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名誉男性とよばないで

碧野圭(あおの・けい)

名誉男性とよばないで ブック・カバー
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第1回

2017.01.25 更新

 水上駒子(みなかみこまこ)の朝は、一杯の珈琲から始まる。
 と言うと、まるでCMのようだが、本当にそうなのだ。
 洗面所で顔を洗って居間のドアを開けると、珈琲の芳醇な香りが鼻をくすぐる。
「おはよう。今朝もうまく淹れられたよ」
 夫の達彦(たつひこ)が、得意げに駒子にマグカップを差し出し、にっこり笑う。駒子が洗面所を使う水音を合図に準備をするから、毎朝ベストなタイミングで珈琲が出されるのだ。それを受け取って、食堂のテーブルに着く。自分に注がれる達彦の視線を感じながら、カップに口をつける。口の中いっぱいにカフェインの旨味が広がり、香りがふんわりと鼻へ抜けていく。
「うーん、おいしい! また腕を上げたんじゃない? 今日のは一段と香りがいい気がする」
「あ、わかっちゃった? さすが、違いのわかる駒子サン。今日の豆はいつもよりグアテマラの配合を多くしてるんだ」
 期待通りのコメントだったのだろう。達彦の鼻の孔(あな)がふくらんでいる。
「そっか。それでコクが増してるんだ」
「うん、この配合もいいよね」
「いい、いい。これならお金取れるよ。そこらのカフェよりずっとおいしい」
 まんざらお世辞でもない。凝り性の達彦は近所の珈琲専門店に通いつめ、店長と親しくなって、珈琲の上手な淹れ方から豆の焙煎(ばいせん)の仕方まで教えてもらったのだ。そこらのチェーン店でバイトの子が淹れる珈琲よりも、はるかにレベルが高い。
「駒子サンったら、褒め上手なんだからン」
 照れ隠しなのか、達彦はちょっとおかまっぽい口調で答える。顔の下半分が髭だらけで銀縁眼鏡の男が言うのだから、さまになっていない。しかし、駒子はそんな思いを顔に出さず、
「お世辞じゃないよ。私は、達彦の淹れてくれる珈琲がいちばん好き」
 と、褒める。達彦は返事をしなかったが、駒子の言葉に気をよくしたのは間違いない。口元の髭が嬉しそうにひくひくと動いている。喜んでいる証拠だ。
 よし、今日もいい一日のスタートだ。
 駒子にとっては、達彦のご機嫌をよくすることが、朝いちばんの仕事なのである。
 専業主夫という達彦の立場は、世間的には微妙である。本人は家事が好きで得意だし、専業主夫になることにも抵抗はなかった。息子の海(かい)が小学校一年生になった直後、精神的に不安定になり、不登校になった。当時は編集者だった駒子も、フリーのカメラマンだった達彦も、共に仕事は不規則で、深夜に帰ることも珍しくなかった。帰れない時にはベビーシッターを雇ってしのいでいたが、それも限界だ、と思い知らされた事件だった。それで、どちらかが仕事を辞めて家庭に入るとなった時、達彦がいるべき、ということで二人の意見は一致した。
「駒子さんの方が収入も多いし、会社員で身分も保証されてるから、駒子さんが仕事をしたらいいよ」
 それだけではない。駒子は家事があまり好きではない。専業主婦には向いてない、と自分で思うのだ。海を出産後半年ほど、育児休暇を取って会社を休んでいた。その間、家事と向き合ったのだが、その時に得た悟りが、
「家事は修行である」。
 掃除にしろ洗濯にしろ炊事にしろ、家事に終わりはない。部屋を完璧に片付けたと思っても、翌日になればまた埃は溜まるし、ゴミも出る。何時間も掛けて食事を作っても、三〇分も経たずに器はからになる。
 家事は砂の城を築くのに似ている、と駒子は思う。一生懸命作り上げても、大波が来たら一からやり直し。やったことを形に留めることはできない。一晩経てばまた同じことを始めなければならないのだ。
 さらに、家事を完璧にやったからと言って、誰に褒められるわけでもない。手を抜いて、たとえば冷凍食品を食卓に出すとか掃除を一日二日さぼったとしても、誰かに叱られることもない。家事をちゃんとやるかやらないか、決めるのは自分。評価するのも自分だけなのだ。
