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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第17回

2017.09.27 更新

 花村は結局課長にはなれなかった。人事課が難色を示したのだ。若いとか、実績がない、と理由をつけたが、結局はスキャンダルの件が尾を引いているのだろう、と駒子は思った。しかし、人事課との折衝を続け、なんとか係長であれば、ということで承認を得た。
「ごめんね。力足らずで」
 駒子は謝ったが、花村は声を震わせて、
「ありがとうございます。水上さんがそうして動いてくださったことだけでも嬉しいです」
 と、何度も繰り返す。
「水上さん、私頑張ります。部署の実績を上げて、水上さんが部長になれるように」
 その言葉に思わず絶句する。
 ああ、花村は私に昇進してほしいのか。
 そんなこと、私はどうでもいいと思っているのに。
 だけど、これは私より部下にとって大事なことなのかもしれない。直属の上司に力があれば、部署の待遇もよくなる。自分たちの立場も安定する。
 自分の昇進は、もはや自分のものだけではない。部下の状況も背負うことになる。それだけの影響力を持つ立場になる。
出世するということは、そういうことなのだ、と駒子は思い至った。
『俳句の景色』は高橋が編集長になり、同時に庄野が退職した。誕生日よりふた月早いが、辞め時と判断したらしい。海老原は自分が重責を負わずにすんだことに安堵したのか、ちゃんと出社してくるようになった。昇進したいと思う人間もいれば、それが負担になる人間もいる。人それぞれ、使いどころだ、と駒子は思う。
 高橋は、異動してくると同時に新しい単行本の企画を三つほど起ち上げた。「小学生でも俳句が作れる!」「中学生でも俳句が作れる!」という子ども向けの入門書、それから俳句を扱うバラエティ番組の関連本である。いずれもいままでの自費出版とは違う、一般向けの単行本である。
「これからも、どんどん企画を出しますよ」
 高橋は張り切っている。岡村にはアナログ人間だと切り捨てられた高橋だが、紙の本ならいろいろとアイデアは出るらしい。
「人も減ったことだし、頑張り過ぎて倒れないようにね」
 それだけを、駒子は高橋に忠告した。
 一方、花村は、レインボーホールを使ったイベントを企画している。ある程度名前の知られた女性実業家に、女性を対象にした連続講座を依頼する。その講座を元にした書籍を自費出版で刊行してもらう、というものだ。女性実業家についてはビジネスウーマンだけでなく、自宅でサロンを開いている料理研究家やクラフト作家、フラワーアレンジメントなどを行う女性も視野に入れ、ワークショップ形式のイベントを行うことも考えている。そうした女性たちの、出版に対する関心は高い。イベントは会費制だからそれだけでも売り上げは立つが、自費出版に繫げるためのきっかけ作りとしても有効に作用するだろう。
 花村と駒子は相談して候補をリストアップして、それぞれ交渉を進めた。すぐに何人かの女性からよい反応があった。すぐにも仕事が動きそうである。
「これが動き出したら、花村さんひとりじゃたいへんね。誰かもうひとりくらいスタッフを増やしましょうか」
「そうしていただけるとありがたいですが……」
「せっかく係長になったのに、部下がいないというのもどうかと思うし。ただ、うちに来てくれる社員がいるかどうか、っていうのが問題だけど」
 すでに、宮園結理の挙げてくれた社員には全員当たってみた。しかし、異動したいという人間はひとりもいなかった。断る理由で皆挙げるのは「そちらの部署で自分が何をやればいいのかわからない」というものだ。いまの部署に不満はあっても、先行きがわからない部署に異動することには躊躇するのだ。
「実は、ひとり声を掛けたいと思う人がいるんですが……」
「誰? 私の知ってる人?」
「ご存じかどうか……。雑誌事業部の吉田留美さんなんですが」
