、会長は手を振っていらない、と断った。権藤は椅子を引くと、会長はよろよろと滑り込むようにして着席をした。
「ごめんなさいね、突然。それから、遅くなったことも許してくださいね。なにせ右半身がうまく動かないものだから。……今日は新規事業部の部長についての話があるって聞いたのでね。で、どうなったの?」
 会長の視線は社長に注がれている。
「今回は、岡村さんにお願いすることにしました」
 社長も、義理の母である会長は苦手なのか、笑顔が強張っている。
「まあ、そうですね。海外展開とか翻訳事業とか、おもしろい提案をしてくれるし、もともと編集者としても優秀だったから、新規事業を開拓していく部署の長としてはふさわしいでしょう。それから?」
「それから、と申しますと?」
「水上さんについてはどうするのかしら?」
「どうするって……現状どおり次長職と考えていますが」
「ダメだねえ、それだからダメなのよ」
 会長が吐き捨てるように言う。
「どういうことでしょうか?」
 社長だけでなく、人事課長も総務部長も専務も、皆困惑している。
「なんのために、私がこのふたりを次長にして、やり方を見極めよ、と言ったのか、全然あなたたちはわかっていない」
 その言葉は意外だった。ふたりを競わせるということを発案したのは、会長だったのか。その言葉に驚いているのは、駒子だけではなかった。岡村も、権藤も驚きの表情を浮かべている。
「これからの時代、出版社はますますたいへんな時代になる。いい時のままの考え方でいたら、立ち行かなくなる。頭を柔軟にして、時代にあったビジネスに切り替えていかなきゃいけない。なのに、まだまだあなたたちは昔のままの考え方なのね」
 会長の言葉がわからない、と思うのは駒子だけではない。社長を含め、その場の全員が困惑の表情を浮かべている。
「前々から言っているでしょう? 女だってちゃんと責任ある立場で仕事をまかせれば、それなりの仕事はできる、って。水上さんの人の活用の仕方はユニークです。彼女の部下は、鬱病だったり、介護や子育てで残業ができなかったり、スキャンダルで扱いづらいとされてたりと、ふつうの部署じゃ嫌がられるような人間ばかり。そういう人間にちゃんと働きどころを作る。フォロー体制を作る。実におもしろい。それに学生や退職者の有効活用というのも、いいことだわ」
「はあ、言われてみれば、確かに……」
 社長がしどろもどろに答える。駒子は胸が温かくなる想いだ。そういうふうに評価してくれる人がいるとは思わなかった。
「出版社は製造業じゃない。本を書くのは作家や外部のライターだし、本を形にするのは、印刷所や製本所。本屋に品物を卸すのは取次です。出版社のやることは企画を考え、それを形にできるスタッフに発注し、内容を管理すること。それを売るための方策を考えたり、売るためのルートを確保したりすること。そうでしょう?」
「はあ、そうですね」
「じゃあ、出版社で大事なものはなんだと思う?」
「は?」
「人材です。人材。ものを考え、工夫できる人間」
 そんなこともわからないか、という表情の会長。
「それがもとからできる人間もいるけど、たいていはある程度経験を積み重ねて、できる人間になっていく。人は育つのに時間が掛かる。経験することでノウハウも積み重なっていく。そういう人間をいかに大事にするか、そういう人間がいかに働きやすい環境にするか、それを考えるのが、あなた方の仕事。それはわかっているの?」
「え、ええ」
 社長は引きつった笑顔を浮かべている。
「ほんとに? あなた方も?」
 会長は人事課長や総務部長の方を向く。彼らははあ、というようにうなずく。
「この会社は、少なくとも女性にとって働きやすい会社ではないわ。セクハラはまかり通るし、子育て中の女性は肩身が狭いし。なのに、それを変えようという姿勢があなた方にはまったくない」
 会長の言葉に、人事課長や総務部長だけでなく、権藤も首を竦める。
「あなた方にできないなら、できる人間に代わってもらいましょう。幸い、あなたは今年いっぱいで定年でしたね」
 そう言われて、総務部長は「はあ」とうなずく。
「だったら、その後は、こちらの水上さんにまかせましょう」
「会長」
「会長、それは」
 その場にいた人間が、抗議の声を上げようとする。
 駒子も意外な成り行きに、頭がついていかない。
 総務部長? 私が?
「反対なの?」
 会長がぎょろっと一同を睨む。その迫力に、その場にいた皆がたじろいだ。先代と言われた二代目を陰で支えた女性の迫力に、駒子も息を呑んだ。
「そもそも、今回のセクハラで、会社のイメージがどれほど傷ついたか、あなたたちは理解していない。採用試験の応募人数が減っただけでなく、同じ会社の女性スタッフたちがどれほど失望したか。それがわかっていないで、何が人事だ、何が総務だ。そのことを、いちばんに反省しなさい!」
 一同は、ははっとひれ伏さんばかりに、頭を下げた。岡村と駒子だけが頭を下げずに成り行きを見ていた。が、すぐに岡村が気がついて、駒子の方を見てにやっと笑った。やったわね、と言わんばかりの岡村の表情に、駒子も同じように笑みを返した。

