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魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
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第六話 ひそやかなエピローグ

2019.10.18 更新

 それは少しだけ昔――いや人間たちにとっては、きっとずっと昔に思えるくらい昔に起きたこと。若い世代のひとびとや、幼い子どもたちにとっては、もしかしたら伝説やお伽話に思えるほど昔の、何十年も昔にあった、誰も知らない物語。
 日本がいくつもの国を相手に戦争を続けていて、国民の思いとは別に、敗色濃厚になってきた、そんな昭和二十年の夏。
 山奥の、古い町のそばにある小さな森に、金色の髪に青い目のお人形がひとり、隠れ住んでいた。

 お人形は昼間は森を散歩して、夜は木のうろの中に、草や木の葉、花びらを敷いて作った寝床に眠っていた。
 栗鼠やうさぎとすれ違ったり、蟬や小鳥の声を聴くことはあっても、誰もいない森の中にひとりきり。
 お人形はたまに寂しくて、ため息をついたりした。
 お人形は――特に、その金髪の人形のような抱き人形は、子どもたちの友達になるようにと作られるもの。ひとの気配のない森の中にひとりきりでは、寂しくて凍えてしまいそうだった。
『心が凍えて、死んでしまいそうだわ』
 いまは夏だけれど、とても寒い。
 そう考えてから、お人形は、
『といっても、わたしはお人形だから、ほんとうは寒くも暑くもないんだけど』
 と、呟いた。――もっというと、お人形だから、ほんとうは心があったり、ものを考えたり、ひとりで森を散歩したりもしないはずなのだけれど。
 なぜ自分にはこんな風に心があるのか、自由に動くことができるのか、お人形にはわからなかった。
 どんな魔法なのか、奇跡なのか、ある月の夜、気がついたら動けたのだ。
 
 お人形はもともと、この森の近くにある町の、古い尋常小学校、のちの国民学校――いまでいう小学校の玄関の辺りにガラスのケースに入れられて、大切に飾られていた。海の向こうのアメリカから、二つの国の間に長く平和が続くように祈りを込めて贈られた人形だった。日本の子どもたちへの愛と友情を込めて、たくさんのひとびとの手によって、手作りされ、海を渡ったお人形たちの、そのひとりだったのだ。
 お人形たちは全国の幼稚園や尋常小学校に飾られ、大切にされていた。けれど、アメリカとの間に戦争が始まった。お人形たちは敵の国の人形として、焼かれたり壊されたり捨てられたりした。
 そのお人形も焼かれてしまう運命にあったのだけれど、お人形をかわいがっていた若い女の先生が、その前にひと知れず、こっそりと人形を持ち出した。月の綺麗な夜のことだった。満月がぽっかりと見守るように灯っていた。
 先生はお人形をそのまま匿いたかったけれど、小さな学校には、この子を隠す場所はないし、家にも持って帰れない。
 このお人形をどうしたら守れるだろう。
「――ごめんなさい」
 考えに考えた末、先生は、人形を森の奥に置いて帰った。枯れて倒れた木の上に、そっと寝かせて置いてきた。べそべそと泣きながら、ひとりで夜道を帰った。
 おがくずや土でできたお人形を、そんなところに置いてくれば、いずれ朽ちてしまうだろう。それがわかっていても、人間の手で焼かれたり壊されてしまうよりも、よほどいいと思った。
「だって、そんなのひどすぎる」
 平和を願って、大切に作られて、はるばる海を渡って、陸路を旅して、この町の学校まで来てくれたお人形なのに。
 子どもたちから大歓迎されて、大切に飾られて、十数年も経ったいまではだいぶ古くはなったけれど、毎年ひな祭りはこのお人形を囲んで、歌をうたったりもしたのに。――そう、子どもの頃のこの先生も、お人形とひな祭りをしてきたひとりなのだ。
 先生になってからは、夏服しか持たなかったお人形のために、外套を縫ってあげたり、ブーツを作ってあげたりもした。
 お人形はしゃべれないけれど、綺麗な服を着せてあげると、青い目が嬉しそうに見つめてくれたり、口元が微笑むような気がした。
 そしてお人形はいつも、学校にいる子どもたちを、優しい目で見守ってくれているような、そんな気がしていた。学校の玄関の、同じ場所で、ずっと変わらずに、永遠の友達として、子どもたちを見ていてくれているような。
「ごめんね、ごめんね。さようなら」
 守ってあげられなくて、ごめんなさい。
 若い先生は泣きながら、月の光に照らされて、ひとりきり町へと帰っていった。
 
 お人形に心が生まれたのは、そのときだった。人形はからだを起こし、青い目で、去っていく先生の姿を見ていた。月の光に照らされて、遠ざかる姿を、ただ見つめていた。
『さようなら――』
 それがお別れの言葉だということは、伝わってきた。
 お人形に心が生まれて、最初に知った感情は、哀しみだった。悲しさと寂しさが、何も入っていないはずの胸の中に、いっぱいにたまって、絵の具で描かれた青い目から涙が流れた。
 お人形は硬い指先で、自分の涙を掬いとり、じっと見つめた。
 涙は月の光に照らされて、光っていた。

 お人形には、どうして自分に心が宿ったのかわからなかったし、自分が森の奥に置いていかれた理由もわからなかった。
 ただ、自分は懐かしい場所に――あの学校の玄関のそばのガラスケースの中に帰れないということはわかった。この森の中で、ひとりきり、人間に見つからないようにしていなくてはいけないのだということも。
『今日からわたしは、ひとりぼっちで、ここにいなくちゃいけないのね』
 お人形は、月に照らされて泣いた。大好きだった場所には帰れない。子どもたちのそばにいてはいけない。
 お人形には心臓はないはずなのに、胸の奥のその場所がきりきりと痛んだ。