「吉田さん? ああ、子育て雑誌でおもしろい別冊を作った方ね」
 同じ部署になったことはないが、駒子も知っている名前だ。ということは、優秀なスタッフなのだろう。
「でも、雑誌事業部が手放してくれるかしら。本人も、異動を希望するかどうかわからないし……」
「たぶん大丈夫だと思います。彼女、私と同期なんですが、半年前に出産したんですよ。それで最近仕事に復帰したんですが、雑誌の部署だといろいろたいへんみたいで……」
 雑誌の仕事は書籍よりも時間のコントロールが難しい。校了などは深夜まで掛かることも多いからだ。
「保育園のお迎えがあるから、いまのところ五時に退社しているんです。家に持ち帰って仕事したりしているそうなんですが、ほかの人と足並みがそろわなくて、本人も居づらいみたいで……」
「なるほどね。だったら、部署異動もあり、ってことか」
 本人以上に、周りがそれを希望するだろう。優秀な人材であれば、声を掛けるチャンスかもしれない。
「彼女ができない分は私がフォローしますから、彼女をこちらに迎えてあげてください」
 花村の熱意にほだされる形で、駒子は雑誌事業部の部長に掛け合うことになった。駒子が面談を申し入れた時は、何の用かと警戒していた部長だが、要件を聞くとたちまち相好を崩した。
「吉田を引き取ってくれるの? そりゃありがたい。うちでもそろそろ異動させなきゃ、と思ってたところなんだよ」
 これで厄介払いができる、と言わんばかりだ。
 こういう上司では、吉田さんもやりにくいだろうな。彼女が仕事しやすい環境を整えるなんて、まったく思ってないだろうから。
「うちは雑誌の仕事ほど時間管理が厳しくはないので、なんとかなると思います」
「いやもう、助かるよ。まわりからも苦情がきてるんだけど、いまの時代、そういうことで扱いを変えるといろいろうるさいだろ? 困ってたんだよ」
 駒子はそれを複雑な想いで聞いている。
 自分が妊娠、出産した時も、まわりからは厳しい目で見られた。誰かがフォローしてくれるということは期待できなかった。ベビーシッターを雇ったり、ほんとに忙しい時は田舎から母に来てもらったりもしたが、それでも限界がある。結局、達彦が仕事を辞めることになったが、そうでないやり方はなかったのだろうか、といまでも思う時がある。
「大丈夫です。うちでは彼女の働きどころをちゃんと作りますから」
 あんたのところとは違う、そういう嫌味を込めて言ったが、相手には通じない。
「いいね、ぜひ頑張って。ははは、ほんとよかった」
 と、喜ぶばかりだ。まあ、それもいいかと駒子は思う。捨てる神あれば拾う神あり、だ。自分は拾う神になろう。
 そうして、吉田留美の異動が決まった。さっそく吉田が挨拶に来た。
「これから、よろしくお願いします」
 吉田は童顔で目尻が下がっており、明るい印象を与えるが、緊張のためか表情が硬い。
「こちらこそよろしくね。吉田さん、お子さんがまた小さいのね」
「はい。でも、保育園に入れていますし、仕事にはなるべく支障をきたさないように頑張りますから」
 責められてるわけでもないのに自分から弁明する。ああ、たぶんこの人は職場でこんなふうにずっと気を張ってきたんだろうな、と駒子は気の毒に思う。
「大丈夫よ。うちは雑誌ほど時間の縛りがきつくはないし、子育てとの両立はたいへんだけど、無理をしないようにね」
「ありがとうございます」
 駒子の言葉を社交辞令と取ったのか、吉田は硬い表情を崩さなかった。
 そして、異動の初日のこと。みんなへの挨拶をすませて、吉田が引き継ぎやら机の整理やらをしていると、机の上のスマートフォンが鳴った。着信記録を見て、吉田の顔が曇る。そして、スマートフォンを持って廊下へと出て行った。五分ほどして、吉田が部屋に戻ってきた。浮かない顔をしている。
「あの、ちょっといいですか」
 吉田が駒子のところに来て尋ねた。
「もしかして、恐怖の電話?」
「えっ」
「保育園から呼び出しの電話じゃないの?」
