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魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
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第五話 サンライズ・サンセット(後編)

2019.09.20 更新

 八月十四日、夜。
 満月に近く、丸くなった月が、お盆の中日を迎えた海辺の街を、優しい光で包み込むように照らしていた、その夜のこと。
 生前、この街を愛車とともに走り続けたひとりの運転手が、自宅の屋根の上で、常人の耳には届かないトランペットを高らかに吹き鳴らしていたその夜のこと。
 静かな空にほうきに乗って浮かび、愛する街の様子を見守っていた、老いた魔女、ニコラは、ふとそのまなざしを地上の路地へと向ける。
 そこには、よく日に焼けた少年がひとり佇んでいて、うっとりとした表情で、夜空を見上げ、流れる曲に聴き惚れている。それがわかるのは、メロディにあわせて、ご機嫌な感じでふんふんと鼻歌を歌い、緩くからだを揺らしているからだった。
 野球帽を斜めにかぶった少年は、小学校の高学年くらいだろうか。白いランニングに短パン姿で、その年頃の子どもらしい、華奢でほっそりとした体つきなのに、むきだしの腕も脚もしっかりと筋肉がついて、見るからに運動が得意そうな様子なのだった。口元やがっしりとした顎の辺り、明るく凛とした表情には負けん気な性格も窺える。
(かわいいこと)
 ニコラは目を細めて、少年を見つめる。
 いまはあまり見ないような――そう、昭和の頃にはよくこの街で見かけたような、夏休みの少年の姿だ。
 ニコラのまなざしに悲しみの色がよぎる。
 少年の指が開いた大きな足は裸足で、その姿は月の光を受けていても、路地に影を落とさないからだった。
 そしてニコラはこの少年を知っている。ニコラにはつい最近のことのように思える、けれど人間にはきっと遠い日の、あれも夏のこと、この少年は弟の手を握り、ふたりでニコラの店を訪ねてきたことがあったから。
 眼下のあの少年が、ニコラの記憶のとおりにあのときの子どもなら、あれはいまを生きている子どもではない。あの時代に、どこかで儚くなった子どもだろう。そうか、とニコラはそっとうなずく。あの子もまた、お盆で帰ってきたのだろうか。
 視線に気づいたのだろうか。地上の少年が、ふとニコラへとまなざしを向けた。野球帽を脱いで、『こんばんはっ』と、勢いよく頭を下げた。
『お久しぶりです、魔女様』
「お久しぶり、健太君」
 少し照れたように、でも目を輝かせて、少年はぱあっと明るい笑顔になった。
『俺の……ぼくの名前、覚えててくれたの? 嬉しいなあ』
「覚えていますとも」
 ニコラは微笑み、ふうわりと地上に舞い降りると、魔法のほうきを軽くはらいのけるようにして消した。ほうきはかすかな星のようなきらめきを残しながら、ニコラの手の中に吸い込まれるように消えてゆき、健太少年は、うわあと口を開けて、魔法に見とれた。
 人気のない路地の、少年のそばに立ち、秋の訪れを告げる虫たちの声を聞きながら、ニコラはそっと少年の方に身を屈め、語りかける。
「魔女はお店を訪れたお客様たちのことは忘れないし、あなたたちは――健太君と弟の優司君は、とてもかわいらしい子どもたちでしたもの」
 その姿も。そしてふたりが口にした言葉も。
「わたしがあなたたちに夏休みの宿題を出したこと、覚えてますか?」
『はい』
 健太は嬉しそうに大きな声で答える。そして、言葉を続けた。
『よかった。夢じゃなくて。この街を守る魔女様に会えて、夏休みの宿題を出してもらったなんて、夢だったんじゃないのかな、ってあれから何度も思ってたんです。優ちゃん……弟の優司も覚えていたから、ほんとにあった出来事だったって信じたいって思ってたんだけどさ、でもほら、日本のふつうの街に魔女がいるなんて、物語の本の中の出来事みたいなことがほんとにあるなんて、やっぱりちょっと噓みたいで。……時間がたつごとに、少しずつ、夢みたいな気持ちになってきて、そのたびに弟と魔女様の話をして、夢じゃなかったよね、って話してたんです。
 でも、夢じゃなかった。ぼくがいま実は寝てて、夢を見てるわけじゃないのなら、ぼくはあの日、ほんとうに、魔女様に会ったんだね。あれはほんとうのことだったんだ』
「ええ、いまは夢じゃないわよ」
 ニコラは優しい声で、少年に答えた。
「あなたは、いま、夢を見ているわけじゃない。いまも、そしていまからずっと前のあの夏休み、健太君がわたしと会ったのも、誓ってほんとうの出来事なの」

 そう。魔女ニコラは、昭和の夏の遠い日に、この子が弟とふたり、ニコラの店を訪れたことがあったことを覚えている。
 夏の日差しが降り注ぐ、魔女の店の玄関口で、日に焼けた少年は顎を上げ、好奇心でいっぱいのまなざしで、ニコラのことを見上げていた。その子の後ろに、半ば隠れるようにして、彼の弟だという少年優司が、目を伏せて立っていた。兄とは違って、色が白く女の子のように優しげな姿のその少年は、腕に重そうな物語の本を抱えていた。古びた本には図書館の蔵書の印のシールが貼ってあった。
 優司はときどき、おそるおそるというようにそのまなざしを上げては、ニコラを見上げ、ニコラがそれに気づいて微笑み返すと、頰を赤く染めて、内気そうに視線を床に落とすのだった。
「初めまして、魔女様。佐藤健太です。こっちは弟の優司」
 健太は大きな口でにかっと笑うと、弟を自分の前に出し、ニコラに頭を下げさせた。
「えっと、弟が魔女や魔法使いが出てくるような、分厚い本が大好きで、外に遊びにもいかないで、家で本ばかり読んでるんです。もう、一日中。そういうの、健康に良くないと思ってたんですよね。そしたら弟が、この街には魔女がいるって話があるけど、ほんとうなの、って訊くから、じゃあほんとうかどうか探しにいこうって、出かけることにしたんです。
 俺……ぼくも、魔女様に会ってみたかったし、もし会えたら、夏休みの自由研究にすればいいかな、って思って。へへ、いいこと思いついたと思っちゃったんですけど、来てよかったです。会えたもの」
 少年は、ひまわりのような笑顔で笑う。その陰で、弟の優司ははにかむように笑っていた。似ていないけれど、握りあう両手の様子から、ふたりが仲良しなのが見て取れた。
 ニコラの店は、食事やお菓子を用意するお店。いまほどではないけれど暑い夏の日のことだ。ニコラはふたりに、ひんやりとする夏の甘いものを出してあげた。
 赤いチェリーを載せた、バニラの香りのする甘いミルクセーキと、同じくチェリーと薄く切ったバナナを添えた、艶やかなプリンだ。プリンには茶色く透き通るカラメルシロップも載っている。アラザンを散らした生クリームも。
 長い銀のスプーンと銀のフォークを使って、子どもたちはうっとりとした表情で冷たく甘いものを楽しんでくれた。
 ニコラの店の窓には、青や緑、水色の、海のような色合いのステンドグラスが入れてある。ステンドグラス越しの光の中で、子どもたちがふたり並んで、まるで絵のような様子でテーブルにひじを突き、スプーンでひとさじすくうごとに、美味しい美味しい、と声を上げていた幸せな情景を、ニコラはいまも覚えている。
 ニコラの店は、人ならぬ身にはなかなかたどり着けない場所にあり、そこで供される食べ物も飲み物も、いわば辿り着いたことへのご褒美のような意味合いもある特別な品だった。
 そしてもうひとつ。この街を密かに守る魔女の店に辿り着けたひとの子が得ることのできる恩恵がある。
 願い事を何でもひとつ。言葉にして残していけば、気がつくといつかそれは叶っている。ニコラが祝福のまじないをかけるからだった。