 昔から、お人形には魂が宿ることがあるといわれている。ましてや彼女は、大切な願いを込めて作られ、海を渡ってきたお人形だった。同じ時に日本に辿り着いた人形の、その中のひとりに魂が宿るなんて奇跡があっても、おかしくはなかったのかも知れない。
 あるいは、奇跡を起こすという満月の光、その光に照らされたことが魔法になったのかも知れない。お人形のために泣いた、若い先生の涙が奇跡を生んだのかも。
 あるいは――そのすべてが小さな奇跡を生んだのかも知れなかった。
 理由はわからない。けれど、森に捨てられた青い目の人形は、その月の夜から、心を持つ存在になり、森の奥でひとりきり暮らすようになったのだった。

 さて、その頃の日本では戦争が続いていて、その町からもお父さんやお兄さんたちが兵隊さんになって、遠い外国へ送られたりしていたけれど、山奥の小さな町のこと、都会の街のように、空襲に遭うことはなかった。
 けれど、空を飛行機が飛んでいくことはあったし、夜に空襲を受けた遠くの街が燃えて、その炎が明るく空を焦がすのが遠目にも見えることはあった。
 お人形は、森の奥から、ひとりきりそんな夜空を見て、怖くて震えたりもした。
 お人形にはあの炎の中で、たくさんのおとなや子どもや、それから動物たちが逃げ惑い、死んでいることがわかったのだった。

 そして、ひとりぼっちの暮らしが何日か続いた頃、雨が降りしきる森に、ひとりの女の子が迷い込んできた。
 雨雲に覆われて薄暗い森の中で、女の子は木の根や濡れた泥に足を取られ、転んでうずくまった。
 もんぺの上に、都会風の、袖がふくらんだ白いブラウスを着た女の子のことを、お人形は知っていた。腕に抱えている、お母さんの手作りだという防空頭巾と、肩にかけた布の鞄は、外国製の洒落た小花模様の布でできたもの。そんなことも覚えていた。
 遠い海辺の街から、遠い親戚を頼って預けられたというその子は、ガラスケースの中のお人形に、よく会いにきて、話しかけてくれていたのだ。話しかけないときも、通りすがりに笑顔を見せてくれていた。だからお人形はその子のことを覚えていた。
「海辺の街のわたしのおうちにはね、あなたみたいなお人形がいるの。亡くなったお父様がお誕生日に百貨店で買ってきてくださったの。大好きな親友なのよ」
 あの子、わたしがいないから寂しがってると思うわ。女の子はそういっていた。
 自分の方が寂しそうな、泣きそうな目をして。
 女の子はからだが弱く、そして海辺の街はたびたび空襲を受けていたので、山間の町に預けられているのだと話してくれた。その頃、日本ではそんな風に、都会から、縁故を頼って、あるいは学校ごとまとめて、安全だと思われる町や村に預けられる子どもたちがいた。その女の子もそんな子どものひとりだったのだ。
「親戚のおばさんたちはみんな親切で、優しいけど、でもほんとはおうちが恋しいの」
 女の子は小さな声で、そんなことも話してくれた。ほんとうは家に帰りたいけれど、お母さんがこっちは危ないから、まだ帰ってきてはだめよ、と、手紙に書いてくれたとか。
「『まだ』帰ってきちゃだめって、いつになったら帰ってもいいのかなあ」
 女の子は大きな目いっぱいに涙をためて、お人形に話したこともあった。
 
 その女の子が、雨降る森の中に、ひとりきりで迷い込んできた。
 どうしたのだろう、と思いながら、お人形は木の陰に身を隠した。――だってお人形は誰にも見つかってはいけないから。
 けれど女の子は、降りしきる雨に濡れていて、寒そうで、震えているようで。
 お人形は思わず女の子に駆け寄ると、小さな手で女の子の手を引いて、森の木陰の、少しでも雨に当たらないところへと導いたのだった。
 女の子は最初驚いたように、目を見開いていたけれど、すぐにはっとしたように、お人形に手を取られたまま、大きな木の下へと身を寄せたのだった。
「よかった。またお人形さんに会えた」
 女の子は花が咲いたような明るい表情で笑った。お人形が見つけた、乾いた草の上に腰を下ろし、濡れた手で、お人形の頭をそっとなでてくれた。
「お人形さん、急にいなくなってしまったからどうしたんだろうと思っていたの。こんなところにいたのね。ひとりで暮らしていたのね。お話の世界の中のお人形さんみたいね」
 お人形が動くとか、ひとりで森の中で暮らしているとか、女の子には不思議なことではないようだった。女の子が「海辺の街のおうち」でたくさん読んでいた絵本や物語の世界ではよくあることだから、と女の子はいった。
「あれはほんとうにあることだと信じていたの。お母様やお姉様にそういったら、みんなお話の世界だけの作り事よ、っておっしゃってたけど、わたしは信じていたのよ」
 そして女の子は、手を顔に当てて泣いてしまった。
「お母様も、お姉様も、ご無事でいらっしゃるのかしら」
 八月のある日、海辺の街にひどい空襲があって、街は半分も燃やし尽くされてしまったのだと、そんな話を親戚のおばさんが教えてくれたのだという。きっと大丈夫だよ、とおばさんは慰めてくれたけれど、おばさんの青ざめた表情や、言葉の調子で、ああだいぶひどい空襲だったのだ、お母さんとお姉さんからは何の連絡もないのだ、と、女の子にはわかったのだという。
「だから、わたし、おうちに帰りたくて」
 雨の中、闇雲におばさんの家を出てきたのだという。
「お金なら、少しくらいはあるし。防空頭巾の裏に縫い込んで、お母様が持たせてくださったから。方角も、わかっているの。この山を越えて、ずっとずっと行って、お船に乗って海を渡って、それからまたずっとずっと行けばいいのよ。そうしたら、おうちに帰れるの」
 女の子は膝を抱え、思い詰めたような表情で、そういった。そうしてひどく咳き込んだ。どうしよう、こんなときにまた具合が悪くなっちゃった。そういって笑いながら。
 そして女の子は、お人形に一枚の写真を見せてくれた。布の鞄の中に、大切にしまわれていたのは、家族の写真。
 女の子の、戦地で亡くなったというお父さんと、優しそうなお母さんと、賢そうなお姉さん、そして幸せそうに笑っている女の子が、美しく、居心地のよさそうな部屋で、身を寄せ合って写っている写真だった。部屋にはたくさんの本と大きな南の国の植物があり、女の子の腕には、かわいらしいお人形が抱かれていた。
「お父様が戦地に行かれる前に、写真館の方に来ていただいて、おうちで写真を撮ったの。みんなでお守りとして持っているために。もし、離ればなれになっても、心だけはずっと一緒にいるために。大好きなおうちで一緒にいられるために――」
 何度も見たからなのか、写真の端には皺や折れたところがあって、けれどとても綺麗な写真だと、お人形は思った。
『いいなあ』
 お人形はつい呟いた。
『あなたには帰るところがあるのね』
「あなたにはないの?」
 女の子は不思議そうに訊いた。
 お人形は黙ってうつむいていた。

