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魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
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第二話 天使の微笑み

2019.05.17 更新

 古い港町の、寂れた裏通りに、いまの世界から忘れ去られたような一角がある。もっというと、時の流れからも忘れ去られたような、そんな街角だ。
 ひとが住んでいるのかどうか、それすら定かではないような、日中でもしんとしている、そんな場所。通り過ぎる風さえも密やかで、もしそこに迷い込んだひとがあれば、写真や絵画の中に迷い込んでしまったように思うかもしれない。
 数百年も昔に建てられたような、煉瓦造りのビルや、あちこち破れたトタン屋根の倉庫。汚れて割れた窓ガラスが、板切れで雑にふさがれたままの酒場。いつから開いていないのかわからないような小さな食堂――。
 そんな中に、『バーバヤーガ』と綴られた真鍮のプレートが埋め込まれた、ひときわ古い建物がほっそりと建っていた。よくよく見ると、文字のそばには、三本足の鶏(にわとり)の絵が描いてある。知る人ぞ知る、ここは魔女たちの住処だった。
 世界中のいろんな町や村には、ひとに紛れて、魔女たちがひっそりと暮らしていたり、つかの間の旅人として滞在していたりするのだけれど、この街を訪れた魔女たちは、この建物に、渡り鳥がそこで翼を休めるように、足を運ぶことが多かった。
 建物の主は、年を経た魔女である、ほっそりとした長身の、美しいニコラ。魔女たちの間では、この街を守護する魔女と呼ばれる。
魔女たちは子どもの頃を過ぎると、その肉体はひとと比してゆっくりとしか年をとらなくなる。一説によると、十年に一歳ほどしか成長することも老いることもないとか。
 なのでニコラのように、はっきりと年を重ね、銀髪と口元の皺が美しい姿を持っているということは、その齢(よわい)も数百年を経た魔女である、その証のようなものだった。
 魔女たちはあまり自らの来歴を語ることはなく、互いに訊き合うこともないので、彼女が世界のどこでいつ生まれ、どのような半生を経て、いま極東のこの国のこの街の、裏寂れた街角で暮らしているのか、それを知るものはさほど多くはないだろう。
 ニコラは、魔女たちの住処である建物の、その一階で小さな店を開いている。『魔女の家』と看板の掛かったその店は、喫茶や多少の酒とともに料理も供する店。諸国を渡り歩いてきたらしいことが言葉の端々から窺える彼女が、どこでどう手に入れているものか、世界各国の珍しい食材で古今東西の美味なものたちを作り、楽しませてくれる店だった。
 店は多少、うつつの世界からは境界線を外れた場所にあり、ということはつまり、彼女の店の客となるものは、『同輩』である魔女たちや、ひとでないものたちであることが多々。けれど時として、運命の気まぐれのように、迷子の人間たちが店の扉を開けることもある。
 どんな客をもてなすにしても、いつもニコラは楽しげで幸せそうで――本人がいうには、
「美味しいものというのは、作るにせよ、食べさせるにせよ、いい暇つぶしになるものですからね。訪れるお客さんたちの話もまた、それはそれは美味しいものですし」
 短く切った銀の髪を軽く揺らすようにして、彼女は笑うのである。

 ほんの十代、あるいは二十代初めくらいに見える若い魔女、七竈七瀬の、ずうっと昔に家族につけてもらった名前は、ほんとうはもう少し長く、七竈・マリイ・七瀬という。でもそんなことまで知っているのは、使い魔で幼い頃からそばにいた、長毛の黒猫くらいのものだ。幼い日の七瀬を慈しみ、守り育ててくれた家族たちは、時の流れの中で、ひとりひとり別れを繰り返し、いまはもう彼女のそばには誰もいない。遠い日から長く続いた旅の中で、手をつないでいてくれたひとびとは、いまはひとりもそばにいなくなってしまった。
 魔女たちは死んでも亡骸を残さない、だから、彼女たちは墓も作らない。彼女たちがたしかにこの世に存在したということは、あるいは家族であり、生涯の旅の道連れでもあった、七瀬しか、覚えていないのかも知れない。
 だから、七瀬は忘れない。自らの心で失われたものたちを抱くように、消えてしまったひとびとのことを繰り返し思い出すのだ。耳の底に残る声の欠片をすくいあげ、笑顔やまなざしの記憶を蘇らせて。
 それはあるいは、胸の中に家族の墓を持つような、そんな思いなのかも知れない。
 
 さてその春、桜が舞う頃に、赤毛の魔女七瀬は、古く大きなトランクを提げ、足下に使い魔の黒猫をまつわりつかせながら、魔女たちの住処『バーバヤーガ』へと辿り着いたのだった。いまからちょうど一か月ほど前の、ある黄昏時の出来事となる。

