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魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
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第四話 月の裏側

2019.07.19 更新

 古く寂れた港町、三日月町の商店街にも、まだひと通りの多い辺りはある。
 シャッターが下りた店がそこここにある街並みに、ちらほらとそこだけ木漏れ日が当たるように、にぎわいのあるお店があったり、楽しげに語らっているひとびとがいたりするのだ。水路や海からはやや遠い、駅前商店街へと続く路地にほど近い辺りのことだ。
 港のそばのこの辺りは、古い街角で、酒屋や立ち飲みの店、舶来の雑貨を売る店などが並んでいて、ひょいと店の後ろを見ると、路地の奥に植木鉢が並んでいて、古いアパートや洋館じみた家がのぞいていたりする。
 赤毛の若い魔女、七竈七瀬は、通りの中の一軒のお店が、七月のここのところお気に入りで、たまに足を運んでいた。
 じわじわと蟬たちが街路樹で暑苦しく合唱している。その声のシャワーを浴びながら、長い麻のワンピースをまとった七瀬は、その店のガラスの扉を開く。
 吹き込んだ夏の風が潮の匂いをさせながら、七瀬の長い赤毛と、きなりのワンピースの裾をふわりと巻き上げた。
額ににじんだ汗を、白い指先で拭う。先祖を辿ると日本生まれといえる彼女だけれど、この国の蒸し暑さは得手だとはいえなかった。特にこの数十年の、気温が上がった夏には、正直閉口している。
 店内に満ちる、エアコンの涼しい風の心地よさに、うっとりと目を細めた。
 エアコンというものは、人間が作り出したもののうち、最高に素敵なもののひとつだと心から思ったりする。

 佐藤時計店――その店は、この商店街でも、ひときわ古い造りなのが見て取れる、たたずまいの美しい時計店だった。
 昭和風の色とりどりのタイルに壁や什器が飾られ、扉や窓、天窓にはいまはもうあまり見ないような、飾りの入った磨りガラスが入っている。こじんまりとした広さの割に天井の高い店内には、時計と眼鏡に宝石と、そして立派な天体望遠鏡が並んでいるのだった。古く艶やかな木の床を踏んで、そっと店内を歩いていると、そのうち壁のからくり時計がオルゴールを鳴らして時を告げたりして、いつまでも飽きることがなかった。
 この店の主はうさぎが好きなのか、店のあちらこちらにうさぎの絵や、置物がそっと飾ってあるあたりも、愛らしくてよかった。
 七瀬は美しいものが好きだ。その美しいもの、の中に、様々な機械類も入っている。時を刻む時計のように、世のことわりにそって規則正しく動くものは美しいと思うし、魔女のように魔法を使うことができないひとの子たちが、自らが与えられた知恵と知性の力によって、この世界の法則を読み取っていく、その過程と結果の表れであるところの機械たちを、美しいと思うのだ。それはまるで、はるかな天を目指して羽ばたく、鳥たちの姿を見るような気がして。
 魔法や翼を使うのではなく、ひとは願いと実験と実践の積み重ねによりいつか、空へと羽ばたく生き物なのだ。
 時を刻む時計と時計が奏でる鐘の音と、電子音のオルゴール。衰えた目を助け、手元や遠くのものを見せる眼鏡たち。遠い天体を見るための望遠鏡と、美しく磨かれた宝石たちと。
 ここに足を運ぶたびに、七瀬は、この店はひとの美しい願い事でできているような気がするのだった。
 美しい願い事は、それだけではなく……。 
 七瀬は腕に抱えた古い童話の本をそっと抱きしめる。
 この店の二階には、「文庫」と呼ばれる、子どもたちに本を貸し出す、私設図書館のような部屋があるのだった。

 初夏のある日、七瀬は、たまたまこの辺りの通りを歩いていて、からくり時計のオルゴールの光のような音に惹かれ、この店の扉を開けた。店の奥、カウンターの背後にある壁に飾られた時計を見上げて店内を歩くうちに、二階へ上がる螺旋階段に目を留めた。
 木の階段のそばに立っている手書きの看板に書いてあったのは、「佐藤子ども文庫」というその場所の名前と、「本が好きな子どものための小さな図書館です」「いらっしゃい」という言葉。
 学校帰りのような子どもたちが、駆け上がる様子に出くわして、おそるおそる階段へと足を運んだ、それがその場所との出会いだった。
 見上げると螺旋階段の上には明かり取りの天窓があり、そこからまっすぐに光が射していた。子どもたちを、階上に待つその部屋に、楽しいことがたくさんある、それを表すように。
 本の匂いが、紙と埃とインクの匂いが、螺旋階段を下りてくるように、静かに上から漂ってきて、七瀬は胸をときめかせて手すりに手をかけたのだった。わたしみたいに大きい子でも、その図書館に行ってもいいのかな、と悩みながら。見た目はたぶんひとの子の十代くらいに見えるはずだけれど、それにしたって、もう子どもとはいいづらい年齢だ。
 というか、ほんとうをいうと七瀬は魔女だけど、おまけに齢百七十歳を超えているのだけれど。そんなことを思いながら。
 そう。見た目は十代の本好きの少女――それがいまの七瀬だった。魔女は十年に一つほどしか年をとらず、長く地上に生き続ける。

