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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第12回

2017.07.12 更新

 水上さま

 短い間でしたが、たいへんお世話になりました。そちらで過ごした毎日はとても楽しく、久しぶりに家庭の居心地のよさを味わうことができました。ほんとうに感謝しています。
 そして、突然いなくなる失礼をお許しください。それでいろいろご迷惑をお掛けしますこと、たいへん申し訳なく、心苦しく思っています。
 いつか再びお会いして、気持ちを直接お伝えできる日がくることを、こころから願っています。

                             荒木志保

 この短い手紙を残して、志保は病院から姿を消した。発覚したのは翌朝の六時。早朝に看護師が病室を覗いて、誰もいないことに気づいたのだ。サイドテーブルに置かれたメモに、上の文章が走り書きされていて、志保が自らの意志で姿を消したことがわかった。すぐに水上家に電話が入った。まだ明け方のまどろみの中にあった水上家は大騒ぎになった。
「海、あんた居所に心当たりはないの?」
「わかんないよ。行く場所なんて、ないはずなのに。ともかく、電話してみるよ」
 そして、海は部屋にこもり、電話をかけはじめた。一方達彦は、
「そうだ、俺、とりあえず近藤医院に行ってみる。近藤先生にお詫びしなきゃいけないし、入院費も払わなきゃいけないし」
 そう言って、そそくさと家を出て行った。何もすることがない駒子はうろうろとリビングの中を行ったり来たりするしかなかった。
 やがて海が二階から下りてきた。着替えて、デイパックを肩から提げている。
「連絡ついた?」
「いや、電話もメールも繫がらないし、LINEのアカウントも消去されている」
 志保が本気で連絡を絶つつもりだ、ということがそれでわかった。海の顔は青ざめている。
「俺、心当たりを探してみる」
「わかったわ。でも、もし志保さんに会っても、責めたりしないでね。黙って話を聞いてあげて」
 了解、というように、海は深くうなずいた。
「それから、見つかっても見つからなくても、うちに連絡してちょうだい。私たちも心配しているから」
 海はうんうん、というように二回うなずくと、そのまま家を出て行った。
 ひとりになると、駒子の頭にふと疑問が湧いてきた。
 志保さんはなぜ失踪したのだろう。妊娠しているし、家もないというのに、なぜ?
 海が父親としての責任を果たす、と言っている。だったら、力をあわせて育てた方が、何かと助かるはずなのに。
 母親になるのが不安なのだろうか。
 一六歳の海では頼りにならないと思っているのだろうか。
 もしかしたら、志保さん自身は子どもを産みたくないのだろうか。
 そもそも、置手紙をするにしても、なぜ海宛てではなかったのだろう。
 物思いに耽っていると、達彦が帰ってきた。
「どうだった?」
「近藤先生が恐縮していた。妊婦は精神的に不安定になりがちだから、もっとちゃんと見張っているべきだった、って」
「そんな。先生は関係ないわ。昨晩も好意で泊めてくださったのだし」
「うん、それは俺も言っておいた」
「それで、お金のことは?」
「志保さんが、治療費にって一万円札をテーブルに置いて行ったそうだ。そんなにはいらないって、お釣りを預かってきたんだけど。あ、それとうち宛ての置手紙も」
 達彦は手紙とお金と病院の領収書をリビングのテーブルに置いた。
 そういうところは、志保はちゃんとしている、と駒子は思う。そうなのだ。数日いっしょに生活して、志保が細かいところまでよく気のつく子であることはわかっている。手紙にあった「心苦しい」という言葉も本当なのだろう。
「これからどうしましょう。警察に届けた方がいいのかしら」
「やめなさい。ことが大きくなると、志保さんが戻りづらくなる。それに、置手紙があるんだから、単なる家出って思われて、警察も取り合わないよ」
