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魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
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第三話 雨のおとぎ話

2019.06.21 更新

 ポテトが揚がる香ばしい香りの中で、空哉(そらや)は今日もカウンターに立ち、笑顔で、お客様を迎える。
 平日のお昼時。古い下町にあるこのハンバーガーショップはそれなりに賑わいはするけれど、たとえばビジネス街にある店舗のように、殺人的に混む、ということはない。というよりも、一年三百六十五日、忙しすぎることはなく、逆に閑古鳥が鳴くこともなく、穏やかに客足が途切れなく続いている、幸せな店だった。
 いろんな店舗で働いたことがあるという先輩アルバイターには、
「贅沢な悩みかも知れないけど、刺激がなさすぎてちょっとつまんないなあ」
 なんて苦笑されるような店だった。

「いらっしゃいませ、こんにちは」
 開いたドア越しに見えた商店街の様子と、お客様――よくいらっしゃる、常連の近所のおばあさん二人組だ――の足下にちらりと見えた歩道のアスファルトが濡れていたので、「ああ、雨降り始めちゃったんですね。お足元の悪い中、お越しいただき、ありがとうございます」とつけくわえる。
 朝、スマホでチェックした天気予報では、今日の午後からの降水確率は六十パーセント。この時期、六月らしい予報が出ていた。もう数日、灰色の雨雲が重く立ちこめていた。
 梅雨時は嫌いではないけれど、やはり客足は鈍るので困ったなあと思うし、雨の中わざわざいらしてくださるお客様には、嬉しい半面、申し訳なさを感じてしまう。
「今日は何をお召し上がりになりますか?」
「いつもの」
「あたしも」
 おばあさんたちは二人してうなずきながら、にっこりと笑う。
「お魚のハンバーガーと温かいカフェオレを大きいサイズ、ホットドッグと普通のサイズの熱いコーヒーですね」
「ご名答」
「さすがね」
「ありがとうございます」
 二人のお客様の好みは覚えている。一人暮らし同士で近所に住んでいるという二人は、これから奥の窓際の席で、ランチタイムを楽しみながら、四方山話に花を咲かせるのだ。店が混んでいなければ、飲み物やデザートのおかわりを頼みながら、長くいたりもする。冬ならば編み物を始めたりもする。空哉がこの店で働くようになる、そのずっと前、昔にこの店がオープンした頃からの常連さんたちなのだと、店長に聞いたことがある。
 調理するスタッフに注文を伝えながら、空哉は手早く品物を渡す準備をする。トレイを用意し、カフェオレとコーヒーをコーヒーマシーンから紙コップに注ぐ。
 商品の名前をわかりやすい言葉にいいかえながらやりとりするのは、シニア層のお客様が多い、この店舗では当たり前の気遣いだ。大学生になってこの街に住むようになって、ハンバーガーショップで働きたいと思い、何の気なしに学校の近所にあったこの店に決めたのだけれど、その気遣いに最初だけ驚き、すぐに慣れた。マニュアル通りのやりとりよりも、お客様の語彙にあわせる工夫は面白い。また、このお店は他の店舗よりも、何かとお客様との距離が近く会話が多いところもあるけれど、そのことにも抵抗がなかった。
(ていうか、接客好きだし)
 ハンバーガーショップというものが好きなのだろうとも思う。小学生の頃、遠い街で、大好きな祖母、薔子(しょうこ)に連れていってもらったハンバーガーショップ。初めて食べたハンバーガーの美味しさをいまも覚えているし、明るい店内も、店の雰囲気も、きらきらした気持ちとともにいつも心の芯にあるような気がする。
(あれは六月、梅雨の頃だったよな。もう十年くらいも前の記憶になるのか)
 優しく知的な祖母の笑顔も記憶の中にある。美しいものが好きで集めていた祖母は、あの日、フランスの骨董品のレースを紅茶で染めたものをワンピースの襟元に飾っていた。手芸も好きで、自分の着るものやいろんな小物をこしらえるのも好きなひとだった。華奢な眼鏡をかけて、光の入る自分の部屋で美しいものを作り上げてゆく様子は、昔の西洋の貴婦人のようで、素敵に思えた。
 祖母の住んでいる街は、海辺にある古い街。転勤族の子どもだった空哉がそれまで住んできたどの街とも違って、不思議な魔法めいた雰囲気のある街で、そんな中に暮らす祖母自身も、どこか魔法使いのような雰囲気をたたえていたのだ。優しい笑みと、柔らかく漂っていた薔薇の香水の香りも記憶の底に残っているようで。若い頃から活字が好きで、空哉の名前をつけてくれたというそのひと自身、お話の世界に生きているような、素敵なひとだった。
 薔子、という名前は薔薇の花からとられたらしい、と母に聞いたとき、子ども心に、なんてあの祖母にふさわしいのだろうと思ったものだ。華やかで優しくて、でもどこか謎めいたところもある、凜としたひとだった。
 十一歳の六月に別れたあと、年賀状のやりとりはいつまでしていただろうか。祖母の住む海辺の街は遠かったのと、その後も空哉の家は転勤を繰り返したので、あれきりあの懐かしい海辺の街へは行っていなかった。
 あの頃から今日までの日々は、自分にとって、事件と発見と成長の繰り返しの、慌ただしい日々で、駆け抜けるように生きて、過ぎ去ってしまったような気もする。
(元気かなあ、おばあちゃん)
 あのときのような梅雨時だからだろうか。今日はしきりと、祖母のことが思い出されて、懐かしかった。

 できあがった食事に飲み物やナプキンその他を添えて、トレイをお客様たちに手渡すとき、おばあさんのひとりがこちらを見上げて、朗らかな声でいった。
「ねえ、空哉くん。あなたの笑顔って、いつも素敵よね」
「そうそう。イケメンだけに、さらにひきたつっていうか」
 もうひとりのお客様が相づちを打つ。
「ありがとうございます。でも自分なんて、全然たいしたことないですよ」
 自分ではいわれるほど整った顔立ちだなんて思っていない。なのに、子どもの頃から、かわいい、ハンサムだといわれ続けていて、正直、ろくなことはなかった。内気で繊細なたちだったので、めだちたくない、と思うことの方が多くて。女子には好かれたけれど、やっかみで男子に虐められたりもした。その頃の空哉は悲しくても驚いても悔しくてもすぐに泣く子で、すると余計に意地悪な子たちから虐められた。それが高じて、とうとう学校に行けなくなったのが小学五年生、十一歳の六月だった。
(あの頃は、人生どん底だったよなあ)
 両親は優しい理解のあるひとびとだったので、そんなに辛いなら学校に行かなくていいよ、といってくれた。学校を休めるのは嬉しいことだったけれど、一方で、臆病な空哉は、自分の未来が不安になって怯えてしまった。
 小学校に通えない子どもは、おとなになれるのだろうか? まともに生きていけるんだろうか、と。
 毎日怯え、部屋に閉じこもる空哉を案じた母に提案されて、空哉はひとり、気分転換に、と、祖母の家に滞在することになった。学校やいじめっ子たちのいる街から、しばらくの間、距離をとるのもいいんじゃないかな、と。
 そう、だからあの年の六月、梅雨の灰色の雲が頭上に立ちこめていた季節に、空哉は海辺の街で、祖母やいとこ一家とともに束の間暮らしたのだ。辛い現実を少しだけお休みにして、心を休めるために。
 そして空哉は立ち直り、両親の元に帰り、再び学校に通えるようになったのだった。