 七竈七瀬は、ひとの世界でひと知れず暮らす魔女のひとりで、幼い日からこれまで世界のいろんな場所をさすらってきて、いまは日本のこの港町で暮らしている。もちろん、たまの例外以外は、人間たちにはその正体は内緒だけれど。なぜってそれが魔女たちの生き方の習いだからだ。
 どんなに人間たちに興味と愛着があろうと、その幸せをひっそりと祈っていても、あえてなにも語らずに暮らしているのがいちばん平和なのだと魔女たちは知っている。長い長い間、魔女とひととは同じ世界で、この地上で、時にふれあい、時に距離を置きながら、一緒に暮らしてきたのだから。ある時期不幸な関係に陥ったこともあった。いわれのない迫害を受けたことも、与えたこともある。そんな時代を経て、いまの暮らしがある。
 だから、この物語を読んでいるあなたの住む街にも、実は魔女は暮らしているのかもしれない。近所の家にいつの間にか引っ越してきていた、見知らぬ住人、いつも笑顔だったけれど、一言二言会話を交わしただけで、いつの間にかどこへとも知れず引っ越していった隣人は、魔女だったかも知れないのだ。ひとよりもはるかに長生きで、年をとるのがきわめてゆっくりな彼女たちはその正体を気づかれないために、ひとつところで長く暮らすということがない。街から街へとまるで風が吹き過ぎていくように、旅しながら生きていくものなのだから。

 さすがに店の中に、猫連れでは入りにくいので、佐藤時計店に行くときは、いつも一緒の使い魔の黒猫は、店の前に置いてくるのだけれど、七瀬がいつまでものんびりと店内を歩いていると、玄関の扉のガラス越しに、黒猫がひげが下がったむっとした顔をして座り込んでいるのが見えたりもする。
(寂しがりやっていうのか、心配性っていうのか)
 生まれてからもう百七十年以上も一緒にいるのに、黒猫は七瀬のそばにはりついていることが大好きだ。そうして姉のように口やかましく、世話を焼いてくる。飽きないんだろうかと思う。時の彼方で光の中に消えてしまった七瀬の家族たちから託されたという思いがあるのかも知れないけれど、あの猫はちょっと過保護だと七瀬は思っている。

 さて、店の主、佐藤さんは、おじいさんというにはまだ若い、穏やかな笑みをいつも口元に浮かべている男性だ。街のひとびととにこやかに会話をする様子からして、ひと好きのするたちで、自分もひと付き合いが好きなようだ。友人も多いようで、商店街の仲間とおぼしきひとびとが、よく店を訪ねてくる。同じ町内で育った、幼なじみだと耳の端で聞いた。
 数年前までは、商店街の小さな夏祭りをともに盛り上げた仲間たちだとか。いまはもうその祭は行われていないらしいけれど。
 店は住居もかねているようで、たまに店の裏手の方から、佐藤さんの娘や息子、孫たちがやってきて、店番を代わったり、店主と一言二言会話を交わしたり、お客様たちに挨拶をしたりする。雰囲気のよく似た、穏やかで明るいひとびとだ。店に出入りする、七瀬や子どもたちを歓迎し、優しく見守ってくれる。
「子どもの本が好きなら、どうぞいらっしゃい」
 あの日、螺旋階段の途中で足を止め、迷っていた七瀬に朗らかに声をかけてくれたのは、店主の佐藤さん。そして階段の上、図書館から招いてくれたのは、その奥さんだというひとだった。何でもこの奥さんも、商店街の仲間のひとりで、幼なじみだったとか。
 ここへ通ううち、聞くともなしに聞いたのだけれど、昔の日本では、こういう私設の小さな図書館――「文庫」というものは、街のそこここにあったらしい。昔、といっても、話を聞くだに、昭和の時代のことらしく、となるとそれは、七瀬にはつい一呼吸ばかり前の最近の時代のことに思えるけれど、とにかくある時代、この国には、自分の家を開放して、近隣の子どもたちを集め、本を読ませていたひとびとが存在していたのだ。
 いつの間にやら、子どもの数が減ったからなのか、文庫を開いていたひとびとが年老いたからなのか、それとも時代が変わったからなのか、街中の、子どもたちのための小さな図書館は一つまた一つと閉まっていき、その数を減らしていっている、という話だった。
「まあ、うちは当分続けるつもりだけどね」
 佐藤さんの奥さんは笑う。「そもそも、おとうさん――うちのひとが子どもの頃から集めていた物語の本がたくさんあるから。昭和の時代の、もういまじゃ手に入らないような、絶版本から、うちの子どもたちがお小遣いで買い集めた軽装版の本まで、とにかくうちには子どもの本がたくさんあるものね」
 読んでくれる子どもがいないんじゃ、本もかわいそうでしょう、そう言葉を続けた。
「おとうさんの影響か、それとも血筋か、我が家の子どもたちもみんな本が好きで、せっせと買い集めて大切にしてきたの。死蔵しておくのは、もったいなくってね」
 奥さんは、そういって笑った。