 雨は降り続いたまま、山の夜は明けて、やがて朝が訪れた。
「さようなら」
 女の子はいうと、山を越えていこうとした。
 濡れたままの姿で、冷え切った足で、ぬかるんだ森の中の道をよろよろと歩きながら。
 お人形は黙ったままその後ろ姿が遠ざかるのを見守っていたけれど、やがて、駆けだした。
 布の靴も、皮でできたブーツも、大切にしていたドレスの裾だって、濡れて泥だらけになっていたけれど、そんなことは気にしないで、女の子に追いついた。
『待って、わたしも一緒に行く』
 疲れ切って青ざめていた女の子の表情が、ふわりと明るくなった。
「ほんとう? 嬉しい」
 女の子は身をかがめ、お人形を抱き上げ、抱きしめた。
 お人形は、そんな風に子どもの腕に抱きしめられるのは、もうずいぶん久しぶりのことだったので、天にも昇るような心持ちになった。そして、お人形として、ひとりきりの子どものそばにいることは正しいのだ、と思った。小さな抱き人形である自分には、できることは何もないだろうけれど、やはりこの子に付いていかなくては、と思った。旅の道連れになってあげることと、話し相手になってあげることくらいは、自分にもできるだろう、と。
 けれど、ずっとあとになってお人形は、何度も何度も悔やんだ。女の子の旅に付いていくのではなく、自分はその旅立ちを止めるべきだったのではないだろうか、と。

 女の子はただ必死に、山を越えようと歩き続けた。
 けれど、都会育ちの女の子に、それもからだが丈夫でない子に。ろくな道もないような山の中を歩き続けるのはそもそもが無理だったのだ。
 雨は上がったものの、その分蒸し暑さも増した森の木々の中で、木の根に足を取られながら、ただ山の向こうを目指そうと闇雲に歩き続けた女の子は、そうたたないうちに歩き疲れ、少しずつしか歩けなくなった。
 ごつごつした木の肌や、草の蔓、藪の草葉で手足は傷だらけになり、けれどうっそうと茂る森を抜けようと女の子はそれでも歩き続け、そしてお人形は、やはり何もできなかったのだ。ただ自分も泥だらけになって、女の子のそばを歩き続けるだけで。
 お人形には、女の子の旅がとても大変なものだろうということがわかっていた。わかっていたから、とても心配で、だんだん思うようになってきた。
(そのうち諦めて、山間の町へ戻ってくれないかしら)
 けれど女の子は、疲れで朦朧としてきても、歩くのをやめようとはしなかった。
 女の子はその夜、森の中で疲れ果てて眠った。布の鞄の中に、ふかした薩摩芋を一本入れていて、食事の代わりにと食べようとしたけれど、お腹空いてないから、といって食べるのをやめてしまった。
 犬や猫の子どものように、草むらの上に身を丸めて目を閉じてしまった。
 そして、女の子とお人形の旅は、始まったばかりで、その次の日には終わってしまった。
 木々の枝にすがり、藪蚊に刺されながら、やっと暗い森を抜けた女の子が、明るい夏の空の下に、その身を乗り出した、笑顔でお人形の方を振り返った瞬間に、足を滑らせて、木々と藪に隠れていた遙か下の川に落ちていったのだった。