 子どもたちにその話をしたら、健太は、え、っと叫んだあと、
「どうしようかな。あれにしようか、それともこれに」
 と、首を振ったり、爪を嚙んだりしながら、考え始めた。
「長嶋のホームランボールが欲しいかな。できればサイン入りのやつ。いや、学校の野球チームでエースになりたいし、三番も打ちたいな。いっそ、おとなになったらプロ野球の選手になりたい。大リーグにスカウトされて、アメリカで活躍するのっていいよなあ」
 夢見るような目で、うたうようにいった。
 一方で、弟の優司の方は、最初は頰を紅潮させて、本をぎゅっと抱きしめ、何事か考えていたようだけれど、そのうちうんとひとつうなずくと、ニコラにいった。
「魔女様、ぼくの願い事は、お兄ちゃんの願い事と同じでいいです。お兄ちゃんの願い事を叶えてあげてください」
「えっ」
 健太は絶句した。
 ニコラは優司に訊ねた。
「あなたには叶えてほしい願い事はないの?」
「うーん」と、優司は恥ずかしそうに頭をかき、そして考え考え、少しずつ、こんな言葉を口にした。
「もしかしたら、ずっとあとになったら、あのとき自分も願い事をすればよかったって思うかも知れないけど、ぼくはいま本物の魔女様に会えて、それだけでとても嬉しいから、これ以上は、もういいです。お話の世界の中に入ったような気持ちになれたから。
ぼく、いつかこういう、不思議とか魔法とか、そういうものに出会ってみたかったの。魔女も魔法使いも、お話の中だけの存在じゃなく、ほんとにいるんだって、思いたかったから。目に見えることだけが世界じゃなくて、ふだんは見えていないところに、魔法はちゃんとあるんだって信じたかったから。
 だから、その分、お兄ちゃんの願い事を応援したいんです。お兄ちゃん、叶えたい夢があるから。だからぼくはいいの。お兄ちゃんのおかげでここに来ることができたし、いつもお世話になってるから」
「お世話って、なにいってるんだよ、おまえ」
 健太は弟の頭をこづくようにした。いて、と、優司は笑う。
 ニコラは笑った。
「わかったわ。じゃあ、健太君の願いが叶うように、わたしは倍、おまじないに想いを込めるようにしましょう。
 それで健太君、あなたは何を願うの?」
「……」
 健太は自分の頭をかきむしるようにして、そしていった。
「ちょっとたんま、ってことでいいですか? 『考え中』ってことで」
「考え中?」
「魔女様がほんとにこの街にいて、ぼくの願い事を叶えてくれるなんてすごいことが起きてるのなら、すぐ思いつくような、そんなに簡単な願い事じゃもったいないって思って。だからちょっとだけ考える時間をください。思いついたら、またこの魔女のお店を訪ねてくるから」
「ここにまた来るのは、なかなか難しいかもよ?」
 少しだけ意地悪な口調でニコラが笑うと、少年はぶんぶんと強く首を横に振り、誓うようにいった。
「俺、いや、ぼくはきっとまたここに来ます。三日月町の魔女の家に。
 そして、魔女様に願い事を聞いてもらうんです」
 少年はそう約束し、そして弟とふたり、運河をわたる橋を通って、ひとの街へと帰っていった。
 一歩一歩歩きながら会話する、その言葉が、夏の風に乗って、ニコラの元に届く。
「お兄ちゃん、エースで三番打者になりたいって、そんなに簡単な願い事じゃないと思うよ。プロ野球選手になりたいっていうのも、大リーグで活躍したいっていうのも」
「そんなことないよ」
 朗らかな声で、健太は答えた。
「それくらい、兄ちゃんは自分で努力して叶えることもできるからさ。魔法に頼らなくても。きっとね」
「ほんと?」
「だって兄ちゃん、才能にあふれる男だし」
「そっかなあ」
「なんだよ、信じろよ」
 子どもたちはじゃれるように取っ組み合いをしながら、橋を遠ざかってゆく。
「だからさ、優ちゃん。魔法で叶える願い事は、もっとずっと大切な、かっこよくて素敵なことにしたいって兄ちゃんは思うんだよ」

「ここへ戻ってくるのは、ひとの身には骨が折れると思うんだけど」
 運河をわたる風に乱れた後れ毛をかきあげて、ニコラはそっと笑った。けれどあの子はまたここへ帰ってくるだろう。そうも思っていた。魔女の予感ははずれない。
 それからは来客の気配がするたびにあの子かと思い、そうでないと知ると、がっかりもした。気がつくと、待っていたような気がする。特に、あの子たちが訪れたような、夏の日の午後には。
 けれど、それきり、あの少年も、そして弟もニコラの店を訪ねることはなかった。長い時を生きる魔女にはつい昨日のように思えた出来事だけれど、気がつくと、人間にはずいぶん遠い昔のことになっていた。
 そして、いま目の前に立つ少年は、あの日と同じ日に焼けた肌をして、野球帽に白いランニング姿。快活な笑顔を浮かべているけれど、明らかにもう生きてはいない。生きている子どもはこんな夜更けにひとりで街を歩かないし、裸足で街角に立っていることもない。
(何よりも――)
 夜空に流れる、死者が奏でるトランペットの音色に耳を傾けることもないだろう。

