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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第11回

2017.06.28 更新

 診察室から近藤医師が出てきた。南小おやじの会やバーベキューで会う時の近藤医師はいつも愛想よくにこにこしているが、今日は顔が引き締まっている。仕事をする顔だ。近藤医師の専門は胃腸科だ。外科も兼ねているので、志保がもし食中毒や盲腸なら、内科に行くよりも選択としては正しいだろう。
「先生、どうでしたか?」
「いまは患者も落ち着いているし、痛みも引いたようです。出血もないし、このまま一晩安静にしていれば大丈夫だと思います」
「それはよかった」
 達彦がほっとした顔でこちらを見た。駒子も黙ってうなずいた。ただの同居人とはいえ、志保に苦しい思いをしてほしくはない。
「それで……原因はなんだったんですか?」
「少し動き過ぎたのか、重い荷物でも持ったんでしょうかね。まだ安定期ではないから、無理はしない方がいいですよ。いまが大事な時ですから」
「安定期?」
「僕は専門じゃないからおおよそでしか言えないけど、いま妊娠四カ月っていうところかな」
「妊娠四カ月?」
 達彦と駒子は再び顔を見合わせた。達彦の眉が驚きで釣り上がっている。
 そんなこと、聞いてない。
「だから、ほんとはうちより蓮池さんとこにでも連れて行った方が正解だったんだけどね、妊娠してること、知らなかったの?」
 蓮池というのは、駅前の産婦人科の名前だ。近藤医師はなおも続ける。
「それで、この子、水上さんとはどういう関係? 娘……ではないよね」
 近藤医師は興味津々という顔だ。地元の医師というのは、こういうところがちょっとめんどくさい。もちろん守秘義務があるから口外したりはしないと思うけど、こんなふうに聞かれるのもちょっと嫌だ。
「ちょっと前からうちに下宿しているんです。熊本の震災で帰る家がないということだったので……」
「ああ、だったら水上さん夫婦が親代わりってことですね。それじゃあ本人に確認してほしいんだけど、彼女本気で産む気があるのかな。もしそうでないなら、早めに処置しないと。そろそろ難しい時期に掛かっているからね」
「それは……堕胎ということでしょうか?」
 駒子の声は少し震えた。あまり気軽には口にしたくない言葉だ。
「まあそういうことです。彼女、まだ若いし、二〇歳とかそれくらいだよね。ちゃんと母親になる覚悟があるのかどうか。まだ結婚もしていないんでしょ?」
「え、ええ。たぶん」
 ちゃんと尋ねたことはなかった。だけど、もし結婚していたら、うちに転がりこんだりはしないだろう。
「相手の男に結婚する意志があるならいいけど……。そうじゃないなら考えた方がいいよ。いまどきは若いシングルマザーが子育てするのは、なかなかたいへんな時代だから」
 相手の男、という言葉にどきん、とした。
 まさか海が父親?
 まだ一六歳……いや、夏には一七歳になるけれど、父親になるには早すぎる。
 達彦の方を見た。達彦は部屋の中にいるはずのない山羊か何かをみつけたように、ぽかんと口を開けている。同じことを考えているのだろう。
「それで……本人とは面会できるんですか?」
 とにかく本人に確かめなければ、と駒子は思う。
「いまはベッドに横になっています。……うちは専門じゃないけど、すぐには動かさない方がいいと思うから、今晩はうちで泊まっていきますか?」
「そうですね、その方が安心ですね。ちょっとだけ、本人と話ができますか?」
「ええ、どうぞ」
 医師の許可を得た達彦と駒子は、診察室の扉を開けた。
 細長いベッドの上で、志保は目を瞑っている。顔色は青いが、表情は安らかだった。
「志保ちゃん」
 達彦が声を掛けると、志保がうっすらと目を開いた。
「大丈夫? もう痛みはない?」
「はい、もう痛みはすっかり……。もうちょっとこうしていたら、動けるようになると思います」
「近藤先生が、今晩泊まってもいいって言ってるよ。すぐに動かない方がいいだろうって。どうする?」