 そんな状況を何十年も続けるってすごいことだわ。会社の仕事なら、金銭的な報酬もあるし、実績も目に見える形で提示される。プラス評価の積み重ねで、昇進ということも起こりうる。だけど、主婦は家事能力が高くても低くても、報酬や待遇に変化はないのだ。
 会社で実績を上げるより、主婦として高いレベルでパフォーマンスを続けることの方がはるかに難しいんじゃないだろうか。
 そう言えば、お坊さんの修行も最初は掃除とか洗濯とか炊事だもんな。毎日家事に全力を尽くすというのは精神を鍛えること、精神の修行そのものなんだ。
 そう思ったが、いやそう思ったからこそ、育児休暇期間を半年で切り上げ、駒子はさっさと職場復帰した。自分には向いていないと思ったのだ。
 しかし、達彦は違う。フリーのカメラマンをやっていた達彦は感覚が鋭く、それを家事に生かす術(すべ)を知っていた。駒子のように料理本やネットなど見なくても、舌ひとつでだいたいの料理を作ることができたし、ハーブや香辛料をうまく使って、ワンランク上の味付けにすることも得意だった。それに、ものを作ったり工夫したりするのが好きだから、部屋の模様替えはお手のものだし、既製品が合わないとなれば、カーテンでも戸棚でも自分で手作りするのをいとわなかった。子どもの突拍子のない言動につきあい、面白がるという懐(ふところ)の深さもあった。
 これはもう、才能としか言えない、と駒子は密かに舌を巻く。自分がいくら頑張っても、達彦のようにうまくはできない。自分からやることを見つけ、それを楽しんで実行する。家事は雑事、できるだけ早くすませたいと思う自分とは根本的な姿勢が違う。それに本人も、クライアントの無謀な要求や不規則な生活にイライラしていたカメラマン時代より、よほど生き生きしている。
 だが、世間の人たちはそう見ない。達彦が専業主夫だと知ると、
「えっ、海くんのパパ、働いていないの?」と、絶句する人。
「それはたいへんですね。早く仕事がみつかるといいですね」と、見当違いな同情をする人。
「いいですね、僕もできれば主夫になりたいですよ。だけど、うちのやつはそんな甲斐性がなくてね」と言いながら、優越感を隠さない男性。
 反応はさまざまだが、専業主夫というのは社会的評価が低い。本人だけでなく、駒子の方も「旦那さんに家事をやらせるなんて」という見当違いの非難を浴びた。家事は仕事として認められていないのだ。男性だけでなく、女性自身もそう思っているのだ。
 世間は世間、うちはうち。
 割り切ろうと思っていても、あまり奇異な目で見られ続けると、誇らしい気持ちになれないのは確かだった。駒子自身はよほどのことがない限り、夫が専業主夫をしていることを自分から言うことはなかった。
 でも、だからこそ、達彦を褒める。達彦の家事能力を、日々の努力を、気が付けば必ず褒める。
 それは「評価」だからだ。人はプラス評価がもらえれば、その仕事にいっそう努力をする。しかし、マイナス評価が続くと、そこを頑張ろうというより、それをしないように避けようとする気持ちが働く。それは駒子が管理職として会社で部下を見ていて実感したことだ。だけど、それでは困る。達彦にはいまのように、生き生きと楽しく、上機嫌で家事をしてもらいたいのだ。実利だけでなく、達彦への愛情からもそう駒子は思う。
「今日は卵どうする? 昨日ちょうどベーコン作ったから、それでベーコンエッグにしてみる?」
 達彦はここのところ燻製(くんせい)にはまっている。チーズだの卵だのサーモンだの烏賊(いか)だのでは飽き足らず野菜にも手を広げ、トマトだのアボカドだの珍妙な味の新作を作って喜んでいる。
「未知の味を開拓したよ」
 達彦は大得意で新作を食卓に並べる。息子の海は、
「こんな変なの、食べられないよ」
 と、断固拒否しているが、達彦のやる気に水を差したくない駒子は、何を出されても笑顔で食べることにしている。アボカドは燻製にすると妙に青臭さが強くて、達彦が横を向いている隙にこっそりティッシュに吐き出してしまったけど。
