キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
バックナンバー  1...131415161718 

第15回

2017.08.30 更新

 志保がみつかった、という連絡が海からあったのは、その晩のことだった。電話を受けたのは達彦。
「うん、うん、わかった。……待ってるから」
 達彦の声が弾んでいる。
「なんですって?」
 達彦が電話を切ると、待ち構えていた駒子が尋ねた。
「バイト先に張りこんでいた海が、給料を貰いに来た志保さんを捕まえたって。いまから連れて帰るそうだ。志保さんもお腹の子どもも元気だから、安心してくれって」
「そうなの」
 駒子はほっとする反面、予想外れという気もしていた。志保が姿を消したのは、中絶するつもりなのか、と思っていたのだ。
 三〇分もしないうちに、海が志保を伴って戻って来た。海は腕をしっかり志保の腕に絡めていた。犯人を連行する刑事のように、志保が再びどこかへ行ってしまわないように繫ぎとめているようだった。
「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
 青白い顔の志保が、出迎えた駒子たちに頭を下げた。
「迷惑なんてとんでもない。それより立ち話はなんだから、ソファで話そうか」
 玄関に立ち尽くしているふたりを、達彦が促す。
「それで、事情を話してくれないかな。どうして姿を消したのか。もし何か力になれることがあれば、僕らは惜しまないから」
「それが……申し訳なくて」
「どういうこと?」
 今度は駒子が尋ねる。
「水上さんご一家はとても親切で、だからなおのこと心苦しくて。……これ以上お世話になるのは申し訳ないと思うんです」
「そんなこと、うちは大丈夫だよ。世話するってほどのこともしてないし」
「帰る家がないんでしょう? いままでどこにいたの?」
 達彦と駒子がかわるがわる志保に話し掛ける。
「友だちの家に三日ほど泊まらせてもらって、その後は漫画喫茶で過ごしたり……」
「そんな、お腹に赤ちゃんがいるのに無茶をして……。そんなことしたら、流産してしまうわ」
 駒子の言葉に、志保は激しく反発する。
「流産すればよかったんです。父親もいない、母親はこんな情けない人間なんだから、生まれてきても幸せになれるわけがないんだから」
「父親がいないって?」
 やはり、海ではなかったんだな、と駒子は内心思っている。海に視線を向けると、海は噓がばれて気まずいのか、駒子から視線を外した。
「私が妊娠したと知って、逃げてしまったんです。実家も被災してたいへんな時期だから、頼るわけにはいかないし……。子どもを産んでも、ちゃんと育てる自信がないんです」
「だから、僕が言ったんだ。一緒に子どもを育てようって。僕が父親になる。ひとりじゃ無理でも、ふたりで助け合えば、なんとかなるからって」
 海は志保だけを見ている。
「そんなこと、できるわけないわ。海くんは未成年だし、私ともそんなに深い関わりがあるわけじゃないのに。いまはいいと思っていても、あとで後悔することになる」
 やっぱり、海の彼女ってわけでもないのね。ふたりは、子どもができるほどの間柄にはとても見えなかった。一方的に海がのぼせ上がっているみたいだった。
「その時はその時。僕が手を差し伸べることもできたのに、志保さんを見捨ててしまって、志保さんが苦しむようなことになったら、そっちの方が後悔するよ」
「海の言うとおりだ」
 それまで黙っていた達彦が話に割り込んできた。
「うちはそんなに広いわけじゃないけど、志保さんと子どもとふたりくらい増えてもなんとかなるよ。みんなでその子を育てようよ」
「ちょっと待って。いきなりそんな話?」
 冗談と思いたいが、達彦は大真面目のようだ。
「だって、無理なことじゃないだろ?」
 達彦ならそういうことを言い出しても不思議ではない。それは駒子も十分知っていた。だが、こればかりは賛同できない。
「そんなこと、安請け合いするのは無責任よ。志保さんだって困ってるじゃない。思いつきで言われても、気まぐれとしか思われないわ。一時の同情でそんなこと言って、気持ちが変わったらどうするの? 子どもの面倒をみるというなら、最低でも一五、六年は責任持たなきゃいけないのよ」
