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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第10回

2017.06.14 更新

 新規事業部の部屋に戻ると、庄野がさっそく声を掛けてきた。
「今日の会議、いかがでしたか?」
「ん、まあまあ。そう言えば、社長からひとつ提案があったわ。いや、ふたつか」
「なんですか?」
「俳句のコミックを起ち上げろ、ですって。最近囲碁とかかるたとか日本の伝統文化を素材にしたコミックが流行でしょ? アニメや実写の映画にもなっているほどだし。それで、うちなら本格俳句漫画が作れるんじゃないか、っておっしゃったのよ」
「でも、うちでコミックをやるんですか?」
「いえ、コミックの方は『ヒーローズ』でやるんだけど、うちの方でそのサポートをしてほしいそうよ。どうせ載せるなら、本格的な俳句を扱うべきだってことで、どなたか俳人を紹介して……」
「それはあまりいい考えとは言えませんな」
 それまで黙って聞いていた『俳句の景色』の編集長の中江が突然口を挟んできた。
「我が編集部は長年俳句に人生を懸けてきたような人たちを対象としてやってきました。我々も、俳句こそ日本伝統の文化と誇りをもって取り組んでまいりました。それなのに、なんですか、最近の流行に便乗して、漫画とコラボしようなんて。恥ずべきことじゃないですか」
「いや、それは」
 駒子が口を挟もうとしたが、中江は耳を貸さない。
「クール・ジャパンだなんだ、と言いますが、海外でも真の上流階級、知識人や文化人たちは漫画やアニメを認めているわけじゃありません。しょせん子どもの娯楽、というのが欧米での一般的な評価です。アニメや漫画は大衆向けの娯楽、無知な子どもでも理解できる単純なものですからね。そうしたものをいくら知っていても尊敬はされません。クール・ジャパンなんて、海外では誰も評価していませんよ。それより、古典をどれだけ理解しているか、真の芸術についてどれだけ語れるかが重要なんです。日本文化で言えば、能、歌舞伎、俳句や短歌、そう言ったものこそ海外の知識人にも評価され、尊敬されているんです。今のアニメや漫画が、三〇〇年経っても残っているでしょうか? しょせん一過性のあだ花、五〇年も経てば忘れ去られるものばかりでしょう」
 中江は憤っている。よほど漫画が嫌いらしい。
「だけど、これは社長命令なのよ」
 駒子のその言葉が、いっそう中江を激高させた。
「だから、四代目はダメなんだ。かつてこの会社は崇高な理想があり、文化の担い手たらんという使命感があった。それがどうだ、二代目は映画だの漫画だのにうつつをぬかし、四代目はさらにそれを推し進めようとする。我々が何十年も掛かって築いてきた俳句文化の輝かしい歴史に泥を塗ろうとする」
 現社長を四代目と呼ぶのは珍しい。中江はどうやら現社長を嫌っているようだ。四代目と呼ぶのにも、何か含みがあってのことだろうか。
「とは言っても、社長は社長なりに我々のことを考えてくださっているのよ。きっかけがなんであれ、若い人が俳句に興味を持ってくれるなら、それは素晴らしいことじゃない。将棋や囲碁、かるたも、漫画のヒットによってやり始める子どもたちが増えた。俳句だって、漫画で関心を持ってくれる若い世代が増えるなら、いいことだと思うわ」
「将棋や囲碁、かるたは元々遊びです。子どもでも参加できるものです。だけど、俳句は違う。世界で一番短い文学です。文学的な素養のない子どもが簡単に理解できるわけがないし、ましてそれを創作するなんて、とても……」
 中江は鼻で笑う。駒子はむっとする。旧態依然とした世界にしがみついて、そこから一歩も出ようとしない。この会社が利益を出していない俳句を文化事業として続けていられるのは、実はコミックや小説など大衆娯楽路線が成功しているからだ。そちらで十分な売り上げを出しているからだ。昔のまま文化的な本だけを出し続けていたら、とっくに会社は潰れていただろう。
「では、中江さんは若い読者を獲得するためにはどうしたらいいと思うの? 具体的に何をやれると言うの?」
「そんなものはありません」
 中江はあっさり言ってのける。
「間口を広げて入ってきた人間がいたとしても、それは長くは続きません。我々が欲しい読者は真に俳句を愛し、俳句と共に人生を歩もうという人間です。そういう人間は多くはないが、若い世代にも必ずいる。彼らが我々の雑誌を読んでくれた時、ちゃんと価値が伝わるような、そういう雑誌を作るだけです」