「いいね、今日は会議デーだから、達彦特製のベーコンエッグでスタミナつけて行く」
 ほかの燻製はともかく、達彦のベーコンは絶品だ。そもそも達彦はベーコンに一家言あるのだ。
「ベーコンはもともとバラ肉を保存するために塩漬けにしたものだから、脂っこくて塩辛いのが当たり前。なのに日本で売ってるのはどれも減塩で脂も少ない。これっておかしいよ。ハムじゃないんだからさ。塩辛いのや脂の多いのが嫌なら、ベーコン食べなきゃいいだけのこと。こんなんじゃスープの出汁(だし)もとれないし、カリカリのベーコンエッグもできないよ」
 達彦が燻製を始めたのは、うまいベーコンを食べるには自分で作るしかない、と思ったからだそうだ。最初は古い鍋にスモークチップを入れて燻(いぶ)す簡単な製法で作っていたが、そのうち燻製専用の機材を購入して、庭で本格的に作り始めた。近頃では近所の人から豚バラ肉を預かり、自家用の分といっしょに燻したりして感謝されている。
「了解。特上のベーコンエッグを作るよ。駒子さんの好きな水菜とグレープフルーツのサラダもね」
「わ、最高の朝ごはんね。朝からテンションあがるわ」
「しっかり食べて、今日も会社の仕事、頑張ってね」
「ラジャー」
 駒子はおどけて敬礼の姿勢を取る。達彦は上機嫌で台所仕事に戻る。
 駒子は目元に笑顔のあとを残したまま、テーブルの上にあった新聞を手元に引き寄せた。
 朝のこの時間は至福の時だ。
 掃除の行き届いた快適なリビングで、新聞を読みながら朝食が出てくるのを待つ。
 共働きだった頃は、この時間は一日でいちばん慌ただしい時間だった。寝起きの悪い海に食事をさせながら、洗濯機を回したり、保育園に提出するノートを書いたり、夕食の下ごしらえをしたり。その合間に自分も何かしら腹に溜まるものを口に入れる。椅子に座る時間も惜しかったし、ゆっくり珈琲を味わう時間などなかった。
 それを思えば、今は極楽。朝のひと時を満喫できる。
 ぴかぴかに磨かれた大きな窓から、明るい陽射しがさんさんと差し込んでいる。窓の外には小さな庭に季節の花が咲き乱れている。達彦が好きなアネモネとスイートピーが花壇のいちばんいいところに植えられている。園芸も、この家に引っ越してきてから始めた達彦の趣味だ。達彦曰く、インテリアは一度きれいにしてしまうと、その後はほとんど手が掛からない。せいぜい掃除をして、清潔さを保つくらいだ。しかし、庭は草をむしったり、肥料をやったり、植え替えをしたりと、やることはいろいろあるし、季節ごとに変化もある。手を掛ければ掛けただけ植物は応えてくれるし、庭の美しさは自分だけでなく道行く人をも楽しませる。それがいいのだ、と。
 そうだろうな、と駒子は思う。美しい庭は見ていて気持ちがいいし、その状態が続くことを願ってはいるが、自分から熱心にやろうという気にはならない。たまに草むしりを手伝う程度だった。達彦に比べると、自分はずいぶん怠け者だ。
 駒子は新聞をめくった。昨日までの社会で起こったあれこれをざっくり眺めていると、達彦が朝食をお盆に載せて運んできた。
「あ、ごめん、何か手伝おうか」
「大丈夫、もう用意できたから」
 ベーコンエッグに水菜とグレープフルーツのサラダ、イングリッシュマフィンに野菜のポタージュ、それに手作りの苺ジャムを添えたヨーグルト、といったメニューだ。ポタージュは残り野菜を茹でて柔らかくし、豆乳といっしょにミキサーに掛けている。
「お昼は外食だから、野菜が十分摂れないでしょ」
 と、達彦は言う。外食は栄養が偏ると心配し、駒子が望めば弁当を作る、と言うのだが、それは断っている。
「お昼くらいは会社の外に出ないと、息が詰まるよ」
 達彦にはそう説明している。それも噓ではないが、理由の半分でしかない。会社の中で目立ちたくないのだ。駒子が夫に作らせた弁当を持って行った日には、会社の噂雀たちに恰好の話題を提供することになる。わざわざどんな弁当か見に来る人間もいるだろう。会社というのはそういうところだ。専業主夫の夫がいるというのは、まだまだ好奇の対象なのだ。
 達彦はちゃんとナプキンを出し、箸置きに箸とスプーンを並べる。ナイフとフォークでもおかしくない朝食だが、そこは達彦のこだわりだ。