「願い事、思いついたの?」
 たんま、考え中、とあの日の彼はいったけれど、ずいぶん長い「たんま」になったものだ。
『うーん、それはまだ』
 少年は腕を頭の後ろにやって、照れくさそうに笑う。
『俺、いやぼくはやっと街に帰ってきたばかりだから、まだあの宿題のことは何にも考えてなくて。よくわからないけど、ここに戻ってくるのにすごい時間がかかったみたいだから、一度家に帰って、弟に相談しなくっちゃ』
 気がつくと、少年のからだは水に濡れている。足下に闇の色の水たまりができている。少年は大切そうに何かを――どうやら野球のボールのようだーーを持っているのだけれど、それからも絶え間なく、水滴がしたたり落ちていた。
 見つめるニコラの視線をどう思ったのか、少年は笑って教えてくれた。
『あの日、願いたかったことのひとつね、長嶋のサインボール、ぼく、冬休みの雑誌の懸賞で当てたの。で、嬉しくて友達に見せたくて、優司と一緒に、港のそばの公園に、ボールを持って走っていったんです。学校帰り、よくみんなでそこに集まって、遊んでたんで。
 友達が来るまでの間、優司とふたりでキャッチボールしてました。そしたら、優司が投げたボールをぼく、うっかりして受け損ねちゃって。優司のやつ、勢い余って、遠くまで投げちゃったんですね。はしゃいでたんだと思います。あの日、ぼくもうきうきしてたし。で、ボールが、海に落ちちゃったんですよ。
 ぼく、公園の柵をつかんで、海に飛び込んで。泳ぎは得意だったし、ボールは波の上に浮いてるし、すぐ掬えるかと思ったんだけど――』
 少年の笑みを浮かべていた口元が、曖昧な感じにゆがんだ。
『水が冷たかったし、海も、浅そうに見えたけど、深くて。足が立たなくて。ぼくは、そのうちボールのことを見失っちゃって。――でも気がついたら、からだが軽くなってたし、魚みたいにじゃぶじゃぶ泳げるようになってたから、ぼく、それからずっと、見失ったサインボールを探してたんです。海のどこかにボールはあるはずだから。それにきっと、優司が、弟が自分のせいでボールが海に落ちたんだって、しょげてると思ったから。早く探して、持って帰ってあげなきゃって。
 探して、ずいぶん長い間探して。海は広くて、すごく。昼も夜も探し続けて。ヨットや豪華客船やいるかやくじらともすれちがって。どこまでも泳いで。ずいぶん遠くまで探しにいって。でもやっと見つけたから、この街の海まで戻ってきたんだけど――気がつくと、何だか、長い時間がたっちゃったみたいで』
 あの日と同じ姿をした少年は、肩を落とす。
『一度家に帰って、それから出直してもいいですか? 優司にこのボールを渡して安心させてやらなきゃ。あと、父さん母さんも、ぼくがずいぶん長く家に帰ってこないから、きっと怒ってると思うし。家出したって思われてたら困るし。ぼく、優司と違って、いつも危ないことばかりで。高いところ大好きで、飛ぶのも大好きで、ブランコやジャングルジムから飛び降りるの好きだし。藪に飛び込んで、有刺鉄線なんかにも突っ込んじゃうし。自転車で石段を下りようとして、下まで転がり落ちたりとか。
 きっとまた、怒られちまうと思うけど、今度ばかりはすごい心配させちまっただろうから、ここはぼくもおとなになって、仕方ない、怒られてやろうかなと思って』
 健太少年は、少しだけ鼻をすするようにして、笑う。
 ニコラは静かに訊ねた。ああこの子は、気づいていないのかも知れない、と、心の中でしんとした切なさを感じながら。
「――あなたは、お盆だから、帰ってきたのではなかったの?」
『お盆?』
 ぴくりと少年は肩を震わせる。
「今日は八月十四日。お盆ですもの」
 違うよ、と少年は弱々しい笑顔を浮かべて、首を横に振る。
『ぼくはボールが見つかったから、やっと今日、帰ってきただけですよ。たまたま、今夜だっただけで。お盆に帰ってくるのは、死んだひとでしょう? 海の向こうの、ええと、西方浄土ってところから帰ってくるって、前に誰かから聞いたことが』
「ええ、そうね」
 少年はうつむいて、少しだけ笑った。
『……もしかして、ぼく、死んじゃってるんでしょうか?』
「ええ。たぶん」
『そっか、道理で、からだが透けてるみたいな感じなんだ。ひとにぶつかりそうになっても、誰もよけてくれないし、ぶつかっても痛くないの。ごめんなさいって謝っても、聞こえないみたいに無視されて。あれ、無視されてたんじゃなくて、ほんとに聞こえてなかったんだ。ぼくの声はもう聞こえないし、姿は見えないんですね。お化けだから』
 少年は黙り込み、やがて、呟いた。
『なんかね、薄々わかってはいたんだ。俺――いやぼくはたぶん、死んじゃってるんだろうなって。ずっと昔に、お化けになってたんだろうなって』
 少年は、ランニングから見える丸い肩に、ぎゅっと力を込め、手の中のボールを握りしめた。うつむいたまま、しばらく黙り込んでいた。 
『――ま、いいや』
 顔を上げたときには、もう明るい笑顔に戻っていた。
『俺ね、いやぼくはずっと落ち込んでるって、性に合わないんだ。お化けになったからってね、その辺変わりやしないんです。
 もう落ち込むのはやめにした。帰ってきたのがたまたま今日だったなら、じゃあ仏様になったつもりで、家に帰ることにします。帰っても、ぼくのこと、誰にも見えないのかも知れないけど、でもせっかくだから。ていうか、せっかく見つけたボール、優司に渡したいから』
 泣きそうな笑顔で少年は笑い、手の中の濡れたボールを左手で握りしめると軽く投げるようなポーズを取った。
『ちぇ。友達みんなにこれを自慢したかったのにな。――でももしかして、あれから時間がたったのなら、みんなもう、サインボールなんて、興味ないのかな。俺のことも、忘れちゃったかな』
 優しい声で、ゆっくりとニコラは少年の亡霊に話しかけた。
「そうね。だいたい、四十と数年くらいは、時間が流れてるかもね」
『へへ』と、少年はおかしくてたまらないというように笑った。
『なんだかなあ。じゃあ俺だけ残して、みんなおとなになっちまってるじゃあないですか。――優司も、もう立派なおとなだ』
 手の中のボールに視線を落として、少年はそっと笑う。
『もう、こんなのどうでもいいのかなあ。懸賞が当たったとき、すごい喜んでたけど。――でもまあ』
 少年はさばさばしたような明るい表情になって、ニコラに、じゃあ、と片手を挙げた。行ってきます、と。
 裸足の足で、軽く地を蹴り、ふわりと宙に浮き上がる。
『お、こりゃ面白いや』と表情をほころばせた。
『そんな気がしてたんです。ぼく、空を飛べるんだ。お化けですものね。オバケのQ太郎が飛んでたから、ぼくも飛べるかなって思って。こんなにからだが軽いですもんね。お化けになるのも、悪いことばっかりじゃないな。そうだよ、俺、高いところに上がるのも、飛ぶのも大好きだったんだもの。
 よし、新幹線よりも、飛行機よりも速く、行ってきます』
 少年は、ニコラに敬礼をすると、夜風に乗って、軽やかに舞い上がり、家路を辿ったのだった。