 外見だけで人に好かれること、褒められることは、恵まれた、幸福なことなのだと思えるようになったのは、いつの頃からだったろうか。
 いまのように自然に視線を上げて、明るく笑えるようになったのは。
(ああ、もしかしたら)
 海辺の街で祖母と暮らした、十一歳の六月の、あの頃からだったかも知れないと思う。
 記憶の中に、祖母の笑顔が蘇り、たまらなく懐かしくなった。
「ほら、その笑顔よ。空哉くんにいらっしゃいませっていわれるたびに、このお店に来てよかったって思うの。なんかね、ほっとできるっていうか。癒されて元気になるの」
 ありがとうございます、と空哉は心からの笑顔で頭を下げた。
「うちの店、ほら笑顔は無料ですから、こんな笑顔で喜んでいただけるのでしたら、いつでもお見せしますので、ご注文ください」
 そうだったわねとおばあさんたちも笑う。
「じゃあ、いっつもスマイル頼んじゃう」
「あたしも」
 近くの席にいた他のお客様たちも笑っている。いつもの通りに和気藹々だ。
 トレイを席に運びながら、おばあさんたちが楽しげに、
「こんな孫がいたらいいのに、ってたまに思うわ」
「ほんとほんと。空哉くんたら、年寄りあしらいがうまいんだもの」
 基本的に人間は好きで、どんな年齢、年代でも自分の店に来てくれるお客様たちには愛を感じるけれど、いわれてみれば、お年寄りと会話をするのは、ひときわ楽しいかも知れない。店のスタッフの誰よりもうまいかも。
 深く考えたことはなかったけれど、老いた女性を見ると、みんな祖母に似て見える。だから愛しくなるのかも。祖母とは、子どもの頃から数えてみても、ほんの数回しか会っていない。記憶がさすがに朧げだから、それもあって面影を探してしまうのかも知れない。
(おばあちゃんっ子ってわけでもないんだろうけどなあ)
 そのひとのことは、変わらず大好きだけれど、何しろ会話をした回数とそばにいた時間が少なすぎる。
 そのあたり、遠い街でいまも祖母と暮らしているはずの、同い年のいとこの陸緒(りくお)とは違う。子どもの頃、ずっと祖母と同じ家にいるいとこがうらやましかった気持ちを、久しぶりに思い出した。
 両親の家に帰って学校に戻り、元通りの生活をする決心をしたとき、ほんとはまだこの家と街にいたいと内心は思ったとき、陸緒は帰らなくっていいといってくれた。このままぼくやうちの家族、おばあちゃんのそばで暮らせばいいのに、と。
「ぼくの部屋半分使っていいからさ。広すぎて困ってたんだ」
 同い年だけれど、三か月早く生まれた陸緒は、どこか兄貴ぶったところがあって、何かと空哉の世話を焼いてくれた。ときどき面倒に思いながらも、空哉は陸緒のことが好きだった。黒いセルフレームの眼鏡がよく似合う、ちょっと気取ったところのある少年で、プライドは高いし、神経質ではあったけれど、優しかった。
 祖母と同じように、草花や動物が好きで、その頃家に出入りしていた病気の白い野良猫を、かわいがっていた。空哉も手伝ったけれど、庭に猫小屋を作ってやって、小遣いから捻出したお金で、猫のご飯や毛布を買い、病院代をやりくりしていた。口内炎が酷くて、やせ細っていたあの猫は、そういえばあのあと、どうなったのだろう。――あの猫の名前はそう、シロタといったろうか。かわいそうだ、と陸緒がシロタを抱きしめて、一筋涙を流したのを覚えている。病んだ猫の流すよだれが服の胸元を汚しても気にせずに、ぎゅっと抱きしめていた。
「食欲はあるのにね。口の中が痛くて食べられないんだ。かわいそうに。かわいそうにね」
 治してやれたらいいのに、といとこは呟いた。せめてご飯を一口食べさせてあげたい、と。
 いとこという存在は、きょうだいのような、いちばんの親友のようなところがある。二人ともひとりっ子同士で、それぞれの母親も仲が良かったから、余計に身近に感じたのかも知れない。陸緒とも会わなくなって十年になるわけだけれど、いまも懐かしさと親しみを変わらず感じていて、それはきっと彼もそうなのだろうと信じることができた。きっと急に再会しても、昨日別れたばかりのように、笑い合い、会話ができるだろう。
(男同士だと、そうべたべたしたやりとりはしないけれど)
 陸緒とは、年賀状もろくにやりとりはしなかった。母親同士が長電話しているときに、電話を代わってもらったことはあったかも知れない。でもそれも子どもの頃のことだ。妙に気恥ずかしかったので、電話で話すこともなくなっていった。
 家では陸緒の家族のことはちょくちょくと話題にはなっていた。母からは、医学部に進んだらしいと噂は聞いているけれど。
(頭良かったもんな、あいつ)
 子ども部屋の見上げるような本棚に、ミステリー小説が本屋さんのようにたくさん並んでいた。空哉は陸緒に面白い本を薦められ、何冊も読みふけり、それ以来、ミステリーを読むのが好きになった。あの家は本棚がたくさんある家で、家族それぞれが部屋に本棚を持っていた。あの年の六月に、空哉は本好きの世界への扉を開かれたように思っている。
 陸緒の家は、夫婦ともに医師で、自宅で開業していたから、陸緒はいずれ跡を継ぐのだろう。そういえば、当時から当たり前のようにそんな未来を話していたような記憶もある。
「設備を整えるのにお金がかかってるしね。ぼくが病院を継いでそのまま使った方が、もったいなくないっていうか、有効に活用できるからさ」
 同い年で、三か月しか年上ではない陸緒が、そんなときは大人びて見えた。

(久しぶりに、おばあちゃんや陸緒に会いにいってみるかな)
 思い立ったら早い方がいい気がした。自分や陸緒が大学生になったということは、祖母も年をとったということだ。最近の祖母の姿は知らないけれど、年齢相応に老いたろう。また祖母には持病があった。先に逝った祖父と同じ、血圧とコレステロールの値が高く、薬でコントロールしていると聞いた記憶がある。今日明日どうにかなるということではないらしいけれど、健康な老人というわけでもない。
 大学入学とともに家を出たので、ここ二年ほどの祖母の噂は聞いていない。空哉の両親は共働きで、いまはそれぞれに役職にあることもあって忙しい。もちろん空哉自身も、学生生活とバイトで日々多忙だった。初めての一人暮らしは楽しくも家事などにも時間をとられる。月日はあっという間に経っていった。
 そんなこんなで、あまり密には連絡を取り合っていなかった。家族仲はいいし、会えば何でもよく話すけれど、昔からその辺りよくいうと自立した同士の、ドライな家族関係でもあった。便りのないのは良い便り、と互いに言い合うような関係でもある。
 信頼関係があるからこその距離感ではあるけれど、他人にはわかりづらいかも、と思うことはある。空哉自身、子どもの頃は、この家族関係が寂しかった時期もあったのだし。
 いちばん辛かった時期に上手に甘えられなかったことと、上手に手を差し伸べることができなかったことが、いまも親子の間に少しだけ切ない思い出として残っている。

(おばあちゃん、元気なうちに会いたいな)
 話したいことがある。あの十一歳の六月に空哉に優しくしてくれたことに、きちんとお礼をいわなければ、たぶん、あの六月の日々があったから、いまの空哉がここにいるのだ。
 子どもはどこか、おとなは子どもに優しくするのが当たり前だと思っているところがある。あの日、空哉はおばあちゃんに救われたけれど、感謝の思いを伝えず、一言のお礼もいわないままに、気がつくと十年の年月が流れ、今日になってしまっていた。