「いただきます」
 ふたりは向かい合って手をあわせる。 
 ありがたくて拝みたくなるような朝食だ。二人共働いていた頃は、パン屋で買ったサンドイッチなどの調理パンに、ティーバッグの紅茶で済ませることが多かった。なるべくヘルシーなものを選んではいたけど、高カロリーで野菜不足だったのは間違いない。
「おいしいわ、このサラダ。水菜の歯ざわりが最高ね」
 褒められる時は、出し惜しみせず褒める。それが相手をご機嫌にするいちばんの秘訣だ。
「昨日JAに行ったら、いいのが出ていたんだ。野菜はやっぱり鮮度だよね」
 駒子が籠の中のイングリッシュマフィンを取り、ふたつに割ってジャムとバターを塗っていると、のっそりと大きな人影が現れた。息子の海だ。
「おはよう」
 息子が黙ったままぼんやり席に着いたので、駒子が声を掛ける。
「おはよ」
 海が眠そうに答える。小学校の間は小柄で、背の順でも前から五番目より後ろに下がったことがなかったのだが、中学後半に入って急に背が伸びた。一七〇センチを超えてまだまだ伸びている。一六歳の今では、すでに達彦の身長を超えた。洋服を買い替える速さが成長に追い付かず、去年買ったトレーナーの袖から半端に手首が見えている。その成長ぶりがまぶしく、だけど、小さな海の面影がいとおしくもあり、駒子は目を細めて海を見た。
 母親の欲目かもしれないが、海はまつ毛が長く鼻筋が通っていて、なかなかのイケメンだ。毎年バレンタインデーにはいくつかチョコレートが届くから、まんざらもてない訳ではないらしい。しかし、いまはぼさぼさ頭でよれよれのジャージ姿。女の子には見せられない恰好だ。きっと昨日は寝間着に着替えずに、このジャージのまま眠ったに違いない。
「今日はバイト?」
「うん、所沢の工場。九時までに行かなくちゃいけなくてさあ」
「所沢? 初めてのところね」
「うん、宅配便の仕分けの仕事。時給がいいんで申し込んだけど、遅番の方にすればよかった」
 海はまだ一六歳だ。高校に行っていればこの春から二年生に進級していたはずだが、入学して半年も経たないうちに学校を辞めてしまった。望んで入った工芸系の学校だったが、自分のやりたいことはここにはない、と言うのだ。どれほど説得しても、海の決意は固かった。達彦は「行きたくないと言うものを、無理に行かせても仕方ない。また通いたくなったら、自分から言い出すだろう」と、放任しているが、駒子は正直気が気ではない。サラリーマン家庭に育った駒子には、高校大学と進んで一般企業に勤める、というルートから外れる生き方はあまり想像できないのだ。
 一方で達彦の方は絵描きの両親を持ち、世間的な枠に縛られない育て方をされたので、高校を辞めるくらいたいしたことではない、と思っているらしい。
「だけど、自分の小遣いくらいは自分で稼げよ。学生じゃないんだから、もう親からもらえると期待するな」
 それだけを達彦は言って聞かせた。それを守って、海はアルバイトで日銭を稼ぎ、あとは仲間と絵だの映画だのを作っているらしい。そんな状況で将来どうするのか、と思うが、どうしようもない。とりあえず、毎日海も上機嫌だから、それでいいのかな、と思ったりもする。
「ふああああああああああ」
 よくまあこんなに大きく口が開くもんだ、と思うほど海は大きなあくびをした。両手を軽く握って、曲げたひじを顔のあたりまで上げる。その恰好は昔とちっとも変わっていない。
「夕べ、遅かったの?」
「そうでもないけど、いまの季節はやたら眠くってさ。……あ、俺ベーコンエッグ、卵二つでね」
「ベーコン出してあるから、自分でやりなさい」
 達彦は自分の席から動こうとしない。
「ちぇ、焼いてくれないの?」
「パパはもう食事始めちゃいました。もうちょっと早く起きて来れば、パパやママの分といっしょに焼いてあげたんだけどね」
 達彦に言われて、海はしぶしぶ立ち上がり、キッチンの方に行った。まもなくじゅうじゅうとベーコンの焼ける音がこちらの方まで聞こえてきた。
「そうだ、海。来週土曜に野川で『南小おやじの会』のバーベキューがあるけど、いっしょに来ないか?」