 それはあまりにもあっけない、突然の出来事で、お人形は、夢でも見ているような気持ちになりながら、木々の枝につかまり、蔓草にぶら下がったりしながら、川へと降りていった。
 女の子の姿は、どこにもなかった。
 ただ雨のせいで水が汚れ、水かさが増えた、流れの速い川が、轟々と流れているばかりで。
 それでもお人形は、川辺を走り、水に何度も踏み込んで、流されそうになったりしながら、女の子を探し続けた。川の下流へ下流へと、あるときは岩を登り、草木にすがり、何度も水に落ちそうになりながら。
 森の空が少しずつ夕暮れになってゆき、やがて夜になるまで。淀んだ匂いのする夏の風に吹かれ、蟬たちの声や何も知らずにさえずる小鳥たちの声が渦巻く中で。
 やがて、晴れた夜空に、満天の星たちがさんざめく頃、お人形は川辺の草の中に、女の子の亡骸が打ち上げられているのを見つけたのだった。
 女の子は、奇跡のように川辺に流れ着き、這うようにして、草むらの上にその身を持ち上げたのだろう。けれどそのまま力尽き、息絶えたらしかった。
 汚れた手にはあの家族写真を大切そうに握りしめていた。

『かわいそうに。ああ、かわいそうに』
 お人形は星の光の下で、涙に暮れた。
『どんなにおうちに帰りたかったでしょうに。写真の中の、この素敵なおうちに』
 あの月の夜に、森に置き去りにされて、もう学校には帰れないのだと思った、心が凍えそうになったあの夜よりも、辛い思いがお人形の空洞の胸いっぱいに広がっていた。
 お人形は、星明かりの下で、女の子の亡骸と、笑顔の家族たちの写真を見つめ続けた。家族に囲まれた、幸せそうな女の子の、その笑顔を。
『――わたし、決めたわ』
 お人形は一言呟くと、顔を上げた。
 女の子の手の中の写真を、そっとそっと取り上げて、大切に胸元に抱きしめた。
 落とさないように気をつけながら、歩き始めた。
『この写真を、あなたのおうちに届けてあげる。あなたが帰りたかった海辺の街に届けてあげる。そうしたら、少しくらいは、あなたも帰った気持ちになれないかしら。魂の欠片くらいは、おうちに帰れないかしら』
 不思議なことに、そのとき、写真の中の女の子が、嬉しそうにうなずいた。ありがとう、という声が聞こえたような気がした。
 お人形は、星明かりの下でしばし立ち止まり、耳を澄ませた。
 辺りは虫の声が響くばかり。もう女の子の声は聞こえず、写真の中の姿が動くこともなかったけれど、お人形はしっかりとした足取りで、遠い遠い知らない街を目指して、歩き始めたのだった。

 お人形は、人間の子どもとは違って、疲れることもないし、休む必要だってない。ずっと歩き続けていられるのだから、きっと大丈夫だと最初のうちは、お人形は思っていた。
 空を見上げると、心の内に、女の子のおうちと、行ったことのない海辺の街の風景が見える。写真の中にいる女の子の魂が見せてくれるのだろうとお人形は思った。自分はあの子の魂と一緒に、あの子の街へ帰るのだ。きっとすぐに旅を終えて、送り届けてあげよう、と。
 けれどひとりきりの旅を始めて、そうたたないうちに気がついた。お人形のからだは小さい。人間の一歩と、お人形の一歩とでは、なんと違うことだろう、と。小さなからだで、どれだけ前に進んでも、振り返ればほんのわずかしか進めていない、そんなことの繰り返しの旅になった。
 それに人間の足なら、きっとなんとか歩けるような、でこぼこの獣道も、お人形にはからだが埋まってしまうような深さの穴が開いているように思えたり、逆に両手を使って登らないと先に進めないような、断崖絶壁が出現する、そんな道になった。ひとの膝くらいの高さに茂る藪は、お人形には頭まで埋もれるほどのジャングルのようなものだ。
 旅は、苦難の旅路になった。
 やっと山を抜けて、ひとの住む里に下りてきた頃には、お人形の来ていたドレスも、長い金髪も汚れ、裂けて、ほつれていた。
 久しぶりにひとの街に辿り着いた、それは夜だったのだけれど、街には美しい明かりが灯っていて、お人形は暗闇に佇んだまま、しばらくびっくりしていた。
 ひとに見つからないように、そっと家々に近づいて、窓から中を見た。
 明るい部屋の中には、幸せそうな家族たちがいて、大きな声で笑いながら、何か話したりしていた。音楽を聴いたり、美味しそうなお菓子を食べたりしていた。みんな綺麗な服を着ていたし、部屋には本がたくさん並んでいた。それから、部屋の真ん中には、光を放つ大きな箱が置いてあって、そこには魔法のように、遠い世界の情景や、いろんなひとたちが次々に映し出されるのだった。
 お人形が知っている、山の中の小さな町の夜は暗かった。電気が灯っていると、それを狙って敵の飛行機が来るというので、電灯には布で覆いをかけて暗くしていたからだ。
 お人形の知っている夜は、山奥の暗い小さな町の中で、みんなが声を潜め、身を潜めて、息を詰めて過ごす、そんな夜だった。怖くて、静かで、日本のどこかで空襲があって、誰かが死んでいることを感じているような、この先のこの国は、自分たちはどうなるのだろうと、みんなが不安に思っている、その鼓動の音とため息が満ちているような、そんな辛い夜だった。
 けれど、いま、目の前にあるのは、それとはまるで違う、明るい、幸せそうな夜だった。
 お人形はくらくらするのを感じた。 
 お人形が旅をしている間、昼と夜を数限りなく繰り返した。だから、人間たちの世界では長い時間がたっていたのだった。それは思いがけないほどに、長い長い年月で、戦争はとっくに終わり、人間たちはいまはもう平和に、静かな、そして豊かな暮らしに戻っていたのだった。人形には、まるで、あの日々が夢の中の出来事だったようにさえ思えた。
 ふと、遠い山の中の小さな町にあった学校の、懐かしい玄関のことを思い出した。お人形を助けてくれて、そっと森の奥に置いていった、優しい若い先生のことを。それから、大好きだったあの学校の子どもたちのことを。
 戦争が終わったのなら、お人形はもう、敵の国のお人形ではない。あの懐かしい学校の玄関のガラスケースの中に帰ってもいいのかも知れない、と思った。
 ――けれど。
『もう、戻れないんだわ。わたしにはそんな時間はない』
 お人形はそっと呟いた。
 森を抜け、山を越えて、ここまで来ただけで、髪とドレスだけでなく、手も足もぼろぼろになってしまっていた。ころんでぶつけたときに顔に傷もできてしまった。お人形には心だけでなく、賢い頭もあって、ものを考えることができたけれど、こんな風にぼろぼろになってしまって、いずれ完全にからだがぼろになってしまったとき、自分がどうなるのか、そのことだけはどうしてもわからなかった。人間のように、天国に行けたりするのだろうか? それとも心も魂も全て、ぼろになって朽ちてしまうのだろうか?
 お人形にはわからないけれど、からだがぼろぼろになれば、きっともうどこへも行けないだろう。歩けなくなるのだろう。
『それならもう、あの町と学校に帰るだけの時間はないわ。わたしにはどこよりも行かなきゃいけないところがあるんですもの』 
 いつの間にか時がたって、姿が変わったなんて、わたしちょっと浦島太郎になったみたい。お人形はそう思って、少しだけ笑った。そのお伽話は、いつだったか、絵本を子どもたちが朗読しているのを聞いたことがあったから知っていた。
 いつだって、教室から聞こえる子どもたちの声を、お人形は聴いていたのだ。まだ心もなく、動ける手足も持っていなかった、あの頃から。ずっと、耳を澄ませていたのだ。
 子どもたちが大好きだったから。
 お人形というものは、そういうものだからだった。子どもたちのために、そのそばにある友達として一生を過ごすように、ひとの手で作られた存在だからだった。
『いつか、この旅が終わって、まだわたしが旅を続けられるなら――』
 夜道を歩きながら、お人形は呟き、うっすらと微笑んで、首を横に振った。