 ちょうど、バイト代も入るタイミングがやってくる。手土産を用意して、週末にふらっと訪ねていくのもいいかも知れない。
 少しだけ迷ったけれど、事前に連絡はしなくてもいいかな、と思った。他人行儀というか、仰々しいような気がしたし、いきなり行って驚かせたいような気もした。十年前のそれきり会っていない、内気で泣き虫な子どもだった空哉が、こんなに大きくなった。よく笑い、明るい大学生になって、ハンバーガーショップでアルバイトなんてしている。親戚たちはびっくりするのではないだろうか。驚き、そしてきっとよく来た、大きくなったね、と喜んでくれるだろう。
 といっても、もしみんながその日忙しそうだったり、用事があるようなら、挨拶だけして帰ろうと思った。不幸にしてその日に限って留守だったりしたら――まあ、そのときはそのときだ。
(できれば、おばあちゃんや陸緒、おじさんおばさんに会いたいけど。
 いや、きっと会えるさ)
 会えるに違いない、となぜか思えた。
 移動にどれくらい時間がかかるものか、バイトの休み時間に、スマホで調べてみた。祖母の家までは、いま住んでいる街からは、陸路で半日あれば着きそうだ。
「こんなに近かったのか」
 子どもの頃も、その後親の転勤に連れられて暮らしたどの街も、祖母の街――母方の田舎からは遠かった。ひとりで行ける場所ではないとずっと諦めていた街だった。
「陸路で半日なんて、小旅行じゃないか」
 いまの空哉ならば、自分のお金でひとりで電車に乗って行ける街だった。音楽を聴いたり、車窓の景色を眺めたりしながら、のんびり旅していくのにはちょうどいい移動距離。
「梅雨の旅か」
 雨降る中を旅していくのも、いいかも知れない、と思った。きっと線路沿いのどこかで、紫陽花が綺麗に咲いているだろう。電車の窓越しに見える駅の花壇や、家々の庭には季節ごとに色とりどりの花が咲くのをよく見る。
 陸路の旅路は、線路沿いに咲いている花々に迎えられ、見送られることの繰り返しになるものだ。いまの時期ならば、紫陽花。それにダリアや季節を問わないゼラニウム、ベゴニアも見えるかも知れない。梅雨が明け、夏が来れば、赤いカンナや黄色い向日葵の姿が見えてくる。
「薔薇はもう終わっただろうなあ」
 薔薇の花の季節は五月だから、もし線路沿いに薔薇を咲かせている駅や庭があったとしても、時期が過ぎているだろう。いつだったか、園芸が好きなお客様に聞きかじった話だけれど、薔薇は雨と暑さに弱い。梅雨の長雨とそのあとの夏の暑さは堪えるのだ。
 祖母の薔子はその名前の通りに薔薇の花が好きで、他の花たちとともに、庭で育てていた。
 空哉の記憶の中にある祖母の家の六月の庭に、薔薇の花が咲いていた記憶はあるけれど、花もつぼみも雨に濡れて、もったりとうつむいていた、と思う。雨水を含んでうつむいた花は指をふれるとひんやりとして、意外な重さを感じた。息づかいが聴こえるようで、小さな動物みたいだ、と思った。雨水の匂いと一緒に、かすかに甘い香りがしたのも覚えている。

 週末。
 空哉は自分が脳裏に思い描いたそのままの風景の中を、久しぶりの電車に揺られて移動することになった。
 そしてやがて辿り着いた、古い海沿いの街。どこからか風に乗って聴こえる時計台の晴れやかな鐘の音に迎えられて、空哉は懐かしい街の駅に降り立った。潮の匂いをふくんだ海からの湿った風に、ふわりと背中を抱かれたように思い、子どもだった頃の自分も、同じように感じたことを思い出した。街に歓迎されているみたいだった。ようこそ、よく来たね、と。
 あのときは、母と二人。おばあちゃんの家に自分を届けたら、仕事がある母は元来た街に帰ってしまう。そのことが不安で、でも小学五年生にもなって寂しいなんて口にできなくて、うつむいていたら、風に励まされたように思ったのだった。
 そして、思い出したのだ。小さな頃、祖母に聞かされた物語を。
「おばあちゃんの街には、不思議なお話がたくさんあるの。魔法だって奇跡だって、街のそこここで起きているのよ。何しろ、港のそばの裏通りには、街を守る魔女だって住んでいるような、とびきり素敵な街なんですもの」
 そう語る自分自身が、魔女のようにいたずらっぽい笑みを口元に浮かべ、目を輝かせながら、そういったのだ。
 空哉はその前の年には、サンタクロースはどうやら実在しないらしいと知ったような年頃で、つまりはひとの世には魔法も奇跡も存在しない――少なくとも、本やゲームの世界のようには――ということを知り始めていたような年頃だった。
 そもそも祖母の薔子は、そういった魔女や魔法や妖精が登場するようなお話が好きで、自分の本棚に、そういう本をたくさん並べているようなひとだった。空哉といとこの陸緒は祖母から何回も、夢ともうつつともつかない、幻想的な話を聞かされていた。
 それは母たち姉妹も同じだったそうで、たとえば、空哉も聞いたことがある、「港のそばの裏通りに住んでいる街を守る魔女」の話は、何度も聞かされたそうだ。あまりにも聞かされたので、寂れた裏通りのどの路地をどんな風にいくと、魔女の暮らす古いビルディングに行き着けるか、わかるような気がすると母はいっていた。
「どこかで聞いたような、よくあるタイプのお話なのよね。街のどこかに人間のことが好きで、人間を幸せにしてくれる魔女が住んでいて、力を貸してくれるっていうの。そんな魔女があの港町には住んでるって。
 おばあちゃんは子どもの頃からその魔女の友達で、寂しいときや疲れたときはそのお店を訪れてたっていうの。困りごとがあるときは、相談に乗ってもらったりもしたって。園芸が得意なのも、若い頃魔女に教わったからだって。
 三日月町だけでなく、実は世界中に魔女たちはいて、ふとした街の裏通りや、道を曲がったところや、それどころか大都会の真ん中、摩天楼の一角なんかにも、密かに住んでいるらしい、なんて話も聞いたわ。子どもの頃は全部信じて、どきどきしてたなあ。おばさんとふたり、三日月町に冒険に行って、魔女の家を探し出そうとしたこともあるのよ。あそこ、飲み屋街だから、おとなの街でね、怖くて行けるところじゃないし、行ったってわかると𠮟られそうで、何回も行けなかったけど。結局一度も魔女の住むビルには行けなくて、そのうちおとなになって、故郷の街を離れて、忙しさのうちに、昔聞いた魔女のお話のことは忘れちゃったのよね。――おとなになると、不思議な伝説や魔法や奇跡は信じられなくなってくるし。
 おばあちゃんは英米のファンタジーが好きだから、そういう本をたくさん読んでいるうちに、自分でもお話を考え始めちゃったんじゃないかな、って母さんたちは思ったの。実際、いつもお花や風の妖精の話を聞かせてくれて、メルヘンの世界に生きてるみたいなひとだった。ほんとは翻訳家になりたかったって聞いたことあるわ。自分の言葉で大好きな剣と魔法の物語を訳して本にしたかったって。英語の勉強もしたかった。海外で暮らすことも夢見ていたみたい。昔のことだから叶わなかったけれど」
 祖母は英語に堪能で英会話もうまかった。すべて独学でものにしたと聞いたことがある。
 外国の言葉をたくみに操る祖母は魔法使いのようで、異国の言葉を解することは未知の世界の扉を開くようで。空哉が英文学をいま学んでいる根っこは、たぶん祖母にあるのだと思う。
 あの魔女の家のお話は、おばあちゃんが話すお話の中でも、妙にリアルなお話でね、と母は笑った。少しだけ寂しそうに。でも幸せそうな、優しい笑みを目元に浮かべて。
「港のそばの三日月町の裏通りに、ほんとに『魔女の家』なんて名前のお店があって、そこには街を守る魔女がいるのかも、って、信じたいわたしもいるのよ。子どもの頃は探し出せなかったけど、いつかは――おとなになったいまなら、三日月町に行けば、おばあちゃんが通った魔女のお店に辿り着けるんじゃないかって」