 達彦がキッチンの海に問い掛ける。「南小おやじの会」というのは、海が通っていた市立南小学校の学童クラブの父親の集まりだ。その代の父親たちは気が合ったらしく、子どもが卒業しても、忘年会だのなんだの、口実をつけては集まっている。
「えーっ、俺やだよ。どうせ子どもは来なくて、おやじばかりなんだろ? 俺、高校行ってないしさ、おやじたちに説教されるに決まってる」
「いいじゃないか、それはそれ。久しぶりだし」
「どっちにしても、土曜は友だちの個展の手伝いに行かなきゃいけないから、無理。おやじだけで楽しんでよ」
「そうか? いまの季節、野川でバーベキューは最高なんだけどね」
「いいよ、俺、野川でバーベキューはもう一生分やったから」
 野川は家の近くを流れている小川だ。その川沿いの武蔵野公園の一角に、バーベキュー広場がある。広い芝生の原っぱに隣接しており、けやきや桜の大木がほどよい木陰を作っている。川を伝う風も気持ちよく、居心地のいい場所だ。その一帯の環境の良さに惹かれて駒子一家はここに越したのだ。だから、海が小学生の頃から、何かというとここでバーベキューをしていた。海がもう飽きたというのも無理はない。
 海が自分のベーコンエッグを焼き上げ、皿に盛って、席に戻ってきた。卵ふたつ、ベーコンは四枚も使っている。父親譲りで器用な海は、卵を崩すことなく、焼き過ぎることもなく、黄身の表面にはうっすらとおいしそうな膜が張っている。
「若いっていいねえ。カロリーもコレステロールも気にしなくていいんだから」
 思わず感嘆の言葉が口をついて出る。
「駒子さんも、もっと欲しい? もうひとつ卵焼こうか?」
「遠慮する。これ以上体重が増えると困るから」
 四〇を過ぎてから、体重が落ちにくくなった。以前は食べ過ぎても二、三日食事を減らせばすぐに戻っていたのに、最近はそれくらいでは変化がない。
「そうかな、駒子さん、もうちょっと増えてもいいと思うけど」
 達彦の優しいフォローを、海がきっぱり否定する。
「いやいやいや、これ以上はヤバイよ。腹のあたり、肉がついてきたんじゃない? そのスカート、きつそうだよ。今はやりの糖質制限ダイエットでもしてみたら?」
 海に言われると、ちょっと堪える。息子にはスーツを颯爽と着こなす『かっこいい母』と思ってもらいたいのだ。
「私、パン好きだから、ダイエットするにしても糖質制限は無理だと思う」
「それじゃダメだよ。痩せたいなら、せめてパンをやめてご飯にしなきゃ」
 そんな話をしながらゆっくり朝食を味わっていたら、いつの間にか時間が経っていた。時計代わりにつけているテレビから、八時から始まるドラマの主題歌が流れてくる。
「あ、もうこんな時間、ゆっくりしていられないわね」
 駒子は立ち上がり、食べ終えた皿をシンクのところに持って行った。それを洗うために袖をまくろうとしていると、達彦が止めた。
「今朝はいいよ。時間があんまりないし、その服、汚れるとまずいでしょ」
 今日の服装はシルクの白のカットソーに濃紺のスーツである。午前中には部内の連絡会議、午後には専務列席の企画会議もあるので、いつもよりきちんとした格好をしている。
「だけど……」
 自分の使った食器は自分で洗うべし、というのは水上家の数少ない掟である。
「大丈夫。なんだったら、今晩僕の分も洗ってくれれば」
「ん、ありがと。助かります。今朝はお願いね」
 駒子はにっこり笑ってそう頼んだ。

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著者プロフィール

碧野圭(あおの・けい)

愛知県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。フリーライター、出版社勤務を経て、2006年『辞めない理由』で作家としてデビュー。
他の著書に、ベストセラーとなりドラマ化された『書店ガール』シリーズ、『銀盤のトレース』シリーズ、『全部抱きしめて』『半熟AD』『菜の花食堂のささやかな事件簿』等多数がある。

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