キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
バックナンバー  123456 

第五話 サンライズ・サンセット(前編)

2019.08.16 更新

 八月半ば。
 街の中心部、西側が海に接していて、いわば海のかいなに優しく抱かれているようなかたちのこの港町は、その時期、日差しに翳りを帯びる。昼日中も黄昏が続いているような、静かな、時が止まったような空気が街に立ち込めるのだ。勘のよいひとや、幼い子どもなら気づくかもしれない、そんなわずかな変化だ。
 海から吹き寄せる風の中に、懐かしい誰かのささやき声やかすかな笑い声が聞こえたりもする。
『ただいま』という声や、玄関の扉を開けて、軽く駆け込む足音も。
 怪訝に思って振り返っても、そこには誰もいない。気のせいだったろうかと肩をすくめ、ひとびとは日常の中に帰っていく。視界のはしに佇む誰かに気づかないまま。
 そう、ふつうの人間は大概気づかない。その季節、遠い海の彼方の世界から帰ってくるひとびとが、ちゃんとそこにいることに。
 仏壇のそば、回り灯篭の放つ光の中や、たなびく線香の煙のあたりに、穏やかにほほえむひとびとがいることに。

 この街に長く棲み、街を守護することを生業としている老いてなお美しい魔女、ニコラは、海からの風の変化に、またその時期が来たのかと、穏やかに目を細め、店の窓を開けて空を見上げる。気温はまだ高いけれど、吹き過ぎる風の底にはひやりとした秋の訪れを感じる、そんな時期だ。
 死者たちを迎え、見送るのと重ね合わせるように、この街は夏にさよならし、秋を迎える。
「いまはまだ冷えたポタージュが美味しいけれど、じきに熱いシチューが美味しい季節が来るわ」
 栗や鮭のクリームシチューが美味しい季節が来る。そしてその先には、ホットワインの美味しい、冬が待ちかまえているのだ。その頃には、空の色も風の匂いも変わり、鈍色になった海に、冬鳥たちが白い翼を輝かせて飛ぶだろう。
 季節の移り変わりも、時が過ぎてゆくことも、見えない誰かの手が使う魔法のようだとニコラは思う。魔女として長くこの世界をさすらい、この街で暮らすようになってからもそれなりの年月がたったけれど、この街の空と海の季節の移り変わりにはいつも感動さえ覚える。
 鍋で炒るようなこの暑さが終わるということが信じられないと毎年思い、けれど必ず、いつか季節は移り変わるのだ。何か計り知れない無念か未練があるというように、いつまでも続く残暑は、特にこの十年二十年ほどはかなりしぶとい。あたかも大きな魔物の断末魔のようだけれど、いつか「今年の夏」も絶命し、秋にその座を譲り渡すときがくる。
 盆の入りの十三日と、その終わりの十五日。この街のひとびとが送り火を焚く頃には、夜に寂しげな秋の風が吹くようになる。
 波止場のそばの三日月町は、いまは寂れた小さな商店街。この世界と少しずれた世界の狭間にあるので、店によっては、客の誰もが足を運べる場所ではない。たとえば彼女の店、古今東西の美味しい食べ物と飲み物、菓子を供する「魔女の家」がそうであるように。
 古い港町の、海に近い一角で、過ぎ去る歴史の中に潜むように存在し続ける小さな店の窓辺で、街を見守ってきた魔女は、静かに空を見上げる。薄青い色の空には、秋の気配を宿した絹のような雲がうっすらとたなびいている。
 吹き過ぎる風の中に、はかなく美しい色の空や雲の中に、魔女の目は彼岸から帰ってきたひとびとの姿を見、気配を感じとる。街に海の香りが満ちるのは、そこから帰ってくるひとびとがいるから。足音もなく、帰郷するひとびとが街のそこここに佇んでいるからだった。
 家に帰るひとびとが迷わないようにと家々に灯された迎え火を、提灯や灯篭の明かりを目当てに、魂たちは帰っていく。楽しげにはずむ足どりで、あるいは静かな足取りで。その中には、ニコラが知っているひとびともいる。生前にこの店の近所に住んでいたり、時として客として迎えたひとびとだ。窓越しにニコラはひとびとを迎え、帰宅してゆくひとびとの背中をそっと見送る。
「――優しくて、素敵な習慣よね」
 そっとニコラはつぶやく。魔女として長く生き、世界をさすらってきた彼女にも、時としてひとの中でひとりの人間のように暮らした時期があった。愛して、馴染んだ土地もあった。ひそかに故郷と呼んだ地も。家族のように愛したひとびとも。ずっと昔、ニコラが若い魔女で、いまとは違う名前を名乗っていた頃の話だ。これまでにいくつもの名前を口にした彼女が、おそらくはいちばん愛した名前の記憶。その国を離れるときに、過去に置いてきた名前。