 六月の午後の日差しが、古い駅舎に降りそそぐ。天井近くに嵌め込まれたステンドグラスから、色とりどりに染まった光が投げかけられていた。その光の色がなつかしかった。覚えているような気がした。
「十年ぶりなのに、ね」
 一方でどこか違って思えるのはたぶん、自分が大きくなったからだろうと思った。昔この駅を訪れたときは、駅はもっと広く、天井は高く見えた。
 いまも美しいと感じるのは同じだけれど、大学生の目で見ると、古さ故の綻びや、汚れがそこここに見える。

「そうだよね、母さん。おばあちゃんから聞いたお話は、信じたくなるよね」
 改札に向けて歩きだしながら、空哉は思う。
 子どもの頃、祖母が話すことを、まさかそんな噓っぽい、と心の中ではちらりと思ったのだけれど、大好きな祖母から聞くと、魔法だって奇跡だって、ほんとうにあるのでは、少なくとも、祖母の住む街と祖母が知っている裏通りでは、なんてつい思いたくもなっていた。優しいおばあちゃんのことが大好きだから。その気持ちはいまも変わらなかった。
 それに、「魔女がいない」なんていいきれるひとは、世界に存在しないのだ。魔法や奇跡は存在しないと断言できるひとがいないように。
 いないこと、ないことを証明するのは、人間には不可能なのだから。

 十年ぶりの街の、十年ぶりのおばあちゃんの家――いとこの家は、記憶の中にかすかに残る姿と同じに、緑の葉を茂らせた木や、蔦、プランターや鉢の花々に覆われていた。
 古い洋館は、敷地の隣に、これまた古い病院を併設している。その看板も、病院の建物も、緑に覆われて、知らなければ廃病院だと勘違いしてしまいそうなくらいだった。
「梅雨時と梅雨のあとは、雨をいっぱいに吸って、植物は茂るのよ」
 祖母の声が、ふっと耳の中に蘇った。
 チャイムを押す。十年前は、背伸びして押したボタンが、いまは簡単に押せてしまう。
「はーい」とよく響く声の返事が広い家のどこからか返ってきて、リズミカルな足音とともに扉を開け、洒落た黒縁眼鏡の顔をのぞかせたのは、
「――陸緒?」
「もしかして、空哉?」
「そうだよ。久しぶり」
「久しぶりすぎるぞ。おかえり」
 いとこは三和土の靴やサンダルを蹴散らすように下に降りてくると、空哉の肩や背中を、大げさなくらいにばちばちと叩いた。
「それにしたって、なんで今日来たの? 直感? 虫の知らせ? それとも魔法?」
「なんとなくだけど。おばあちゃん元気?」
 空哉が差し出したお土産を受け取ろうとした陸緒の笑顔が、ふっと暗くなった。
「――あんまり良くない」

 長い廊下を、祖母の部屋へと連れられて歩く。
 陸緒の父は昨日から学会の関係で家にはいなくて、母は病院の方にいるそうだ。陸緒は今日は普通に休める日曜日だったので、しばらくぶりで家でのんびりしていたとか。医大生は忙しいそうだ。
「おばあちゃん見ながら、そろそろ空哉の家に連絡した方がいいんじゃないかなあなんて思ってた。今年は五月にほら、何日も暑い日があっただろう? あれで調子を崩しちゃったんだと思う。あんなに元気だったのに、すぐに疲れたっていうようになって、いつも横になってるようになってさ。
 そこにおまえが顔を出すんだもの。びっくりだよ。おばあちゃんが好きなメルヘンやファンタジーの本の中の出来事かと思った」
 おばあちゃんおまえが大好きだったから、魂が呼んだのかも知れないね、陸緒はそういって、寂しげに笑った。
「そんなに具合悪いの?」
「まあ、年だからね。自然なことなのかも知れない」
 淡々と陸緒は答えて、祖母の部屋の扉をそっと開けた。からだを開くようにして、空哉を先に部屋の中に入れてくれた。
「……おばあちゃん」
 小さい声でついそのひとを呼んでしまう。
 そのひとは記憶の中にあるよりも小柄に思える姿で、大きな柔らかそうなベッドの中に、沈み込むようにして眠っていた。小さな子どもや小鳥が寝ているような、そんな様子で。身を丸めて、手をぎゅっと握りしめて。
 その姿には、昔のそのひとがそうだったような、西洋の貴婦人の気品はもう感じられなかった。優しいけれど凜とした雰囲気は、もうそのひとのそばにはなかった。
 空哉の声が聞こえたのか、そのひとは目を開けた。空哉を見上げ、皺の増えた口元で、優しくにっこりと笑う。
「あら、こんにちは。いらっしゃい」
 こんなに落ちくぼんだ目をしていただろうか、と思う。黒い瞳は澄んでいるし、変わらず美しいひとだけれど、こんなにしなびたような、色褪せた皮膚をしていただろうか、と思う。どうしても店の常連の、元気なお年寄りたちの表情と比べてしまう。
 あんな元気な、朗らかな笑顔は、いまの祖母からはとても遠く見えた。
 昔はもっと――記憶の中にある祖母は、溌剌として、明るく笑っているのに。
「おばあちゃん、あの――」
 声がのどに貼りついたようになって、うまく話せない。
 緩やかに、うたうように、祖母が言葉を続けた。じっと空哉を見つめて。
「どうしたのかしら。悲しそうな顔をして。せっかくのハンサムさんが」
 のどが詰まるように思ったのは、昔祖母がよくかけてくれた言葉だと思い出したからだった。――泣かないのよ、泣かなくていいの、ハンサムさん。
「あなた、ねえ、あなた。うちの孫にそっくりね。空哉っていうの。わたしがつけたのよ、いい名前でしょう?」
「……」
 陸緒を振り返ると、そっと見つめ返してきた。静かに歩み寄って、耳元でいった。
「――たまに記憶が混乱しちゃうみたいで。俺のこともわからなくなるときがある」
 まあね、年だからね、と、いとこは自分にいい聞かせるように呟いた。
 祖母はゆったりと話し続ける。長い長い独り言のように。
「でもそれで空が好きになったのか、空ばっかり見上げてる子どもになっちゃった。空みたいに、とっても心の綺麗な子でね。心根が優しくて柔らかくて。傷つきやすいものだから、すぐに泣いてしまうの。ひとが自分を傷つけることが怖くて。世の中の、人間の持つ悪意が信じられなくて。――でも、自分の方は、悪意に悪意をぶつけて跳ね返すことができなくて、悔しさも怒りも自分の中に閉じ込めてしまうの。刃物をてのひらでぎゅっと包み込むように、自分の中に抱え込んでしまう。
 でも――閉じ込められた思いは、痛くて、悲しくて、それで涙が溢れてしまうのね。小さな子どもは、心を言葉で説明することができないから、泣くしかないの。
 するとどうやら他の子たちに虐められてね。泣き虫っていわれちゃったみたいで。それで、孫は学校に行けなくなって、うちで預かっていた時期があるの。――うちの庭で、寂しそうに空を見上げてたの、ほらその樅(もみ)の木の辺りでね。猫を撫でたりしながら」
 祖母は童女のような顔で笑った。果てしない優しさをたたえた、そんな目をして。空を見上げる小さな孫の姿が見えるというように。
「わたしは、孫が愛しくてね。強くて優しいあの子が大好きで。幸せになって欲しいっていつも思ってた。あの子は自分のことを泣き虫の弱虫だって思ってたみたいだけど、ほんとはそうじゃないんだよ、っていつも伝えたくて、でもうまく伝えられなくて。
 言葉を選びすぎちゃったのかなあ。考えすぎちゃったのかなあ」
 ため息まじりに祖母は笑い、そしてふと視線を動かして、空哉の背中越しに庭を見た。
「あら、シロタが来てる。空哉と陸緒はどこへ行ったかしら? あの子を探してたのに」
 振り返ると、庭に薄汚れた白猫がいて、ガラス窓越しにこちらを見上げていた。
 あれはまさか、と思うと、陸緒が小さな声でささやいた。
「――前の猫とは違うよ。シロタは、その、何年も前にいなくなったんだ。奇跡的に病気が持ち直しての大往生だったけどね。あの白猫は、最近この庭に来るようになった猫で、昔のシロタみたいに口内炎が酷いから、おばあちゃんごっちゃになってるんじゃないかなあ」
 陸緒の目が庭の白猫を悲しげに見た。「悪い病気のせいで、口の中が腫れて傷だらけでね。おなかがすいていても、痛くて何も食べられなくて。俺だってシロタのことを思い出すもの。
 あの猫も奇跡でも起きない限りは、もう生きてはいけないだろう」
 祖母が静かに目を閉じながら、呟いた。
「ちょっと休んで元気になったら、わたし、魔女の家に薬を買いにいかなくっちゃ、シロタがかわいそう。……孫たちが泣いてしまうわ。空哉も陸緒もシロタがかわいそうだって、泣いてしまうから」
 陸緒がきゅっと下唇を嚙むようにした。空哉は自分も同じ仕草をしているのを感じていた。いま感じているのと同じ唇と心の痛みを、陸緒も感じているのだろうと思った。
「――昨日も今日も、ついさっきも、わたし、魔女の家に行ったのよ。美味しいお茶をいただいて、あらわたし、ここには用事があって来たはずだったのに、って思うのに、そのときは思い出せないの。……うちに帰ってきてから、あ、また忘れちゃったって思うんだわ。シロタの薬を買いにいったんだったのに、って」
 目を閉じて、深く深くため息をついた。
「もう一度、薬を買いにいかなくちゃ。もう一度、シロタに魔女の薬を」