 少年がニコラの元へ帰ってきたのは――魔女の家を訪ねてきたのは、翌十五日、この街のお盆のおしまいの日の夕方のことだった。
『ただいま、魔女様』
 少年はいつの間にか店の中にいて、えへへ、と照れたように片方の手を挙げた。
『うちに帰ってきました。笑えるんですよ、父さんも母さんも、テレビドラマやマンガのなかのひとみたいに、すごい年とってました。しわしわになっててさ、おじいちゃんおばあちゃんになってるの。家もさ、なんか古くって、ぼろくなっちゃっててさ。ほんと笑えるの。なのに、子ども部屋の俺の机だけ、元のままなの。それで、古い家の、仏壇の前で、年取った父さんと母さんが、線香を焚いて、懐かしそうに俺の思い出話とかしてるわけ。お化けになった俺がそこで話を聞いてるなんて気づかずにさ』
 そういいながら、少年は鼻をすすり、目元をこするようにした。
『仏壇にぼくの写真が飾ってあったんです。ピースとかしてるやつ。難しい漢字が書いてある御位牌とかあって。で、ぼくの好きだった、チョコもキャラメルも飴も、たくさんお供えしてあるの。生きてた頃は、虫歯になるからって、あんまり買ってもらえなかったのに。ああ、ぼく、ほんとに死んじゃったんだなあ、と思いました。お供えのお菓子、食いたいなあ、なんて思ったよ。話しかけてもふたりとも気づいてくれないから、ぼくも仏壇のそばにあった空いてる座布団に正座して、うんうんってうなずきながら、話を聞いてたんです。
 でね、思ったんです。父さん母さん、ごめんね、って。ぼくね、生きてる頃は、野球が大好きだってことくらいしか取り柄がなくて、学校の成績も体育以外は3ばかりだし、やんちゃなことしてしかられてばっかりで。だから、正直いって、優等生の弟の方がきっとぼくよりもかわいくて、馬鹿なぼくのことなんかどうでもいいんだろうなんてちょっと思ってたんだよね。だってさ、あんまりいつもいつも𠮟られてたもんだから。たまにいじけてたの。
 でもそうじゃなくて、ぼくのことも、大事に思ってくれてたんだなって、死んでから、わかった。親孝行なんかできなくなってからやっとさ。
 俺、ほんとに馬鹿だったんだなあ』
 少年は笑うと、細い腕で伸びをするようにした。その片方の手にはまだ、あのサインボールが握られていた。ニコラの視線に気づいたのか、
『弟のところにいまからボール配達に行ってきます』
 そういって少年は笑った。
『おとなになった弟は、東京で出版社に勤めてるんだって。子どもの本を作る会社で働いていて、毎年お盆休みの頃には帰ってきてたんだけど、今年は仕事が忙しいから、まだ仏壇を拝みにきてないんだって、父さん母さんが話してたからさ。ここはひとつ、仏様の方から訪ねていってやろうかと思ったんです。お盆特別大サービス、なんて。
 あいつ、どんなおとなになってるんだろう。プロ野球の選手になってくれてたらよかったんだけど、運動苦手だったし、しょうがないか。子どもの頃のまんま、本が好きなおとなになったんだなあ』
 それじゃ、と店を出かけて、軽やかに少年は振り返る。
『弟に会ってみて、それから魔女様の夏休みの宿題の答え、考えようと思います』
 扉を開けないまま、透き通るように少年のからだは店の外へ駆けていった。少年の気配が、風に乗り、都会へ向けて飛んでいくのがニコラにはわかる。寂しさよりもときめきや懐かしさの方が、彼の心の中では勝っているだろうということも。子どもというものはそういうものなのだ。特に健太のように、明るくて冒険や無茶なことが好きだった子どもなら、きっと。
 鳥が羽ばたいていくように、空を遠ざかる気配を、見守るような気持ちで感じつつ、ニコラはふと思った。――彼女が出した「宿題」が、あの子どもにとって、人生最後の夏休みの宿題になるのかしら、と。