 達彦の言葉に、志保は目を見開いた。
「ここ、泊まれるんですか?」
「一応、二階が病室になっているの。もし何かあった時でも対応できるし、家にいるよりはいいかもしれないわ」
 駒子が横から説明する。
「はい、だったらそうします」
 志保はあっさり同意した。
「ところで、志保ちゃん。今回のことはその……」
 達彦はキーホルダーに提げた鍵を両手の親指で擦っている。意味なく指を動かしているのは、緊張している証拠だ。
「志保ちゃん、妊娠していたのね」
 達彦が聞きあぐねているのを見て、駒子が単刀直入に質問する。
 志保は長い睫をぱちぱちさせてから、心を決めたように「はい」と返事した。
「まだ安定期に入っていないのね。身体をいたわらないと……」
 志保はまっすぐ駒子の顔を見た。青白い顔に、目だけが異様に輝いている。涙が零れ落ちそうな瞳だ。
「ごめんなさい」
 唐突に言われて、駒子はちょっと慌てた。
「何も、謝る必要はないわ。妊娠って、おめでたいことじゃない」
 駒子がそう言うと、ますます志保は悲しげな顔になり、瞳を閉じた。すーっと涙が一滴零れ落ちる。まるで映画のワンシーンのように美しい光景だ。
 それを見て、駒子は何を言ったらいいのか、わからなくなった。
「もういいよ。とりあえず今日はここに泊まって、明日家でこれからのことを相談しよう」
 志保の涙に動揺したのか、達彦も話を切り上げるつもりのようだ。
「明日の朝、保険証とか持って九時過ぎに来るから、帰れるように準備しておいてね」
 翌日も仕事があるが、半休を取って、志保の退院につきあおう、と駒子は思った。仕事の方も立て込んでいないので、それくらいのゆとりはある。
「それでいい?」
 駒子が念を押すと、志保は小さな子どもみたいにこっくりうなずいた。

「あなた、父親のこと、聞かなかったわね」
 帰りの車の中で、駒子は達彦に言う。
「あんなふうに泣かれたんじゃ、そんなこと問い詰められないよ。それ以上、聞かれたくなさそうだったし」
「そうね。『ごめんなさい』って、泣かれたんじゃねえ」
 しかし、あの「ごめんなさい」は、どういう意味だったんだろう。どうして私に謝るんだろう。
「父親ってやっぱり海なのかな」
 達彦がぽつりと言う。
「それは……海に聞いてみないとわからないわ。うちに来た時にはすでに妊娠してたってことは間違いないし、志保さんはそれを知っていたみたいだし」
「海だとしたら、俺たちに孫ができるってことだね」
「孫?」
「海の子どもならそういうことだろ。駒子さんはおばあちゃんで、俺はおじいちゃんだ」
「うわあ、やだな。まだアラフォーなのにいきなり孫? 勘弁して。あと一〇年はそんなふうに呼ばれたくない」
 アラフィフでも孫がいる人は少数派だろう。アラフォーで初めて子どもを持つ人だっているのだから。
「だけど、いまどきの若者は子どもを持つどころか結婚しないって人も多いだろ? ほら、お向かいの尼崎さんちなんて、男の子が三人いて、三人ともまだ独身だってさ。いちばん下の子でも、もう四〇になるのに、って、奥さんが嘆いていたよ」
「そっちは、アラフォーで独身貴族ですか。えらい違いね」
「だけど、一生ひとりの孫も持てないより、少々早くても孫がいた方が楽しくないかな?」
「それはそうだけど……」
 達彦の中では、すでに孫が生まれることが既成事実になっているようだ。
「俺たちまだ身体が動くし、海が赤ん坊の頃は俺も仕事で忙しくてあんまりかまってやれなかったから、今度は成長の過程を全部見ていきたいな。初めてしゃべる言葉とか、初めて立っちした日とか、ちゃんと記録に残しとくんだ」
 達彦はわくわくを抑えきれない、という顔で語る。
 この人は、心底前向きなんだな。
 駒子はあきれるというより、感嘆の念を抱いた。
 海がこんなに若く父親になることに対して、怒りとか懸念とか覚えないのだろうか。まだ半人前のくせに、避妊もちゃんとせずにやることをやって、こんなことになって。
「達彦は、海に腹が立たないの? 自分自身の食い扶持も稼げないくせに、こんなみっともないことになって、って」