 駒子にも経験がある。仕事中、保育園からの電話が鳴ることはとても憂鬱なことだった。
「はい。息子が熱を出して、すぐに迎えに来いと。あいにく夫は会議で動けないそうで……」
 最後の方は消え入るような声だ。
「申し訳ありません」
 吉田は深々とお辞儀する。
「よかったじゃない、今日で」
 駒子が言うと、吉田は驚いたように顔を上げた。
「だって、今日やるのは机の整理と引き継ぎくらいでしょ。だったら、後回しにしても支障がないわね」
「それは……そうですが。初日からこんなことになってしまって」
「そんなふうに思わないことよ。私も経験あるけど、親が仕事でテンパっている時ほど、子どもは熱を出しやすいのよ。親の緊張が移るのかもしれないわね。あなたも、急な異動ということで相当プレッシャーを感じていたんじゃないの?」
 駒子の言葉に、吉田は深く頷く。
「はい。正直に言えば、こちらがどういう部署かよくわからないし、子持ちの女が歓迎されるかどうか、わからないし……」
「あら、私も子育てしながら仕事をしてきたクチよ。ほかの上司より理解があるとは思わなかった?」
 駒子の言葉に、吉田は首を横に振る。
「そうとは限りません。『私はもっとたいへんな状況を頑張ってきた』って語る先輩もいますから」
 ああ、そういうこともあるか、と駒子は思う。自分が苦労してきたんだから、下の人間も努力するのが当たり前、という昭和的な考えから抜けられない人間もいるのだ。
「そういう考えは持ちたくないわね。仕事も大事だけど、家庭も大事。それに、誰だっていつ何時、家庭の事情でフルに仕事ができなくなるかもしれないし。……私だって、親の介護が降りかかってくる年代だし。そうなった時、お互い助け合えるような部署にしたい、と思っているの」
「それは……そうできれば、なによりだとは思いますが」
「みんなが助け合って、楽しく仕事ができれば、部署の業績も伸びると思うの。私は、そういう部署を作っていきたいと思う」
 吉田は目を見開いたまま、駒子の顔をじっと見る。本気かどうか、確かめているようだ。
「私も、昔はよく思ったものよ。夕方から夜まで仕事を肩代わりしてくれる人がいたら、どんなにいいだろう、って」
「そうですね。編集って、夜に打ち合わせが入ったり、校正が夜便で出たりして、避けようがない残業ってありますから。うちはまだ〇歳児だから、保育園も五時までしか預かってくれないですし……」
 駒子の言葉に、吉田は少し気持ちを緩めたようだ。いままでの部署では、そういう悩みもなかなか言えずにいたのだろう。
「じゃあ、夕方以降はどうやっているの?」
「ベビーシッターを頼んでいます」
「毎日? それじゃ、料金も馬鹿にならないでしょう」
「ええ。でも、五時のお迎えに間に合うように四時に退社するなんて不可能ですし、お金で解決するしかないです」
 吉田は疲れた顔をしている。子どもが生まれて半年だから、夜中に起きて授乳したりもしているのだろう。しかし、そういう状況を会社で訴えることはしてこなかったに違いない。子育ては個人の事情。それをなんとかするのは自己責任、とされているからだ。
 でも、ほんとうにそうなのか。個々の事情を抱えた社員をバックアップするシステムが、会社の中に作れないだろうか。
「時短の制度を利用しようとは思わなかったの?」
 法律では、三歳までの子どもを持つ親の時短勤務は認められている。うちの会社でも利用することはできるはずだ、と駒子は思う。
「ほかの人のことを考えると、とてもそんなことは……。それに、夜に仕事がある時もありますから」
 吉田の答えがすべてだ。制度としてあっても、利用することは難しい。なにより上司やまわりの人が理解してくれるとは限らない。だから、利用するとしても、復帰後三カ月とか半年がいいところだ。
「すみません、私、そろそろ……」
 吉田が申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい、引き留めてしまって。明日はお休みになるかな」