 春に身にまとうには、やや布地が厚く、小柄な体には長く重たいコートを黄昏時の風になびかせ、ほう、と息をして建物を見上げる。 
 煉瓦造りの建物――その古いビルディングは、見上げるとほっそりとした印象を受ける。各階二部屋ずつの十三階建ての建物で、一階のニコラの店以外は、魔女たちの住処になっていると以前どこかで聞いた。ふと立ち寄った旅の魔女にはホテルとなり、少し長く暮らすもののためには借家になるという。
「どんな住人が住んでいるのかしらね」
 見上げた部屋部屋の窓はみな閉まっていて、ガラス越しに見えるレースのカーテンの様子だけでは、部屋に住むものたちの暮らしをかいま見ることはできないようだ。
『まあ世界中からいろんな魔女たちが来て暮らしてるんだろうしね』
 黒猫が、七瀬の隣でビルを見上げながらさとすようにいった。
『どんな魔女と遭遇したとしても驚かないようにしていればいいんじゃないのかしら? 第一印象って大事よね。あくまでも礼儀正しく、きちんとした感じで』
「そんなことわかってるわ」
 七瀬は軽く肩をすくめながら、この黒猫ときたらいつもこんな風で、姉さん気取りなんだから、と思う。七瀬が生まれる前からいまは亡き七瀬の両親に拾われ、育てられてきた猫だから、自分が姉として七瀬を守らなければ、と思っている節がある。
「なるべく上の方の階が空いているといいなあ」
 七瀬はそっくり返るようにして、上階を見上げる。「一度、空に近いところで暮らしてみたかったの」
 この世界に暮らす魔女たちは、人知れず世界中をさすらう。そうしていつの間にやら、人間に紛れて暮らしている。意外なほど近くに笑顔で暮らしていたりするようなのが、いまどきの魔女なのだ。
 長くいるとその存在の不自然さに気づかれることもなくはないので、魔女たちはいつの間にやら風が吹き過ぎるように、そっと次の街に移り住む。
 七瀬もそういうわけで、ほかの魔女たちや、彼女の家族がそうしてきたように、長い長い間、世界中を移り住んで暮らしてきた。大都会の大きな公園のそばに建つ古いアパートに暮らしたこともある。公園の鳩たちや、散歩にくるお年寄りや近所の犬たちと顔なじみになれて楽しかった。風が凍える絶海の孤島で、海辺に流れ着く海草を拾って暮らすひとびとの村で一冬を過ごしたこともある。長い夜を照らす明かりの色が美しく、ひとびとも優しくて、ずっとここにいられたらいいのに、なんて思ったりもした。七瀬は魔女で、どこでどう暮らそうと所詮旅人の身、ひとびとに溶け込むことも必要以上に関わることもないのだけれど、それでも心にきざす愛着の想いを忘れようとするのは辛かった。
 いろんな人間の街の、いろんな住まいで暮らしてきたのだけれど、気がつけば高層階で暮らしたことは、まだなかったのだ。ほうきに乗れば、いつでも高い空に上がれはするけれど、いつも鳥と同じ目の高さで暮らせるというのは、どんな気分になるものだろう?
「空の高いところにある部屋でおはようって起きて、月や星の灯る夜空に包まれるように眠るの。きっと素敵だと思うわ。もし広いベランダがあったら、いすとテーブルを置いてそこで朝食をとったり、お茶を飲みながら本を読んだりするの。ね、楽しそうだと思わない?」
 黒猫は、ふん、と鼻を鳴らした。
『そんなに楽しみにしちゃって、もし高層階に空き部屋がなかったらがっかりすると思うわよ。ていうか、いま現在、この建物に空き部屋があるかどうかさえ、定かじゃないんですからね。わたしたちはいまこの街の、三日月通りに着いたばかりで、ここの事情がなんにもわかってないってこと忘れてちゃだめだと思うわ』
「わかってるわよ、そんなこと」
 七瀬もふん、と鼻を鳴らし、大きなトランクを半ば引きずるようにして、管理人ニコラがいるはずの店、『魔女の家』の扉を叩く。不思議なもので、旅の目的地に辿り着いたと思うと、旅の荷物の重さが信じられないようなずっしりとしたものに変貌する。
「まあたしかに、重たいものがずっしり詰まってはいるんだけどね……それにしても」
 もともと小柄で、年齢も魔女にしては若い七瀬には、生活に必要なものの他に、魔女の仕事道具一式が詰め込んであるトランクは、認めたくないけれど重かった。子どもじみた小さな指が赤くなり、じんじんとしびれて熱を持っていた。

 銀色の髪のニコラは、センスの良い古びた店の奥のカウンターで、微笑みとともに七瀬を迎えてくれた。いつ頃からこのひとはここに、この街のこの店のカウンターに立っているのだろう、と七瀬は思う。飴色になったカウンターはどこか帆船の船室のようで、造り付けの棚には、帆船や気球、複葉機たちの模型や絵、写真が飾ってある。背後にはこれも古く大きな水槽があり、宝石のような色とりどりの海の魚たちが泳いでいるのだった。