「みっともない? どうして?」
「そりゃ、そうでしょ。一六歳って、女はともかく男は法律的にはまだ結婚できない年齢だよ。一七歳の父親って法律上はありえないんだよ。戸籍を出そうとしても、海は父親として届けられないんだから」
「ほんとに?」
「うん……たぶん」
 駒子も、法律の専門家ではないから、つっこまれると自信がない。
「どうして? 父親になってしまったんなら、しょうがないじゃない。事実、子どもが存在するんだからさ。父親不在で子どもが生まれるとでも思ってるわけ?」
「法律的には、一八歳未満の男はセックスしても子どもは作れないことになっているんだよ、きっと」
「そんな、馬鹿な」
 例外は認めない。それが法律というものだ。結婚している間、そして離婚後三〇〇日以内に生まれた子どもは別れた夫の子どもとしてその籍に載せる。そんなおかしな法律だって、いまだにまかり通っている。それが原因で戸籍を持てない子どもが日本には何人もいる。そんな現実も、法を守るという大義名分の前では〝ささいな問題〟なのだ。
「それに、ご近所で噂になるよ。あそこの息子は一六歳で女の子を妊娠させた、って」
 それがいちばん気重だ。
 高校中退のフリーターの一六歳の少年が、四歳年上の女を孕ませる。
 言葉にしたらセンセーショナルで、不道徳な内容だ。上から目線で世間さまがバッシングするための、絶好のネタだろう。駒子たちのご近所は閑静な住宅街。つまり、まっとうで保守的な社会人の集合体なのだから。
「別に悪いことしたわけじゃないし、ご近所がどう言おうとかまわないじゃない」
「そうは言っても、きっといろいろ言われるわ。あそこの母親は仕事優先で家庭のことをほったらかしだから、あんな子に育つんだって」
 少年犯罪でも真っ先に非難されるのは、本人よりも家庭環境。そして、母親の育て方。子どもを育てる責任は両親等分にあるはずなのに、世間は母親をバッシングする。母親が子育てに専念せず、仕事をしている場合、その非難は何倍にもなって降りかかってくる。
 愛情不足。寂しさからグレた。わかりやすい図式で非行の原因が語られることになる。
 世間の多数派はそれで安心する。納得しやすいし、自分たちには関係ない要因だからだ。だが、働く母親のこころは少なからず動揺する。自分が働いていることで、自分の子どもも何かを損なっているのではないか、そうした後ろめたさを報道が植え付けるのだ。
「海はいい子だよ」
 達彦はむっとしている。
「そりゃ、私だってそう思うわよ。だけど、ご近所はあれこれ言ってくるから」
「ご近所なんて、どうでもいいよ。そもそも駒子さんはご近所づきあい全然してないじゃない」
 それを言われると、駒子は返す言葉もない。町内会の会合はもちろん、ご近所一斉に行う溝掃除や公園の清掃なども、駒子はすべて達彦に任せていたのだ。
「つきあいのない人たちが何を言っても、どうでもいいことでしょう。海に子どもができたからって誰に迷惑掛けるわけじゃなし、俺たちは胸を張っていればいい。噂で人を貶める心根の方が卑しいし、そんな人間の言うことを相手にする必要はないよ」
 時々、達彦にはかなわない、と駒子は思う。
 人間の器が自分より大きい、そう思う瞬間が確かにあるのだ。経済力よりなにより、人として大事なものを達彦は確かに備えている。
「わかったわ。あなたの言うとおりね。ともあれ、海がこれからどうしたいか、それに私たちがどう協力できるかを考える方が先だわ」
「そう、まず当事者の意見を聞かないとね」
 ハンドルを握っているので、達彦の顔は見えなかったが、横顔が笑っているように見えた。達彦は成り行きを面白がっているのかもしれないな、と駒子は思っていた。

 帰宅してみると、すでに海は戻っていた。
「どうしたの? 御馳走たくさん作りっぱなしで。それに、志保さんは?」
 海はちらし寿司を皿いっぱいに盛り付けて、流し込むように口の中に入れている。イクラも刺身も海苔もご飯も一気に頰張って、口の中をいっぱいにする。あきれるほど旺盛な食欲だ。