「そうか、そのとおりね。じゃあ、どうしたらいいのかしら」
「俺たちにはどうしようもないよ。ただ待つしかない」
「待つだけ、か」
 それも落ち着かない。心当たりもないのに、自分も志保を探しに行きたくなる。妊娠中で、調子もよくないのに、志保は大丈夫だろうか。それに、荷物はこの家に置きっ放しだ。財布は持っているようだけど、身ひとつでどうするつもりなのだろう。
「あ、駒子さん、そろそろ会社に行った方がいいんじゃない?」
「えっ、でも、こんな時に……」
「家でやきもきしていても仕方ないよ。志保さんだって、そんなこと喜ばないと思うし」
「まあ、そうね」
 確かに、何もしないで家にいるより、会社で仕事をしていた方が有益だ。
「俺、朝飯作るよ。何も食べないでばたばた動いたから、お腹へっちゃった。久しぶりにフレンチトーストでも作ろうか」
「うん、ありがとう。嬉しい」
 フレンチトーストは達彦の得意料理だ。海が小さい頃大好物だったので、何度も作っているうちに、店で売れるようなレベルまで腕を上げたのだ。志保が失踪して動揺しているからこそ、しっかり朝食を作ろう、と思ったのだろう。
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 達彦はエプロンを出してきて、きゅっと紐を強く結んだ。家事に取り掛かる体勢だ。私も、ちゃんと自分の仕事をやらなきゃな、と駒子は思っていた。

「水上さん、おはようございます。さきほど経理の方がいらして、『頼まれていたものです』と、置いていかれました」
 会社に到着早々、花村にそう言われた。
 経理に頼んだもの? なんのことだろう。
 頭の中は志保の失踪でいっぱいで、仕事のことなどどこかに行っている。
 机に置かれた封筒を開ける。書類のコピーのようなものが十数枚束ねられている。とくに説明のようなものは添えられていないが、コピーを見て思い出した。以前、経理に頼んでいた『俳句の景色』編集部の経費や人件費についてまとめたものだ。ここ三年分くらいのもののようである。雑誌の収支についてはおおよそチェックしていたが、実際の経費の内訳や、それぞれのスタッフが使った金額を知りたかったのだ。
 ぼんやりしていた頭がたちまち仕事モードになった。席に着いて、細かい数字の羅列から状況を読み取ろうと試みる。
『俳句の景色』の経費は決して少なくはない。作家接待で、時には一晩十万円も使うエンタメ系の編集部ほどではないが、わずか四人の編集部にしては金額が多い。スタッフを疑うわけではないが、無駄なところに使ってないか、節約できる部分はないか、駒子としては調べておきたかったのである。
 うーん、やっぱり多いなあ。
 経費と会議費交際費の内訳を見て、駒子は嘆息した。これまで在籍した管理課は、交際費は限りなくゼロに近かった。経費についても、たまに外でスタッフと打ち合わせをした時のお茶代か、おつかいに行った時の交通費くらいだ。部署全体でもひと月五万円もいかなかったと思う。そういう部署と比較するのはおかしいのかもしれないが、会議費交際費で月に何十万も掛かるってどういうことだろう?
 ぼんやり駒子が考えていると、編集長の中江が海老原と相談しているのが耳に入ってくる。
「今晩は山平先生のお通夜ですが、香典はいくらお包みしましょうか?」
「いつもの額でいいんじゃない?」
「お花はどうします?」
「そうだね、山平さんなら出さなくてもいいくらいだけど、ほかの結社の先生方の手前、何かやっとかないと格好つかないなあ。花かごくらい出しとくか」
 ぼそぼそと語る声を聞いて思い出した。
 そうだ、『俳句の景色』は香典とか句会の時に包むお金とか、ほかの編集部にはあまりないような経費が毎月掛かるんだっけ。
 駒子は管理課で各部署の経費をチェックしていたので、そういう名目でしばしば計上されていたことを思い出した。各部署の上長がチェックしているので管理課ではよほどのことがない限り内容を詮索したりはしない。だが、毛色がほかと違うので印象に残っていた。
 それにしても、お葬式って、そんなに多くあるんだろうか? 