 やれやれ、お話しにならない。中江は今までのやり方を決して変えようとしないのだ。こういう人間に何を言っても始まらない。こちらの言うことに耳を貸す気がないのだから。
 駒子がどうやって話を打ち切ろうか、と考え始めた時、中江の方が自分の腕時計を見て、大げさに驚いた顔をした。
「おや、議論していたら、こんな時間になってしまいました」
 駒子が部屋の真ん中に掛けられた時計を見ると、四時前を指していた。
「私、今日はこれから渋谷で芹沢先生と打ち合わせがありますので、失礼します」
 そう言うと、中江はそそくさと支度して、部屋を出て行った。
 駒子は中江が部屋から出て行くと、ほおっと溜息を吐く。
「芹沢先生と打ち合わせってことは、今日はこのまま直帰ですね」
 庄野がつぶやくように言う。編集部には庄野のほか、池端がいるだけだ。花村は打ち合わせで外出中、海老原も今日は病欠である。
「芹沢先生って、俳人なの?」
「もちろん。と言っても、もう創作はほとんどされていないんですが、中江さんとは気があって、よく二人で呑みに行ってますよ」
 それは接待なのだろうか、ただの遊びなのだろうか。まあ、編集者の接待には、どちらともつかない場合も多いから、一概にダメとも言えないが。
「だけど、中江さん、珍しいわね。社長のことを四代目と言う人に、初めて会ったわ」
「それはまあ、中江さんは衿子社長贔屓ですから」
「中江さんは、衿子社長のこと、よく知っているの?」
「ええ、衿子社長も昔は我々の同僚でしたからね。『俳句の景色』編集部で働いていたんですよ」
「えっ、そうなの」
 衿子夫人が社内の噂になることはほとんどない。一時期社長に就任したものの、それまではほとんど表舞台に出て来なかったし、病気で倒れた後もリハビリに専念して、滅多に社員の前に顔を出さない。
 それに、駒子は人のことをあれこれ噂するのは嫌いなので、そうした話も入ってこないのかもしれない。
「ああ、水上さんの年ではもうご存じないんですね」
「じゃあ、二代目は、自分の部下と結婚したってことなの?」
「……まあ、そうですけどね」
 庄野の目に下卑(げひ)た光が宿る。何か言いたげだ。
「どういうこと?」
「その、二代目もお亡くなりになっているし、もう時効だと思うんですが、実は二代目の一方的な情熱に衿子さんは引き摺られたんですよ。当時はまだ先代も生きていらしたので、二代目は課長待遇だったのですが、いずれは社長となる身。そういう相手に想いを寄せられて、正直衿子さんは当惑しておられたんですよ」
 さすがに庄野は声を潜めた。駒子は庄野の傍に近寄って行く。
「だけど……玉の輿ってことでしょう。悪い気はしなかったんじゃないの?」
「二代目が独身ならね」
 庄野が意味深な笑いを浮かべた。
「え、ということは?」
「その頃、二代目には妻子がいたんですよ。しかも分別盛りの四〇代になったところ。衿子さんはまだ短大を出たばかりで二十一とか二だったでしょうか。事務職でこちらの編集部に配属されたのですが、綺麗だし、性格もいいし、みんなに好かれていましたよ」
「じゃあ、二代目は衿子さんと結婚するために、前の奥さんと離婚したんですか?」
「まあ、結果的にはそうなりますか」
「結果的に? どういうこと?」
 庄野はさらに声を潜め、駒子だけに聞こえるようにしゃべった。
「衿子さんは二代目を避けていたんですよ。だけど、つれなくされればされるほど想いは強くなるものでしょう。それである時、二代目は業務命令だと言って地方出張に彼女を同行させたんです。それで……」
 さすがに庄野もそこで言葉を止めたが、それだけ聞けば事情はなんとなくわかった。旅先で二代目は想いを遂げたのだろう。
「それで、離婚?」
「いえ、その後、衿子さんが自宅で手首を切ったんです。二代目との間に何かあったのだろう、ということは、同じ編集部にいた我々はすぐにわかりました。幸い大事には至らず、そのまま衿子さんは会社を辞めました。そして、半年後に離婚が成立すると、二代目はすぐに衿子さんを籍に入れたんです」
「そうだったの。全然知らなかった」
 社員総会などで、衿子夫人のことは何度か見掛けている。色白で小柄な、物静かな印象の女性だ。脳溢血で倒れて以来左脚が不自由で、杖をついてゆっくり歩く姿が印象に残っている。