 祖母は眠りにつき、空哉は陸緒に誘われて、部屋の外に出た。
 祖母の部屋の扉の外で、いとこは目を伏せて、空哉にいった。
「少しずつ現実がわからなくなっていくのって、俺はけっこう救いなんじゃないかと思うときがあるよ。空哉はおばあちゃんにかわいがられてたから、いまの様子を見てると辛いかも知れないけど、調子を合わせて流してやって欲しいんだ。否定されると混乱するから。
 魔女の家なんてあるはずないとか、おばあちゃんずっと寝ててどこにも行ってないだろうとか、そんなこと俺もいわないから」
「大丈夫、わかってる」
 空哉は小さく微笑んだ。大丈夫。お年寄りの扱いなら慣れてるし、お客様に介護職の方もいて、愚痴交じりの話はよく聴いてもいるのだから。
 そんな話をとりとめもなく小さな声で二人は話した。懐かしさを感じる台所で、陸緒がいれてくれた熱い紅茶を飲みながら。
 ふと見ると、陸緒はティーカップに角砂糖を二つも入れて溶かそうとしていて、甘いものが好きなのは、昔から変わらないんだな、と、空哉はスプーンで角砂糖をつついているいとこの手元を見つめていた。
「空哉、おまえがいまここにいてよかったよ。ほら俺きょうだいいないしさ。こんな状態、さすがにちょっときついもの。この先、おばあちゃんどんどん悪くなっていくのかな、とか考えるとさ。年齢的には奇跡は起こらないってわかってるからさ。
 昔、シロタの面倒を二人でみてたじゃない? あのとき空哉がいてくれてよかった、だからがんばれたんだ、なんてこと、すごく久しぶりに思い出したよ。
 生きているものはみんな、病むし、いずれは死んでいなくなる。その繰り返しだってわかってて、頭では理解してるのに、辛いものだよな」
 空哉はそっと唇を嚙んだ。そしてなかば話をそらすような感じでいとこに訊いた。
「なあ、魔女の家って、ほんとうにあるのかなあ。病気を治してくれる不思議な薬を作ってくれる魔女が、この街にはほんとうに住んでいるんだろうか?」
 昔、おばあちゃんが聞かせてくれたように。
「さあねえ」
 いとこは優しい目をして、そっと笑う。
「昔、おばあちゃんはシロタの口内炎の薬を買いにいって、それでシロタは元気になったことがあるけどね。でもほんとうに魔女に会って薬を買ったかどうかは、おばあちゃんしか知らないことだから。存在するかしないかは、誰にもわからないんだよね」
「薬があれば、おばあちゃんは元通りになるのかな」
「――もう年だからね。どうしたって、そんなに長くもないんだろうと思うよ」
 忘れたかい、といとこは笑う。
「おばあちゃん、いってたじゃん。さすがの魔女も死者は生き返らせることはできない。寿命を延ばし、死すべきさだめのものを永久に生きながらえさせることはできないんだ、ってさ」
 わかっている。おぼえている。だけど。
 空哉は、言葉を絞り出すようにした。
「それでもぼくは、せめて一言、お礼をいいたくてさ。それに、伝えたくて。知っていて欲しくて。――もういまのぼくは泣き虫じゃなくて、明るく元気に生きていて」
 話しているうちに、のどの奥が痛くなってきて、空哉はぎゅっと涙をこらえた。
「友達だってたくさんいるって、おばあちゃんに話して、安心させてあげたくて」
 一言お礼をいいたいと思った。大丈夫だといいたかった。おばあちゃんが、この家での暮らしが、あの六月の日々は素敵だったと伝えたかった。
(なんでもっと早く、帰ってこなかったんだろう)
 そう思うと、たまらなくなった。
 もっと言葉が通じるうちに。いまの、夢の世界を生きているような祖母ではなく、現実の世界で呼吸している祖母に、目と目を合わせ、感謝の言葉を伝えたかった。
(なんでもっと早く――)
 忙しさにかまけているうちに、楽しい日々を送っているうちに、あっという間に時間が過ぎていた。一瞬のうちに時が流れたように。
(『後から悔やむから後悔っていうんだよ』、なんて言葉、お客様から聞いたことがあったっけ)
 ほろ苦く思い出した。
ガラス越しに見えた白猫は、ひとの気配を求めたのか、台所の掃き出し窓に寄ってきていた。陸緒が少しだけ窓を開けるとひとなつこい感じで寄ってくる。
 ひとめでわかるほどに痩せ衰えていた。口元からは口内炎の猫の証拠のように、血の混じったよだれが流れていた。
 空哉が身をかがめると、のどを鳴らしながら、手が届くほどそばにやってきたけれど、持っていたティッシュで口元を拭いてやろうとしたら、首を引くようにした。
「さわられると痛いんだろう」
 静かに陸緒がいった。「昔のシロタと同じで、まだ若い猫なんだけどね。それこそ奇跡を起こせる魔女の薬でもなければ、このまま弱っていくだけだと思う。ひとの手では治せない病気だから」
 痩せた猫は、澄んだ瞳をして、困ったような顔をして、空哉と陸緒を見つめていた。のどを鳴らし、食べ物と救いを人間に求めながら、自分の口の痛みに耐えていた。
 こんな風に、シロタも自分たちを見つめていたなあ、と空哉は思い出した。
 あのとき、空哉は訊いたのだ。
「おばあちゃん、シロタは助からないの?」
 そばで陸緒も祖母を見上げていた。泣きそうな顔をして。きっと自分もあんな表情をしていただろうと空哉は思う。
 自分たちはまだ子どもで、何の力も知識もなく、願うこと頼ることしかできなくて。だから一心に祖母を見つめたのだ。
「魔女にお願いしてみましょうか」
 祖母は笑みを浮かべ、静かにいったのだ。
「魔女の家は、ちょっと不思議な場所にあるから、行きたいと思っても、行けるときと行けないときがあるんだけど、おばあちゃん、頑張って行ってみるわね」