 人間と魔女とでは命の長さが違うし、それは遠い遠い昔の時代のことなので、ここよりはるかに遠いその地に生きていたひとびとは、いまはもう地上には存在していない。国も残っていない。ひとびとの墓すらもおそらくは残っていないだろう。
 ニコラの記憶の中におぼろにしか残っていないひとびとのことを思うとき、彼女は縁あっていま暮らすこの国のこの街の、八月の優しい行事をうらやましく思うのだ。
 こんな風にもう一度、失われたひとびとに会えればいいのに、と。夏ごとに魂を迎えるための明かりを灯し、再会を繰り返せればいいのに、と。 
「考えても詮のないことかも知れないけれど」
 ニコラは笑みを浮かべ、軽くため息をつく。自室から持ってきた古いランタンを窓辺に置いた。そっと灯を灯す。
 今宵この街に帰ってくる冥界からの旅人たちのその旅の終わりを、少しでも明るく照らせれば、と思う。
 この灯はその昔、遠く遠く旅をしていた頃、使っていたもの。馬車に吊るしたこともある。旅の途中、気まぐれに暮らした街の窓辺に置いたことも。深い森の中を行く道を歩くとき、足下を照らしたことも。
 旅の連れとなった友人たちの思い出もこの明かりの中には灯る。いまはもう彼女のそばにいない、彼女の使い魔だった猫の思い出も。その猫は雷雲のような灰色の毛並みの長毛の猫で、緑色の瞳が宝石のように美しかった。ふさふさしたしっぽと、心配性でややお節介な性格は、いまこの街で彼女の管理する建物で暮らしている、年若い魔女、七竈七瀬の黒い使い魔と似ていたかも知れない。
 七瀬の黒猫は、彼女が生まれる前から彼女の家族のそばにいて、やがて生まれた七瀬を妹のように思っているらしい、と七瀬から聞いたことがある。ニコラと灰色の使い魔との関係も、ややそれに似たところがあって、子ども時代のニコラがひとり旅の途中にとある国の街角でどこかえらそうなひとりぼっちの子猫と出会った、それがひとりと一匹が互いに互いを生涯の伴走者に選んだきっかけとなったのだった。
『わたしが一緒に行ってあげる』と子猫はいったのだ。
『ひとり旅は寂しいでしょう? だからわたしがついていってあげる。ずっと一緒にいてあげるわ。わたしは優しい猫だから』 
(遠い昔のことだけれど……)
 あの猫は、いまはもうニコラの傍らにはいない。
 子猫と子どもだった時代から長くともに旅をして、はるばると世界をさすらった末に、この国のこの街の三日月町に辿り着き、ここを生涯最期の地にしようと誓いあったそののちに、死に別れた。面倒見のよい猫は、主を支え守るために、自らの命を削り、寿命を迎えたのだ。使い魔は概して長生きで、その主と同じほども長く生きる魂を手に入れるはずなのに。
 ニコラと使い魔がこの地に来たのは、明治と呼ばれた時代のこと。その時代、この通りはいまよりもにぎわい、ひと通りがあったことを、ニコラは覚えている。馬車が通り、ガス灯が灯り、西洋風の服を着た紳士淑女が煉瓦作りの道を行き交った。
 魔女には未来を読めるものもいるけれど、ニコラはそれが得意ではなく、だから華やかで楽しげな異国の商店街を楽しみ、世界に向かって窓を開いたばかりのこの国の未来と幸福が楽しみになった。――まさかそれからの日々、日本にも世界にも激動の日々が続いて、ついにはこの街が空襲で焼かれてしまうことがあるなんて思いもしなかった。国家間の戦争にひとをたくさん殺す兵器が使われるようになったその前の戦争――第一次世界大戦は彼女の記憶には新しかったけれど、まさかまた大きな戦争が、それも彼女の棲む街が戦火に巻き込まれるだなんて、思っても見なかった。
 魔女がこの街で暮らしているなんて、街のひとびとには話すことはほぼない。当時も、そしていまも、その必然がなければ、魔女は黙ってそこにいる。街角に佇み、ひそかに自らの街を守護している。世界のいろんな街や村で、魔女たちがそうしているように、ニコラもこの海辺の街を守り、空から降り注ぐ、鉄と火薬の雨から街を守ろうとし、街を包む炎からひとびとの命を守り抜こうとしたけれど、力及ばなかった。ひとの科学のうみだした炎には魔法じみた怒りや憎しみの力が燃える。魔女の心や体をむしばむ、強い力を持った炎だった、
 あの頃、多くの命が失われ、ニコラもまた力つきるところだったのだけれど、使い魔の灰色の猫が、彼女の身代わりになって死んだのだった。猫の持つ九つの魂のすべてを犠牲にして。