 人ひとりの人生を抱え込むことになるのに、達彦はあまりにもお気楽だ。さすがに駒子も腹が立ってくる。
 志保はいい子だ。だけど、ひと月前は存在すら知らなかった、文字どおり赤の他人だ。どうしてそこまで関わらなければいけないのだろう。海が父親でないとわかった以上、我が家が責任を持つ必要はない。
「気まぐれなんかじゃないよ。気持ちが変わらないことを証明しなきゃいけないっていうのなら、志保さんと海が結婚すればいい。そうすれば、生まれた子どもはうちの子どもってことになるわけだし」
「そんなの無理よ。海は一八歳にならなきゃ結婚できないし」
「だったら、子どもを僕の子と認知しよう。そうすれば結婚しなくても、その子に対して一生責任を持つことになる」
 それを聞いて、駒子の頭に血が昇った。なにを言ってるんだろう、このお気楽男は。
「なに馬鹿なこと言ってるの。そんなのダメに決まってるじゃない。それじゃ、あなたが志保さんと浮気してできた子みたいじゃない。それなのに同居してるなんて、世間から見たらびっくりするほどおかしなことだわ」
「世間なんて関係ない、って、いつも言ってるじゃない。大事なのは僕らが幸せと思うかどうかってことだよ。子どもを育てるのは幸せなことだし、我々がどうすればその子を幸せにできるか、って考えることが、いまはいちばん大事なことだろ」
「だけど、どう考えてもおかしい。どうして他所(よそ)の子をそこまでうちが責任持たなきゃいけないの? 人ひとり育てるのはたいへんなことよ。お金だって掛かるんだし」
「お金なんてなんとかなるって。金は天下のまわりもの、って言うじゃない」
 達彦ののんびりした口調に、駒子はかっとなった。
「なんとかなる、なんて気楽に言わないで。私がどんな思いをして会社で仕事しているか。腹が立つことも我慢して、嫌な人にも頭を下げて、あなたたちを養うために、私が一所懸命稼いだお金じゃない!」
「駒子さん、そんなふうに思っていたの?」
 達彦が傷ついた顔をした。それを見て、駒子もはっとした。
 養ってやっている。
 そんな恩着せがましいことは言わないつもりだったのに。
 どちらかが働かなくてはいけない。だから、条件のいい駒子が仕事を続けることにしただけなのに。
 達彦だって働いている。プロの主夫として家事をこなしている。その支えがなければ、うちはやってこられなかったのに。
「もうやめてください。ごめんなさい。私が全部いけないんです。育てることもできないのに、子どもを不用意に妊娠したりして。私、これ以上はご迷惑お掛けしませんから。どうか私のために言い争ったりしないでください」
 志保が半泣きな顔で止めに入った。駒子も言い過ぎたことを恥じ入った。
 だけど、志保の存在が恨めしい。彼女は我が家の男どものこころをがっちり摑んでいる。私自身の想いよりも、達彦も海も志保のことを大事にしようとするのだ。
 志保のせいでうちはぐちゃぐちゃだ。
「駄目だよ、そんなこと」
 海が志保の腕をしっかり握る。
「監禁してでも、うちからどこかへ行ってしまうなんて許さない。漫画喫茶なんて疲れが取れないし、それで流産とかしたらどうするの?」
 その言葉を聞いて、志保ははらはらと涙を落とす。
「流産なんて怖くない。もし流れるなら流れてしまえ、って思うんです。子どもを産むのが怖い。日々身体が変わっていくのが怖い。中絶する勇気はないくせに、子どもを産む決意もできないんです」
「志保さん……」
 その気持ちは、駒子には痛いほどわかった。
 海を妊娠したのはまだ二六歳の頃だった。独身だったし、まだ母になるという決意ができていなかった。それに、自分の身体の中に違う存在がいるのが不気味で、厭(いと)わしかった。いっそ流産すればいい、という想いが頭を掠(かす)めたのだ。
「僕も海の意見に賛成だ。子どもをどうするかというより、いまは志保さんがちゃんと休める環境にしないと。疲れているから精神的に不安定になるし、普段なら考えないようなネガティブなことを考えたりするんだ。とにかく、ゆっくり休んでほしい」
「でも……」
 志保はためらっている。駒子に対して遠慮しているのだろう。
 仕方なく、駒子は言う。