 あの六月の、自分がこの家にいる間には、猫のシロタは元気にならなかった、と思う。
 でもそのあと持ち直して長生きしたのなら、自分が両親の元に帰ってから、祖母は魔女の家に辿り着き、薬を買って帰ったのだろうか――。
 そんなことをぼんやりと思い、それから空哉はゆっくりと首を振った。
(魔女の家なんて、ほんとにあるはずが)
 あればいいと思うけれど。
 もしそんなお店があって、魔女がいるのなら、自分は訪ねていくけれど。
 たとえば、一瞬でいい、祖母と言葉を交わすことができる、そんな奇跡を起こせる薬を。
 そして、いま目の前にいるこの哀れな白猫が元気になって、美味しいものを食べられるようになる、そんな魔法の薬を。
 買いにいくのに、と思った。

 懐かしい家にいて、空気の匂いを嗅ぎ、窓越しに鳥たちの声や風の音を聴いて、いとこと話しているうちに、少しずつ、水が満ちてくるように、あの頃のいろんな会話や言葉を思い出していた。
 六月のある日、空哉は祖母に願ったのだ。
 祖母の部屋で。久しぶりに梅雨空から光りが射した日で、午後の光が部屋に満ちていたのを覚えている。祖母の部屋には古く大きな姿見があるのだけれど、鏡面が光をたたえていたのも覚えている。
「おばあちゃん、ぼく泣き虫を治す薬が欲しい。魔女の家に探しにいけばあるのかな?」
 涙を止める薬が欲しいと思ったのだ。何があっても泣かなくなるような薬があれば。
 もっと強くなりたいと思った。誰からも虐められないようになりたくて。
 祖母は、優しく微笑んでいった。
「空哉には何のお薬も必要じゃないのよ。だってあなたは強い子だもの」
 そんなことはない、と思った。
 ぼくはこんなに泣き虫なのに、と。そう思った途端に、涙が溢れてきた。
 祖母は空哉を優しく抱きしめて、背中をトントンと叩いてくれた。
 空哉は祖母の体の温かさを感じながら、自分はこんなに小さい子みたいじゃだめだ、とも同時に思っていた。もっと強く、ちゃんとした人間になりたい、と。もう十一歳なのだから。どうして自分はこんなに弱いのだろう、と。
 そのとき、ふと視界の端に、鏡が見えた。
 祖母に抱きしめられて力なく泣いている、五年生にしてはか弱く線が細い自分と、そして――悲しそうな祖母がそこにいた。
 祖母のそんな表情は見たことがなかった。果てしなく悲しそうな、泣きたいような目で、腕の中の孫のことを見つめていた。
 それはいつも溌剌とした、明るい祖母とは別人のような、ほっそりとして、優しくて儚げなおばあさんの姿だったのだ。
(ああ、ぼくはこんなじゃだめだ)
 そのとき、空哉は強く思ったのだった。
(ぼくのことを大好きで、ぼくに優しいおばあちゃんに、こんな顔をさせちゃだめだ)
(そんなかっこ悪いこと、ぼくは許せない)
 自分に甘えるものか、と歯を食いしばった。
 ここで踏みとどまるんだ。おばあちゃんを悲しませないために。心配させないために。
 おばあちゃんの朗らかな声が、頭上に降ってきた。
「空哉、お茶を飲みましょうか。魔女の家で買ってきたお茶を。幸せになれるお茶だって、魔女はいっていたわ」
 そう、祖母のいれてくれる、空色のお茶があの頃の空哉は好きだった。名前を知らない花と甘い蜂蜜の味がするお茶が。
 ガラスのポットで入れて、ガラスの器に注いでくれる香草のお茶は、レモンを入れると黄昏の空の優しい紫色に色を変えた。
 まるで魔法のように。
 祖母の家の庭には、もったりとした紫陽花が咲いている。あの六月にも咲いていた。
 黄昏の空の色みたいだ、と思ったのを、思い出した。
 記憶は、水底にある小石のようだと思った。ふだんは見えないし、忘れているけれど、水の中に手を入れ、静かに覗き込めば、ひとつひとつ小石を拾い上げるようにそこにあるのだ。大切なことは忘れないのだ、きっと。

(ああ、そうか、それでか――)
 空哉はひとり、うなずいていた。
(あれがきっかけだったのか)
 あの日、祖母の悲しげな表情を見たとき、大好きなひとにこんな表情をさせてはいけない、自分のせいなんだ、と思ったとき、頑張ろうと思ったのだ。
 自分はもう泣いてはいけない、と。
 こんなに優しい綺麗なひとを、貴婦人のような綺麗なひとを泣かせてはいけない、と。
 祖母が好きで、本棚に並んでいた、外国の妖精物語に出てくる騎士たちが貴婦人を守るように、ぼくはおばあちゃんを守る騎士になろう、と。
 それは心の奥底にそっとしまい込んだ誓いだった。誰にいうこともなかった。さすがに騎士だの貴婦人だの、誰かに話せることでもない。けれど、心の中にその誓いがあるということは、いつだって密かなお守りになった。
(たぶん、ひとは自分だけのためには強くなれないんだ。いやそれでも戦える勇者はいるのかも知れないけれど、少なくともぼくはだめだった。背中にかばえる誰かがいないと、強くなれなかった)
 学校で、いじめっ子や性格のきつい子たちにからまれ、つつかれて泣きそうになっても、心の中にいるおばあちゃんの泣きそうな顔を思い出すと、頑張れた。涙を飲み込んで、うまく受け流すことができた。
 そのうちにいつの間にか、泣かなくなった。
(お客様がいるときと同じなのかも)
 ふと思う。店にいるとき、多少の天変地異があっても、万が一不審者がやってきたとしても、空哉は自分や店の仲間たちが勇者のように振る舞えることを知っている。
 お客様の無事を守り、できうる限り、店も守ること。ひとりならば慌てふためき、逃げたくなるようなときも、お客様がそこにいれば、空哉は頑張ることがきっとできる。
 大切なものを守る、騎士のように。

 空哉は母に、祖母の現状について連絡した。母はすぐに駆けつけてくれるという。父もあとから来るそうだ。学会に出かけている叔父もそのうちに帰宅する予定の時間になる。叔母が診察室にいる病院もそろそろ閉まる時間になるので、夕食の時間の頃には、みんなそろうだろう、という話になった。
 陸緒は夕食の準備を始めた。この家での大人数の食事は久しぶりだと楽しげだった。
「きっとおばあちゃん喜ぶだろうな」
 空哉も手伝おうとしたのだけれど、
「まあ何が出てくるか楽しみにして、任せておけよ」
 台所から追い出されてしまった。
 祖母はあれきり寝ているし、すると空哉にはできることがなかった。
 庭にぽつんと佇んでいる、お腹を空かせた白猫と見つめ合うしかなく、すると切なくなるばかりで。
「――よし、薬を探しに行ってやろう」
 何げなく猫にいうと、白猫は不思議に輝くまなざしで、空哉を見上げ、見つめた。