 初めまして、よろしくお願いいたします、の挨拶こそしたけれど、それからあとはさほど細かい会話もしなかった。この世界は広く、魔女同士はそうそう遭遇することもなかったけれど、よほど子ども同士でもない限り、互いのことを根掘り葉掘り聞くこともないのが常だった。そういう習わしだと、ずっと昔に、七瀬は家族から聞いたけれど、その理由までは覚えていない。
 みなが長生きだから、話が長くなるからかも知れない、と思ったことはある。互いに互いの人生の旅に踏み込まないようにするためかも、と思ったことも。長い時を生きる者同士、別れること、見送ることが多いから、どうしても寂しい思い出話が長くなるからかな、とも。そして、長く生きたいま、思うのは、魔女は死ぬと消えてしまう存在だから、それを知っているもの同士、互いに悲しい記憶を残さないようにしようと思っているのかな、ということだった。
 ほんとうの理由はわからないけれど、とにかく七瀬は特に自分の旅の理由やこの街に滞在したいと思った理由は話さず、ただこの街にほんの束の間住んでいたことはあるのだとそれだけ話し、ニコラの方も、
「ようこそ、魔女の住処へ」
 と微笑むばかりで、長い会話はしないままの出会いとなった。
 けれど、「長旅お疲れさまでした」と、一言かけられた言葉と、いつの間にやらいれてくれていたカフェオレが熱く、美味しかったことがなぜかとても心に染みた。お帰りなさいという言葉を耳で聴いたわけではないけれど、そのときたしかに聴いたような気がしていた。これまでの日々、長く旅を続け、ひとりきりさすらって生きる暮らしに自分が疲れていたことに、それが寂しかったことに、ふいに気づいたように思った。
 ことさらに連絡はしなかったけれど、この春の今日の黄昏に、七瀬がこの場所を訪ねてくるだろうことはわかっていたのかも知れない。特にこの、一目で長い時の中を生きてきたとわかる魔女には。
 ついでにいうと、七瀬が高層階に興味があって、できれば、と望むだろうということもわかっていたのか、彼女は笑顔のまま手元の引き出しを開け、古い金色の真鍮の鍵を取り出すと、七瀬に渡してくれた。
「十三階の一号室の鍵ですよ。お気に召すといいんですけれど」

 扉の代わりに真鍮の柵がある小さなエレベーターで、十三階へと上がった。
 エレベーターホールには窓がなく、薄暗く小さな部屋に、古びたシャンデリアが下がっているばかり。この建物の他の部屋に、いま他の住人はいるのかいないのか。しんとして気配はない。エレベーターが上がっていく間も、静かな時の止まった空間の中を上がっていくようだった。
 やがてエレベーターは軽く揺らいで止まり、柵が開いた。
 ふわりと吹き込んだ風が、七瀬の赤い髪と厚いコートを巻き上げ、なびかせた。
 黄昏の金色の光に包まれたように思ったのは、最上階のその廊下に屋根がなく、バルコニーのように、空の下にさらされていたからだった。目の下には、夕暮れ時の空の色に染まる、海辺の街の情景が広がっていた。
 目を遠くに向ければ、波を輝かせた海と、遠い山脈が見え、海と山に守られるように見える街はどこか絵か箱庭のような、美しくも愛らしい世界に見えた。見えない大きな腕で抱かれているような街に。
 隣の部屋とふたつ並んだ金属の扉は、風雨と太陽にさらされるからか、少しく錆び、色褪せてもいたけれど、それが風情があって、七瀬は一目で気に入った。使い魔の黒猫の方は、
『ちょっと廃墟みたいで不気味ね』
 なんて無粋なことをいったので、七瀬は聞こえなかったふりをして、預かった鍵で一号室の扉を開けた。
 部屋の奥の大きな窓にはカーテンがかかっている。薄暗い中、照明のスイッチを入れると、控えめなシャンデリアに照らされた部屋はとても綺麗だった。厚く手触りの良いカーテンを開けると、窓から金色がかった空の光の色が射し込んできた。
 見上げると、金色と紅色に染まった雲が見えた。そして、そちらが東の空なのだろう。街を覆う空が、グラデーションを作って夜の青と藍色に染まっているのが見えた。
 白い壁に白い家具、カーテンと揃いの緑色の小花模様の布地に覆われたソファにベッド、それに木の床は、清潔に調えられていたけれど、けっして新しくはない。むしろ、洗面所や浴室の白い陶器も、これまでにこの部屋で暮らし、旅立っていった魔女たちの吐息や足音、気配を記憶しているようだった。
「新しいこの部屋の住人です。よろしくお願いします」
 目を閉じ、ふと呟いていた。見えない魔女たちの微笑みが歓迎してくれるような気がした。
「わたし、この部屋気に入ったわ」
 七瀬はクッションを抱くようにして、ベッドに腰をおろした。使い魔の黒猫が、
『それは何より』
 真面目な口調でいうと、自分もベッドの上に飛び乗った。七瀬に寄りかかると、両の前足をからだの下に折り込んで、香箱(こうばこ)を作った。

 台所はないけれど、部屋にはホームバーがついていて、自分で飲み物が入れられるようになっていた。古い木のカウンターに置かれていた銀のポットには、熱いお湯が入れてあって、紙ぶくろに入った紅茶の葉やコーヒー豆がいくらか添えてある。身をかがめると戸棚の奥には冷蔵庫もあって、冷たい飲み物がいくつか並んでいた。