「そうね。私も賛成。いま志保さんを追い出して、どこかで行き倒れたりしたら、私たち家族は責任を感じる。自分たちのことを一生責めることになると思う。とくに、私自身が」
 志保は驚いたように駒子の顔を見た。
「私を悪者にしないで。いいわね」
「でも……」
 志保は戸惑っている。
「子どものことは置いといて、次の落ち着き先が決まるまでは、家にいたらいいわ。私たち家族の精神の平和のためにも。もし、ただ世話になるのが嫌だと言うなら、宿代をもらうわ。食費込みでひと月五万でどうかしら」
「駒子さん……」
 達彦が抗議の声を上げる。それを、駒子は手で制する。
「いますぐじゃなくてもいい。子どもを産んで、働けるようになってからでいい。泊まった日数分ちゃんと返してもらうわ。そうすれば、あなたは居候っていうわけじゃなく、うちの下宿人ってことになるから」
 言ってしまった。
 こうなったら、志保と、その子どもがうちに留まることを認めることになる。
 なんてお人よしなんだろう、と自分でも思う。
 志保の目から再び涙が流れる。嗚咽を押し殺すように、口を自分の手で押さえた。
「ねえ、それでいいかしら?」
 志保は泣きながらこっくりとうなずいた。その顔はあどけない子どものようだ。
 そう、子どもなのだ。二〇歳なんて。
 子どもが子どもを産む。
 うちは志保と、生まれてくる赤ん坊と、ふたりの子どもを抱え込むことになるのかな。
 面倒なことになるのは目に見えてるわね。
「ありがとう」
 海が無邪気に感謝の目をこちらに向ける。達彦もこちらを見て、よかった、よかったというように頷いている。
 男たちの能天気さに溜息を吐きながら、駒子は視線を逸らした。

 一方、結理はカレーランチを奢った分の借りをきっちり返してくれた。
 仕事の能力とは関係なく、会社の都合で左遷された人物。
 子育てや介護のために十分な働きができず、職場のお荷物になっている人物。
 そうした人間を一〇人ほどピックアップし、その履歴をまとめたものをレポートにして駒子へ渡してくれた。
「これがすべてという訳じゃないけど、私が思いつくのはこんなところ。本人が現状をどう思っているか、現在の上司がどう評価しているかまではわからないけど、口説けば動く人間はいると思うわよ」
 結理に感謝しつつ、駒子はレポートをチェックした。なるほど、言われてみれば、と思う人物もいるし、部署が離れていて存在すら知らなかった人物もいた。
 その中のひとり、これ、という人物がみつかった。
 長谷川智樹。
 学術系の書籍を多く手掛け、会社で新書のシリーズを起ち上げた時の中心人物だった。
 文学全般に造詣が深く、俳句に関する本も何冊か手掛けている。
 かつては新書の編集長で、部長になるのも時間の問題とみられていたが、派閥争いに敗れ、編集とはまったく関係ない物流センターに左遷された。年齢は五〇歳。会社員人生でもうひと花咲かせたい、と思っている年齢だろう。性格も温厚で、周囲の評判も悪くない。駒子とも面識はあるし、『俳句の景色』の編集長を引き受けてくれる可能性も高い。駒子は長谷川を仕事終わりに呼び出し、話をすることにした。場所は会社から少し離れた神楽坂にある居酒屋である。座席ごとに壁で区切られた半個室なので、ほかの人間に話を聞かれる心配はない。会社の人間と飲みに行くのは嫌いな駒子だったが、難しい話をする時には、こういう構造の居酒屋は便利である。
「水上さんとお会いするのは久しぶりですね。お酒をふたりで飲むのは初めてでしょうか」
 ビールで乾杯した後、長谷川がそう切り出した。
「ほんとに……。突然、お呼び出ししてすみません」
「ちょっと面食らいましたよ。折り入ってご相談って、どういうことなのでしょうか?」
 長谷川はやや緊張した様子だったが、顔には笑みを浮かべている。昔からあまり感情を露わにはしないタイプだった。
「はい。ちょっと内密のお話なんですが」
 駒子は現状を手短かに説明した。そして、『俳句の景色』の編集長が早急に必要なこと、長谷川に引き受けてほしいことを伝えた。
 長谷川は黙って聞いていたが、聞き終わると「うーん」と腕組みをして考え込んだ。