 駅前の繁華街を離れ、港のそばへと歩いていく。通りの名前は三日月町。ひとけのない裏通りの、寂れた街角の。
 子どもの頃に祖母に聞いたその場所のことを思い返しながら、夕暮れてきた街にひとり足を進める。
 六月の街は、公園や庭先、店先のそこここに、紫陽花の花を咲かせていて、美しかった。
 その様子は、青や紫の光がそこに射しているようで、紫の陽の花とはよく名付けたものだなと空哉は思った。
 歩いているうちに、ふと思う。
 十年前のあのときの鏡の中の祖母の悲しげな表情のわけを。
おとなになったいまだから、わかるような気がした。
(もしかしたら、孫がかわいそうだったからじゃなく――)
 そんな孫をうまく力づけることができない自分が不甲斐なかったから、だったのかも知れない。腕の中にいる孫を守ってやりたくても、励ましたくても、やりかたがわからなくて、自分の無力さが悲しかったのかも。
「――ありがとう」
 歩きながら、空哉はそっと呟いた。
 自分の長い影が、路上に映っている。その影を踏むようにしながら、もう一度呟く。
「おばあちゃん、ありがとうね」
 そうきっと、自分は病気なんかじゃなく、泣き虫の弱虫でもなかったのだ。
 あのひとがそういった通りに。
 唇に笑みを浮かべ、空哉は夕方の空を見上げる。
 もう泣くことなんて、滅多にない。悲しい映画やニュースを見たり、小説を読んだときくらいのものだろう。
「ぼくは、もう泣かないんだよ。強いから」
 そう一言伝えられたらいいのに、と思った。
 そんな奇跡があればいいのに――。

 その言葉を、自分が口にしたかどうか、よく覚えていない。
 でも気がつくと、空哉は運河にかかる橋を渡っていた。港のそばにある、海水をたたえた、穏やかに黒い水が溜まっている数本の運河。
 ひとけのない通りと、いつ建てられたかわからない、古い建物の群れ。その中に流れる運河にかかる橋のひとつに、いつの間にか空哉はいたのだった。
 橋の先に、長い赤い髪の少女がいて、手すりに寄りかかるようにして、空と水を見ていた。高校生くらいだろうか。でももうちょっと年上にも、子どもっぽくも見えるような、変わった雰囲気の子だった。
 足下には一匹の黒猫がまつわりつき、猫は空哉が近づいてくるのを見ると、何もかもわかっているような目をして、にやっと笑った――そんな気がした。
 少女がいる辺り、橋のたもとには、赤や白の薔薇の花が一群れ咲いている。雨に濡れ、だらりとうつむいていた。もとが美しい姿だったろうと想像できるだけに、痛々しかった。
 橋に佇む少女のそばを通り過ぎるとき、空哉は悲しげな顔をしていたのだろう。
 少女が空哉を見上げ、優しい声でいった。
「あなた、優しいのね。仕方ないのよ。薔薇は元々、日本の風土には合っていないのよ。もとが冷涼なヨーロッパの花でね、梅雨時なんて、相性最悪なの」
 海から吹く風のような、柔らかな声だった。
「でもそれでも薔薇は美しく咲こうとするし、薔薇を守るための薬もあれば、庭師もいる。
 そして、魔女もいる。病んだものを癒す手を持つ魔女は、実はひそかにどこにでもいるものよ。ひとの子がその存在を信じていても、いなくてもね」
 赤毛の少女は、軽く肩をすくめるようにした。
 黒猫が高い声でいった。空哉を見上げて。
『あなた、猫の口内炎の薬が欲しいんでしょう? そういう優しい子って好きだわ』
 わたしも、と赤毛の少女が笑う。薄茶色の瞳に黄昏の光を受けて、どこか怪しげに輝かせながら。
「そうね。優しい子どもには奇跡のひとつやふたつ、起きてもいいものだわ」
 少女は猫が話すなんて自然なことだというように笑い、いらっしゃい、と空哉に手を差し伸べた。
「『魔女の家』につれていってあげる」
 黄昏の空に立ちこめてきた梅雨空から、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
 間もなく静かに銀色の雨が降り始め、空哉は少女に導かれて、雨の中、その街角へと足を速めたのだった。

 古いビルディングは、運河と橋に囲まれた一角にあった。辺りには同じような雰囲気の、いつに立てられたのかわからないような古めかしいデザインの建物が並んでいる。
 商店街らしきものもある。飲食店や雑貨屋らしき店々の姿もあるけれど、窓も扉も閉ざされていて、ひとの気配はなかった。
(店休日みたいな通りだなあ)
 シャッター街、というのとは違う。写真の中に入り込んだような、瞬間時が止まって、それを切り取ったような一角だと思った。
 その中に、『魔女の家』はあった。ひときわ古い、煉瓦造りのビルディングのその一階に、品のよいカフェバーのような店があり、窓から優しい明かりを路地に放っていたのだ。
 空哉は立ち止まり、その明かりをしばし見つめていた。
 先に立って歩いていた少女と黒猫が振り返る。
「どうしたの? 濡れるわよ」
「祖母に聞いた通りだと思って」
「何が?」
「『魔女の家』」
 きゅっと唇を嚙んで、空哉は雨に煙るその光の方へと足を踏み出した。

「光がね、まるでおいでおいでをするように、優しく路地を照らしているのよ。迷子を導く灯台の光みたいに」
 昔、祖母はその店のことを、そんな風に話してくれたのだ。子どもの頃から何度も通ったという、魔女のいる店のことを。

 帆船の船室を思わせる、時を経て磨かれた飴色の木で覆われた店内も、瀟洒でセンスの良い古めかしい照明も、そして、カウンターの中にいる、銀色の髪を短く切った美しい魔女――店の店主も、すべてが祖母から聞いた話の通りだった。
 魔女は謎めいて、美しかった。年を重ねているのはわかるけれど、年齢がわからない。古く大きな木や、苔むした岩のように、そこにあるだけで畏れを感じるような存在で、それでいてどこか愛らしい、少女のような笑みを口元に浮かべる、魅力的な女性なのだった。
 たとえば――空哉の店にたまにお忍びで訪れる格式の高い家柄の奥様や、海外の著名な女優には、こんな雰囲気のひとがいるかも知れない、と、思わないこともなかった。
 ただ、瞳の奥にたまによぎる謎めいた光が放つ、凜とした近寄りがたさは、普通のお年寄りが持っていないもののように思えた。
 そして銀髪の魔女は、空哉に訊いたのだ。
「薔子ちゃんは元気ですか?」と。
 何も説明しないのに、乳鉢で香草を砕き、あわせて猫の口内炎の薬を作り、紙の袋に詰めて、空哉に手渡してくれながら。
「わたしたちもこれが仕事だから、ほんとうはただではお薬を渡さないんだけど、薔子ちゃんの孫じゃねえ。特別に差し上げるから、かわいそうな猫を助けてあげてね」
「――祖母のことを、ご存じなんですね」
 銀髪の魔女はにこりと笑った。
 記憶の中にある、遠い目の祖母のような表情で。
「あの子は、長くこのお店に通ってきてくれているの。常連さんよ。ほんの小さな子どもの頃から、わたしと見た目が変わらなくなるような、そんな年になるまで、変わらずずっと通ってくれている、かわいいお客様。
 ここ数日も、よく来てくれていたわ。ひとの子が通うには、なかなか難しい場所にある店なのにね」