 そして、今日も七瀬は螺旋階段を上がってゆく。
 小さな図書館で、借りた本を返し、棚一杯に並ぶ、魔法と冒険と友情の物語を選ぶ。今日は一昔前に書かれた、宇宙旅行の物語を棚から手にとった。銀河系宇宙を旅する正義の宇宙人が、地球を訪ねてきて、勇気ある少年やロボットたちと冒険を繰り広げる、そんなお話だった。奥付の日付からして、佐藤さんが子どもの頃に読んでいたものかしら、と思う。本の表紙も本文の紙も色褪せ、長い年月の間、何度も読まれた証拠のように、カバーと、本文紙の親指が触れる辺りが変色していた。
 魔女である七瀬には、どちらかというと、ドラゴンや騎士、魔法使いが活躍するような物語の方が、リアルに読めて楽しめるところがあるのだけれど、こういった物語も読んでみれば面白かった。――そもそも、ロボットだの、科学の力による宇宙旅行だのは、錬金術が発展していった末の物語のような気がして、それはそれで臨場感があるというか、興味深くもあったのだ。
 科学は、魔法の力を持たない人間たちが得た、いわば「人工の魔法」であり、自然と対峙して、幸せになるために、得た願いの結晶のような力だと七瀬は思う。そこに切なさと強さと、そして憧れを七瀬は感じるのだった。
 古い小さな図書館の小さなカウンターには、エプロンを掛けた大学生。この「文庫」で本を借り、読んで育った子どものひとりだといつだったか教えてくれた。
「佐藤さんの文庫で育った子どもは、この辺にはたくさんいるのよ」
 七瀬を同世代の、子どもの本が好きな仲間だと思ったのだろう。自分のことを語ろうとしない七瀬なのに、彼女は気安い感じで、あれこれと話してくれた。
「といっても、この文庫も全盛期ほどは子どもたちが集まらないのよね。まあね、最近は街のこの辺りは人口が減るばかりだし。数少ない子どもたちも塾や習い事で忙しいし、わずかな遊べる時間も、本よりもスマホのゲームで忙しかったりするみたいだし」
 大学生は、はあ、とため息をつく。
「まあ、ゲームも面白いしね。わかるのよ。一日は二十四時間しかないし、スマホの画面を見ながら、本は読めないわよね。ましてやここにあるような、少し昔の子どもの本なんて、ゆっくり開いて、文章を一行一行味わいながらじゃないと楽しめないだろうし。
 腰を据えて読めば、ページをめくるごとに魔法の世界に入れるみたいで、味があるんだけど、それをまどろっこしいと思う子どもだって多いんだろうと思うの。
 仕方ないっていうかさ、時代は変わっていくってことなのかなあ……」
 たしかに、部屋の広さ、テーブルと椅子の数に比して、七瀬が会う子どもたちの数は少なかった。
 七瀬には宝の山のように見える、部屋一杯の物語の本は、しんとした空間の中で、少しずつ化石になっていっているように見えた。
 自分が忘れられたわけじゃない、置き去りにされたわけではないのに、なぜか魔女である自分もまた、本たちと一緒に子どもたちに忘れられてしまったような気がして、七瀬は寂しくなった。
 カウンターには、くじつきの苺飴や、薄緑色の瓶に入ったラムネ、紙の箱に入ったチューインガムも並んでいる。あまり売れないのよね、けっこう美味しいのにな、と、前に大学生が頰杖をついてぼやいていた。
「七夕の夏祭りも、なくなっちゃったんだものね。駄菓子屋さんと煙草屋さんと、靴屋さん。商店街のおじさんおばさんたちが、子どもたちのために、七月の七夕の頃には、手作りの夜店を出してくれてね。毎年、わたしたち子どもたちの楽しみだったのよ。苺や練乳のシロップがかかったかき氷に、冷たいラムネに綿菓子に、小さな子にはすくってくれる金魚すくい、ヨーヨー釣り。綿飴に、林檎飴。お好み焼きに焼きそばは、本職のコックさんや食堂のおばちゃんたちが作ってくれてたから、そりゃあ美味しくて。熱々で、香ばしくって。いい匂いが夜空に立ちこめてね。
 端から端まで歩いても、何分もかからないような、小さな小さな夏祭りだったんだけどね。――いまはもう商店街も寂れちゃったし、あの店もこの店も閉店しちゃってさ。夏祭りも数年前におしまいになっちゃった。夜店なんてやっても、そもそも子どもたちが集まらないだろうとは思うんだけどね。仕方ないんだけど――でも子どもの頃は、商店街の夏祭りは、ずっと続いていくものだと思ってたな」
 七夕の願い事、毎年書いたのよ、と彼女はいった。遠い目をして、付け加えた。
「――夏祭りが永遠に続きますように、って書いておけばよかったな」

 良い匂いの笹の枝が、カウンターのそば、部屋の一角に置かれていて、折り紙で作られた色とりどりの輪つなぎが飾られていた。
 駄菓子のそばには紙の箱に入れられた色とりどりの短冊が用意してあった。
「願い事を書いてつるしてくださいね」
 おとなの綺麗な字で、そう書き添えてある。
「文庫」のひとびとが用意したものなのだろう。この国の人間たちは――特に子どもたちは、七夕の頃にそれに願い事を書いて笹の枝につるすものだと、七瀬は知っている。
 短冊には願い事らしき言葉がいくつか書き込まれ、まばらにつるしてあった。短冊は箱の中に、まだずいぶんたくさん残っていた。
 自分も書いてみようかと思って短冊を手にしたけれど、何も思いつかなかった。
 肩をすくめる。
 魔女である自分は、願い事はいつも自分の手で叶えてきた。だから、ひとの子たちのように、叶えたい願いはないのかも知れない、と思った。

 小さな図書館にぱらぱらと訪れていた子どもたちも、夕方五時の時計台の鐘が聞こえる頃には、ぱったりといなくなっていた。
 気がつくと、カウンターの大学生の姿もない。そういえば今日は用事があるから早く帰るといっていたような、とぼんやりと七瀬は思い出した。
 古いエアコンが動く音が静かに響く部屋で、七夕の笹と一緒に取り残されたようにひとりきり本を読んでいるのは、妙に気が滅入った。
 新しく借りた本を今日は一冊だけ、七瀬は胸元に抱き、螺旋階段を下りていった。
 時計店のカウンターの中には、店主の佐藤さんがいて、片方の目に当てたレンズを覗き込みながら、うつむいてピンセットを動かしていた。お客様から預かった時計の修理でもしているのだろうか。
 七瀬が軽く会釈すると、目線を上げ、おや、というように気遣わしげな表情をした。
 佐藤さんのそんな表情を見るのは、珍しかった。
 いつも笑顔で、街のひとたちや家族やお客様たちと、朗らかに会話をしているひとだからだ。
 とにかく話し好きで、表情が豊かで、会話だけでなく、子どもたちに面白い話を聞かせるのもうまかった。本の朗読も。
 七瀬は、そのひとが小さい子どもたちに、絵本を読み聞かせしているところを見かけたことがある。図書館のカウンターで本を返す手続きをしているときに、気がつくと、読み聞かせが始まっていたのだ。
 佐藤さんは、店にいるときは巻いているネクタイを、そのときは蝶ネクタイに替えて、楽しげに、物語を語っていた。
 小さな図書館に、佐藤さんの声を聴く子どもたちは、そのときは五人ほどいたろうか。ゆったり響く声の波に包まれるようにして、物語に聴き入っているようだった。
 七瀬もまたその声に聴き惚れていると、耳元で、バイトの大学生がささやいた。
「――店長さんね、読み聞かせだけじゃなくて、子ども相手に語るのがほんとにうまいの。それも、ちょっと不思議な話とか、怪談とかすごく得意でね。普通に考えたら、噓かほんとうか耳を疑うような話でも、目の前で聴いているときは、何もかもが本物みたいに聴けてしまうの。子どもの頃に、お化けに会ったとか、妖怪が友達で、一緒に街の夏祭りに行った話だとか、その妖怪は空のお月様に帰っていったんだ、とかね。作り話じゃないかとか思いながらも、子どものときはみんな信じてたなあ」
「――妖怪が、友達?」
 七瀬は少しだけ、肩をすくめた。魔女の七瀬だって、人間からすれば、妖怪の一種みたいなものだろう。実際、子ども向けの妖怪図鑑に、『魔女』という項目があるのを見かけたことがある。
 大学生は、楽しげに微笑んだ。
「――ほら、妖精とか魔女とか吸血鬼とか、そんなもの、いるわけないって思いながら、存在を信じたくなる、夢見がちな年頃があったりするじゃない?
 そのうえに店長さんはお話がうまいんですもの。信じたって仕方ない」