 床に膝をついて、トランクを開ける。洋服を何枚か簞笥のハンガーにかけ(レッドシダーの良い香りがした)、たたんで引き出しに入れた。
 占いに使う水晶玉を出し、カードを出し、代々受けついだ魔法書を大切に取り出す。最後に古い服にくるんでいた大きなガラスの瓶を二つ、そっと取り出す。
 ひとつの瓶には水が入っていて、中には小さな海竜が泳いでいる。もうひとつの瓶には、小さな火竜が、赤い翼ではばたきながら、光を放っていた。
「お疲れさま、長い旅だったわね」
 七瀬はふたつの瓶を、そっとベッドのそばの戸棚に置いた。二匹の竜はまだ子ども。旅の途中で出会った友達だけれど、瓶からはいまは出してあげられない。なぜってほんとうの姿は大きくて、この部屋からははみ出してしまうし、火事も洪水も起きてしまうからだ。
「そのうち、お散歩に行きましょうね」
 瓶の中の竜たちに話しかけて、七瀬は窓の外のベランダへと出ていった。ベランダには木のタイルが敷き詰められ、からになった素焼きの鉢やプランターがいくつか並べられていた。前の代の住人が、ここで植物を育てていたのかも知れない。
「園芸も素敵よね」
 夜になってゆく空の下で、七瀬はベランダにしゃがみ込み、微笑んだ。
 この部屋にどれだけの長さの間、住むことになるかわからないけれど、いくらかは草花を育てることもできるだろう。もしかしたら小さな木を育て、蔦を這わせることもできるかも。
 ひとつ息をして、空を見上げる。春の夜風は冷たいけれど、星が灯り始めた空は、とても美しかった。
「ああ、薔薇を育ててみるのもいいなあ」
 薔薇の花びらや若い葉の、甘く魔法めいた香りに包まれて、空を見るのもいいかも知れない。

 それからひと月が経ち、五月になった。
 五月は薔薇のいちばん美しい季節で、七瀬の十三階のベランダは、薄桃色や赤の薔薇たちの香りでいっぱいになった。魔女は〝緑の指を持つもの〟なので、苗を手に入れ並べただけでも、みるみる成長していくのは、当たり前のようなものだった。
 花がらを摘みながら、七瀬は黒猫に話しかける。
「木香薔薇も育ててみようかしら。前にイギリスで見た、古い植物園の薔薇、あんなのって素敵よね。光の川が空から流れてるみたいだった」
『ナナセはいつまでこの街で暮らすつもりなの? いくらナナセが魔女だって、あの長さまで育てるのにはずいぶん時間がかかると思うわよ』
「そうねえ。いつまでいようかしら」
 楽しげに七瀬は答える。どうせいつまでも時間はあるのだ。どの魔女も飽きるほどにこの地上で生きてゆくものだから。
 宿泊代――いやこのさき長期滞在になれば、家賃というべきなのだろうか――はまだ手元にある。家族から受け継いだ財産もあるし、魔女には魔女なりにお金を稼ぐつても知恵もある。たとえば街角の占い師、あの中に本物の魔女が交じっていることもあるし、さりげなく著名人や政治家に助言を与えていることもあるし、国によっては、薬草の店を構えている魔女もいるのだ。油田や鉱山を見つけて、権利を持っているものもいる。悪事に使わないだけで、魔女の能力を使えば、いまの世の中、暮らし向きに困ることはなかった。
 だからある意味、どこで暮らしていってもいいのだけれど――。
「この街、とても気に入ったから、当分は暮らしていきたいような気がするのよね。ここでみんなを見守っていたいような」
 魔女たちは人間の街のそこここで、密かに紛れるように生きてゆく。そうして時としてひとを救い、見守り、関わって生きていくこともある。そうせざるをえないところがある。ずっとそばにはいられないから、一方的な関係に終わることがほとんどだし、いつか忘れられていってしまうばかりで、魔女の一生なんてその繰り返しで。
 でも、そんな風に生きることを、誰に定められたわけでも、頼まれたわけでもなく。ましてや人間たちからその存在に気づかれるわけでもなく、感謝されるわけでもなく。
 ただ見守って、やがて地上から消えてゆく。
「しょうがないわよね。魔女ってそういうものだもの」
 いつか自分もそんな道を辿るだろうと思う。思いながら、薔薇の世話を焼く。昔育て方を教わった、家族の手つきや笑顔、言葉を思い出しながら。彼女たちはもういないけれど、薔薇の育て方は、こうしてちゃんと覚えている。
 七瀬がこの地上にいる限り、受け継いだものは消えることはない。いつか、この地上を吹き過ぎるように消えてしまえば、痕跡もなくなくなってしまうだろうけれども。
 七瀬は軽く肩をすくめた。寂しいけれど仕方がない。ずっと昔に諦めていることだった。

 そんな五月のある日、ある夜のことだった。
 ニコラがふと、七瀬の部屋を訪ねてきた。
「シチューを作りすぎてしまったの。よかったらお相伴してくださらない?」