「あの、ちょっと聞いてもいいかしら?」
 駒子は目の前の席に座っている中江に尋ねてみた。
「俳句関係の人の葬儀って、月に何回くらいあるの?」
「それは、どういうことですか?」
 中江が逆に問い返す。機嫌の悪そうな声だ。
「いえ、予算を立てるために経費のチェックをしているんだけど、そうしたお金はどれくらい見積もったらいいか、と思って」
 中江の顔が不愉快そうに歪んだ。
「お葬式の数を見積もるって、不謹慎な考えですね。まるでどれくらいの俳人が死ぬのか予測を立てろ、て言ってるように聞こえます」
 やれやれ、と駒子は嘆息する。中江の性格はわかってきたと思ったが、いちいちめんどくさい奴だ。
「そうは言っても、予算ができないと、部署としての見通しが立たないわ。冠婚葬祭費がこの部署においては大事であるなら、それは見積もっておかないと」
 葬儀という言葉がダメなら言いかえるだけだ。
「そう言われても、葬儀なんて突然なものですから。続く時は三つぐらい立て続けにありますけど、無事な時は何週間も無事ですし。これからどれくらいの葬儀があるかと聞かれたら、我々の立場からすれば葬儀など起こってはいけないし、予測も立てられない、と答えるしかありません」
 いやもう、ほんとにめんどくさい。要は、この男は私の言うことにはなんでもいちゃもんつけたいだけだろう。
「じゃあ、冠婚葬祭費はゼロにしておけっていうこと?」
「それでもいいんじゃないか、と」
「じゃあ、葬儀があったらどうするつもり?」
「それは臨時の出費ですから、特別費とでもなんでもご計上いただければ。そこをうまく調整されるのが次長殿のお仕事かと」
 まったく、お話にならない。結局、彼は私に協力するつもりがないのだろう。だったら昨年度のデータを調べて、そこからおおよそを割り出す方がよさそうだ。
 駒子は個人別の経費のリストを出してみた。予想どおり中江の金額がダントツである。一方で池端の方はその一割にも満たない。
 もっとも、香典などは編集部名義で出すことの方が多いし、それを編集長である中江の名前で申請するということなのかもしれない。
 そもそも収入の少ない契約社員に、一時的にでもお金を立て替えさせるのもよいことではない。彼らのかわりに率先して中江が経費を支払っているとしたら、それはそれで正しいとも言えるのだが。
 どちらにしろ、手元の書類では、経費として何が計上されたのかはわかりにくい。編集部の総額と、各スタッフがどれだけ使ったかがわかるだけだ。
「どこか、お出かけですか?」
 ふいに席から立ち上がった駒子に、中江が尋ねる。
「ええ、ちょっと経理に調べものをしに」
「調べものって?」
「昨年の経費の内訳を知りたいと思って」
「そんなこと、なんのために必要なんです?」
 中江が不満そうに言う。
「だから、冠婚葬祭にいくら掛かっているか、それから俳句の会などの出費や交際費などがどれくらいなのか、調べておきたいからよ」
「なんでそんなふうにつつき回るんですか? 例年どおりでいいじゃないですか」
 中江は、そんなことは無意味だと言わんばかりだ。
「その例年どおりというのがいくらかわからないから、調べるのよ」
 まだ納得していない顔をしている中江に、駒子は言葉を続ける。
「それが私の仕事だから。お金を使うな、ということじゃないわ。本を作るためには投資も必要だし。だけど、限られた予算をどうやったら効率的に使えるか、それを考え、実行することは必要よ。だから、現状を調べるのよ」
「まあ、どうぞお好きなように。調べたところで、現実に本を作っているのは我々だし、数字だけ見ても、現場のあれこれがわかるわけじゃありませんから」
 現場を知らない人間が何を言う。
 中江はそう言いたいのだろう。
 管理職は管理職らしく、自分たちに現場をまかせて黙っていろ。
 最初に顔を合わせてから、中江がずっと示してきた態度だ。これまでの上司は俳句雑誌に無関心だったから、放置され、中江の好きなようにやってこられた。その状態を続けたいのだ。それをいいことに、交際費をちょろまかす、くらいのことは日常的にやってきたのだろう。
「わかるかわからないかは、数字を見て、私が判断することよ。仕事においてお金の流れを把握するのは、基本中の基本だから。これまでの上司がどうだったかはわかりませんが、それをしないというのは、次長としての責任を放棄するのと同じこと。私はちゃんと仕事をするつもりですから」
 中江は肩をすくめた。やってられない、というような態度だ。人を小馬鹿にしている。私を苛立たせたいのだろうか。私が男でも、こういう態度を取るのだろうか。
 駒子は何も言わず立ち上がり、部屋を出て行こうとした。その背中に、中江の声が聞こえてきた。
「なあ、海老原、女は視野が狭くて困るよな。細かいところばかりつついて、大局を見ないからねえ。重箱の隅をつついたところで、物事がよくなるわけじゃないのに」