「いえ、なんとか都合をつけます。病児保育をしているところと契約もしていますし……」
 吉田は気丈に言う。
「いいのよ、無理はしないで。異動してきたばかりだからって、焦らなくても大丈夫よ。まだ先は長いんだし」
「ありがとうございます」
 吉田はちょっと涙目になっている。
「さあ、もう早く保育園に行って。お子さんが待っているわよ」
 駒子に促されて、吉田は再び「ありがとうございます」と蚊の鳴くような声で言うと、席に戻り、荷物をまとめた。そして、足早に職場を出て行った。
「ねえ、花村さん、それから高橋くんも、ちょっと来てもらえるかな」
 駒子は部下ふたりを呼んだ。
「なんでしょうか」
「ちょっと、そこに座って話しましょう」
 駒子は応接用のソファにふたりを導いた。駒子の前にふたりがかしこまって座った。
「あの、私ずっと前から考えていたんだけど、吉田さんのような小さい子どもを持つ社員をフォローする体制を組織の中にちゃんと作れないかな」
「というと?」
「吉田さんの場合はできれば四時には退社したい。だけど、編集って仕事はその後もいろいろあるから、なかなかたいへんよね。だったら逆に、四時とか五時から出社して八時とか九時まで働いてくれるスタッフを雇えないかな、と思うの」
「それはつまり、ワークシェアリングという考え方ですか?」
 高橋が問う。
「まあ、そういうことよね。私自身も、子どもが小さい頃は、そういう人がいてくれたらどんなにいいか、と思ったもの」
「確かに……それがあればいいとは思いますが……」
「人件費がどうなるか、ですよね」
 高橋が問題点をすぱっと指摘する。
「それについては、なんとかなると思う。時短でいくらくらい給与が下がるか、これから調べてみるけど、下がった分でバイトの時給をある程度補填できると思うし」
「お金の問題だけじゃなく、ワークシェアリングというのはひとつの仕事を二分してやらせるという感じだけど、それは編集の場合は無理だと思うんですよ。たとえばゲラについての内容の責任はどちらが負うとか、ふたりでやると、責任があいまいになってしまいますからね」
 高橋の指摘はもっともだ。ワークシェアリングが根付かないのは、人件費の問題と、生産性がひとりでやるよりもふたりの方が下がってしまう、ということが大きい。
「対等じゃなくていいのよ。ほんのちょっとの補佐、たとえば急ぎの校正が八時に出るとして、その場でチェックしなきゃいけない、とか、作家にその日中に資料を届けなきゃいけないとかいう時に、肩代わりしてくれる人がほしいのよ」
「じゃあ、その人専用のアルバイトを雇うということですか?」
「まあそうね。気軽にフォローを頼める人がいれば、ずいぶん楽になると思う。同僚や上司に気兼ねしながら仕事のフォローを頼むのは結構つらいことだし、まわりも忙しいから、結局自分自身で都合をつけるしかなかったから」
 その時代のことを思い出すと、駒子はいまでも胸がぎゅっと締め付けられるような思いがする。夫が自由業なので、何かと頼りにはしたが、それも無理な時はベビーシッターを頼んだ。毎日、息子の体調が悪くならないように、祈るような気持ちで過ごしていた。
「でも、夕方から夜だけ来てくれるアルバイト、それも仕事をちゃんとまかせられるような優秀な人材って、簡単に見つかるでしょうか?」
 花村がそう問い掛けると、高橋がそれはなんでもない、という調子で応える。
「それは簡単さ。学生バイトを雇えばいいんだよ」
「学生バイト?」
「学生なら四時には授業終わるし、マスコミ志望の人間にはいい経験になるし、やりたがる人間は多いと思うよ」
「なるほどね。その手があるわね。学生なら、長くても四年で入れ替わるし、何かと都合はいいわね」
「水上さん、本気で考えているんですか?」
 花村が驚いたように目を見張っている。
「ええ、本気よ。……もちろん、吉田さんが希望すれば、だけど。優秀なスタッフが、子育てしながらでも力が発揮できるようにすれば、会社としては生産性が上がるもの」
「それはそうですけど」