「ずっと一緒にいるっていってたのにね。噓つき」
 窓辺の明かりを見つめてそういうと、記憶の中の灰色の猫が、つんとすまして、『何事にも例外というものはあるものなのよ』と答える、その甲高い声が聞こえるような気がした。

 そして、刻一刻と八月十三日は暮れてゆき、街を優しい青と藍色のとばりが包むような夜が深まってゆく。
 街には懐かしいひとびとの吐息と足音が満ちるようだ。
 家々にそっと灯る迎え火に呼ばれ、招かれて、つぎつぎと魂たちが帰ってくる。ただいまと、笑みを浮かべ、ささやきながら。軽やかな足取りで駆けながら。
 小さな子どもがスキップして行くのは、今年が新盆で幼い子どもを見送った家だとニコラは知っている。長く入院していた子どもの魂が、家に帰るところなのだろう。同じ道を仕事帰りのような初老の男性が、古びた革の鞄を提げて歩いている。一見普通の帰宅のようだけれど、真冬のコートとマフラーがそのひとの亡くなった季節を教える。
 街に立ち込める空気は、懐かしさと優しさに満ちていて、静かな祭りが続いているようだ。実際、魔女の目には街はいつもよりも人口が増えて賑わっているように見えるのだけれど、死者たちの姿が見える者はほとんどいないだろうとニコラにはわかっている。死者たちもそれを知っていて、それでも家族やゆかりのひとびととの再会を喜ぶのだ。八月半ばの数日、懐かしい家に帰り、ただ静かに、そこに佇むことを。誰とも言葉を交わすこともないままに、ただ幸せそうにほほえんでいることを。
 海からの訪問者たちには、ニコラが知っている顔もいる。店を訪れたことがある者たちも。彼ら彼女らの方でもニコラに気づいて、手を振ったり、軽く会釈などしたりもする。
 ひととして生きていた頃は、この店のすぐそばを通っても辿り着けないことがあったりもしたけれど、その生を終えたいまでは、魔法や奇跡の存在に近づくのか、魔女の結界などたやすく越えるのだった。
「たまには店を休むのもいいかもね」
 ニコラは懐かしさを持て余し、今日はもう営業をあきらめる。どうせ長く生きる一生の暇つぶしにしているような店だ。世間様もお盆休みなどもうけているのだし、魔女だってお盆の数日くらい、懐かしさにひたることを自分に許したっていいだろう。