 今日は店は休みのはずだった。さっき下に下りたとき、店休日の札がかかっているのを見た。自分の夕飯用のものを作りすぎたのだろうか。一人暮らしも長そうなのに。
「ありがとうございます」
 誘いを断る理由は特になかった。
「こちらこそ、ありがとう」
 ニコラは微笑むと、床で寝そべっていた黒猫にも声をかけた。
「猫ちゃんにはささみのスープを用意しましょうか。だから一緒にいらっしゃい」
 黒猫は嬉しそうに金色の瞳を見開き、ニコラを見上げて、目を細めた。
 いつも通りの優美な笑みを浮かべるニコラのその口元に、普段は見ることのない寂しげな陰がよぎったことが、気になった。

「ローズマリーチキンのクリームスープを作ったのよ。久しぶりに作ったせいかしらね。多めにできあがってしまって」
 彼女の部屋で、客間に通されて、七瀬は目の前に出されたシチューの皿から上がる良い香りの湯気にうっとりとした。
 クリーム色のシチューからふわりと立ち上がる、香ばしいチキンに、香草の香り。美しい色合いの人参の赤にパセリの緑。ブラックペッパーの散る黒。ころころと見える馬鈴薯。半透明に透けるエシャロット。まろやかな手触りの木のスプーンですくって口に含むと、うっとりするような美味しさが口中に広がった。
「いかがかしら?」
「最高です」
 それだけ答えると、よかった、とニコラは片手で頰杖をついて笑った。自分はスプーンを手にしようとせずに、ふとまなざしを、七瀬の顔から、少しだけ上へと上げた。
「仲の良い友達がいたの。わたしよりずいぶん若かったんだけど、なんだか気が合ってね。姉妹みたいにやりとりをしていた、お友達。長い灰色の髪が背中くらいまでふわふわと、まるで翼みたいに見えて綺麗な子だったわ」
 懐かしいものを見るような目をした。
「ほら、わたしたちは魔女だから、友達なんて滅多にできないし作らないでしょ? 珍しいことだった。といっても、互いのことをべったり語り合うようなこともなかったんですけどね。気がつけばわたし、彼女がいつどこの国で生まれたのかも知らないわ。わたしも話さなかったし。ここでふたり、食事をして、彼女が遠い街で見てきたものの話なんかして。ふたりでテレビなんて見て」
 ニコラはふと立ち上がると、手を伸ばして、テレビの電源を入れた。「ごめんなさい、ちょっと見たい番組があって」
 一言、七瀬に断って。
 大きなテレビは分厚い、いまどきは珍しいようなブラウン管のテレビだったけれど、かたちが美しくて、良い音がした。魔法なのか、それともちゃんと人間風に契約しているものなのか、どこか海外のニュース番組が映り、椅子に斜めに腰掛けたニュースキャスターたちが、昼間の空と都市の風景が映る窓を背景に、こちらに笑顔で挨拶をする。街並みの様子と言葉からして、東欧か中欧だろうかと、七瀬は思う。そのうち地名でも出れば、どこの国の番組なのか、わかるかも知れない。
 ニコラは、楽しげに話し続ける。
「ローズマリーチキンのクリームシチュー、彼女が大好きだったの。一度作ってあげて以来、あれをまた食べたいって、大好物になって。彼女が世界中をさすらって、渡り鳥みたいにこの宿を訪ねてくれるたびに作ってあげたのよ。ローストチキンを作ってから、シチューにするから、時間も手間もちょっとかかって。面倒だなあって思うこともあったんだけど、彼女が美味しいっていって食べてくれるものだから。これを楽しみにこの街に帰ってくるんだ、なんていいながらね。
 だけど、もう作ってあげることはできないんだなあって、そんなこと思いながら久しぶりに作ってたらできちゃったの、たくさん。どうしましょう」
 ひとりで食べるには何日もかかるわ、と彼女は笑う。鍋一杯にできたから、と。
「――もう作ってあげることはできないって」
 逡巡してから、つい訊ねてしまう。
 ニコラはうっすらと微笑んだままで、
「今と同じ薔薇の季節だったわ。彼女、この部屋で消えたのよ」
「……」
「光になって消えていっちゃった」
 魔女は長く生きるけれど、あまりに疲れすぎていたり、ひどい怪我を負ったり、魔法を使いすぎたりすると、「死んで」しまうこともある。肉体は空気に溶けるように消えてしまって、ただかすかなきらめきのような光だけがそこに残り、その光もいつか見えなくなる。
 何度も見てきたから、七瀬はそれを知っている。
 シチューをすくう手を止めて、七瀬はスプーンを握りしめる。
 ニコラが優しいまなざしで見つめる。
「冷めてしまうから、どうぞ。大丈夫よ。もう何十年も前のことですもの。魔女にとってもわりと昔のことに感じるような」
 ニコラも木のスプーンを手に取る。
「最後に彼女がこの部屋を訪れたとき、話してくれたの。