 あの、物静かな女性(ひと)に、かつてそんなドラマチックな出来事があったとは。
「当時、我々も自殺のことは口止めされていましたから。……社長のためというより、衿子さんのために我々は沈黙したのです。ふたりの結婚はひっそり行われましたし、その後二代目が急逝するまでは衿子さんはほとんど表には出てきませんでした。だから、衿子さんがこの部署で働いていたことを知っていても、結婚に至る経緯を知る人は、会社でもほとんどいないでしょうね」
「そういうことだったんですね。でも、どうして中江さんが現社長を嫌うんですか?」
「衿子さんが社長のままだったら、我々編集部の待遇ももっとよかっただろう、と中江さんは思っているんですよ。……それに、中江さんは衿子さんにあこがれていましたからね。彼女に好意を持っていた人はたくさんいましたが、なかでも中江さんはふたつ年上の衿子さんをマドンナのように崇拝していましたし」
 かつては会社の主軸であった『俳句の景色』が、時代の流れと共に隅に追いやられている。俳句至上主義の中江にとっては、我慢ならないことなのだろう。それで、もし衿子夫人が社長のままであれば、と夢想しているのだ。わざわざ現社長を四代目と呼ぶのも、三代目社長の衿子夫人を忘れるな、という彼なりの矜持なのかもしれない。
「ちなみに、四代目は衿子さんの子どもじゃありませんよ」
「じゃあ、前の奥さんの……?」
「ええ、現社長とその妹は、衿子さんのもとに引き取られたんです。なさぬ仲なんていいますが、衿子さんは立派でしたよ。自分と年齢も十歳くらいしか違わない兄妹に、それはもう献身的に尽くしたそうですから」
 衿子夫人がたまに社員総会などに顔を出すと、現社長が手を取ってつきそう。仲の良さそうな様子からは、そんな複雑な事情があるとはとても思えなかった。
 自分も四二歳になって社歴もほぼ二〇年になる。だけど、まだまだ知らないことがある。
 いや、知らなくてもよかったかもしれないな。仕事には関係ないことだし、衿子夫人だって、今さら二〇年以上前の話を持ち出されたくはないだろう。
「中江さんがいろいろ複雑な思いがあるってことはわかったわ。だけど、社長がやれ、と言ってることを、やらないわけにはいかないわね。『ヒーローズ』編集部も動くことだし。中江さん以外の誰かに、この件はお願いしたいのだけど……」
 駒子がそう言うと、それまで機嫌よくべらべらしゃべっていた庄野が、急に耳が聞こえなくなったような顔で、自分の机の上の書類の方に視線を逸らした。
『ヒーローズ』編集部との折衝を庄野に頼みたい、と思ったのだが、自分はやりたくない、という意思表示なのだろう。
 庄野がダメだとすると、海老原か池端だ。しかし、海老原も融通が利きそうにない。コミック部署との折衝には向いてないだろう。池端なら大丈夫だと思うが、池端の仕事量はほかの人間に比べて多すぎる。
「うーん、花村さんじゃ、無理だろうな」
 花村は折衝ごとには向いているが、残念ながら俳句の知識がない。誰か俳句の先生を紹介してもらったとしても、彼女がちゃんと仲介できるかは難しい。それは、自分自身がやっても同じことだ。
「私がやりましょうか?」
 駒子が困っているのを見かねて、池端が声を掛けてくる。
「でも……池端さんは仕事量が多いんじゃない?」
「いえ、昔に比べればこれでも減りましたし、こういう仕事も面白そうですから」
 池端は淡々と答える。
「ほんとにいいの?」
「はい、もちろんです」
「じゃあ、お願いするわ。『ヒーローズ』編集部からそのうち連絡が来ると思うので、そうしたら、池端さんが担当になったと紹介しますね」
「はい、よろしくお願いします」
 駒子はほっとした。結局、頼りになるのは池端だけだ。中江は口は達者だが、実際のところどれだけ仕事しているのかがわからない。海老原は身体が弱くて休みがちだし、庄野にしても、調子のいい割には仕事ではあてにはならなそうだ。
 案外池端さえいれば、ここのセクションは成り立ってしまうのかも。
 ふと浮かんだ思いを、駒子はすぐに打ち消した。
 いくらなんでも、そこまで中江さんたちがダメってわけじゃないだろう。自ら俳句に人生を懸けているって言ってるくらいだし。
 俳句本来の仕事なら、たぶんちゃんとやるだろう。彼らがやる気になることを私も考えなきゃ。
 だが、そんな考えが甘かったということは、経理から出てきた資料によって判明するのだが、この時、駒子はまだ気がついていなかった。