 帰ってくるのは、人間たちだけではない。ひとの家族となってその短い生涯を終える生きものたちも、この時期には海から帰ってくる。
「あらあら」
 と、ニコラが思わず声を上げたのは、夜空を手のひらほどもある大きな金魚が、長いひれをなびかせて泳いでくるのに出くわしたからだ。
 自分が泳いでいた懐かしい水槽、日々餌をくれた家族の元へと、金魚は透き通るひれで夜空を泳いでゆく。魚といえど礼儀正しいのか、通り際に丸い目を動かして、ニコラに黙礼して頭上を通り過ぎていった。
 あの金魚のことなら知っている。金魚すくいで掬われた、弱った小さな金魚を洗面器に入れて、幼い兄妹が何とか助けてほしいと魔女を頼って訪ねてきたことがあったから。
 ニコラは金魚をまじないの力で助けてやり、かわいがって育ててあげなさいね、と子どもたちを街に帰したのだけれど、あれは何年、いや十数年も前のことではなかったろうか。
「まあ、大きく育ったものねえ」
 幸せな生涯だったのだろう。お盆にその家に帰りたいと思うほど、かわいがられてもいたのだろう。
 気がつくと、ニコラの足下で、腰を落として、空飛ぶ金魚を見上げている三毛猫がいる。つやつやと美しい、緑の目の三毛猫で、一瞬それが誰なのかニコラにはわからなかったのだけれど、懐かしそうにこちらを見上げる瞳を見るうちに思い出した。
「そうか、あなたは今年が初盆だったのね」
 猫はにっこりと笑う。
 老いて病を得て死んだ猫だったから、最後は痩せて毛並みも乱れていた。海の彼方から帰ったいまの姿は、この猫がいちばん元気で美しかった頃の姿だった。
 猫は商店街のそばにある古い大きな家に飼われていた猫で、人間が好きなのか、よく繁華街に散歩に来ては、街の子どもたちや旅行者と遊んだり、なでてもらったりしていた。時代もいまよりも穏やかで、まだ猫たちがのんびりと外を歩いていても許されていた。
 魔女の店にも、よく訪ねてきた。猫は人間と違って、魔法や奇跡に近い存在なので、多少の境界線は楽々と越えてくる。長い年月通ってくれた、いわば常連のような猫だった。
 ニコラが魔女だと知っていて、様々な魔法を使えることを知っていても、特に何かを願うことはなかった。おそらくはこの猫は生涯幸福で、猫の家族もまたそうだったのだろう。
 いやそう思えるようになったのはつい最近のことで、実は三毛猫は最期の床で苦しんでいて、死にたくないとあがいていたのでは、と、悲しくなった時期があった。ニコラの助けを待っていたのでは、と想像すると、なかなかに辛いものがあった。自分にはあの猫のためにできることがあったかも知れないのに、と。
 昨年の秋、この猫の寿命がつきて、もう訪ねてくることがないことを、ニコラは街を吹き過ぎる風のささやきで知った。気に入っていて、よく佇んでいた玄関マットに猫が来ることはもうないのだと思ったとき、ニコラはふと、気づいた。――もしかして、あの三毛猫はわたしが寂しいと思って訪ねてきてくれていたのかしら?
 使い魔のいない、ひとりぼっちの魔女は寂しいのではないかと。何しろこの猫は人なつこい、優しい猫だったので。 
 そして今夜、帰ってきた三毛猫は、いま懐かしい笑顔で、ニコラを見上げ、さて、というように優雅な仕草で立ち上がり、住宅地の方へと足を進めた。
 猫がいらっしゃいと呼んだような気がしたので、ニコラはそのあとをついていった。
 猫は軽やかな足取りで、音もなく、懐かしい家への道を辿ってゆく。それが街に遊びに来ていたときのいつもの帰り道なのか、たまに立ち止まり、視線を周囲に懐かしそうに投げて、そしてまた歩いてゆく。
 公園を横切り、いまは眠っている店々や家の前をのんびりと通り過ぎ、やがて庭木の多い、古い家へと辿り着く。玄関からではなく、庭の生け垣の間を抜けて縁側の方へと足を運ぶのは、そこが彼女専用の出入り口ということなのか。ちら、と、猫が自分を振り返ったので、猫でないニコラは、ひとの目には見えないように夜風にとけ込んで、その家の庭に立った。
 部屋の掃き出し窓は開け放たれていて、猫は縁側からひょこりと中にとびあがってゆく。部屋は仏間なのか、ゆっくりと回り灯篭が回り、色とりどりの花びらのような光を部屋の中に投げていた。線香の煙と香りがたなびいてくる部屋には、その家のおばあさんが夏の布団でうとうとと眠り、里帰りをしてきた孫娘が幼い曾孫をあやしながら、両親と話をしていた。
 縁側には、主のいない籐のかごがある。猫がいつも寝ていた場所だということがニコラにはわかる。眠っている老女はもうほんとうに老いていて、一日のほとんどを柔和な笑顔を浮かべたまま眠っているということも。孫娘が泣きはらした目をして、たまに視線を本棚の方に投げるのは、そこに死んだ猫の写真が飾ってあるからだということも。小学生の頃の彼女が子猫だった猫を拾ってきたのが、猫がこの家の家族となった始まりで、それから長い間、猫と家族は幸せに暮らしてきたのだということも。
 帰ってきた猫の姿は、家族には見えないのだろう。けれどほっそりとした足が畳を踏んで、家族ひとりひとりにただいまをいうように近づき、品のよい仕草で鼻を寄せ、目を細めて、からだをすり寄せてゆく。
 老いたひとのそばを通り過ぎたとき、そのひとの目が薄く開いた。しわくちゃの手が伸びて、猫の体をそっとなでた。それは人間にはけいれんのようにしか見えないかすかな動きだったかも知れない。でも猫は立ち止まり、手のひらに優しく頭をこすりつけた。
 猫が小さな曾孫のそばに近づいたとき、彼女は黒々とした瞳で不思議そうに猫の方を見つめた。きゃっきゃと笑い声をあげ、小さな手をたたくと、ぬいぐるみにするように猫の首を抱こうとした。猫はこの上もなく優しい表情をして、身を屈め、幼い子どもに身をゆだねるようにした。
 その家のおとなたちは、不思議そうに子どもの様子を見た。幼い子どもの目は、彼らの目にはなにもないように見える空間を見つめ、上機嫌な様子で、にこにこと笑っていた。
 猫の魂は幼い子どものそばを離れ、おとなたちひとりひとりのそばにそっと寄り添い、それぞれに愛情を込めて、ただいまの挨拶をした。
 そして猫は、彼女の席だった縁側の籐のかごの中にゆっくりと丸くなった。
 幼子の母が、目に浮かんだ涙を指先で拭い、笑っていった。
「みけちゃん、帰ってきているのかもね」
「そうだね」
 彼女の両親も、涙ぐみながらうなずく。
「帰ってきているだろう。だって、あの子は、この家が大好きだったんだもの」
「お盆だものねえ」
「お盆だしね」
 そうそう、というように猫は目を閉じ、猫の笑顔で笑った。