 東京、西新宿にある高層ビルの中のひとつ、その上層階の二つのフロアに、佐藤優司の勤めている出版社は入っている。規模としては小さいながら、戦後、まだ日本に焼け跡が残っていた頃に起こされた子どもの本の出版社のひとつとして、長く良書を作ってきた。優司は学生時代から、子どもの本と関わる仕事に就きたいと夢見ていて、この出版社の本と姿勢に惚れ込んで、自らもそこで本を作る道へと進んだ。年月を重ねるうちに、それなりに役職にも就いたけれど、いまも本を作る現場から離れてはいない。
 八月十五日、月遅れの盆であるこの日は、優司の会社は休みではないものの、仕事相手のいろんな会社は盆の休みを取っているところも多く、優司の属する編集部でも、夏休みを取っている者が何人もいた。遠くへ旅行に行ったり、子どもを連れて里帰りをしたり。優司自身もーー彼は子どもには恵まれなかったのだが、妻が休みが取れれば伴って、タイミングが合わなければひとりで、里帰りに当ててきた時期だった。
「――今年はちょっと休み損ねちゃったなあ」
 秋に刊行する本のゲラを読むのにまとまった時間が欲しくて、どこで読むかと考えると、お盆の時期の数日しかなかったのだ。
 今年は秋のお彼岸の頃に帰ろうと思う、と両親には連絡をしてあった。お兄ちゃんにもそう伝えておいてね、と。
『なんだよ、もう。寂しいなあ』
 口をとがらせる、小学生時代と同じ顔の兄の表情が見えるような気がした。でもきっと、兄は――兄の霊は、『仕事じゃあ仕方ないな』と、笑って許してくれるだろうと思った。
そういうひとだった。子どもながら、筋の通った考え方ができる、物語の主人公のようだった少年。
「ていうか、ヒーローだったよなあ」
 野球が得意で、誰よりも足が速く、元気だった兄。高いところから飛び降りたりして、いろんな無茶やけがをしても、ひるまずに冒険を繰り返していた、無鉄砲な英雄。でも、間違ったことや弱い者いじめはしなかったし、落ち込むことがあっても、すぐに元気になって明るい笑顔を見せた。いつだって、兄は優司の憧れのひとだった。
 その年齢を子どもの頃に追い越して、長くたったいまでもそれは変わらない。
 優司は子どもの頃、兄に嫌われたくなくて、いつも兄に恥ずかしくないように生きてきた。誰にも――兄本人にもその話をしたことはなかったけれど、いつだってそれが、彼の行動原理だった。
「ほんとうは、お兄ちゃんみたいに野球が得意ならいちばんよかったんだけど……」
 優司だって野球は大好きだった。王も長嶋も神様みたいに思っていた。けれど、兄の背中を追いかけようとしても絶対に追いつけないくらいに、優司は足が遅かったし、優司は兄と違って、雨の日も晴れの日も、ずっとお日様の下にいられるほど、健康に恵まれたからだでもなかった。
 だから、優司は自分にできることでがんばった。勉強を頑張り、間違ったことはせず、佐藤健太の弟にふさわしい少年であるように。健太はそんな優司を、おまえは賢いなあ、なんでも知ってるんだなあ、かっこいいよ、と、誉めてくれ、かわいがってくれた。
 遠い日の水の事故で、健太が自分のそばからいなくなったあとも、幻のように――いや実際、それは優司の願うままの幻想だったのだろうけれど、健太の姿や笑顔、声は、優司の中に残り続けた。立派な弟であろうと頑張り続ける優司をいつも見守り、励まし、誉め続けてくれた。
 いまおとなになった自分を、優司は内心けっこう気に入っていて、そんなとき、兄が自分を育ててくれたようなものだな、と、思うのだ。