 佐藤さんは、気遣わしげな表情を浮かべたまま、それでも微笑んで、佐藤時計店のガラスの扉をくぐる七瀬を見送ってくれた。
 店を出たあと、ふと、七瀬は思った。
 美しい造りの時計店を振り返って。
(いつかは、このお店もなくなるんだろうなあ)
 子どもたち、孫たちの誰かが店を継いだとしても、寂れた商店街で、どれだけの長さ、持ちこたえていることができるだろう。
 否応なく、時は過ぎ去ってゆく。
 店だけでなく、佐藤さんも、地上からいなくなるのだろう。あの美しい声も、微笑みも、やがて消えてしまうのだろう。子どもたちのために続けられていたという七夕の夏祭りが、いまはもう行われていないように。
 この地上には永遠に存在し続けるものはなく、七瀬はいろんな慕わしいものたちとさよならを繰り返しながら、この先の長い未来を、ひとり、生きていかなければならないのだ。

「――単なる感傷だってわかっちゃいるのよ」
 商店街のはずれ、港のそばの、暗い水路にかかる橋の上で――そこを渡れば彼女が身を寄せている「魔女の家」にほど近い場所で、七瀬は独りごちる。
 橋の手すりに寄りかかり、街灯の光の下で、読みさしの本のページに視線を落として。
 辺りには人気がなく、ただ水路に寄せる水音だけが、静かにたぷたぷと響く。
 黒猫が、闇に溶け込むようにして、足下に佇み、光る目でひとつまばたきをした。
「ひとの子の寿命は短くて、素敵に思える日々の暮らしも、流行も文化も、文明だって、すぐに移り変わり、消えていってしまうんだわ。――わたしたちがそれに勝手に、どんなに愛着を感じたとしても」
『片思いみたいなものだしね』
「そうかもね」
 七瀬はふうっとため息をつく。
 どんなにある時代に愛着を感じても、ひとの世界のものは、ひとでない者たちの視界から、やがて消えていくのだ。
「一昔前の」物語の本だとか、本を読む習慣だとか、そんな、世界から見れば、ほんの小さな、おそらくはささやかな事柄に限らず、もっと大きな文化だって、文明だって、さらさらと七瀬たちの目の前から消えてゆく。地上に生きる命そのものだって、風に吹かれたように去っていくのだ。
 子どもたちのために繰り返されていたという、小さな商店街の夏祭りだって。
 この街の出来事に限らず、この国のこの地上の、いろんな場所で、さらさらと砂が流れ落ちるように、いろんな「良いものたち」が消えていっているのだろう。
(なんて儚い)
 七瀬は変わらずに生きているのに。
 下唇を、きゅっと嚙みしめた。暗い水を見つめる。
(この世界は、消えてゆくことの繰り返しだ)
 特に七瀬のように、生まれ合わせ育ってきた時の流れが、天災や人災の多い時代と重なると、余計にそう思うのかも知れなかった。
 ひとの暮らしも文明も、いつだって儚く、途絶え、消えてゆくものだけれど、七瀬の生きたこの百七十年ほどの時代は、この国も、そしてどの世界でも、自然はひとに優しくなく、そのうえに人間同士の間で戦乱も続いた。
 七瀬たちは、人知れず、いくらかの命を救ってきたけれど――古い時代の魔女たちがそうしてきたように――流れる水を小さなてのひらで掬いあげようとするように、掬っても掬っても、儚い命は指先から指の間から、空しくこぼれ落ちていった。
 そもそも、地上には魔女たちはもうわずかしか残っていないのだ。はるかな昔、世界に魔法や奇跡がいくらも満ちていた時代とは、この世は変わってしまった。変えたのは、ひとの子たちの科学と、未知のものを恐れなくなった心の変化だった。科学の光が世界を解明し、世界から不思議や謎、暗闇は払いのけられ、魔物たちはわずかに残った物陰に身を潜めるようになってしまった。
 地上はもう、ひとならぬ者たちが生きていけるような場所でなくなってしまったから。闇を恐れる心、不思議を信じる心をひとの子が持たなくなった世界には、魔物たちは存在することができない。
 この世界はもう、隅々までが明るい光に照らされて、ひとの子を主とする、ひとの子たちの領土のような場所になってしまっているのだった。
「変わらなくてもいいのに」
 七瀬は呟く。いや変わってもいいのだ。たぶん変容していくことこそが、ひとの子に翼を与えるのだから。
「――そんなに急いで、変わっていかなくてもいいのに」
 七瀬たちを、時の中に置き去りにして。