 その家のそばをそっと離れながら、ニコラは思う。
 あの猫の生涯はやはり幸せだったのだろう、と。猫はそれを魔女に伝えたかったのだろう。猫というものは親切で面倒見がよいものだと、ニコラは知っている。
 ニコラは優しい猫に心の中でお礼をいい、生涯自分になにも願わなかったあの猫のために、この家のひとびとがいつまでも幸せであるようにと、ささやかにまじないをかけた。

 そして、翌十四日の夜。依然街には、静かな祭りの気配が立ち込めていた。
 切ないような幸せなような、少しだけ酔ったような気分で街を歩いているうちに、ニコラの耳は懐かしい音色を聞いた。
 おや、誰かがトランペットを吹いている。
 そうあれは、『サンライズ・サンセット』だ。昨年の夏にふとした事故で命を落としたひとが、たまに河原で吹いていた曲だった。
 そのひとの本職はタクシー運転手。車に楽器を積んでいて、仕事が終わった時間にひとり、音楽を奏でていた。家族もなく遊ぶこともなく、こつこつと働いていたそのひとの、それがただひとつの楽しみのようだった。若い頃は音楽家を夢見ていたこともあるというそのひとの演奏は、たしかにうまかった。
 そうか。あのひとも今年が初盆なのか、と思う。
 それにしても、夜風に乗ってくるこのトランペットはどこから聞こえるのだろうと、音を追うように目を上げる。片方の手のひらを広げると、そこに魔法のほうきが現れ、ニコラは軽やかにその柄に腰を乗せると、音色を追って夜空に舞い上がった。

 小さな古い家の屋根の上で、彼は楽器を吹いていた。体に馴染んだ、タクシー会社の制服のままだった。
 澄んだ音色は、夜のこの街に投げかける、優しい光のようで、音符の一つ一つが、街のひとびとへの愛に満ちているような気がして、ニコラは胸の奥が痛くなった。彼は日々この街の空の下を愛車とともに走り、たくさんのひとびとを車に迎え入れ、軽妙洒脱な会話でお客様たちを笑わせ、なごませながら、いろんな道を走り続けた。いつも楽しげで、誠実な仕事ぶりだったということも、魔女のニコラにはわかっている。彼はとても自分の仕事が好きで、その命がつきる日までハンドルを握っていたのだ。
 そばの空に浮かんだニコラに気づくと、彼は楽器を口から離し、こんばんは、お久しぶりです、と笑った。
『屋根の上のバイオリン弾きならぬ、トランペット吹きですよ、なんてね』
 そういって、得意げに笑った。いたずらっぽい笑顔だった。
『一度こんな風に、屋根の上で吹いてみたかったんですよ。絶対に気持ちいいよな、と思ってました。いやー気持ちよかった。お化けになる前に、吹いてみたかったですけどね。まあ仕方ないか、と』
 その家の屋根は台風の被害にでも遭ったのか、瓦があちこち落ちていた。隙間に雑草が生え、ブルーシートが雑にかけてある。
 この家は彼の趣味で、アトリエのようなしゃれた設計の家、屋根には大きな天窓がある。家の造りが美しいのが、よけいに痛々しかった。
『いつかは直さなきゃと思ってたんですがねえ、そのいつかが来る前にお陀仏しちゃいましてねえ。貧乏暇なしで、これもまあ仕方なかったです』
 運転手は笑う。『家族には恥かかせてしまって、申し訳ないんですけどねえ』
 一言付け加えた、そのときだけ、うつむいた。
 小さな家には明かりが灯されていた。
 一人暮らしだった家に、たくさんのひとの気配がするのは、初盆の法事が行われているからだ。
 彼の妻と娘が、狭い家には入りきれないほどの数の訪問客の相手をしていた。目のはしに涙は光っているけれど、彼女たちは笑顔で、どこか幸せそうに挨拶を繰り返し、会話を続けていた。
 その様子を、彼は少し照れくさそうに、けれど誇らしげに見守っていた。