 窓の外の広々とした空は、気がつくと金色を帯びた夕暮れの色になっていた。
 広いフロアに、午後まではほかの編集者たちもいたけれど、読み込んでいたゲラから目を上げると、優司ひとりがぽつんとそこにいるのだった。
 節電のために、ひとのいない辺りの照明は落としてあるので、フロアはなんとも薄暗く、寂しげな感じになっていた。何しろ誰もいないので、防音がきいた部屋の中は、ただひたすらにしんとしている。天井のエアコンが風を送り出す音や、部屋の遠くにあるウオーターサーバーが内部の水を循環させるための音が聞こえるくらいだ。どちらも普段はまるで意識しないような静かな音だ。
「何だよ、ぼくひとりかよ。寂しいなあ」
 つい独り言が口からでるのは、窓越しに見える空が澄んでいて、綺麗すぎて見ていると切なくなるからかも知れない。毎年、盆と正月前後には、都内は人口が少なくなって、車も走らなくなり、そのせいか空気は澄み、空が美しくなるという話がある。
 優司は席から立ち上がり、窓から広い空を見た。
 二十階の窓から見ると、周囲の同じような高層ビルはSFの中の情景のように見える。眼下に広がる新宿の街並みは、模型のようだ。窓ガラスに、夕暮れの光が射して、まばゆく輝いている。金色の炎がうっすらと燃えているような情景にも見えた。
 背の低いマンションや古いビルと、街路樹や公園の緑が、高層ビル群と入り交じって、不思議な情景を作り出していた。
「怪獣や宇宙人が歩いてそうな情景だよなあ」
 ウルトラマンが――ヒーローが空から舞い降りて助けに来てくれそうな情景だということでもある。
 ねぐらに向かうのだろうか、鳩が翼を輝かせながら、ゆったりと目の前の空を羽ばたいてゆく。この窓の高さは、鳥の目と同じ。魔女がほうきで空を飛ぶなら、これくらいの高さの視点になるのだろうか、と、優司は口元に笑みを浮かべて思う。
「お兄ちゃんにこの眺めを見せてあげたかったな」
 高いところが大好きだったあの少年は、きっと夢中になって、窓の外の景色に見入っただろう。子どもの頃の夢とロマンをそのまま現実にして広げたような景色にうっとりしただろう。朝から晩までそうしていても飽きなかったに違いない。――自分だって、若い頃からもう長いこと見ていても飽きることのない情景なのだから。
「お兄ちゃんに、ここから飛び降りたい、なんてわがままいわれたら、きっと困ってただろうなあ」
 くすくすと優司は笑う。
 いくらあの兄でも、この高さから落ちればさすがに助からないだろう。子どもの頃の自分と兄が大好きだったテレビアニメや特撮のヒーローたちならば、新宿の高層ビル街を縦横無尽に駆け抜け、ビルの上を走り、屋上から飛び降りて、世界を恐ろしい悪人たちの手から守り抜いていただろうけれど。
「――この空と街を見せてあげたかったなあ」
 優司は微笑み、久しぶりに、兄がここにいればよかったのに、と思った。自分と一緒に、ここにいたら楽しかっただろうなあ、と。
「あのボールを、ぼくがちゃんと投げていれば」
 兄は生きていたのだろうかと思う。優司に背中を見せたまま、おとなになり、いまも憧れの存在のまま、スーパーヒーローとして生きていてくれたのだろうか、と。
(お兄ちゃん、プロ野球の選手にはなれなかったかも知れないけれど)
 心の内に勇気と冒険心を抱いたまま、明るい笑顔を浮かべたおとなになり、日本のどこかで、社会を支える一角の人物になっていたに違いない。
「――そんな兄貴と話してみたかったなあ」
 いろんなことを。
 もうお兄ちゃんという呼び方でなく、兄貴、なんて呼びかけるようになった健太と、おとな同士の会話をしてみたかったと思う。
 笑みを浮かべたまま、うつむき、目元に浮かんだ涙を拭う。
 それが叶わない夢になってしまったのは、自分のせいだとわかっている。兄が海に沈んだあの日から、優司は永遠の不在を抱えて生きている。帰ってこないとわかっている兄を待ち続けているようなものだった。
「でもね、お兄ちゃん」
 優司は空に話しかけた。
「お兄ちゃんが世界に存在していたということを、どんなにかっこいい人間だったかっていうことを、ぼくは忘れないから。――そしてね」
 いままで作ってきた、一冊一冊の子どもたちのための本、そのすべてに、あの頃の自分と健太の思い出が込められているのだと思う。あの頃考えていたこと、好きだったこと、嫌いだったこと、怖かったこと。夢見ていたこと。
 時代が変わっても、子どもの魂の深奥の、変わらない部分があると優司は信じている。自分の中のその部分を通して、優司は本を編む。
 わからなくなったり迷ったりしたときは、心の中の兄に相談することもあった。そうすればきっと、道は開けた。
「ぼくたちは、ずっと一緒だったんだよ。二人三脚みたいに、ふたりでたくさんの本を作ってきたんだ」
 この秋に刊行する本は、あの頃の自分たちきょうだいのように、野球が好きな子どもたちのために編んでいる本だった。子どものための野球入門であり、野球の歴史の本であり、同時に、より早く投げ、打ち、走るための技術論や方法論にも触れた、分厚い、野球百科事典のような本。子どもから読めるけれど、成長し大きくなっても、本棚の片隅に置いておいてもらえるような、完成度の高い、質のよい本を目指した。
「いまの時代の、そして未来の野球少年少女たちへの贈り物であり、生涯の友達になるような本にしたいと思っているんだ」
 健太のように、野球が好きで得意な子どもたちのための。そして子どもの頃の自分のように、野球が好きでも運動があまり得意ではない子どもたちのための野球の本。
「ずっと前から、企画は心の中にあったんだ。若い頃、子どもの本の編集者になった頃からかな。でも、あっという間に時間がたっちゃってね。気がつくとぼくもこの年になってて。この仕事をしているうちに、あと何冊の本を作れるだろうと思ったとき、この本だけはきっと現実のものにして、未来に残さなきゃと思ったんだ。
 ぼくがこの先、この会社や世界にいなくなって、ぼくやお兄ちゃんのことを記憶しているひとがいない世界に、未来の世界になっても、たくさんの子どもたちへの贈り物として、この一冊が残るように」
 著者と違って、編集者が本を通して名前を残すことはまずない。けれど、本をかたちにする魔法の力は、およそ編集者だけが持つものであり、ほかの誰にもできるものではないのだ。そうして世界に誕生した一冊の本は、そこから未来へと、時を超える長い旅にでることができる。その本に関わった著者や編集者をはじめとする多くの者たちがその生涯を終え、世を去ってしまっても、遙か未来まで辿り着く可能性のある旅人になる。
「旅の先、遠い未来をぼくらは見ることはできないけれど、遠くへと送り出すことはできる。この手で思い切りボールを投げるように、本を遠くへと送り出すよ」
 優司は黄昏色の空を見上げて、微笑んだ。
「大丈夫。今度は失敗しないから」
 子どもの頃、思い切り暴投してしまったあの日と違って。
 今度はきちんと、思うとおりに投げてみせる。
 まあちょっと勇気がいることではあるんだけどね、と、そっとひとりごちる。会社のほかの社員たちの前では言葉にできない、見せられない、自信のない言葉と、表情で苦笑する。
 今回の野球の事典は、いずれはwebサイトと連動して、たくさんの資料や容量の大きな動画も見られるようにしようと思っている。新しい情報を常にアップデートしてゆく予定もある。あってはいけないけれど、本文やwebサイトに記述や内容の誤りがあれば、即座に訂正していくつもりだ。
 ゆくゆくは会員制サイトを立ち上げて、読者や学校、スポーツ少年団や保護者たちにも交流をさせよう――などと考えていったら、初期の企画より派手で大きな企画になった。
 つまりは、その準備のそのまた準備のためもあって、今年の盆の里帰りができなくなった、というわけなのだった。
 ほかの出版社では、似たような企画が過去に立ち上がり、成功もしているけれど、それよりもずっと大がかりだし、優司の出版社では扱ったことがないような企画だった。前例がないということと、やはりこの業界は体質がやや古く、紙の本だけを丁寧に作っていればいいのでは、という声も多い中で企画を通すのは、いまの優司の立場でも、それなりに難易度が高かった。
 企画が通り、本体の本の原稿がそろい、編集する時期になったいまも、前途を考えると胃が痛くなることがある。これから先に起こりそうなトラブルをいちばんリアルに想像できているのは、発案者の優司自身だからだ。
「まあ次々に困難がやってくるのは目に見えている企画だけどね。実現したら、絶対に子どもたちは喜ぶと思うんだ。だから、頑張るよ」
 まだ地上には存在しない一冊の本。本を中心に広がってゆくサービス。たぶんそれは、いまの時代に合わせた、進化した本の姿だ。
 この本があれば、あの頃の自分と兄はきっと夢中になる。
 そんな確信があるから、実現させてみようと思うのだ。

 目をぎゅっとつぶり、拳を握りしめる。
「――頑張るよ、お兄ちゃん。このボールはちゃんと投げる。絶対に、見失ったりしない」
 そのとき、誰かの手が、軽く肩に触れたような気がした。
『おう、頑張れ。見てるからさ』
 風が吹き過ぎるように、懐かしい声が聞こえたような気がした。
 はっとして目を開ける。
 瞬間、視界のはしに、白いランニングに短パン姿の、日に焼けた少年の姿と、明るい笑顔が見えたような気がした。
 そして、人気のない、いつもより照明を落とした編集部の自分のデスクの、さっきまで見ていたゲラの束の上に、薄く光を放つように置かれているのは――。
 信じられない、そんな表情で、優司はゆっくりとデスクに歩み寄り、濡れたボールを手に取った。
「――長嶋の、サインボール」
 古びて汚れたボールからは海水の匂いがした。
 優司はボールをぎゅっと握りしめ、胸元に抱きしめた。
 その手に落ちる自分の涙の、その音を聞きながら、笑った。
 お盆だもの。こんな奇跡があったっていいのだろう、と思った。
 そもそも優司は、奇跡を信じることには慣れている。――何しろ、少年の日に、故郷の街で街を守る魔女に会ったことがあるのだから。あの日、魔女の存在を信じたことに比べれば、お盆に兄の霊に会うことくらい、まったくリアルな出来事といってもよいだろう。
 優司は笑顔のまま顔を上げ、黄昏の光の色に染められた部屋を見回し、いった。
「お盆にぼくが帰らないから、会いにきてくれたんだね。ありがとう」
 広い部屋の中に、そして窓の外に、健太の姿は見えなくても、どこかにあの少年がいることを感じていた。そのまなざしがそばにあることを。
 兄とはあの日、別れたけれど、それは永遠の別れではなかったのだ。
「見ててね。ぼく、頑張るよ」
 遠い日に教わったとおりに、ボールを右手に握りしめる。縫い目に指を沿わせてーーそう、覚えている。教えてくれた兄の声とともに。
「きちんと未来に投げてみせるよ」
 子どもの頃のように、あの兄に誉めてもらえるように。かっこいいよ、といってもらえるように。