「寂しいのは……」
 七瀬は呟く。
「わたしがどう考えてようと、何を思ってようと、誰もそれに気づかないってことなのかもね、たぶん」
『片思いだもんね』
「そうだよねえ」
 運河の水を見下ろして、七瀬は深くため息をつく。
 闇をたたえたような水の流れは、これまでとこれからの時の流れがそこにあるように見えて、鬱屈した気分になった。
 と、水面で魚が跳ねたような軽く明るい音がして、光が散った。
 ゆらゆらと水面に光が踊っている。
 月だった。
 いつのまにか、空に大きく丸い月がかかっている。
 丸い月があの位置にあるということは、夜も遅い時間なのだろうと思ったけれど、魔女である七瀬には、いまさら𠮟る家族もいない。
 月の光だけは変わらないのかも知れない、と七瀬は思う。空のあの場所から、地上を見下ろし、ひとの世の営みを見て、七瀬たち魔女のことをも、たぶん見守っているのだ。
「――月には、うさぎがいるのよね」
 七瀬は呟く。「それからあそこには……」
 ある者たちがいる、と聞いたことがある。
 ずっと昔、幼い日に、家族から聞いた。
 ここからずっと遠い国の、森の中を旅しているときに。焚き火の揺れる炎を見ながら、子守歌を聴くように、聞いたのだ。
 あれはほんとうの物語ではなく、家族が、幼い七瀬を眠らせるために話して聞かせた、お伽話かも知れないけれど。
 お話に登場した、その者たちが、もし存在しているとしたら――その者たちがいまもあそこにいるとしたら、彼らは、ひとりきり月を見上げる若い魔女、七瀬のことを見下ろしているのだろうか。見てくれているのだろうか。あの場所から。

 そんなことを思いながら、ぼんやりと月を見上げていたら、
「七竈さん」
 優しく、背中から声をかけられた。
 佐藤時計店の佐藤さんだった。片方の手に、一冊の本を持っている。その本を、七瀬に歩み寄り、手渡した。
「七竈さんが少し前に探していた本、長く借りていた子が、さっき返しに来たんですよ。
 よかったら――」
 ありがとうございます、と七瀬は頭を下げ、大切に本を受け取った。
 そういえばとても読みたかった本だった、と野鳥が描かれた古い海外の物語の本の表紙を見つめる。でもそこまで切羽詰まって読みたいというわけでもなかったけれど、とふと首をかしげ、そして気づく。
 このひとはもしかして、去り際の七瀬が気がかりで、この本を渡すことを理由に、探しにきてくれたのだろうか、と思った。さりげない様子で、ここにいるけれど。
 佐藤時計店からこの橋までは、やや距離があるはずだ。ましてやここは、少しばかり浮き世とは違う世界への入り口。誰もが簡単に辿り着ける場所でもないのだけれど。
「若いお嬢さんが、こんな夜に、こんなに暗いところにいてはいけませんよ」
 身をかがめ、いい聞かせるようにそういった。走ったのだろうか。少し、息が切れている。街灯に照らされた、まなざしの奥に、心配そうな色がある。
「――つい、本を読んでいたら、こんな時間に」
 本を胸元に抱きながら、七瀬は答えた。
「すみません。でも、もう家に帰ります」
 身を翻して橋を渡りきろうとしたけれど、ふと立ち止まり、もう一度そのひとの表情を見上げた。
 この優しいひとがこんなまなざしをすることがかわいそうだった。胸が痛くなった。
 きっと今夕の、佐藤時計店を出るときの七瀬は、よほど悲しげな表情をしていたのだろう。だから気がかりに思ってくれたのだろう。普通の――見た目が十代の、人間の少女を心配するように。
 そう、このひとはいつも、小さな図書館に集まる子どもたちのひとりひとりの表情の変化に目をとめている。そんな風に見えた。
 まるで学校の先生のように。自分の庭に集まる小鳥たちをそっと歓迎し、見守っている庭の主のように。
(そういう心配をしていただくには、わたしはもうずいぶん大きな子どもなんだけど)
 それでも自分に向けられた優しい思いが、嬉しかった。心配してくれつつも、こちらを尊重して、踏み込まずにいてくれているような、そんな温かな優しさが嬉しかった。
 だから七瀬は、佐藤さんを見上げ、さりげない感じで問いかけたのだった。
「あの、アルバイトの方にうかがったんですが、店長さん、子どもの頃、妖怪のお友達がいたって、ほんとうですか? そのお友達は月に帰ってしまったって」
 そのひとは、にっこりと笑った。
「ほんとうですよ」

 水路にかかる橋の上で、引いては寄せる水音を聞きながら、高く上がる月の光を浴びながら聴く物語は、とても不思議な響きを帯びて聞こえた。
 まるで舞台劇のような。七瀬と佐藤さんだけが舞台の上にいる、観客のいないお芝居の世界の中に入り込んだようだった。
 それは遠い日の七月の物語。
 まだ小学生だった佐藤さんと、同じ商店街の子どもたちの、夏祭りの物語。