 彼はニコラの店に、客として訪れたことがあった。
 十年ほども前のことだろうか。ニコラにはつい最近のことのように思えるほどの過去だけれど、人間には一昔前の出来事だろう。何しろそのとき、彼と一緒だったひとり娘が、いまは美しく成長してあそこにいるのだから。
 店を訪れたときの彼女の様子を、ニコラは覚えている。父親の手を強く握りしめ、唇を嚙みしめて、ニコラをにらむように見つめていた。
 ニコラがほんとうに魔女なのか、半分疑いながら、半分は魔女だと信じ、心ときめかせている、そんな目で瞬きもせずに見上げていたのだ。
 父親から、この街には魔女がいると聞かされて、そんなものいるはずがない、いるなら魔女に会わせてほしい、といったのだという。
 運転手は、恐縮した笑みを浮かべながらニコラにいった。
『いやあのね、わたしは噓つきだから、わたしが話すことはひとつも信じられないってうちの子がいうもので。じゃあ、父ちゃんが必ず、魔女の家につれていってやるよ、って約束しちまったんですよ。ほら、父ちゃんはお客様をその行きたいところに安全運転で連れていくのが仕事だから、ってことで。絶対連れてってやるからって』
 そして彼は、子どものように邪気のない笑みを浮かべて、言葉を続けたのだ。
『探しに来てよかった。魔女ってのはほんとにいたんですね。正直いって、絵本やおとぎ話の中にしかいないもんだと思ってました。――いや、この街にはいるって信じてましたよ。信じてましたけど、でもあの』
 彼の幼かった娘が、ニコラが魔女だということを信じたかどうか、彼女の父親がそこまで噓つきではないということを信じる気になったかどうかは、ニコラにはわからない。
 あの日、彼女は口を結んだまま、ほとんどしゃべらなかったし、あの一度きりしか、会う機会はなかったからだ。それは父親である運転手も同じこと。これが久しぶりの再会だった。

 あの日黙ってうつむく幼い娘のそばで、いまよりは若い頃の運転手が話した言葉をニコラは覚えている。魔女に会えたのがほんとうに嬉しかったのか、なのになにを話せばいいのかわからなくなったのか、頭に何度も手をやり、額に汗を浮かべ、でも上機嫌な笑顔で、彼は話し続けたのだ。
 自分は遊び好きな、悪い夫であり、父親だったのだと。なまじ器用でひと好きがする雰囲気がある故に、たいていの仕事に就くことができた。そのせいもあって、いろんな仕事に就いては辞め、就いては辞めの繰り返し。一つところにいると飽きてしまう。人間関係でもめるといやになって辞めてしまう。あげく、いまの自分は本来の姿ではない。いまにきっと世に見いだされ、一角の人物になるのだと。
『若い頃に、音楽の世界に憧れましてね。でも都会に出ていく勇気も、自分にはそれだけの才能もないってわかってました。で、夢を諦めたつもりだったんですが、まあずっと未練やら不満やらがくすぶってたんですね。心のどこかで、結婚なんてしなきゃよかったとも思ってました。家族がいなければ、どんな無茶でもできたのに、なんてね。好きで結婚したし、所帯も構えたはずだったのに。――そんな気持ちが言葉の端々に出てたんでしょうねえ。ある日、嫁が娘を連れて家を出ていっちまいました。
 ひとりになった家の中で、初めて反省しました。自分には音楽の夢なんてどうでもよかった。そんなものよりも、家族と一緒にいることの方が大切だって、なくして初めて知ったんです』
 といっても、彼の妻は彼を本気で見捨てたわけではなかった。置き手紙が残されていたのだそうだ。
『いつかあなたがちゃんとした夫であり、父親になれる日が来たら、またここへ帰ってきます』
 そうして彼の幼い娘は、たまに父親の様子を見に家に通ってきてくれるのだという。
『そういうわけで、心を改めて、心機一転タクシー運転手として働き始めて早数年、というのがいまのわたしなのでありまして』
 運転手は照れくさそうに頭をかいた。『真人間になったという自信ができたとき、迎えにいくと決めてるんです。あ、それとね。何か贈り物も用意しようと。最高のプレゼントを持って、二人を迎えにいこうとね。まだ何にするかは決めてないんですが、ひらめいたときになんでも買えるように、まずはお金を貯めてるところでしてね』
 だからね、まじめに働いてるし、遊んだりする余裕もないんですよ、と運転手はニコラに笑って見せた。
 幼い娘は、父の言葉を聞いているのかいないのか、うつむいたまま、膝に置いた両手にぎゅうっと力を込めていた。
 ニコラにはついこの間の出来事のように思える、そんな過去の出来事だ。父親が緊張のあまり、コーヒーに砂糖を何杯も入れて飲んでいたこと、娘がコーヒーフロートを頼んだときの声がおとなびて美しかったことも。けれど背のびして注文したものが、彼女は苦いと小さくいってまゆげをよせて、ニコラはそれがかわいくて、かしてごらんなさいとミルクとシロップをたしてあげたのだった。甘くなった冷たい飲み物を一口飲んだときの彼女の、おいしいとささやいた声の愛らしさも、ニコラは覚えている。
 親子が魔女の家を離れ、繁華街へと向かう橋を渡っていくとき、しっかりとつないだその手が何だか愛しくて、ニコラは親子の背中に、そっとまじないをかけた。この親子が再び、父と子として幸せに暮らせる日が来るように、と。