 思わず振り向いて中江の顔を見た。中江は向かいに座る海老原の方を向いてにやにやしている。駒子は掛ける言葉を探したが、結局何も言わなかった。何か言ったところで、『世間話ですが、何か』とでも言うだけだろう。
 女の上司なんて、やってられるか。年齢が上がれば上がるほど、そういう考えの持ち主は多くなる。中江のような男は、間違いなくそういうタイプだ。女性が出世することを喜ばない空気は、会社の中には確かにある。
 責任ある仕事は男性に。
 みんな当たり前のようにそう考える。女性が昇格できるのは、ほかに適任者がいなかった時か、まわりが無視できないほど突出した実績を上げた時だけだ。
 実際、自分が次長に昇格しても、それを祝福する飲み会は一切なかった。男なら、同期や部下が気を利かせて祝いの席を設けたりするものだが。
 駒子は大きく肩で息をした。
 こんなことくらいで、いちいちめげてはいられない。男のやっかみを気にしていたらきりがない。私は私の仕事をするだけ。
 しかし、気持ちが高ぶっていたのか、ドアを閉める手つきが乱暴になり、思いのほかドアを閉める音が高く響いた。
 やってられるか。
 駒子の気持ちを、ドアの音が代弁しているようだった。

「過去の経費の伝票? そりゃ、ありますけどねえ。お渡しした書類じゃ、足りないんですか?」
 経理課の課長は露骨にめんどくさそうな顔をした。
「すみません。細かいことを確認したいんです。伝票、捨てずに取ってあるんでしょう?」
「そりゃまあ、五年間は保存することになっていますから。だけど、手元にあるのは、昨年度の分までですよ。それ以前は朝霞台の方に持って行ってますから」
 朝霞台は、会社の倉庫のある場所だ。商品の在庫の保管のための場所だが、経理の資料などもそちらにあるとは知らなかった。
「とりあえずは、昨年度の分があれば結構です。場所さえ教えていただければ、私が自分で探しますから」
 課長はこれみよがしな溜息をひとつ吐くと、
「前川、水上さんを地下の倉庫に案内して。『俳句の景色』の経費伝票を確認したいそうだから」
と、声を掛けた。
「わかりました」
 末席に座っていた若い男性が立ち上がり、「こちらへ」と、駒子を先導する。廊下のつきあたりにあるエレベーターに乗って、地下一階まで下りて行った。
「へえ、こんなふうになっていたんですね」
 地下には細い廊下があり、その廊下に沿って小部屋がいくつか並んでいる。窓がないので圧迫感がある。エアコンが利いているせいか、日が当たらないためか、空気はひんやりとして、どこか黴臭い。
「初めてですか?」
 前川が意外そうに聞く。
「ええ。会社に二〇年在籍していますが、ここに来たのは初めて」
「ここにあるのは、おもに過去の資料ですからね。使っているのはうちとか資料室とか写真室の人間くらいでしょうね」
 前川は一番奥の小部屋の前で立ち止まり、オートロックのキーの暗証番号を押してドアを開けた。狭い部屋の中は、一面にスチールラックが備え付けられ、その中にダンボールが大量に置かれている。
「えっと、昨年度の経費伝票はこの棚で、えっと、書籍事業部の、どこでしたっけ」
「昨年度は文芸二課でした」
「じゃあ、この辺りだな」
 前川は一番下の棚に頭を突っ込んでごそごそやっていたが、おもむろにダンボールをひと箱取り出した。
「これですね。『俳句の景色』の経費伝票。そのほか、交際費の申請書なんかもまとめて入っています」
「ありがとうございます。これ、お借りしても大丈夫ですか?」
「いえ、持ち出されるのは、ちょっと……。コピーを取られるのもまずいので、この場で見てもらえますか?」
「メモを取るのは大丈夫ですよね」
「ええ、それは大丈夫です」
 メモ帳とボールペンはいつもジャケットのポケットに入れてある。これだから、仕事の日はジャケットが重宝するのだ。
「だけど、時間掛かりますよ。終わるまで、待っていただけますか?」
 前川は考えるように首をちょっと傾げたが、
「じゃあ、私は席に戻っていますので、終わったら連絡いただけますか? 鍵はオートロックになっていますので、扉を閉めれば鍵が掛かりますから」
「わかりました。ありがとうございます」
 前川が立ち去ると、駒子はさっそくダンボールの中身を取り出した。経費伝票は人物単位ではなく、月ごとにまとまっている。
 その量の多さに駒子は溜息を吐いた。
 この書類をチェックするのに、ほんとに意味があるんだろうか。中江の言うように、必要ない行為なのだろうか。
 めげそうなこころに、ふと中江の捨て台詞が浮かんできた。
『女は視野が狭くて困るよな。細かいところばかりつついて、大局を見ないからねえ。重箱の隅をつついたところで、物事がよくなるわけじゃないのに』
 たちまち駒子の中にアドレナリンが湧いてきた。
 細かいことを大事にして、何が悪い。仕事はなんだって細かいことの集積だ。どんな仕事だって、ささやかな日々の行為の積み重ねで大きな結果を生み出すのだ。
 別にこれで何も出てこなかったとしても、部署のお金の流れを摑んで悪いことはひとつもない。