 そうだ、この子は少し前まで中学生で学ランを着ていた。まだ育ちざかりなのだ、身体も、心も。この子が人の父親に、というのが、まだ信じられない。
「志保さん、今日は近藤医院に泊まりよ」
「近藤医院?」
 ちらし寿司を流し込む手が一瞬止まった。
「なんで、そんなところへ?」
「急にお腹が痛いって言うから、連れて行ったのよ。近藤先生、時間外だけど見てくれるって言うから」
「それで、入院したわけ?」
「ええ、大事を取って一泊することになったの。慎重にしないと、志保さん、妊娠四カ月だそうだから」
 駒子の言葉に、海はぴくっと頰を引き攣らせた。だけど、その顔を見て、海も知っていたんだな、と駒子は直感した。
 海は驚いてはいない。
「妊娠四カ月ということは、ここに来た時にはもうお腹に子どもがいたってことだけど、あなた、知ってたのね」
「うん」
「それは、あなたが父親ってこと?」
 駒子の問い掛けに、海はぐっと歯を食いしばるようにして「うん」と答えた。
「それで、志保さんに産んでもらうつもりなのね」
 海は視線を下に向けて、消え入るような声で「うん」と言う。
 はなはだ頼りない態度だ。駒子は内心やれやれと思う。
「ほんとに、そのつもり? あなたはまともな職にも就いていないし、税金も生活費も何もかも親がかりじゃない」
「駒子さん……」
 達彦が横から何か言おうとするのを、駒子は目で制した。この際、海の覚悟を聞いておきたかったのだ。
「それで、どうやって子どもを育てるの? 子どもどころか志保さんとふたり生活していくことだって難しいじゃない。あなたは夢を追って学校を中退したけど、夢だけでは生活できないのよ。生まれる子どもは現実だわ。出産費用もいるし、生まれたら生まれたで、着るものから寝るベッドからいろいろ必要だし。産前産後、志保さんが働けない期間の生活費はどうやって捻出するの? 税金や保険だって三人分掛かってくるのよ。一六歳で、特別な能力があるわけでもないあなたが、どうやって家族三人養っていくつもり?」
 ほんとうは、海よりも志保に問い掛けたいことかもしれない。一六歳の海よりはおとなだし、産むという決断は志保自身がしたはずなのだから。
「すみません。住むところについては、しばらくうちに置いてください。家を借りるお金はないので」
 海はそう言って頭を下げた。それは虫が良すぎない、と言おうとした駒子の腕を、達彦が引っ張った。海の話を聞け、という合図だ。それで、駒子は口をつぐんだ。
「生活費については、迷惑掛けないように月々ちゃんと入れます。出産費用も自分たちで貯めています」
 それで最近しゃかりきにバイトのシフトを入れていたのか、と駒子は思い当たる。
「いま、いくらあるの?」
「一七万」
 思わずひゅーと口笛を吹きたくなった。出産費用を貯めようとしてから、まだひと月と経っていないはずだ。そのわりには頑張った、と褒めてやりたいところを、ぐっと堪えて渋面を作る。
「出産までにいくら貯めるつもり?」
「目標は一〇〇万。それだけあれば、病院の費用や子どものあれこれを支払ってもなんとかなると思って」
「まあまあ現実的ね。で、その後はどうするの?」
「もっとお金が貯まったら、どこかにアパートを借りて独立する。志保さんとふたりで働けば、親子三人生活するくらい、なんとかなると思うし」
「ふたり働くためには、子どもを預けなきゃいけないのよ。だけど、保育園だって空きがあるかどうかわからないし。そもそも生活費はどれくらい掛かると思っているの?」
「えっ? ……えっと、一〇万くらい?」
 思わず失笑しそうになった。一六歳の生活感覚なんて、その程度のものだ。一〇万円というのはたいそうな金額なのだろう。
「学生の仕送りじゃないんだからね。家賃に電気ガス光熱費、食費、それに住民税や所得税、国民年金や健康保険なんかを足したら、それではとても足りないわ。親子三人ならその倍は欲しいところよ。それでも足りないくらい。いまのところあなたは私の扶養家族になっているし、生活費全般、親がかりだからいろいろ支払わなくても済んでいるけど、独立するってことは、それを全部自分で賄うってことなのよ。生活の基盤はお金なんだから」