「その頃は、いまよりももっと、三日月町の商店街にはお店がたくさんありましてね。駅前商店街に続く、長いアーケードだってあったんです。夏祭りの頃には、たくさんの子どもたちが、浴衣を着たりして、集まってね。
 笹に願い事の短冊をつるしたりしたものですよ。『健康になってたくさん遊べますように』――そんな願い事を書いたのを覚えてます。子どもの頃、わたしはからだがあまり丈夫じゃなくてね。商店街の仲良しのみんなで遊ぶときも、自転車に乗ってどこかに冒険に行こう、なんて話が持ち上がったときも、わたしだけ熱を出して行けなくなったりしたんです。
 その頃、うちには白いうさぎがいましてね。学校で飼っていたうさぎたちの子どもで。わたしは飼育係だったので、学校で生まれたうさぎの子どもを先生に頼まれてもらってきて、育ててたんです。ふわふわして、干し草の甘い匂いがしてね。温かくて、かわいくて。うさぎたちは――学校のうさぎも、家にいるうさぎも、とてもかわいがっていたんですけど、うさぎはね、寿命が短いから、数年で死んでしまうんです。わたしは悲しくてね。そしたら、友達の中の、あれは誰だったのかな、『大丈夫。うさぎたちは月に帰ったんだから。みんなあそこからおまえや俺たちを見下ろして、見守ってくれてるんだよ』って。そう思って見上げると、たしかにそんな気がしてね。月に銀色のすすき野原があって、そこを駆けるうさぎたちの、ぴくぴく動く鼻と、こちらを見下ろす黒い目が見えるような気がしてきて。
 だから、うさぎを思い出して寂しいときはよく月を見上げていたんです。――そして、言葉には出さないけれど、わたしがもしいつか死んだら、魂はあそこにいって、うさぎたちと一緒に地球を見下ろすのかな、なんて思ってました。
 そんなことをいうと、友達だって家族だって心配するから、言葉にしなかったんですけどね。でも実をいうと、あの頃のわたしは、自分がおとなになるまで元気でいられる自信がなかったんです。わたしはよく、月を見上げて、そっと話しかけてました。いまにぼくもそっちに行くから、って。そしたら月のすすき野原を一緒に走ろうって」
 佐藤さんは、そっと微笑み、そして言葉を続けた。
「その頃、ちょうど、人類が初めて月に降り立った時期で。その様子が、テレビで全世界に放送されたりして。わたしたち街の子どもたちは、月のうさぎはどこにいるんだろう、なんでテレビに映らないんだろう、なんて声を潜めて話したりしていました。
 いまどきの子どもたちにそんな話をしたら笑うかもしれませんね。でも、わたしたちは月に人類が行く前に生まれた子どもたちだったから、あの場所に生き物が生きていけるはずがないって頭ではわかっていても――でもどこかで、月には銀色のすすきが風になびく野原があって、そこにぼくらが……わたしたちが愛したうさぎたちが跳ねているような、そんな気がしていたんです。――実をいうと、おとなになったいまも、心のどこかで、そんな気がしてるんですよ。月よりもずっと遠くまで宇宙船がゆく時代になってもね。
 そうそう、当時、友達の誰かがいったんです。『月はいつも表側だけを地球に向けているから、月の裏側は観測できないんだってさ。きっと表側にアポロ宇宙船は着陸して、裏側にうさぎたちがいる場所があるんだ。そこにかぐや姫なんかもいるんじゃないの?』
 なるほど、ってみんなでうなずいたものでしたよ」
「月の裏側に」
 七瀬は、頭上の月を見上げた。
 月はまばゆくさえ見えるほど大きく、銀の粉を散らすように、地上に光を放っていた。
「『うさぎもかぐや姫も、地下に住んでいるのかも知れない』なんて説を提唱した友達もいたなあ。『月の裏側に隠し扉があるんだ』なんてね」
 懐かしそうに、佐藤さんは笑う。
「わたしたち当時の子どもは、月のうさぎやかぐや姫のお話が好きで、だけど、アポロ宇宙船や宇宙飛行士にも憧れていたんですよ。男の子はみんな、将来は宇宙飛行士になりたい、なんていってたような気がします。わたしも憧れて、勉強に力を入れたりしたのを覚えてます。アポロに乗るためには、英語ができなきゃだろうと子ども用の英会話の本を買ってきたり。英会話のカセットテープをねだって買ってもらって、繰り返し聞いたり。
 だけど、わたしはからだが弱かったから、宇宙飛行士にはなれないかな、と少しだけ、諦めてました。そんなときわたしは、うさぎたちを抱きながら、物語の本を読んで、想像の世界の中で、宇宙飛行士になったり、銀河旅行をしたりしていたんです。それはちょうど、妖精の国を旅したり、魔法使いになったり、そんな気持ちに似ていたかも知れないですね。物語の世界の中では、わたしは病気がちの子どもではなく、勇敢で何でもできる元気な子どもで、ロケットに乗って宇宙を旅したり、妖怪や妖精と友達になったりしました」
「妖怪とお友達、ですか?」
「そう。子どもって、ほらいまも昔も、妖怪が大好きですからね。妖怪図鑑を宝物にして、何回も読んで内容を暗記したりとか。友達同士で、街中の空き地の土管の中で、街のどこそこで妖怪を見かけたとか噂したり。怖い表紙の怪談の本やまんがを読んだり、怪奇映画をテレビで見ては、トイレに行けなくなったりしてました。
 怖かったけど、でも、友達だったんですよ。ひとの目だとなかなか見えないけれど、でも自分たちのそばに隠れ住んでいるんだって信じていました。会えるなら、会いたいってね」
 たぶん、いまどきの子どもたちもそうなんだと思いますよ、と、佐藤さんは笑う。
 人間の子どもだったことがない七瀬にはわからない、楽しげな子ども時代の思い出を懐かしむように。
「妖怪が友達で、宇宙飛行士にも憧れていて。そんな夏に、わたしたちは不思議な女の子に会ったんです。――あの子の正体はいまも謎なんですけどね。でも……」
 佐藤さんは声を潜めた。
「いいおとなが何をいうんだ、って笑われちゃうかも知れないけれど、わたしたちはあの子が人間じゃなかったって信じてます」