 それからまた、長い長い時間がたった。
 山を離れ、人里に下りてからは、道は平坦になったものの、人目につかないように旅しなくてはいけない。自分の意志で動いている、ひとり旅をしている、それも怪しげなぼろぼろのお人形なんて、ひとの目に触れたら、どんな目に遭うかわからないからだった。旅をやめる羽目になる、それだけは避けたかった。
 そうして、昼と夜の限りない繰り返しの中を、お人形は古い写真を抱き、ひとりぼっちで歩き続けた。
 ひとの作った道路のそばの山道に沿って、時に遠回りしながら、はるばると歩いていったり、大きな川を渡るときは、橋を探して、夜通し、川の上流や下流をさまよったり。
 時に好奇心旺盛な鴉や鷗たちに追いかけられたりしながら、長い旅を続けた。
 ひとの住む町のそばだけではなく、深い森に再び分け入ることも、はるかな山の尾根を越えて、遠くへ旅する道へと足を運ぶこともあった。
『日本という国は、ほんとうに大きくて、長くて、広い国なのねえ』
 青い目の人形はひとりきりの旅路を辿りながら、たまにそういってため息をついた。
 この長い旅が終わって女の子の家に辿り着いたとき、女の子の家族はそこで待っていてくれるのだろうか? 無事でいてくれるのだろうか? たまに考えて足が止まった。けれどお人形は歩き続けた。旅に出たのだもの。前に進むしかない。

 長い旅を続けるうちに、思いもかけない道連れも生まれた。
 あるとき、黄昏時から深夜まで、大きな川を渡るための橋を探して、川沿いの草原の中をさまよっていたときに、
『もしもし、そこの小さいひと』
 誰かの小さな声が、お人形を呼び止めた。
『ねえ、そこを行く、不思議な小さい、ひとりぼっちで歩いているひと』
『人間みたいだけど、そうじゃないひと』
 川のせせらぎの音に混じって、くるくるとうたうような、明るい声が聞こえてきたのだ。
 ぱしゃん、と、水が跳ねる音も聞こえた。
 呼ばれるままに、お人形は川に近づき、そして、青い目で水面をじっと見つめた。
 犬のような猫のような、お人形が見たことのない、首の長い生き物が川の中に何匹も浮かんでいて、黒い瞳を好奇心いっぱいな様子できらめかせて、こちらを見ていたのだ。
『わたしは人間じゃないわ。人間の子どものお友達の、お人形よ。海を越えて、遠い外国から来たの。あなたたちは、なあに?』
『川獺』
『かわうそだよ』
 獣たちは、きゃっきゃっと嬉しげに笑うと、踊るように楽しげに、器用そうな前足で、ぱしゃりと水を跳ね上げてきた。
『もう生きてはいないけど。ほんとうにはもうわたしらの誰も、この故郷の川で泳いではいないのだけれど』
 ひっそりと言葉を継いだ川獺がいった。
 そういわれてみると、獣たちの姿は、夜目にも淡い光を放っていて、その姿はなかば透き通るように、川の水の中を漂っているのだった。
 昔に死んだ獣たちなのね、と、お人形は悲しくなり、うつむいた。
 川獺の一匹が、優しい声で訊ねてきた。
『海を越えて、外国から来たお人形さんは、いまどうして、こんなところを、ひとりぼっちで歩いているのかい?』
『それは――』