 高橋も、完全に納得はしていないようだ。
「ともかく、どうやって吉田さんをバックアップできるか、本人の意見も聞いて、考えるわ」
 駒子はふたりにそう説明した。
 翌日、吉田は出社してきた。病児保育をしてくれるところに、子どもを預けてきたらしい。上司がいいと言っても、ほかのスタッフの手前、異動二日目に休むのは気が引けたんだろうな、と駒子は思う。吉田は昨日よりもさらに疲れた顔をしている。目の周りには隈がくっきり見える。昨晩は看病で熟睡できなかったのだろう。
「吉田さん、ちょっといいかな」
 駒子は吉田に声を掛ける。
「なんでしょうか?」
「ちょっと相談したいことがあるの。会議室に来られる?」
「はい、大丈夫です」
 吉田の声はうわずっている。緊張しているのかな。だったら、なおのことちゃんと相談に乗ってあげなきゃ、と駒子は思っていた。

「ほんとうですか?」
 駒子の提案を聞いて、吉田は席を立ち上がらんばかりに驚いている。
「ほんとうよ。あなたが四時に退社しても、その後の仕事をある程度任せられるようなスタッフがいれば、楽になるんじゃない? あなたの仕事がない時は、部署全体の雑用をしてもらえばいいから、ほかのスタッフも助かるし」
「でも、ほんとうにいいんでしょうか、そんなこと」
「いいと思うわ。お子さんのためには、五時にお迎えに行けた方がいいでしょう?」
「それができれば、ほんとに……。でも、会社が許してくれるでしょうか?」
「だって、時短はあなたの権利じゃない。ちゃんと利用しなきゃ。それに、あなたをフォローすることを考えるのは、上司としての私の仕事だわ」
「水上さん」
 吉田は、心打たれた顔をしている。
「ありがとうございます。実現しなかったとしても、そんなふうに思ってくださったこと、忘れません。私の個人的な状況をこんなにも真剣に考えてくださる方がうちの会社にいるなんて、思いもしませんでした」
 吉田の気持ちは痛いほどわかった。自分も子育ての悩みを上司や同僚には決して話せなかった。まわりに悪意があったわけではないが、子育ての悩みを理解してもらえるとは到底思えなかったからだ。
「実際問題、アルバイトをひとり雇うというだけのことですもの。会社的には問題ないはずよ。ただ、時短となるとあなたの給与が下がってしまうけれど、それは大丈夫かしら。一時間の時短となると、これくらい下がってしまうけど……」
 駒子は昨日総務に問い合わせをして、一時間の時短勤務をした場合の吉田の給与の金額を試算した。それを見て、吉田は一瞬顔を曇らせたが、すぐに顔を上げて、
「はい、大丈夫です。それで、早く帰ることができるなら」
 と、はっきりした声で言う。
「こんなに下げる必要はないと思うのよね。まるでこの制度を利用するな、と言わんばかり。正直金額を聞いて、耳を疑ったわ。総務的には、短くした分の比率とみなし残業分を下げただけだって言うんだけど……。だけど、その下がった分があれば、時給のアルバイトを雇うくらいのお金は補填できるのよ。だから、アルバイトを使うことを遠慮しなくてもいい。わかった?」
「はい」
「これは一年でも二年でも、お子さんが三歳になるまでは利用しても大丈夫。それから、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「子どもが病気の時は、自宅勤務を認めるという制度をうちの部署で作ろうと思っているの。これは、会社が承認するかどうかわからないけど、交渉はしてみる」
「水上さん!」
 吉田の目が大きく見開かれる。
「有給を取りたければそれでもいいけど、編集者の仕事は家に持ち帰って仕事することもできるでしょう? その場合は、作業の詳細を報告してくれれば自宅勤務として認める、そういう制度があってもいいと思うの。テストケースとして、やらせてほしい、と総務に提案してみるつもりよ。うちは新規事業部だから、そういうこともあり、と思うし」
 吉田の目からほろほろと涙がこぼれおちた。