 いま、ひとの気配で切なくも賑わっている小さな家の様子を、ニコラは夜空から人知れず見下ろす。
 あの場で、たまに涙をこらえつつも、笑みを浮かべて弔問客を迎えている美しい娘は、あの日魔女と会ったことを覚えているだろうか。あれが夢ではなく、現実のことで、父親は噓でなくほんとうに魔女の元へと彼女を連れていったのだと、知っているのだろうか。
 去年の夏、運転手は自らのタクシーを街路樹につっこんで命を落とした。暑さのあまり寝不足だったらしいという。節電のためにとエアコンを入れていなかったとか。会社の同僚たちから、少し休むようにいわれたのに、『いやもうちょっとだけがんばるから』と答えたのが、最後の会話だったと。
 だから、彼の妻子を迎えにいくという夢は叶わなかったのだ。
 ニコラの視線と表情に、屋根の上の運転手は何かを感じ取ったのだろう。
 笑顔でいった。
『わたしは才能と勇気がなかったんですが、どうもあの子にはそれがあったみたいで、音楽の道に進んでくれそうなんですよ。まだまだ無名なんですけどね、シンガーになりました。一度、あの子の歌を聴きにいきました。お化けになってからですけどね。なかなか堂に入ったもので、ああ生きてるうちに聴きにいけたらよかったな、と思ったもんです。だってこの身じゃあね、花束も持てないし、拍手しても声援を送っても聞こえやしないでしょ?』
 もっと早く、賭けるみたいな気持ちでもいい、自信を持って、あの子と嫁さんを迎えにいけばよかったなあ、と、運転手は笑った。
 灰色のワンピースを着た娘の胸元には、真珠の一連のネックレスが輝いている。同じものが妻の胸元にもあった。
『似合ってるでしょ? あれね、なかなかね、高かったんです。最高品質の真珠だからって、宝石店で勧められた品でしてね。ほんのり桜色で綺麗なの。ちょっと無理して買った甲斐があったっていうか、ふたりとも、去年のわたしの葬式のときも、喪服にあわせてつけてくれましてね。箱にふたりの名前を書いたカードを添えて置いといてよかったと思ったものですよ。生前の俺、よくやった、みたいなね。
 清水の舞台から飛び降りるような気分で買ったものでした。――ええ、こういう場面で使えるってね、見越して選んだんですよ。
 なんてね、噓です』
 泣きそうな目で、運転手は笑った。
『嫁さんやら若い娘やらが、何を贈られたら喜ぶか、長い間考えてわからなくて。わたし、けっこう頭がいいし女心がわかる方だって思ってたんですけどね、センスもまあまあいいって。だけどねえ、考えれば考えるほどわからなくなって。まあわたしの世代ですと、とりあえず真珠のネックレスが上等なんだろうと、それくらいの知恵しかなくて。
 で、贈り物は用意したんです。けっこう早いうちにね。でも、夫や父親として恥ずかしくない人間になれた自信がいつまでたってもねえ。だからいつまでも、ふたりを迎えにいけませんでした。
 そのまま時を重ねるうちに、ネックレスを入れた宝石店の箱が、タンスに入れていても古びて色あせていくんですよ。それを見ながらどうしよう、これ高かったのに、って頭を抱えていましたよ。ははは。早く渡さないと、古くなっちまうって』
 運転手は笑う。どこかさばさばと。
『まあ、あのネックレスをああやって無事に使ってもらえたってだけでも、わたしはもう未練もなく文字通り成仏できたなって感じがしてますよ』