「七夕の夏祭りの夜でした。その夜、わたしは暑さに負けたのかひどく具合が悪くてね。だけど、どうしてもお祭りに行きたくて、友達と遊びたくて、無理をして出かけたんです。
 みんなでわいわいと夜店を冷やかして歩いてね。そしたら、ひとの賑わいの中に、知らない女の子がひとりいたんです。
 とても綺麗な、長い黒髪の外国の女の子でした。翻訳物の子どもの本の挿絵みたいに、素敵でした。いまも思い出せます。お姫様が着るような、長い黒のワンピースを着ていてね。青い目をしていて、まるで絵から抜け出してきたような、不思議な感じの女の子だったんです。――でもね、わたしと商店街の子どもたちが、その子に目をとめたのは、その子が綺麗だったから、それだけじゃないんです。
 その子ね、とっても楽しそうだったんですよ。お祭りの夜店の、歩いて行けばあっという間に終わってしまう、アセチレンランプに彩られた光の中で、目を輝かせて、水に浮かぶヨーヨーや綿菓子や、泳ぐ金魚たちに見とれてね。色の白い頰を染めて。とびきり素敵な遊園地にいるような、そんな幸福そうな笑顔で。桜色の唇からのぞく、ちょっと長い八重歯がかわいくて、チャーミングでした。
 それでいてその子は、寂しそうでもあったんです。ひとりぼっちでしたしね。家族連れや友達同士みたいな、楽しそうなお客さんたちを見て、うつむいたりしてました。  
 わたしたちは、その子が気になりましてね。寂しそうなのが気になったのと、あと、知らない子どもが七夕の祭りを楽しんでくれていることが、嬉しくてね。
 地元の商店街の、両親や近所のひとたちが子どもたちのためにって続けている小さなお祭りをここまで楽しんでくれてるということが、嬉しくて。
 お互いに目配せして、その子に駆け寄って、そして友達になったんです。その子、日本語はあまり話せなかったけど、でもわたしの片言の英語と、みんなの身振り手振りと笑顔があれば、なんとかなりました。
 あの夜は、ほんとに魔法みたいな夜でしたね。わたしは熱が高くて、どうにも辛かったけど、その子とみんなのそばにいたくて、家に帰りませんでした。
 そのうち、その子に学校のうさぎを見せたいね、って話になったんです。その頃、わたしたちはうさぎが大好きだったし、特に、飼育小屋にいる年取った優しい灰色のうさぎが大好きで、だから宝物を見せるみたいな気持ちで、その子に見せたかったんだと思います。
 わたしたちは繁華街を離れて、子どもたちだけで、急ぎ足で学校に向かいました。
 あの夜は、ちょうど今夜と同じで満月で、雨じゃないのは良いけれど、天の川が月の光に負けて見えないね、なんて話をしながら歩いていったのを覚えてます。
 そしたらその子がいったんです。月を指さして。『わたしはあそこから来たの』ってたどたどしい日本語で。
『かぐや姫みたいだね』ってみんな笑ったんです。冗談だと思いました。その子はただ笑っていて、何も答えませんでした。その子はその時、小さい声で、自分は○○だ、と、英語で名乗ったんです。わたしはその言葉を耳で聞き取ったけれど、そのときは変だな、と思っただけで、聞き流しました。あり得ない単語でしたからね。
 月の光に照らされて、わたしたち商店街の子どもたちは、その子を連れて夜の小学校に入り込みました。その頃はその気になれば、夜に学校に入るなんてことも簡単にできましたからね。冒険するみたいなどきどきした気持ちになって、学校に忍び込んだんです。
 そして、校庭のうさぎ小屋で、年老いた優しい灰色のうさぎのそばに行ったんです。
 うさぎはその夜も柔らかくて、温かくて。けれど、ほんとうに年老いていて、お別れの時が近いんだって、みんなわかってました。飼育小屋の柵を通して、まるで空から招くように、月の光がさあっと射してきていました。
 わたしたちは、その子に老いたうさぎを手渡し、その子は優しいうさぎを膝に載せて、そっとそっと、白い手で撫でました。
 わたしはいまさらみたいに寂しくなりました。自分の具合が悪いから、というのもあったんでしょうね。そこにいる誰よりも、飼育係として、そのうさぎとのつきあいも長かったですし。ほんとうに、かわいかった。その年の七夕の短冊には、どうかうさぎが長生きしますように、って書いていたくらいでしたから。
 だけど――だめだって、世の中には願ってもだめなことがあるって、わたしも、みんなも知っていました。うさぎはどこか、二度と会えないところへ行ってしまうのだ、と。
 外国の女の子はうさぎを抱きしめて、そしてわたしを、わたしたちみんなのことを、優しい青い目でじっと見つめました。
 そして、月の光の中でうさぎを抱いて立ち上がると、いったんです。
『この子を連れていくわね』って。『向こうにはお友達がたくさんいるから』って。
『向こうって?』
『月の裏側』
 その子は、英語でそう答えて笑ったんです。『わたしたち、ひとでない者が棲むところ』って。そう答えたと思います。
 そしてその子は、わたしに手を伸ばし、熱のある額をそっと触ってくれて――すると、不思議なことに、熱がすうっと引いていったんです。その子は今度は日本語で、わたしたちに優しい声で、いいました。『今夜は楽しかった。これはお礼。わたしの命をわけてあげる。わたしたちは人間と違って、少しだけ、いろんなことができるから。少しだけね』
『人間と違って?』
 女の子は不思議な感じで笑ったんです。そして言葉を続けました。
『朝になるまでに帰らなきゃ。お日様が昇る前に。灰になってしまう』
 英語で。うたうように。『いつも空の上から、人間の街の光を見下ろしていたの。みんな楽しそうだと思っていたの。とても綺麗で、楽しかった。素敵な夜を忘れない。ありがとう』
 その子は、夜空にふわりと浮き上がりました。背中にはえた闇色の蝙蝠の翼を羽ばたかせ、腕にうさぎを抱いたまま、長い黒髪と服をお姫様のようになびかせて。
 その姿は月の光の中を、どんどん遠ざかり、そしていつか見えなくなりました。
 わたしたちは、ただ口を開けて、それを見ていました。夢を見ているみたいでした。それか、物語かテレビアニメや特撮の世界の中に入り込んでしまったみたいな。
 だけど、夢じゃない証拠に、わたしたちはみな、あの子のことを覚えていたし、年老いた灰色のうさぎは飼育小屋からいなくなっていたんですよ。
 でもわたしたちは、その夜のことは、おとなには話しませんでした。自分たちだけの大切な秘密にしました。そして、それからたまに声をひそめてその夜のことを話しながら、あれは夢じゃなかったよね、と確認しあったりしました。
 それから、わたしたちは、改めて、宇宙飛行士を目指しました。もちろんわたしもね。月の裏側に行けば、もう一度あの子と、そして大好きだったうさぎに会えると思いました。宇宙船に乗って訪ねていこうって」
 佐藤さんは、懐かしそうに微笑んだ。
 丸い月を見上げて。
「まあ、実際は、そう簡単には夢は叶うもんじゃありません。わたしたちの誰も、宇宙船には乗れないままに、おとなになりました。
 でもね、いまもみんな、あの夜の不思議な女の子のことは忘れていないんです。そしてわたしはね、いまも、月を見るたびに、あの子とうさぎは、あの月にいるのかな、と思うんですよ。
 お日様が苦手な、蝙蝠の翼を持つ、妖怪の女の子は、人間の街の光を懐かしみながら、いまもあそこにいるのかな、って」