 海は唇を嚙む。母に言われっぱなしで悔しいのだろう。駒子はちょっと小気味いい。
 悩め、若者。自分ひとりならともかく、赤ん坊もいるのであれば、いくら考えても考え足りないことはない。
「それに、そういう生活をずっと続けるつもり?」
「どういうこと?」
「子どもを養うために、手っ取り早く職に就く。だけど、一六歳で技術もない人間が就ける仕事じゃ、そんなに選択肢はないわ。給料だって安いでしょうし。自分で選んだ工芸高校なのに、やりたいことじゃない、と辞めてしまったあなたに、ちゃんと勤まるのかしら」
 痛いところを突かれたのだろう。海の顔がひくっと動いた。
「それはちょっと厳しい言い方じゃないかな。過去のことと比べてどうこう言われても、今さら変えられることじゃないし。海だってこれからは本気でやるに決まってるよ。なあ」
 達彦が明るく声を掛ける。海は「う、うん……」と歯切れの悪い返事をする。
「言い方は厳しいけど、現実の厳しさはこんなもんじゃないわ。家ひとつ借りるにしても、定職もない一六歳に貸してくれるようなところはあるのかしら。あったとしても、赤ん坊はNGって場合もあるんだしね。志保さんも働くって言ってたけど、そのための保育園の申請だってなかなか通らないかもしれないし、そもそもこちらに住民票がなければ申請さえできないし」
「俺と結婚して、住民票を作れば……」
「一六歳じゃ結婚できないのよ、この国じゃ。それどころか、一八歳未満の青少年を誘惑したってことで、成人である志保さんの方が淫行条例で訴えられてもおかしくないくらい」
 海の目が力を失った。自分の考えの甘さを、ようやく認識したのだろう。
「私たちは、あなたの子どもや志保さんもそうだけど、誰よりあなた自身に幸せになってほしい。何年か後、こんなはずじゃなかった、と後悔してほしくないの。そのための手助けは惜しまないけど、ただ面倒を押しつけられたり、ずるずるといつまでも金銭の負担を強いられるのはごめんだわ。これからどんなふうに、どう生きていくか。そのために、いつまでどういう形で親に協力してほしいか。その辺を志保さんとふたりで考えて、ちゃんと私たちに提示してほしいの。そうじゃなければ、協力はできないわ。ふたりでなんとかして」
 駒子は突き放すように言った。海はうなだれているが、達彦は『それでいい』と言うように、駒子にうん、うんとうなずいてみせた。
「話はそこまで。ともかく、ご飯を食べようか。俺、腹減ってきた」
「言われてみれば、私も」
 志保の入院騒ぎで忘れていたが、自分たちも食事の途中だったのだ。自分の皿には、ちらし寿司が半分以上残っている。駒子は急に空腹を感じていた。
「今日は志保さんの誕生日だったから、御馳走作って、ケーキも用意していたのに、すっかり吹っ飛んだな」
「えっ、誕生日?」
 海が驚いた顔をしている。
「知らなかったの?」
「うん、聞いてなかった」
 結婚したいという相手なのに、誕生日さえ知らないのか。
「主役がいないのに、ケーキを食べるわけにはいかないな。明日、志保さんが帰ってからにするか」
「そうね。お祝いですものね。でも、御馳走は食べるわよ。お腹空いてるし」
 駒子は自分の席について、食べ掛けの皿を手に取った。海を見ると、さきほどまでの勢いはどこへやら、しゅんとして、食べる手も止まっている。
「元気出しなさいって。今からそんなに元気なくてどうするの?」
「え、ああ、うん」
 駒子に声を掛けられて、物思いに耽っていた海は正気づいたようだ。
「まあ、なんとかなるって。面倒なことはまた明日。志保さんといっしょに考えよう」
「そう、明日考えましょう。夜考えるより、朝の方が建設的な考えも浮かぶから」
 また明日。
 しかし、その明日はもっとたいへんなことになった。志保が失踪したのだ。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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