『魔女様、ただいま』
 海辺の街の空がゆっくりと夜の色に染まってゆく頃、白いランニングの少年は、ニコラの店に帰ってきた。
 その手にはあのボールはない。弟に届けることができたのだろう。
 上機嫌な、明るい表情で、少年は笑った。
『へへ。優司の奴さあ、すっかりおじさんになってて、最初は笑っちゃったけど、かっこいいおとなになっててさ、なんかこう、嬉しいっていうか、ほっとしちゃいました。あいつは、大丈夫なんだってさ』
 少年のままの姿なのに、おとなびた、優しいまなざしをした。
『でも、願い事を叶えてもらえるなら、魔女様、あいつの夢が叶うように力を貸してほしいです。あいつが作っている子どものための野球の本が、立派に完成するように。未来まで、届いていくように』
「わかったわ」
 ニコラはうなずいた。
「あなたの――あなたたちきょうだいの夏休みの宿題、きちんといま、受け取りました。この街を守る魔女のニコラが心を込めて、まじないをいたしましょう」
 子どもたちの想いが、未来に届くように。
 この子たちが、この時代、この世界に生きていたという記憶が、本を通して未来まで届くように。

 やがて日は落ち、夜はとっぷりと暮れてゆく。
 この数日、海辺の街に還ってきていた魂たちは、また、海の彼方の世界へと帰っていく。
 残してゆく家族や友人たちに見えない手を振り、笑顔で頭を下げ、街の西の港の方へと、透き通る足取りで歩いてゆく。
 また来年、八月に戻ってくるから、と家族には聞こえない声で、そっとささやきながら。

 ニコラの店は、今日も窓辺に古い明かりを灯し、行き過ぎるひとびとを見送り、見守っていた。
 店の中には、健太少年のほかに、先ほど訪れたお客様たちもいた。
 ひどく老いた母親と、防空頭巾を愛らしくかぶった、もんぺ姿の少女だった。
 幸せそうな笑みを浮かべて話しているこの親子の、母親はこれが初盆。彼女の場合は、昨年ではなく、今年の初夏に亡くなったばかりだった。
 彼女の家はもうない。長く入所していた老人ホームに帰ってきていた。最後の日々、親切にしてくれた職員さんたちや、日常をともにした友人たち、なついてくれていたコンパニオンアニマルの動物たちに挨拶をして、西方浄土に帰ろうとしているところだった。
 ずっと昔の若い日に、ニコラの店に辿り着いたことがあったので、懐かしくなって、その帰途の前に、立ち寄ってくれたのだそうだ。
 遠い日の彼女の願いは、昭和の時代の空襲で亡くした我が子ともう一度会い、明るい照明の下で、たくさん笑い、お話をして、甘いものをたくさん食べさせてあげること。
 長い時間がかかったけれど、その願いはいま叶い、老いた母親は、愛娘と楽しい時間を過ごしていた。
 砂糖と生クリームをたくさん使った、甘い甘いババロアにプリン、バナナを贅沢に使ったムース、キャラメルとチョコレートのソースがかかったケーキ。それが懐かしく美しい銀や陶器のお皿に載っているのだ。戦争で焼けた家と一緒になくしたはずのお皿たちに。外国のお菓子だけではなく、女の子が大好きだった、どらやきにぜんざい、あんみつだって、載っている。お菓子作りが得意だったお母さんが、女の子に作ってあげたくても、材料が手に入らなくて作ってあげられなくなった甘いものがたくさん。
 それは何もかも戦争が終わる日が来れば、作ってあげたいと思っていたものばかりで、母親は優しい魔女に感謝しながら、女の子にあれもこれもと勧めてゆく。
そのうちにふと気づく。しわだらけ、しみだらけだった自分の手が、若い頃、女の子と暮らしていた頃と同じように、白くなめらかな手に戻っていくことに。気がつけば、テーブルの上の銀の食器に映っている自分の顔が、若い日のものに戻っていることに。
『お母さん』
 女の子が、嬉しそうに母親の腕に抱きついて、その顔を見上げる。
『ずっと一緒にいられて嬉しいな。お話がたくさんできて、嬉しいな』
 女の子は、昭和二十年夏の空襲で亡くなったあとも、ずっと母親のそばにいた。その声が聞こえないだけ、姿が見えないだけで。
 母親が亡くなってやっと、話せるようになったのだった。
『ごめんね。ごめんねえ』
 母親は涙をはらはらとこぼしながら、笑みを浮かべ、娘を腕の中に抱きしめた。
 その様子を、健太少年は、ミルクセーキを飲みながら、もらい泣きをしながら、よかったよかった、と見守っていた。

 穏やかな時間は過ぎてゆく。
 死者たちは、波が引くように街を離れ、海へと戻ってゆく。
『――ねえ、魔女様。ぼくも行かなきゃなのかな。そんな気がします』
 ニコラの店の窓辺から、帰っていく死者たちを見送って、健太少年はニコラを振り返った。
「海の彼方へ?」
『やっと海から帰ってきたばかりだし、このままお化けとして家に帰ったり、街で遊んでいたいような気もしてたんだけど、みんなと一緒のところへ行かなきゃいけないような気がして。――どこかよくわからないんだけど、そこがたぶん、西方浄土、ってところなんだと思う』
 少年は唇を結び、凛としたまなざしで遠くを見つめた。
 でも、と、表情が自信なさげに曇る。
『――俺、行ったことがないところに行くの、怖いし、寂しいな』
 その手を、ふと、小さな手が取った。
 防空頭巾をかぶった少女が、にこにこと笑って見上げている。
『大丈夫よ。わたしが一緒に行ってあげる。お母さんも』
 少女が振り返ると、母親がにっこり笑ってうなずいた。
 健太は少しだけ恥ずかしそうに頰を染めて、少女に訊ねた。
『怖いところじゃないのかな?』
『うん。綺麗なところだよ』
『閻魔様とかいない?』
 いないよ、と、女の子はきゃっきゃと笑う。
 そして、少年の手を引いて、店の扉を外へと開けようとする。
思い出したように振り返って、もう片方の手を、母親の方へと伸ばした。
 その小さな手を取り、ぎゅっと握りしめて、母親はニコラを振り返る。
 幸せそうな笑みを浮かべて、お礼の言葉を口にして、また来年、といった。
 魔女ニコラは微笑む。
 母と娘と、少年に優しいまなざしを向けて。
「ええ、また来年、きっとお会いしましょう」
 この街の、この場所で、待っていよう。
 この街のひとびとを迎えるために。窓辺に明かりを灯して。