 お人形は、夜露に濡れ、柔らかな夜風に吹かれながら、これまでの話を優しい川獺の魂たちに話した。今日ここまでの旅の、長い長い物語を。
『だからわたしは、女の子の魂の欠片を、懐かしい街のおうちまで届けてあげることにしたの。――だって』
 お人形は描かれた青い目から、涙を流した。
『帰るところがある魂には、帰らせてあげたいと思ったの。わたしには帰る場所がない。行く場所もない。だから、この子の魂は、わたしがきっと送り届けてあげようって』
 幻の川獺たちは、夜の色に沈む川の水の中で、長い首をもたげ、ひげを蠢かせて、互いに何かしらささやきかわすようにした。
 やがて、川獺の一匹が首を伸ばしていった。
『それならお人形さん。わたしらもその旅に付いていってあげよう。――帰るところがないのは、わたしらも同じだから』
 他の川獺が言葉を続けた。
『もう懐かしいこの川は、人間たちの川になってしまった。ぼくたち古い獣たちは、この川の流れに住んでいてはいけないんだ』
 川獺は悲しそうに涙を流した。
『みんなもう死んでしまって、魚もとらなくてよくなったけれど、泳ぐためのからだも柔らかな毛並みもなくなってしまった。魂だけふわふわとこの場所にあっても切ないばかり。それならせめて、帰る場所があるという、その女の子の魂を送り届ける旅に我らもともに行こう』
『もはや爪も牙もなく、水に潜れもしないけれど、小さなお人形と女の子の魂のために、我らにも何かしらできることがあるだろう』
『人間は怖いけれど、家族と離れてひとりきり死んでしまった子どもはかわいそうだ。せめて魂の欠片でも故郷に戻してやらなくてはね』
 川獺たちの魂は川面からふうわりと浮き上がり、雲母のようなかすかな光を放ちながら、川岸に立つお人形のそばに、守るように漂った。
 川獺たちの魂は、そうして透明な前足と前足をつなぐと、ふわりと夜空に浮き、川の向こう岸まで、柔らかな橋を作ってくれた。
 ひとの目には見えない橋を渡って、お人形は川の向こう岸に辿り着いた。
 お人形が胸を熱くしてお礼をいうと、
『こちらこそ、ありがとう』
 と、川獺の魂たちは優しい声でお礼をいった。
『わたしらに気づいてくれてありがとう。わたしらは、ずっと昔に死んだまま、故郷の川に浮かんでいても、誰の目にも見えず、誰もわたしらの声を聴いてくれなかったのだから。ずっと寂しかったんだよ。わたしらがここにいるということに気づかず――かつてはこの川にたくさん泳いでいたということを、忘れられてしまっているということが』

 旅の道連れは、他にも増えた。
 雪降る中、凍えそうになりながら、山の尾根を越えてゆくときに、
『もしもし、もしもし』
 と呼びかける、低い声があったのだ。
『川獺の魂を連れてそこを行く、小さなひと、いったいどこへ行くのだね?』
『こんなに寒い、雪の日に、高い山を越えて、どこへ行こうというのだね?』
 降る雪に埋もれそうになりながら、凍り付いて雪原に倒れそうになりながら、お人形は声の聞こえた方を振り返り、そこに大きな犬のような影がいくつか並んでいるのを見た。
『わたしは旅のお人形。子どもたちの友達です。日本の子どもたちの友達になるために、海を越えて、はるばると、遠い外国から旅してきました』 
『我らは、狼だ』
 のどを低く鳴らすようにして、狼たちは答えた。かちかちと牙を打ち鳴らすような音がした。白い闇のような雪煙の中で、黄金色の瞳をきらめかせながら、狼たちは笑った。
『もう生きてはいない狼だけれどね。遠い昔は群れを作り、故郷のこの山を、はるばるとはるばると駆けていたのだ。もはや我らの仲間は死に絶えて、この山にも、どこの山にも野にもいないけれど』
 そういわれてみると、狼たちのからだはうっすらと雪に透き通り、この世のものならぬかすかな光を放っていたのだった。
『それにしても、海を渡ってきた小さな者が、なぜにいまひとりきりで、この雪山をさすらっているのだね?』
『わたしはいま、大切な旅をしているのです』
 お人形は胸元にだいぶ古びてきた白い手を当てて、誇り高く顔を上げ、今日これまでの旅路の物語を話して聞かせた。
 途中からは、彼女のまわりに守るように漂っていた川獺たちの魂も、事情を狼に語った。

 雪の中で、長い長い話が終わったあと、狼たちの魂は、静かにいった。
『死んだひとの子の魂の欠片を、故郷の家に帰すため、旅しているというのだな』
『ええ、そのとおりです』
『そんなにぼろぼろになって、そんなに小さな背丈と、軽そうな姿で。風に吹かれれば、尾根を転がり落ちてしまいそうではないか』
『はい』
 お人形はさらに胸を張った。
 実際、雪風に吹かれて、尾根を転がり落ちたのは、二度や三度のことではなかった。そのたびに、川獺たちの魂に助けられ、三度も四度も、また山を登り続けたのだ。
『だってわたしはお人形。怪我することも、痛いこともないんですもの。大切な長い旅をするには、ちょうどよかったと思っていますわ』
 古くなった写真を胸に当てて、お人形はにっこりと微笑んだ。
『――よくわかった』
『ああ、事情はよくわかったよ』
 狼たちは、低い声でそういった。
 喉の奥で、ふっふっと、笑うような響きの唸り声を立てた。
『ならば、我らも、おまえたちとともに旅に出てもかまわないだろうか?』
『えっ』
『旅の道連れになってやろう。我らにはもはや、大きな牙も、鋭い爪も、尾根を越えて響く遠吠えもないけれど、小さなおまえの長い旅に、少しくらいは力になってやれると思う』
 川獺よりは役に立つぞ、と、狼たちが笑うと、川獺たちはむっとしたように髭を動かし、狼たちは、それを見て楽しげに笑った。
『ひとの子の手で変わっていったこの世界で、我らは暮らしてゆくことができなかった。そうしてひとの子の持つ武器に狙われ、罠にかかり、子狼の一匹も残らないほどに、死に絶えてしまったけれど、ひとの子の娘には、罪はない』