「それで、駒子さんは総務に行くことになるの?」
「そういうことみたい。正式には、総務部長の退職を待ってのことになるけど、引き継ぎも時間を掛けてちゃんとしろって会長がおっしゃるので、週明けから総務部の方にも顔を出すことになるわ」
「そう。それはおめでとう」
 達彦は笑顔で持っていたグラスを目の高さまで上げた。駒子も同じようにグラスを掲げ、乾杯をする。
「めでたいかどうかわからないけど、やれるだけはやってみるわ」
「その会長さんも、ずいぶん思い切ったことをやるんだね」
「実は会長もセクハラの犠牲者だから、権藤さんのことには内心腹を立てていたんだと思う。セクハラでパワハラだから。……それで、黙っていられなかったのね」
「そういう体質を変えようと思ったら、女性に総務部長を任せるっていうのは正解だね。人の管理って、実は女性の方が向いているんじゃない?」
「どうかしらね。総務部長って、会社全体の運営に関わってくるから、結構たいへんなんだよね。やりたがる人も多いだろうし。いままで以上にあれこれ言われそう」
「ああ、名誉男性だのなんだの、ってやつ?」
「まあね。それ考えると、やだな、って思うけど」
 新規事業部の部長になるより、さらに大きな騒動になるだろう。総務部長は将来の幹部候補とも言われている。出世コースに乗ったということで、やっかむ人間もたくさんいるだろう。
「言いたいやつには言わせておけ、だよ。これから駒子さんがちゃんとやっていけば、評価する人は評価してくれるから」
「そうだね。少なくとも、会長はわかってくれてたんだから、それは嬉しい」
 子育て中でも介護中でも、ちゃんと仕事を続けられる会社。それぞれが居心地いいと言える会社。
 いままでは自分の部署でできればいいと思っていたけど、会社全体でできればもっといい。それが実現できるように努力する。それはいままでにない大きな目標だし、やりがいもあるだろう。
「ところで、海と志保さんは?」
「志保さんは、今日は友人と食事だって。海は図書館」
「図書館?」
「うん、あいつ最近勉強を始めた。大検を受けるつもりらしい」
「大検? どうして?」
「あいつなりにお金を稼ぐことを考えたら、やっぱり大学へ行った方がいいと思ったらしい。来年か再来年に受験したいんだってさ」
「そう。それはよかったわ。ほんと、よかった」
 保守的な考えかもしれないけど、やっぱり息子は大学に行ってくれた方がいいと思う。そこでしかない出会いもあるし、可能性も広がる。社会に出るのをむやみに急ぐことはない。
「だけど、海は本気で志保さんと子どもを引き受けるつもりかしらね」
「それはわからない。海だってまだ若いんだから、ほかに好きな人ができるかもしれないし、志保さんの方だってね。若いんだし、これからどうなるかわからないけど、どう転んでも、我々はふたりを支えるだけの力がある。しばらくは、力を貸してやればいいさ」
 やっぱり達彦は変わっている。その考えに、自分も影響されているのかもしれない。
 だけど、それもいいのかもしれない。そういう人間じゃなきゃ、できない発想もある。そして、そういう発想がものごとを変えていくのかもしれない。
「そうね。先のことを考えても仕方ないしね。ともかく、いまはみんな健康だし、家計も安定しているし、なんとかなるわね」
 駒子は再びグラスを掲げる。
「乾杯しましょう」
「何に?」
「なんでもいいわ。そう、変わらない毎日に乾杯」
 変わらないけど、少しずつ変わっている。ひとつ課題をクリアしたと思ったら、また新しい課題が生まれてくる。それを一生懸命こなしているうちに、日々は過ぎて行く。その日々がたまらなく愛おしい、と駒子は思う。
「いいね。乾杯!」
 ふたりのグラスがぶつかって、かちんと音がした。それは、あたらしい日々のスタートの合図のようだ、と駒子は思っていた。

(完)

※今までご愛読ありがとうございました!本連載は2018年2月に単行本化予定です。お楽しみに!

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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