 旅の途中、乗っていた列車が事故に遭ったんですって。ヨーロッパのいろんな国の国境が接する辺りの、高い山や川を越えてゆく、線路でのことよ。普通なら、わたしたちは虫の知らせを聞いて、列車に乗るのをやめたりするもので、彼女も実は駅にいるときに、足が動かなくなったんですって。とても嫌な予感がして。空には急に雨雲がたちこめ、嫌な感じで雨が降り始めた。駅でまさにこれから乗り込もうとしていた他の旅人たちは、それでもみんな楽しそうだったけれど、どの顔にも死相が浮いて見えたっていうのね。これはもう助からない、ああかわいそうに、と思ったそのとき――その列車に乗ろうとしていた家族連れの中の、小さな男の子が、青ざめた彼女を見て、心配そうに、大丈夫ですか、って訊ねたんですって。彼女が、大丈夫よ、ちょっと疲れただけって答えたら、その子、一枚の長く美しい白い羽を、彼女に手渡したんですって。さっき拾った宝物だけど、お姉さんに差し上げます、って。まるで天使のような笑顔で笑って。
 手を振って、列車の中に消えてゆく男の子と、優しそうなその子の家族を見ているうちに、白い羽を手に、ひとびとを見送るうちに、彼女は駆けだしていたんですって。自分も列車に乗り込んで、笑顔で男の子にお礼をいったんですって。ありがとう、元気になったわ、って。男の子も家族も、それは良かったと喜んでくれて。
 家族のそばに席を見つけて座ると、男の子は彼女にスケッチブックを見せてくれたんですって。そこにはかわいらしい絵がたくさんあって、彼女は男の子の家族といっしょに、飽きずにスケッチブックの絵を眺め続けたの。クレヨンで描かれたその絵は、幸せで優しくて、愛に満ちたあたたかい絵で、この子の笑顔そのもので、彼女はしみじみと思ったんですって。この絵をずうっと見ていたいなって。もっとたくさん見たいなあって。
 彼女は、思ったんですって。もしこの列車に乗るひとびとに、この男の子の身に不幸なことが起きるとしても、自分が守ればいい、自分は魔女なんだから、きっとできる、って。
 いままで長い人生の間、同じような場面で、たくさんの人間たちを救ってきたように」
 海外のニュース番組は、事故のニュースを伝えている。高速道路の事故で、たくさんのひとが亡くなった、と。泣いているひとびとが、画面でインタビューに答え、哀しみを訴えている。
 ニコラは目を伏せて、シチューを口元に運ぶ手を止める。
「――けれど、事故を防ぐことはできなかったんですって。切り替えの事故だったとか。降りしきる雨の中、列車は、線路を外れ、崖から落ちたの。
 気がついたときは、崖から生えた木の幹に自分ひとりぶら下がっていて、はるか眼下には折れ曲がった列車が、いつの間にか降りだした雨に濡れていたんですって。
 雨粒が落ちる中、たまに雲を裂くように、夕方の光が金色に差していて、彼女はてのひらに魔法のほうきを呼び出すと、天からの光に助けられるようにしながら、地上に舞い降りていったんですって。彼女もひどい怪我を負っていたんだけど、誰かひとりでも生きていれば、あの男の子と家族を探さなくては、と、鳥のように地上を探して。
 儚いことに、崖下に倒れているひとびとは見つけるたびに声をかけても揺り動かしても、誰ひとり生きてはいなかったんですって。やがてあの男の子の家族が見つかり、けれどみな命がなくて。ああ、もうあの子も死んでしまったのかと思ったとき、スケッチブックが見つかって、そのすぐそばに、男の子が倒れていてね、その目が舞い降りてくる彼女を見上げていたんですって。ひどく傷ついて、意識があるかどうかさえもはっきりしなかったけれど、でも生きていてくれたのだと。
 もしかしたら、ほうきで空を飛ぶところを見られてしまった、正体がばれたかも、そう思っても、何よりもこの子を助けなくてはいけない。彼女は地上に舞い降りて、両腕でその子を胸元に抱きしめると、ひとの街に向けて一心に飛んだんですって。病院を探して。――時間があれば、薬草を探し薬を煎じて、自分でその子の怪我を治せたかも知れない。けれど、彼女自身が深く傷ついていて、それだけのことをする時間があるかどうか、自信がなかったから。そして彼女は、山の麓の街に、病院の灯りを見つけ、舞い降りて、男の子を病院のひとに預けると、どれくらい時間がかかったんでしょうねえ。はるばる空を飛んで、この街のこの路地の、わたしの店を訪ねてくれたの。
 元気そうに見えたのよ。服は汚れていたし、疲れても見えたけど、いつも通りの、楽しそうな、明るい笑顔だったし。ただお腹が空いた、シチューが食べたいって。だからわたしは急いで彼女に食べさせてあげなきゃって、だけど、ローズマリーチキンのシチューは作るのに手間と時間がかかるものだから。
 オーブンに火を入れて、ローズマリーや塩胡椒、ガーリックで下味付けをしたローストチキンを焼いて。野菜の下ごしらえをして。そんなことをしているときに、彼女がまるで待ちくたびれたっていうように、キッチンまで来て、わたしの背中を見るようにして、珍しく長く話し込んだのね。事故のことを。どんな風にその男の子と出会って、救ったか、そんな話。