 そして狼の魂たちは、雪の中で輝く、温かで柔らかな渦になり、お人形を抱えると、ふんわりと尾根を越えて、山の向こうの平地まで送り届けてくれた。
『ありがとう』
 お人形がお礼をいうと、狼たちは寂しそうな表情で笑った。
『我らが帰れる故郷は、自由に走れる場所は、もう地上にはないのだ。帰れる場所がない我らの代わりに、せめて、ひとの娘が故郷に帰れるように、ともに旅をしよう』
 そうすればきっと、少しは寂しくなくなるからな、狼たちは雪山を吹き過ぎる風のような声で、お人形にそういったのだ。
『ふかふかの毛皮と、きらめく瞳、どんなものも嚙み裂く牙を失った我らは、もはや何も狩らず、食べずに生きていけるようになった。――けれどそれはとても暇で寂しいこと。我らは生まれつきの勇敢な狩人なのだからな』
 狼たちの魂は、透き通る鼻面を空に向け、ひとの耳には聞こえない声で、遠く吠えた。
 うたうような遠吠えが、空へと響いていった。

 お人形はそうして、道連れとともに、長い旅を続けた。海を渡ったときは、川獺と狼たちの魂に助けられて、大きな船にそっと乗り込んだ。
 甲板の端の、物陰に潜んで、大きな海を見ながら、波を切るエンジンの音を聴いていると、なんとも懐かしい気持ちになったのは――たぶんお人形がその昔、海を渡ってこの国に旅してきたからかも知れない、とお人形は思った。まだ魂がない頃の、動くことも笑うこともできなかった時代の話だけれど、長い船旅を楽しみ、行く手の見知らぬ国、日本での日々を楽しみにしていたような、そんな記憶の欠片が、胸の奥にあるような気がした。どんな子どもたちと会えるだろう。どんな子どもたちの友達になれるだろう、と。
『いつか、この長い旅が終わったら――』
 お人形は、もう指がなくなった手を、甲板の上に広がる、遠い星空に差し伸べた。
『ひとりで世界を旅するのもいいなあ。海を渡って、生まれた国へ帰るのもいいかしら』
 潮の匂いがする夜風は優しく、懐かしかった。この風に吹かれたまま、遠くに旅していくのって幸せだろうなあ、とお人形は思った。想像するのは楽しかった。
『いつか、そんな日が来ればの話だけれど』
 こんなにぼろぼろになってしまっては、きっとこの旅を終えるだけで精一杯。再びひとりで旅立つなんて、そんなことはまずないだろうと思いながら、でも不思議と、これまでの日々が悲しくはなかった。
 気がつけば、そもそも、旅立ったことを、ひと欠片も後悔していなかった。
『一歩一歩ここまで歩いてくるのは、大変だったけど、楽しかったような気がするわ』
 大好きだった学校の、あの玄関のそばの、ガラスのケースに入って、子どもたちや先生たちの声を聞きながら微笑んでいるのは幸せだったけれど、寂しい女の子の魂の欠片を抱いて遙かに旅してきた日々も、そう悪いものではなかったような気がする――。
『そうね。楽しい旅だったわね』
 そんな声が聞こえたような気がして、お人形は辺りを見回した。女の子の声だった。
 甲板にはひとけはなく、波の音が響くばかり。
 お人形は胸元に大切に抱いていた、あの古い写真をそっとながめてみた。月の光に照らされたその写真の中で、あの女の子が、どこかいたずらっぽい表情を浮かべて微笑んでいた。

 そして、長い長い時が流れた。

 二〇一九年十月三十一日。
 海辺の街もハロウィンの時期になり、その月の初めあたりから、街はどこか楽しげな、異界めいた風情を漂わせている。
 あちこちに飾られている、怪しげに笑うかぼちゃや魔女、黒猫に蝙蝠の飾りのせいもあって、商店街には、ほんのりと薄暗く、不気味な気配が漂っている。街中がお化け屋敷めいた雰囲気になっているといえないこともない、と、若い魔女、七竈七瀬は思う。
「ハロウィンって、西洋のお盆みたいなものなのよね。死者たちが墓から蘇ったりするあたりとか」
 日本にはもともとないものだったのに、ここ数年の間に、すっかりおなじみの季節の行事になってしまった。クリスマス前に商店街を彩り、消費を促すのにちょうどよかったという、物を売る業界のひとびとの思惑もあったかも知れないけれど、それにしてもここまで自然に根付いたのは、日本人の多くにとって、この異界と現実の世界が地続きになる感覚は、馴染みのあるものだったからかも知れない、などと魔女の七瀬は思うのだ。
 七瀬は、十三階のベランダから、繁華街に灯る明かりを見下ろす。鋳物の手すりに寄りかかると、夜風はもう冬の気配を漂わせていて、長袖を着ていても、腕がひやりとする。
 使い魔の黒猫は、器用に手すりの上を歩き、七瀬の腕のそばに寄り添い、長い尻尾をゆらりと振って、七瀬と同じ景色を見下ろす。
 夜景を彩る光は、今夜は心なしか、オレンジ色を孕んでいるように見える。オレンジ色と紫色と、黒と。たまに白も混じるかしら。ひとの街の十月は、そんな色に彩られる。オレンジはかぼちゃの色、黒はきっと闇の色。もしかしたら魔女たちの衣装や、使い魔の黒猫や蝙蝠の色かも知れない。白はお化けたちの衣の色で――はて紫は何の色だろう?
 七瀬は少しだけ首をかしげる。
 人間でない七瀬には、人間の考えることはたまによくわからない。
「まあ、綺麗だからいいわ。オレンジも紫色も白も黒も、みんな綺麗な色よね」