 棚の前にペタンと座り、ダンボールを机替わりにしてその上に書類を置き、チェックを始めた。
 とりあえず、葬式とか、句会にいくら掛かるか調べることにするか。
 そうしてものの一〇分も経たないうちに、駒子は思わぬ事実を発見した。

「ちゃんと確認しておきたいことがあるの」
 駒子は会議室で中江と向き合っていた。その日の夕方、書類をチェックし終えた駒子は、中江ひとりを会議室に呼び出していた。
「昨年の葬式の回数を調べたら、毎月三回から五回。いくらなんでも、これはちょっと多すぎるんじゃないかしら」
 おまけに、偲ぶ会であれば領収書が出るが、香典となると領収書もないし、証明するものがなにもない。香典は五千円から多くても三万円というところだから、一回一回は高額とは言えないが、ちりも積もればなんとやら、である。
「確かに、俳人だけならもっと少ないですけど、我々は俳人の近しいご家族の場合は出席することにしています。皆さんご高齢ですから、ご家族にご不幸があることも多いのです」
「まあ、それはそうだけど、たとえば四月に俳人の宇佐美秋晴さんのお母さまが亡くなられてお香典をお包みしてますね」
「はあ、そんなこともありましたかな」
「だけど、宇佐美さんはご自身も九〇歳を越えていらっしゃるわね。お母さまはおいくつだったのかしら」
 中江はぐっと顎を引いて、上目遣いに駒子を睨みつけた。駒子はかまわず会話を続ける。
「それから、一〇月二五日に桃原源吉さんが亡くなられていますけど、その二週間前に、あなたは新宿で桃原さんと会食をして、さらにその後二軒歌舞伎町の店をはしごされてますよね」
 中江ははっとした顔をした。自分の不手際に気が付いたようだ。
「桃原さんは癌で長患いされていたんでしたよね。最後は身体中に転移して、ずいぶん苦しい思いをされたとか。追悼文が本誌に出ていましたが、静岡のホスピスで亡くなられたんですよね」
 中江の顔は強張り、ぎょろっとした目が飛び出しそうな勢いで駒子を睨んでいる。
 ざまあみろ、と駒子は思う。まともにチェックすると、中江の経費にはおかしな部分がたくさんあった。その中の、明らかに不正と思われる部分を抜き出し、リスト化したのだ。
「ほかにもいくつか気になる点があったわ。たとえば鈴木信夫さんに何度か差し入れをお持ちしてますね。なかにはスーパーの領収書まで入っていましたが」
「それが何か? あの先生は金に汚いし、何かと我々にせびるんです。打ち合わせで会うたびに『すまないが、あれを買ってきてくれ。お金はあとで返すから』って、必ず言うんです。でも、お金が返ってきたためしがない」
 そういう著者が稀にいないわけではない。だが、そこまでのわがままが許されるのは、よほど功績のある作家だけだ。そして、売れている作家はそんなみみっちいことはしない。
さらに、駒子は畳み掛ける。
「ですが、ここ数年鈴木さんとのおつきあいはなくなっていたんじゃないでしょうか。俳句の世界から離れたっていう噂もあるそうですし。……それに、気になったのはスーパーのある場所。先生がお住まいの成城学園ではなく、赤羽でお求めになったものばかりですね。赤羽って……中江さんご自身のお住まいのあるところではなかったでしょうか」
「それがどうしたんですか」
 中江は開き直った顔で言う。
「さっきから、なんだと言うんです。重箱の隅をつつくようなことをあれやこれや、と。要するに、あんたは私のやることが気に入らないんでしょう」
「気に入らないっていうんじゃない。こういうことは会社的にはNGだっていうんです。それを糺(ただ)すのが私の仕事ですから」
 駒子はなるべく感情を抑えた声で言う。駒子の目算では、少しばかり罪をちらつかせれば、中江も観念するだろうと思ったのだ。証拠を握ったうえで、罪に問うことはしない。そうすれば、これからの仕事もやりやすくなるだろう、というのが駒子のもくろみだった。
 しかし、目の前の中江はそんな殊勝な人間ではなかった。
「だったら、辞めます」
「えっ?」
 意外な言葉に耳を疑った。
 辞める? 聞き間違いじゃないだろうか。
「人対人のつきあいだ。会社のルールどおりにいかないことだってある。それを杓子定規に守れって言うなら、私はついていけない。そんなんじゃ、ろくな仕事ができませんからな。あんたはあんたのやり方でやればいい。だけど、それじゃ、雑誌は潰れますよ」
 それだけ言うと、中江は席から立ち上がった。
「待って。まだ話は終わってないわ」
「私の方はこれで終わりです。退職願は明日届けます」
 あぜんとする駒子を残して、中江は胸を張って会議室から大股で出て行った。その姿はせこい罪を問われて逃げ出した人物には到底見えず、正義は我にあり、と言わんばかりの堂々たる態度だった。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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