 そして、その子のスケッチブックにあった絵が、どんなに素敵な絵だったかってことを何回も話したわ。彼女ね、崖下に落ちていたスケッチブックを、拾い上げてきて、持ってきていたの。男の子に渡すつもりだったらしいんだけど、うっかり渡しそびれたんですって。あとで見てね、っていわれて、いま見るわ、って答えたんだけど、それに返事がなくて。
 振り返ったら、もう部屋に誰もいなかったの。ただ、いままでに何度も見た、命の名残の光だけが、部屋の空気にかすかに残っていて。シチュー、やっとできあがったのに。一口も食べないままに、あの子は逝ってしまったの。
 とてもひどい傷を負って、それでも彼女は最後に、わたしを訪ねてきてくれたのね。最後にわたしの思い出になりたいと思ってくれたのかも知れないな、と思ったの。忘れないでいてほしいと思ったのかな、って。
 スケッチブックはいまもこの部屋に置いているのよ。クレヨンで小さな子どもが描いた、かわいらしい絵がたくさんのスケッチブック。白い鳥の羽がはさんであってね。だからそのまま、この部屋に置いているの」
 本棚の方へと向けるそのまなざしを追うと、視線の先に古びて汚れたスケッチブックがあった。本棚に大切そうに立てかけてあった。
 そのそばに、一枚の写真があった。
 灰色の長い髪の娘が、長いマントを羽織り、魔女のほうきを手に、こちらを向いて笑っている古い写真だった。
「その子の写真よ。あの頃、この住処に写真が好きな魔女が住んでいたことがあってね。何かの弾みでその子に撮ってもらったの。素敵でしょう?」
 七瀬はうなずいた。写真は時を経てセピア色がかって色褪せている。あちこち変色してもいる。いずれ完全に色褪せて、見えなくなってしまう写真なのだろうと思った。
 けれど、写真ごしにこちらを見つめる彼女の瞳は朗らかで明るかった。この魔女が昔にこの部屋で死んだのか、と思うと一度も会ったことのない魔女でも、さすがに切なかった。
 七瀬や、誰よりもニコラがいつかこの地上から光になって消えてしまえば、ひとりの優しい魔女の一生も、その最期も、こんな風に優しく明るい笑顔で笑う魔女だったということも、色褪せた写真とともに、時の彼方に消え去ってしまうのかと思った。
「あの日、彼女、笑っていったのよ。シチューを作るわたしの背中にね。『わたしも馬鹿よね』って。『人間なんて助けてもどうせすぐに死んでしまうのに、なんで助けたのかな』って。『生き延びたって、わたしたちのことなんてそのうち忘れちゃって、覚えていてくれないのにね』って。泣くような笑うような、そんな声だったわ。――それが彼女の、最後の言葉だったの。わたしはずっと背中を向けていたから、彼女がどんな表情をしていたのか、よくわからないの。泣いていたかも知れない。笑っていたかも知れない。本心で馬鹿なことをしたって、後悔していたかも知れないし、これでよかったんだって思っていたかも知れない。――どちらにせよ、もう昔のことになっちゃったんですけどね」
 ニコラは微笑むと、細い手首に巻いた金色の腕時計の文字盤を確認し、「ああ、そろそろね」といって、テレビの画面に目をやった。
 そこには、古く大きな建物の映像が映っていた。どこかの古い城の礼拝堂らしい。
 美しい大きな絵が、飾ってあった。
 絵の前には、車椅子に座った、しなびたように老いた老人がいる。口元に笑みを浮かべた、柔和な感じの老人で、度の強そうな丸眼鏡をかけている。たまに絵を凝視するように見上げるけれど、そのときの表情からして、もうあまり見えていないのかも知れなかった。
 老人のそばには、老人と面差しの似た若い娘がひとりいて、手にパレットを持って、絵に向かい合っている。そばには絵の具に汚れた脚立があり、油絵の具や、あれはたしか絵の具を溶くための溶剤、大小様々な絵筆やナイフがまとめられ、床に置かれている。
 老人はたまに娘に声をかける。娘は優しい仕草で老人の方へと身をかがめ、一言二言会話をする。娘の方から老人に何か問いかけて、会話をしていることもあった。
 その時流れたナレーションとテロップによると、ふたりは祖父と孫娘。祖父は著名な画家で、この絵は彼の若い時代の代表作だということだった。建物の内部の環境があまり良くないこともあって、修復を行っているところだという解説が流れた。まだ彼に命があり、それに立ち会えるうちに、と。この先も長く、遠い未来まで、この絵が受け継がれ、残ってゆくように。
 ニコラが、画面を見つめながらいった。
「あのおじいさんがね、あの日友達が助けた小さな男の子なのよ。すくすく育って、おとなになって、立派な画家になったの。
 なぜわかったかって? そこは魔女の勘と、何よりも、スケッチブックに記してあった名前ね。あまりある名前じゃなかったのよ。そして絵が、どこか似ていた。明るさや素直さ、あたたかさや優しさ。そんなものがね。
 たぶんそれが、あの子の魂の色だったんでしょう。いつの世も、どんな年齢でも、画家は自らの魂を絵の具にして絵を描くものだから」