「ありがとうございます。ほんと……なんて言ったらいいのか……ほんと、ありがたいです」
「お礼を言うのはまだ早いわ。ちゃんと実現できるかわからないし」
「ええ、ですが、ほんと嬉しいんです。異動してきたばかりなのに、こんなに親身になってくださるなんて」
 吉田の感謝はいままでの孤独と裏返しだ。いままでは、会社の上司には相談できず、ひとりで悪戦苦闘していたのだろう。
「私も頑張るから、吉田さんも頑張ろうね」
 吉田はわかりました、というように深く頷いた。
 だが、問題は岡村である。
 部署としての提案であれば、同じ新規事業部の次長である岡村の同意を取り付けないわけにはいかない。結婚していない岡村が、それを認めてくれるだろうか。独身女性の方が、子育てをしている女性に対して厳しい、ということはよくあることだし。
 そんな懸念を抱きながら、おそるおそる岡村に切り出すと、
「いいんじゃない。やってみれば」
 予想に反して、岡村はあっさり返事した。
「だけど、そういうスタッフは部署にひとりまでよ。アルバイトを何人も増やすわけにはいかないし、特別待遇のスタッフが増えると、子どものいないスタッフが不平等に思うかもしれないから」
「ありがとう」
 あまりにもあっさり承諾されて、駒子はキツネにつままれたような思いだ。
「どうしたの? 私が反対すると思ったの?」
「え、ええ」
「ふん、私はそんなに頭の固い人間じゃないわ。それに、そういう実験的なことをやってみるのも、うちの部署の役目だと思うし。うまくいくかどうかわからないけど、総務に提案するのはいいんじゃない?」
「ありがとう。頑張ってみるわ」
 駒子は感謝のまなざしを岡村に向けた。岡村は照れたのか、ぷいと横を向いた。
 
 総務との交渉もあっさり片付いた。最初に提案書を出した時は、「これは……」と総務の担当者に渋い顔をされた。その場では結論を出さず、「上司と相談してみます」と言われたのだが、翌日、駒子の提案を許可するという返事がきた。あくまでテストケースとしてだが、自宅勤務の件も承認する、というのだ。そのための手続きなどは総務と相談して決めていくことになる。これは担当者ではなく、総務部長か誰かが指示してくれたのかな、と駒子は思った。あとは優秀なアルバイトをみつけることだ。
 それについては、高橋が解決してくれた。俳句の本の企画のために相談していた大学教授から、学生を紹介されたのだ。
「まじめで優秀な子だし、きっといい仕事をしてくれるよ」
 紹介されたのは、在日韓国人の黄大造(コウダイゾウ)である。苦学生で、アルバイトで学費を稼いでいるが、わりのいい家庭教師や塾の講師などにはなかなか採用されないのだという。韓国語よりも日本語の方が得意で、専攻も国文学だが、在日ということで日本語力を信用されないのか、差別意識が働いているのかはわからない。
 しかし、面接で黄に会った駒子は、この子なら大丈夫だ、と思った。目が澄んでいて、考え方もまっすぐだ。大学教授が肩入れしたくなるのもわかる、素直な性格の子だ。吉田も面接に立ち会い、彼女も気に入ったので、採用することになった。
 一方で、駒子は介護のために残業ができない池端のフォローについても、高橋と話し合った。原則として夜型の著者の担当を外すということと、いざという時には高橋がフォローすることを確認した。また、定年退職した庄野も、週に一日か二日なら来てもいい、と言っているので、そちらにも仕事を頼むことにした。経験のない人間に一から教えるより、経験者の能力を活用する方が、俳句のような特殊なジャンルの場合ははるかに効率的だ。高橋が新規に起ち上げた企画を実現するのにも、そういう助っ人がいるのは好都合である。そうして、駒子の部署の人員体制は整った。あとはスタッフの頑張りに期待するだけだ。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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