 法事が始まった。ニコラには異国の魔法の言葉のように聞こえる読経があり、やがて和やかに食事の会が始まった。そのひとが亡くなってから一年の後のことなので、悲しみよりも懐かしさや、個人の思い出話に花が咲き、たまに笑い声も聞こえるような、そんな穏やかな時間になった。
 屋根の上で、運転手は嬉しげにその様子を見守っていた。集まったひとびとは、仕事仲間を中心に、馴染みの客たちや商店街のひとびと、若い頃の音楽関係の仲間たちととにかく大勢で、いつまでも話がつきることがなさそうだった。
 それでも終わりの時間はやってくる。
 母と眼で会話した娘が、客たちの前に進み出て、よく通る声で挨拶をした。「本日は故人のため、お忙しい中、お集まりいただきまして、ありがとうございました」と。
「父は我が父親ながら、器用で賢いひとでありましたが、どうも怖がりで自分に自信がないところがありました。父として夫としての自分にもなかなか自信が持てなかったようで。――でも、今夜こうして、たくさんのみなさまにお集まりいただいて、生前の父の話をうかがい、あなたはこんなにみなさんから好かれ、尊敬されている立派なひとだったのよ、もっと自信を持ってよかったの、お父さん、と文句をいいたくなるような、そんな気持ちでおります」
 視線を落とし、胸元の真珠のネックレスを見つめながら、娘はほほえんだ。
 ああ、そうか、とニコラは思う。
 妻と娘は、待っていたのだろう。夫が父が自分たちを迎えにくるその日を。あのひとは立派なひとだ、がんばれるに違いない、きっと迎えにくるはずだと、もしかしたら本人よりもその日が訪れることを信じて。
「父の魂は、いまここに帰ってきているのでしょうか。わたしにはわかりませんが、父にたむける供物の代わりに、そして本日お集まりいただきましたみなさまへのささやかなお礼の代わりとして、うたわせてください。
 父が好きだった曲です。『屋根の上のバイオリン弾き』より、『サンライズ・サンセット』――」
 娘の声は、静かに夜の庭へと流れてゆく。
 父親が娘の成長を想い、祝福してうたう歌を。時の流れに想いを馳せ、その中で生きてきた自分たちを、これからも生きてゆく人間の命の流れについてうたう歌を。
 夏の終わりの気配とともに、静かに庭の草の間で虫たちがうたっている。その音色を背景に、静かに、ひそやかに、娘はうたう。言葉にしない無限の想いとともに。
 古い小さな家の屋根の上で、タクシー運転手は我が子のうたう歌にそっと耳を傾けていた。目を閉じたその頰に、静かに涙が流れ、口元は楽しげにほほえんだ。
そして彼は自らの楽器を手に取ると、同じ曲を奏でた。
 ふと、うたう娘が視線を上げた。ふつうの人間には聞こえるはずもない晴れやかなトランペットの音色が聞こえるというように、天窓の上にいるこちらへとまなざしを向ける。
 そう、そのときたしかに、娘は父親を見上げ、ほほえんだのだ。
 視線が一瞬、ほうきに乗るニコラにも向けられたのを、彼女はそのとき、感じ取った。
 娘の歌声は、朗々と響きわたり、その父の奏でるトランペットの音色も、夜風の中に静かに透き通っていった。

バックナンバー  123456 

作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

おすすめ作品

魔女たちは眠りを守る

第四話 月の裏側

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る

第三話 雨のおとぎ話

村山早紀(むらやま・さき)

悪夢か現か幻か

第17回 客間の壺

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か

第16回 呪いの家

堀真潮(ほりましお)

cover-works_midori

第12回

東 直子(ひがし・なおこ)

ページトップへ