「僭越(せんえつ)ながら、長谷川さんほどの編集者が現場を離れるのはもったいないと思うんですよ。その知識と経験を、もう一度編集部で生かしてみませんか? 『俳句の景色』は、決して華やかな部署ではありませんが、歴史のある雑誌です。それに、俳句に限らずやりたいことがあればどんどん進めていってくださってかまいません。むしろそうやって仕事を広げていくことが、うちの部署には期待されていることですから」
 駒子は懸命に説得した。なんとか長谷川に引き受けてもらいたい。その一心である。
 そして、言うべきことを言うと、長谷川の言葉を待った。長谷川は目を瞑っていろいろ考えている。手持ち無沙汰の駒子はジョッキを手に取ってビールを一口含んだ。形ばかりで、味を感じない。
「声を掛けてくださって、ありがとう。編集者としての僕の仕事を評価してくださったのは、とても嬉しいです」
 長谷川は決意したように口を開いた。駒子はジョッキを置いて次の言葉を待つ。
「だけど、いまは動けません」
 期待していた言葉とは反対だった。おそらく承諾してくれるだろうと思っていただけに、駒子はショックを隠せない。
「それは……なぜ?」
「実は、まだ正式に発表になっていませんが、いま物流システムの刷新プロジェクトが動き始めているんです。かなりの大型プロジェクトで、完全に軌道に乗るまでには五年は掛かると思います。僕はそれに関わっているんです」
 駒子は目を見張る。そういう状況とは、まったく知らなかった。
「このプロジェクトを中心的に進めているのは金田常務。編集部で行き場のなくなった僕を、こちらに引っ張ってくれた人です。常務は、僕にこれを任せたい、そのために呼んだんだ、と言ってくれています。なので、その期待を裏切るわけにはいかないんです」
「そうでしたか」
 駒子は溜息を吐いた。そういうことだったのか。
 長谷川は誠実な人間だ。金田常務を裏切るようなことはしないだろう。
「そういうご事情なら、仕方ないですね。考えてみれば、長谷川さんほどの方を会社がほっておくわけはないですものね。残念ですけど、この話はなかったことに……」
「はい。ですが、僕を思い出してくださったのは、嬉しかったです」
「それは……。長谷川さんが編集から外れるのは残念だと思っていましたから」
「ありがとう。だけど、会社で大事なのはコンテンツを作るだけじゃないし、編集以外の部分も同じくらい大事なんですよ。そちらにどれだけの人材を投入できるかで、出版社の厚みが違ってくる」
 それを聞いて、駒子は少し恥ずかしくなった。長谷川が編集の現場を外されたことを、当然不満に思っているだろう、と思い込んでいたからだ。出版社では編集者がいちばんやり甲斐のある仕事、そういう考え方に、自分も毒されていたかもしれない。
「それに、これからは出版社も本を作るだけでは立ち行かなくなる。コンテンツを使った版権ビジネスを推し進めるとか、それを使ったイベントをやるとか、従来のビジネスをもっと広げていかなければいけませんからね。そういう意味では、水上さんの部署が起ち上がったのはいいことだと思うんですよ。まさに新規事業が必要な時期にきていますからね。それも女性ふたりが中心になるというのは、従来にない発想を期待しているからじゃないですかねえ」
「ありがとうございます」
 そんなふうに自分たちのことを見てくれる人がいる、とは思わなかった。長谷川の見方はやさしい。そんな人といっしょに仕事できたら、ほんとうによかったのに。
「お互い、自分の場所で頑張りましょう」
 柔和な顔を向けられて、駒子はそれ以上何も言えなかった。

 長谷川との会合はなごやかな雰囲気で終わった。駒子は会合の内容について、長谷川に口止めすることはしなかった。あえて言わなくても、長谷川ほどの人間だったら、理解してくれているだろう、と思ったのだ。
 しかし、その考えは甘かった。駒子が長谷川に声を掛けた、という事実は、あっと言う間に会社内に広がっていた。
 それに駒子自身が気づいたのは、岡村の部下の高橋郁也に言われたからだった。長谷川と会った二日後、話がある、と喫茶店に呼び出され、いきなり言われたのだ。
「水上さん、『俳句の景色』の編集長を募集しているんでしょう?」
「どうしてそれを?」
「会社中の噂になっていますよ。物流の長谷川さんをスカウトして断られたって」
 駒子は絶句した。長谷川がしゃべったのだろうか? こんなデリケートな話を?