 番組のナレーションも語る。幼い頃、列車の事故で家族を亡くした少年は、自身もひどい傷を負いながらも、親戚に引き取られて成長し、やがて、画家の道を目指したのだと。子どもの頃から頭角を現し、ひたむきに絵を描き続け、学生時代には各種のコンクールで賞も取り、そのまま画家として大成していったのだ、と。
 彼はその生涯にたくさんの絵を描いたけれど、老いてからは目がよく見えなくなり、指先の自由もきかなくなってきたので、孫娘に技術を教え、魂を受け継がせるようにして、ふたりで絵を描くようになったのだという。
 そしてこの絵の修復を最後に、彼は引退するのだとナレーションが流れた。若い頃に描いた最愛の絵、代表作を蘇らせる、それを最後に、絵筆を置いてのんびりと暮らすのだそうだ。記憶の中に焼き付いている、世界中のたくさんの美しいものや懐かしいものを心の目で見つめて、それを愛でて暮らすのだという。
 この番組は、偉大な画家であった彼のその最後の仕事を記録し、保存するためのドキュメンタリー作品のようだった。
 老いた画家は、静かに顔を上げ、大きな絵を見上げる。古く美しい空間に飾られた、荘厳な絵を。この先、彼や孫娘の命が絶え、いなくなってしまっても、はるかな未来へと旅し、残っていくだろう、一枚の絵を。見えないだろう目で、そばに立つ孫娘の優しい手に支えられるようにして。
 それは、黄昏時の空から降りそそぐ光の中を、白と灰色の翼を画面一杯に広げて舞い降りてくる、美しく力強い、ひとりの天使の絵だった。
 天使は若い娘の姿をして、優しいまなざしを地上へと向けている。差し伸べている白い手は、眼下にいる誰かに伸べられた手。誰かを救おうと、守ろうとしているのがわかる、そんな絵だった。
 天使はその瞳に、微笑みに、無限の優しさと愛を込めて、地上を見下ろしていた。
 七瀬は、画面の中の天使を見つめ、そして、古い写真を振り返る。明るいまなざしも、優しい微笑みも、からだ全体の雰囲気も、同じだと思った。
 番組の中で、老いた画家の言葉が流れた。たくさんの絵が飾られた、おそらくは彼のアトリエなのだろう。そこで録画された、インタビューのようだった。
『わたしは、幼い日に、天使を見たことがあるのです。ええ、乗っていた列車が雨の中で事故に遭い、崖下に落ちたそのときに、家族も、他の乗客も亡くなってしまって、痛みと恐怖の中で自分も死ぬのだと泣いていたときに、雨雲の中から現れた黄昏の金色に染まった空から、光の色の翼を空に広げて、天使が舞い降りてきてくれたのです。天使は空から地上へと白い手を差し伸べ、わたしをすくいあげると、強く抱きしめてくれました。よかったと言ってくれました。
 気がつくとわたしは麓の街の病院にいました。子どもひとりどうやってそこに辿り着いたのか、その奇跡はいまも謎のままになっているそうです。わたしは当時から、何度も、自分は天使に助けられたのだと話しているんですけどね。誰も信じてくれなくて』
 老人は朗らかに笑う。
『けれどわたしの中には、あの日見上げた天使の笑顔が残っていました。あの奇跡を忘れてはいけないと思いました。だからわたしは絵を描いたのです。最初は子どもの手ですから、うまく描けなくて。こうじゃない、もっとうまく、と思いながら描き続けて、そうしてやっと満足できる絵になったのがこの作品です。
 学生時代にとあるコンクールで最優秀賞をいただき、この礼拝堂へと飾られることになりました。わたしの二つの目にはもうこの絵は見えないのですが、幼い日から何度も記憶に蘇らせ、こうして描いた天使の姿は、いまも見えるからいいのです』
 絵の中の天使は口元に微笑みを浮かべ、画面ごしにこちらを見つめていた。
 はてしない優しさと、強さをたたえた、静かに美しいまなざしで。
 この地上にはもう存在しない、光になって消えてしまったひとりの魔女の魂は、たしかにそこにあったのだった。

 使い魔の黒猫が、画面を見上げて、ぼそりと呟いた。
『魔女も使い魔も、礼拝堂なんかとは縁がないっていうか、たぶん神様の祝福とか受けられないと思うんだけど』
 ニコラが笑みを浮かべたまま、うなずく。
「そうねえ、わたしたちは天国にはいけないでしょうし、天使にもなれないと思うんだけど。――ささみのスープのおかわり、いかが?」
 黒猫はひげをあげてうなずく。
 ドキュメンタリー番組は終わろうとしているのか、スタッフロールが流れていた。
 画面の中の老人は、穏やかな笑顔を浮かべていて、幸せそうだった。
 七瀬は、本棚の古い写真を見上げ、そして、自分もそっと微笑んだのだった。

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作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

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