 店の外に出て、お客様たちを見送ろうとすると、軽くクラクションを鳴らすような音がした。
 あのトランペットが得意な運転手が、軽やかな仕草で運転席のドアを開け、車から降りると、笑顔で歩みよってきた。
『わたしも、向こうに帰ります。また来年、この街に帰ってきますね』
 タクシーは、運転手が亡くなったそのときにひどく損傷し、そのまま廃車になったものだった。自動車にも魂があるのだろう。主を乗せて、ともに海の彼方に帰るところらしい。
『わあ、タクシーだ』
 健太少年が、目を輝かせて車と運転手の制服に見とれる。
 女の子とお母さんも、まあ、というように目を見張る。
 運転手の生前、よく手入れされて磨き上げられていたタクシーは、魂だけの存在になっても、ぴかぴかの光を放ち、美しかった。どこか得意そうにも見えた。
『よかったら、一緒に行くかい?』
 得意げな、嬉しそうな表情になった運転手は、多少気障っぽくても優雅な仕草で、助手席と後部座席のドアを開け、子どもたちと母親を誘う。
『いいのでしょうか』
 母親がそう言葉にすると、運転手は笑って、
『もう一年も、お客さんを乗せて走ってないんで、わたしも車もつまらなかったんですよ。よかったらぜひ、乗ってやってください。海の彼方の西方浄土まで、安全運転でまいりましょう』
 その言葉が終わる前に、健太少年はもう助手席に乗り込んでいた。女の子は母親の手を取り、後部座席に乗り込もうとする。母親は運転手に頭を下げ、ニコラを振り返ると、深々と頭を下げた。
 運転手は、丁寧にドアを閉めると、運転席の方に回り込み、帽子を脱いで、ニコラに頭を下げた。タクシーに乗り込む。ドアが閉まる。
 そして、タクシーは、ニコラの店の前から静かに走り去っていった。
 窓を開けてもらった子どもたちが、それぞれの席から、ニコラに、街に、手を振り続ける。
 街に満ちる夜の闇と、商店街に送り火のように灯る街の明かりの中、タクシーは静かに走り去る。幻の光を放ちながら。姿も、幻のエンジン音も、遠ざかり、小さくなってゆく。港の方へ、西の海の彼方へ向かって消えてゆく。
 同じ方向へと、静かな気配たちが遠ざかっていくのを、店の前でニコラは見送り続ける。名残惜しげに来た方を振り返り、街に手を振り、ニコラに会釈したりしながら海へと戻ってゆく、優しい魂の群れを。 
「――また来年、会いましょう」
 ニコラは呟き、小さく微笑む。
 今年の夏もまた終わるのだなあ、と思う。
 日が落ちて、夜風はすっかり秋の肌寒さだもの。

「毎年のこととはいえ、見送る側は辛いわねえ」
 つい、ひとりごちてしまう。さよならにはいつまでたっても慣れない。この先、自分の命がつきるその日まで、ニコラはひとりきり、この場所で愛する者たちにさよならを告げ続けなくてはいけないのだろうか。
 さよならから解放されるときは、ニコラの魂が世界から消えてしまうときか。そう思うと、なんて悲しいことなのだろうと思った。
 そのときには、ニコラ自身がこの街や愛するひとびとに永遠の別れを告げないといけないのだ。そうしてニコラの魂は、どこへも行けずに消えてしまう。
「寂しいわ。とっても」
 その言葉が口をついて出たとき、ふわりと懐かしい気配が、肩の辺りに漂った。
 懐かしい親友、灰色の雲のような長い毛の猫が、遠い日のように肩に乗っていた。昔と違うのは、そのからだには重さがなく、爪は肩に食い込まず、何よりも体温の温かさがないのだった。
『寂しがりやさん、お久しぶり』
 それでも猫は緑色の眼を細めて笑う。懐かしい、のどが鳴る音がする。
『なんでわたしがここにいるのかなんて訊かないでね? ただどうしても一度だけ、寂しがりやの魔女のところに戻りたいって、死ぬ気で――死んでるけど、願ったら、ここにいるだけなんだから』
 ニコラはただ微笑んで、首を横に振った。触れることのできない猫に、頰を寄せた。
 猫は優しい声でいった。昔のように、お姉さんぶった、そんな口調で。
『思うに、魂はきっと消えたりはしないのよ。人間たちのだけじゃない。魔女や使い魔の魂も。消えたように見えても、世界のどこかに溶けているだけなんだわ。会いたいと思えば、こうして会えるの。お盆じゃなくたってさあ』
「――溶けている?」
『そう。きっとみんな永遠なの。魂も、大好きだって想いも』
 灰色の猫はにっこり笑い、ふわふわの顔を寄せて、ニコラの頰を舐めた。実際にはその舌は届かなかったけれど、懐かしいざらりとした熱い舌の感触を、ニコラは涙に濡れた頰にたしかに感じ取ったのだった。
『だからね、みんな一緒なんだよ』
 猫の言葉が耳の底に残った。甲高い、懐かしい響きの声が。
 そのときにはもう、猫の姿も、気配もどこにもなかったのだけれど、言葉はいつまでも、ニコラの耳の中に、潮騒のように響いていた。
 街を今日も、月の光が照らす。
 満月の光は、銀色で優しい。
 少女時代のニコラが、世界のいろんな街や村を、灰色の猫とともに旅した日のように。たくさんの愛するひとびとと出会い、別れを繰り返していた、あの遠い時代と同じに。
 この街で、ニコラが無力に、多くのひとびとを亡くした、あの昭和の時代の焼け跡を照らしていた光と同じに。
「溶けている……」
 ニコラは月を見上げる。
 吹き過ぎる優しい夜風の中に、その風音に紛れて、見送ってきた魂たちのささやく声が聞こえるような気がした。光の中に、ニコラを見守る懐かしいまなざしが見えるような気がした。
「そう、永遠なのね」
 ニコラは手で涙を拭い、そして微笑む。
 それならいいのだ、と思った。
 この世界にお別れは存在しないのだ。
 それならば。
 ニコラ自身も、いつかこの世界の風や空に溶け込んで、愛する者たちとずっと一緒にいられるのならば。

『泣き虫の魔女をほうっておくわけないでしょ?』
 ふいに耳元で、けらけらと甲高い声が笑う。その声は夜風に溶け、月と星が光を灯す空へと駆け上がっていった。

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作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

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