「ただいま」
 駒子が帰宅すると、キッチンの方から話し声が聞こえてくる。駒子が玄関を上がってリビングに入ると、奥のキッチンで達彦と志保が仲良さそうに食事の支度をしているのが見えた。時々冗談を言って、達彦が志保を笑わせている。まるで、実の父と娘のようだ。
 私といっしょに料理する時は、そんなに楽しそうじゃないのに。
「あれ、駒子さん、もう帰ったの?」
「ええ、玄関で『ただいま』って言ったんだけど、聞こえなかったのね」
 駒子としたら嫌味のつもりだったが、達彦は気づかなかったらしい。「おかえりなさい」と、エプロン姿の志保も出迎える。若い志保のエプロン姿は可憐だ。海が見たら、惚れ直すんじゃないだろうか、と駒子は思う。
「ごめん、ごめん。おしゃべりしながら料理してたから。ほら、今日は久しぶりに御馳走だよ」
 ダイニングテーブルには大皿いっぱいにちらし寿司が並べられていた。鯛やマグロ、イカの刺身、海老、イクラ、タラコのほか、錦糸卵やデンブ、海苔、きゅうりが色とりどりに飾られている。寿司の表面いっぱいに具が乗っているから見えないが、寿司飯には蓮根や絹サヤ、油揚げ、にんじん、干しシイタケ、かんぴょうなどがしっかり混ぜ込んであるだろう。達彦の作るちらし寿司には、米より具の方が多いんじゃないかと思うくらい、具だくさんなのだ。
 ちらし寿司のほかは、野菜と鶏肉の天ぷら、茶碗蒸し、浅利の味噌汁、ほうれん草のお浸し、じゃがいもの煮っころがしがテーブル狭しとばかりに並んでいる。
「どうしたの? すごい御馳走」
 ここのところ達彦が忙しくて、料理も簡単に済ませることが多かった。こんなに凝った料理を出してくれるのは、何日ぶりだろうか。
「今日はね、志保さんの誕生日なんだって。それで、久しぶりにちらし寿司でも、と思ったんだ。結局、志保さんも手伝ってくれたんだけどね」
「へえ、そうだったんだ。志保さん、お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。居候なのに、誕生祝いまでしていただくなんて、思ってもみませんでした」
 志保も駅前の本屋でアルバイトを始めた。週五日通っているが、今日は休みのようだ。
「うちにいる以上、居候だろうとなんだろうと、誕生祝いはしなくちゃね。急に思いついたので、ケーキを作る時間はなかったけど、ウィルソンで買ってきたよ。シャンパンもね。海がバイトから帰ってきたら、乾杯しよう」
 ウィルソンというのは近くのケーキ屋だ。安くておいしいので、何かの時はここのケーキを買ってくる。
「海、帰りは何時なの?」
「さあ。そんなに遅くはならないって言ってたけど……」
 ここのところ、海は張り切ってバイトの時間を増やしている。志保の滞在費を払うというのは、本気のようだ。
「海の遅くならないっていうのは、あてにならないわね。前もそう言って、終電で帰ってきたことがあったわ」
「じゃあ、待っててもしょうがないかな」
「おなかすいちゃった。ケーキとシャンパンは海の帰りまで待つとして、食事は先にしない?」
 駒子の提案に、達彦も賛同する。
「そうだね。じゃあ、先に済まそうか」
「私は、待ってても大丈夫ですけど」
 志保が遠慮がちに言う。
「海なら気にすることはないよ。食事を済ませてくるかもしれないし。冷める前に食べちゃおう」
「じゃあ、すぐに着替えてくるから、待ってて」
 駒子はすばやく着替えて、手や顔を洗って居間に戻った。ダイニングテーブルの、いつもの自分の席に着く。
「とりあえずは、麦茶で乾杯するか」
 達彦が提案する。シャンパンが後に控えているので、今はいらない、というのだろう。だが、駒子は喉が渇いている。それに、今日は面倒な会議だったので、お酒でリラックスしたい気分だ。
「どうせならビールにしましょうよ。シャンパンは何時になるか、わからないから」
「そう? じゃあグラス出してくるよ。志保さんも呑む?」
「いえ、私はお酒はあまり呑めないので、麦茶にします」
「じゃあ、僕も麦茶にしようかな。そっちの方がシャンパンがうまいよね」
 志保が冷蔵庫からビールと麦茶を出してきた。駒子は手酌で自分のグラスにビールを注いだ。
「じゃあ、乾杯!」
 グラスがぶつかって、かちんと澄んだ音が鳴った。
「じゃあ、いただきます!」
「いただきます!」
 達彦が寿司を銘々の皿に取り分けて渡す。