 あの子が好きなお茶をお土産に持っていってね、と、良い香りのする袋を、魔女は空哉に手渡した。
 懐かしい花の香りがした。
 その同じお茶を、魔女は空哉にいれてくれた。
 晴れた空のような水色の、祖母が好きだったお茶だった。
「子どもの頃から、あの子はこのお茶が好きだったの。だからよくいれてあげたわ。小さい頃はお小遣いがないから、ビー玉や貝殻、おはじきをお金の代わりにして。そのうちにお小遣いをもらうようになって、それでお茶の代金を支払って。いつか自分で働いて、お金を払えるようになり。仕事帰りなんかにも、遊びに来てくれるようになって。どんどんおとなになっていって。お母さんになり、おばあちゃんになって。
 あんな子は珍しいの。普通はね、おとなになるうちに、魔女と話したことなんて忘れてしまう。ここでわたしと話し、お茶を飲んだことも、食事をしたことも、夢の中の出来事のように思ってしまうものだから。でも、あの子はずっとこの店に通ってきてくれた」
 懐かしそうに魔女はいい、一言付け加えた。
「お願いがあるの。――いつかひととしての人生が終わっても、このお店へいらっしゃい。わたしが待っているから、と、あの子に伝えてちょうだい。今度は家に帰る時間を気にせずに、美味しいものをいつまでも食べて飲んで、長く長くお話ししましょうって。
 遠い時代の、騎士や姫君や、ドラゴンや、勇気ある魔女や魔法使いの物語を、飽きるほどに聞かせてあげるわ、って」

「暗くなったから送っていってあげるわね」
 赤毛の少女がそういって、ランプを手に、黒猫と一緒に、道案内をしてくれた。
 運河に静かに水が満ち、たぷたぷと波が打ち寄せる音がする。もう雨は止んでいて、少女が導く方向に、街の明るい光が見えた。
「――そのお茶ね。幸せになれるように、おまじないがかけてあるお茶だから」
 少女がいった。「何かいいことがあるといいわね」
「はい」
 空哉はうなずいた。
 ランプの光に照らされた少女の笑みと瞳は、記憶の中にある祖母のそれととても似て見えた。懐かしいひとに見つめられ、見守られているような気がした。

 橋を渡り終え、ふと気がつくと、赤毛の少女の姿はなかった。黒猫もいない。
 空哉はただひとり、港町の繁華街に残されていたのだった。街灯の光の下に取り残された空哉の手には、猫の口内炎の薬と、そしてお土産の香草のお茶の袋があったのだった。
 不思議なことに、長い時間あのお店にいたはずなのに、時間はそう経っていないようなのだった。
「夢をみてたのかなあ」
 白日夢、そんな感じで。黄昏時に見た幻なのか。
 つい思ってしまう。だって辿り着いた魔女の家は、あんまりにも祖母から聞いた通りの場所だったから。
「でも」
 空哉は微笑み、歩き始めた。
 手の中に猫の薬と香草茶があるのだもの。
 いまここは、現実だ。夢の中ではない。
 現実の世界を、空哉は祖母の家へと帰っていくのだ。古い港町の石畳を踏みしめて。

「そして、そしてどうなったの?」
 自分の街で、大学のそばにある、ハンバーガーショップで、制服を着てカウンターの中に立った空哉に、常連のおばあさんたちが話しかける。
 週末休みを取って、また帰ってきた空哉が、問われるままに休暇の間のことを話すうちに、魔女の話をする流れになっていたのだ。
 ちょうど、常連の二人以外には、お客様がいないタイミングだった。店長も他のスタッフたちも、そっと店内を掃除しながら(梅雨時はどうしてもクレンリネスが追いつかないのだ。特に床が)、空哉の話を聞くともなしに聞いているようだった。
「どうなったと思います?」
 カウンターを手早くふきんで拭きながら、空哉は笑顔で答えた。
「かわいそうな猫ちゃんは助かったの?」
「はい」
 空哉は答える。
 一度きり薬を飲ませただけで、あの痩せた白猫の口内炎は治り、食事がとれるようになった。猫はいま、陸緒の猫になって、祖母の家でかわいがられている。
「おばあさまは、どうなったの?」
「祖母は――」
 ちょうどそのとき、お客様が自動ドアを開けて店内に入ってきた。
 仲間たちとともに、いらっしゃいませ、と声をかけながら、空哉はドア越しに見えた梅雨空を見上げた。一瞬のことだけれど、空から光の矢が差し、街を照らしているのが見えた。雨に濡れた街は、輝きを放っていた。

 あのあと、魔女の家から薬とお茶の葉を持ち帰ってきた後、空哉は台所で、陸緒と二人、お土産のお茶をいれながら、魔女の家の話をした。互いの両親はまだ、家に戻っていなかった。陸緒は、え、うそ、ほんと、と何度も合いの手を入れながら、空哉の話を聞いてくれた。台所には、美味しそうなシチューと色鮮やかなミモザサラダができあがっていて、テーブルも冷蔵庫の中も、花が咲いたようになっていた。
 家の中に、花のお茶の良い香りが漂い始めた頃、静かな足音がして、祖母が台所の入り口に立った。やせ衰えていても、どこか眠り姫が目覚めたような美しさで。
「あら――あなた、もしかして」
 祖母は、まばたきを繰り返し、そして、口元を手で覆うようにして、訊ねた。
「空哉くんなの? そんなに大きくなって」
 その瞳に、みるみる涙が盛り上がった。
「はい」
 万感の想いを込めて、空哉はうなずき、微笑んだ。昔は見上げていたそのひとを、いまは優しく視線を落として、そっと見つめて。
「もう泣き虫じゃなくなりました。ありがとうございます。おばあちゃんのおかげです」

 祖母は魔女の家の話を聞き、銀髪の魔女からの伝言を聞き、花のお茶を美味しいと繰り返しながら味わい――そして、
「おやすみなさい。またね」
 微笑んで、ベッドに戻っていって、また眠りについた。
 両親や叔父叔母が帰ってきて、祖母の話を聞いて、祖母に声をかけ、そっと揺り起こそうとしたけれど、祖母はもう目を開けなかった。
 口元に静かな笑みを浮かべて、眠っていた。

 それきり、祖母は眠り続けているという。
 ただ少しずつ弱ってきているので、いつかはさよならになるだろうと、陸緒がこの間、電話をかけてきた。淡々とした、けれど伝えようとした内容の割には、さほど悲しげでもない声で。
 だから空哉も、淡々と事実を受け入れ、聞いたのだ。
 言葉にしなくても、いとこ同士わかっていることはいくつもある。
 空哉は魔女の家に行き、魔女からの伝言を祖母に伝えた。
 だからきっと、祖母はいまも眠りながら、三日月町を訪れているだろうし、いつか遠くない未来に、魂がからだを離れたのちは、あの店をまた訪れ、長い時を過ごすようになるのだろう。
 祖母の愛した、本棚一杯に並んでいる物語の本のような日々を過ごし、浪漫溢れる物語を、魔女たちから聞いて過ごすのだろう。
 
 お客様たちが、自分の顔を見つめているのに気づき、空哉はふと、カウンターのそばにさげてある鏡に顔を映した。
 いつの間にか、涙が一筋流れていた。
 空哉は鏡に微笑みかけ、手の甲でそっと温かい涙を拭った。
(こういう涙なら、騎士だって流していいんだ。そういうことにしよう)
 幸せな涙なのだから。
 鏡の中に見えた、自分の涙が一瞬光って見えた。雨粒に光が射したときのような、そんなきらめきだと思った。
 そういえば昔、祖母と二人、雨上がりに屋根から落ちる雨粒にきらめく光を飽きずに見つめていたことがあるなあ、と、思い出した。
 無数の小さなガラス玉が空から降ってくるような、そんな透明なきらめきだった。

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作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

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