 まさか、そんな。
「それを聞いて、僕は思ったんです。誰か必要なら、僕が編集長になったらダメだろうか、って」
「それ、本気?」
「ええ。もともと大学時代の専攻は日文で、卒論は正岡子規だったんです。ゼミの指導教官は俳人でも有名な方でしたし、俳句についての基礎教養はあると思います」
「でも……あなたは岡村さんが引っ張ってきた人材だし、そちらの方でも必要とされているでしょう?」
「いえ、僕がいなくても、あちらは優秀な人材が揃っていますし、いま僕が抜けたからって、困ることはないですよ」
 突き放したように高橋は言う。そう言えば、高橋が新規事業部に来たのは、課長のポストが約束されているからだ、と噂に聞いていた。しかし、実際に岡村が課長に指名したのはほかの人間。高橋は係長職だ。それなら、いままで在籍していたミステリ雑誌の副編集長とランクでは変わらない。高橋にはそれが不満だったのだろう。
「それに、僕はやっぱり紙の本を作ることが好きですから。『俳句の景色』だって作りようでどうにでも変えられると思いますし、僕ならそれができると思います。どうか、僕を『俳句の景色』の編集長にしてください」
 いきなりの提案に駒子は戸惑った。
 高橋の仕事ぶりは悪くない。真面目だし、少々依怙地なところはあるものの、事務処理能力は高い。協調性もある。若いからこれから編集者としての伸びしろはあるし、得難い人材ではある。
 しかし、高橋は岡村の部下である。岡村がそれを承諾するだろうか、というのが何よりの懸念材料だ。それに、高橋が望んだことなのに、私が入れ知恵したり、策を弄したと疑われるのではないだろうか。
 もともと岡村とは仲が良くない。同じ部署にいる以上、さらに関係を悪化させることはやりたくない。
「高橋くんがそう言ってくれるのはありがたいわ。だけど……岡村さんがなんと言うかしら。正直、岡村さんが反対して揉めるようなことがあるのは嫌なのだけど」
「おそらく大丈夫だと思います。岡村さんは僕よりも田辺のことを評価しているし、僕のことは、編集者気質が抜けない、融通の利かないやつ、と思っているみたいですから。僕が抜けてもなんとでもなると思います」
 田辺というのは、岡村が課長に抜擢した帰国子女の女性だ。版権ものなどを担当している。高橋を係長に留めて、田辺を昇進させたということは、高橋よりも田辺に期待しているのは事実だろう。
「だけど、だからと言って岡村さんが簡単にあなたを手放すかしら。仕事はどんどん増えるというのに」
「それは、聞いてみないとわからないじゃないですか」
「でも……」
 こちらから積極的に働きかけるのは気が進まない。その気持ちを察したのか、高橋の方が問い掛けてくる。
「では、岡村さんの許可さえ取れれば、僕を『俳句の景色』の編集長にすることに賛成していただけるのですか?」
「それはもう。高橋くんなら間違いないと思うし、うちへ来たいという気持ちはとても嬉しいわ。だけど、岡村さんと揉めることは避けたいの」
「じゃあ、僕から岡村さんを説得してみます。なので、そちらの決着がついたら、よろしくお願いします」
 高橋は勝算ありげにそう言い切った。
 その夕方、駒子の席に、珍しく岡村が近づいてきた。
「今日は忙しい? 時間があれば、飲みに行かない?」
 岡村はなんとなく険のある目つきをしている。それを見て、高橋の件だな、と駒子は直感した。
「いいわ。七時には出られると思う」
「じゃあ、七時で。店はこちらで予約しておくわ」
 それだけ言うと、岡村は席に戻って行った。

バックナンバー  1...131415161718 

著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

ページトップへ