「せっかくたくさん作ったから、いっぱい食べてね」
 ビールを半分ほど飲み干すと、駒子は志保の方に向いて尋ねた。
「それで、志保さんは何歳になったの?」
 前から駒子が聞きたかったことだ。確かめるいいチャンスだ、と思う。
「今日で二一歳になります」
「二一歳か。いい年頃だね。若葉が新芽を出してぐんぐん成長するような、そんな勢いがある年頃だね」
 達彦が珍しく詩人のようなことを言う。
 二一歳か。海がこの冬で一七歳だから、四歳違いだ。もうちょっと経てばなんということのない年齢差だが、一〇代二〇代では相当な開きがある。海が大学に入る時、すでに社会人になる年齢だ。
 そうでなくても女性の方が大人びている時期だ。志保さんから見て、海は子どもっぽいんじゃないだろうか。
「今日の寿司酢は、梅を漬けた時にできた梅酢を使っているんだよ。だから、ちょっと梅の風味があるでしょ」
 達彦が志保に料理の自慢をする。梅を漬けるのは、達彦の年中行事だった。今年は急な出張で忙しかったので、例年より梅を干す日は短かったらしいが、それだけは済ませていた。
「はい。香りがとてもいいですね」
「どうぞ、たくさん召し上がれ。お刺身のところもね」
 しかし、志保は食欲がないのか、あまり箸が進まない。しかし、料理の話に夢中の達彦は気づいていないようだった。
「天ぷらの時、うちは必ず鶏肉を揚げるんだ。それも胸肉が定番。胸肉は疲労回復にいいって言うし、なにより安いからね」
「胸肉って、ぱさついたりしません?」
「最初に、お酒と醬油に漬けておくといいよ。それから片栗粉でコーティングするとかね。それから料理すると、ぱさつかないですむよ」
 駒子はふたりの会話を聞き流している。料理の話はあまり興味がない。それに、今日は会議で疲れていた。
 手酌でビールのおかわりをグラスに注ぐ。正直、今日は食べるより呑む方がいい。
 二代目社長と衿子夫人の話は強烈だった。二代目社長のことは駒子も覚えている。現社長とそっくりで人の好さそうな感じだったのに、そんな昼メロのような過去があったとは。
 大手出版社の社長なんて高い地位にいても、女性に対しては自分を見失うんだな。
 そんなことをぼんやり考えながら、ふたりのやりとりを見ている。
 ふと、志保の顔色が悪いことに気づいた。
 先ほどから箸も止まっている。
 志保さん、体調悪いのかしら。
 そう思っていると、志保は突然立ち上がった。
「すみません、ちょっと具合悪くて」
 話すのに夢中だった達彦は「えっ」と驚いた顔をする。志保はお腹を押さえて、二、三歩進んだが、すぐにその場にうずくまった。
「志保さん、どうしたの?」
 駒子は席を立って、志保の傍らに行く。
「……お腹が痛くて……」
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
「……はい。少し横になった方がいいかも……」
 志保の顔は土気色をしている。額から脂汗が流れている。
「痛むのは右の方?」
 駒子が訪ねると、志保は、
「いえ、全体がしめつけられるような感じで……」
 と苦しさに堪えながら説明する。
「これは……病院に行った方がいいんじゃない?」
 咄嗟に駒子が思ったのは、虫垂炎だった。海も小学生の頃、それで入院したことがある。
 そうでなければ、食中毒だろうか。
「そんな……。この時間ですし、じっとしていれば、たぶん……」
 病院の診療時間は終わっている。かといって、救急病院に連れて行くほどの急患かどうかは、判断がつかない。
「そうだ、近藤先生ならたぶん診てくれるよ」
「近藤先生って、南町の?」
「うん。南小おやじの会で友だちだし、自宅が職場だから、この時間でも家でつかまるはずだよ」
「……そんな、ご迷惑では……」
 志保が止めようとするが、駒子も達彦に賛成する。
「そんな顔色で何を言うの。とにかく診てもらいましょうよ。なんでもなかったら、それでいいんだから」
 近藤先生のところは外科だ。食中毒とかであれば門外漢だが、それでも素人判断よりはずっといいだろう。
「でも……」
「僕、電話してみるよ。いまなら食事も終わっている頃だから」
 達彦は寝室にスマートフォンを取りに行った。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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