 いつかまた、商店街の夏祭りを復活させたいと思っているのだと、佐藤さんはいった。
「綺麗で素敵な夜の祭りは、終わらせてはいけないと思うのです。いまと未来の子どもたちの思い出にも残っていてほしいから。みんなで長生きして、夏祭りを復活させて、ずっと続けていきたいねってあのときの仲間たちと話してるんですよ。――あの年の夏以来、わたしは元気な子どもになって、熱なんか出さなくなりましたしね。まるで魔法をかけられたように」
 月の光が、暗い水の上で跳ねるように光る。
 静かに、少しいたずらっぽい口調で、佐藤さんは言葉を続けた。
「太陽の光の中では見えないような存在は、いまも月の裏側にはいるのかも知れない。そんなことをわたしたちは子どもの頃、何度も話しました。おとなになったいまは言葉にすることはなくなったけれど、いまも互いの心の中でそう信じてるってわかってます。
 蝙蝠の翼の、八重歯の長い、お日様の光が苦手な女の子――あの子は、あの夜、自分のことを、vampireだってささやいたんです。わたしたちは、あの子が月に帰ったあと、妖怪図鑑の中の、そんな名前の妖怪のことをすぐに思い出しました。
 優しい妖怪の娘は、ひととは違い年をとらないま、いまもあの頃と変わらない姿で、月の裏側にいるのかも知れません。うさぎを腕の中に抱いて。遠い日の夏祭りのことを思い出しながら。わたしたち商店街の子どもが、あの夏の夜を懐かしく思い出すように」

 七瀬は、「素敵ですね」と微笑んだ。
「ありがとう」
 佐藤さんはそういって、「また文庫にいらっしゃい」と笑顔で手を振って、橋を戻って帰っていった。
「ええ。今日も本を借りちゃったから、またうかがいます」
 街の光の中に消えていった後ろ姿を見送って、七瀬は微笑む。
 黒猫が呟いた。
『佐藤さん、お話し上手だったわね』
「そうね」
『臨場感あるっていうか』
「そうねえ」
『いまの話、信じるの? 人間の子どもたちが、妖怪の女の子と友達になったとか――月の裏側に、その子はいまも住んでいるかも、とか』
「わたしたちが信じなかったら、誰が信じるのって気がするけど」
『あ、やっぱり?』
 七瀬はどこか晴れやかな気持ちで、明るい月の表を見上げる。

 幼い日に、焚き火のそばで、お伽話のような物語を聞いたのだ。
 昔、世界には魔女たちだけでなく、妖精や人魚や、巨人や狼人間や、吸血鬼や、そういうお話に出てくるような、ひとでない者たちがたくさん暮らしていたのだと。
 彼らはひとの子のきょうだいのように、ひとの子とともに地上に生きていたのだけれど、やがて人間たちが科学の力を手に入れて、地上の端々までを、知力の光で照らすようになった頃、闇を恐れなくなった頃に、地上を離れていったのだと。
 魔法の力で、空間に扉を開いて。
 月の裏側へと。
 彼らの故郷である地上から近く、きょうだいであるひとの子たちのそばを離れすぎずに、いつまでも見守っていられるその場所で。
 そうして彼らはこの星からいなくなってしまった。だからもう、人間は、昔のようには、妖怪や妖精と出会うことがなくなってしまったのだ。

「いまも、あそこにいるのかしらね」
『そうねえ。いるのかもね』
 優しい吸血鬼の娘は、いつかまたこの街に降りてくることがあるのだろうか。この港町のことを懐かしく思っているだろうか。七夕の夜、一晩きりの彼女の友達だった子どもたちが、いまも彼女のことを友達だと思い、懐かしんでいるということを、知っているのだろうか。
 おとなになってもおぼえていると知っているのだろうか。
(もしかして、その子だけじゃなく――)
 ふと思う。――他の魔物たちも、ときどきは、月から地上に降りてきていたりして。
 ひそかに、街の中に紛れているのかも知れない。七瀬たち、魔女のように。
 たとえば、ニューヨークの繁華街に、ひとのふりをした雪男が、お洒落な背広を身にまとい、流行のスニーカーを履いて、闊歩しているかも知れないのだ。
 そして――。
 ひとの子の友達を作ったりしているのかも。
 ひとの子は、彼らを友達だと思っているのかも。

 古い物語の本を抱きながら、少しだけ、スキップするような足取りで、七瀬は橋を渡りきったのだった。

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作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

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