 手すりにもたれかかり、見下ろす夜景には、ひとの目には見えない、深い暗闇が見える。街のそこここに淀む、それは現実の世界と接している、黄泉路の入り口――死者たちの世界へ通じる門だ。その門を通って、死んだものたちが街を訪れ、生きているものたちにそっと声をかけたり、足を引っかけて転ばせようとしたりする。黒猫やゾンビの人形が飾ってある店の前の歩道を、本物のお化けが、人知れず歩いていったりもする。いらっしゃいませ、と呼びかける店のひとの目には何も映っていないけれど――。
「今夜はある意味、死者たちの祭りだから」
 生きているうちは、死のことなんて考えなくてもいいのにね、と七瀬は思う。
 死はもてあそんではいけない。
 死も墓もお化けたちも、遊びのように扱わなくていいのに。そんなに楽しいものではないのに。――命が短いひとの子たちの暮らしには、すぐそばに控えているものなのに。今宵そこここに開いている、異界への入り口と同じに。見えないけれど、いつもある。
 七瀬は静かにため息をつく。
 ひとの一生は、どうせ短い。笑って泣いて、憤り、夢見て愛しているうちに、夢見るような速度で、終わってしまう。
 おそらくは、ひとの子が蟬の一生を見てその短さを嘆くように、魔女たちはひとの命の短さを惜しむ。
 生きている間、精一杯にうたい続け、やがて地に落ちて儚くなる、ひとの子の一生を。

「――おや」
 七瀬はふと、夜景の一角に目をとめる。
 街を包む暗がりの中に、どうにも気になる気配がある。――いくつかの魂の気配と、そして、不思議な青い光。小さな星の光のように、青くまたたく光が、そう、街のそばの、木々に包まれた小さな森の中にちらりと見えた。青い光をとりまく星雲のように、たくさんの淡い光の群れが、ふうわりと同じ森の中に消えていった。
「何かしら?」
 とても気になる。
「今夜はハロウィンだし、何が現れたって、おかしくはないのよね」
 一瞬で消えた気配にはそんなに邪悪なものはなかったけれど、なんだか髪を一筋引かれるように、気になった。
 七瀬は右の手の平をひらりと振る。星くずのような光とともに、魔法のほうきが宙から現れ、七瀬は軽やかにほうきにまたがり、ベランダから夜空へと飛び立った。お気に入りのつばの大きな帽子も、夜空から呼び寄せ、長く赤い髪の上に深くかぶる。
 使い魔の黒猫は、慣れた仕草で、ほうきの上、主の背中のそばへと飛び上がった。
『ねえ、七瀬』
 黒猫がほうきのうしろから声をかけた。
『今夜、長くて黒いワンピース着てるのって、ハロウィンの仮装のつもりだったりして?』
「たまたまに決まってるでしょ?」
 七瀬は、前を向いたまま、つんとした表情で答えた。
『黒いとんがり帽子をかぶってるのも?』
「単なる気分よ」

 やがてほうきが降り立ったのは、街外れにある小さな森の、その出口の辺り。
 七瀬が森の方を見守っていると、小さな小さな、よくわからないかたちのものが、一歩一歩足を進め、こちらへと歩いてきた。
 それは汚れて、ぼろぼろになった、ひとりの古い抱き人形だった。手の先も足の先もかけて、まっすぐ歩くのが難しい様子で、木の枝を杖の代わりにつきながら、こちらへと――ひとの街の方へと歩み寄ってくる。
 その姿はいまにも地面に崩れ落ちそうで、もしそれがひとならば、長旅に疲れ切り、すでに意識はないような、そんな姿に見えた。
 不思議なのは、そんなにぼろぼろなのに、お人形はどこか楽しそうで、笑みさえ浮かべながら、足を運んでいるように見えるのだった。
そして、そのぼろぼろのお人形をかばい、守ろうとするように、ふわふわとした光が、森の奥から、ゆうらりと漂ってきて、星雲のように幾重にも渦を巻いた。
 渦の中にちらちらとまたたく星のような光は、いくつもの対になっていた。
 魔女の七瀬にはとても近しいものたちの瞳。野と森に生きる獣たちの魂の、そのまなざしだった。
 川獺たちと。狼たちと。
 その昔はこの日本の野山や川辺、海辺にも暮らしていて、けれど時代の変化にその数を減らし、ひとの子によって殺しつくされて、いまはもう存在しないといわれている生き物たちの澄んだ瞳の名残がそこにあった。
「あなたたちは、このお人形さんの友達なの?」
 優しく、七瀬は問いかけた。
 獣たちの魂は、魔女の言葉を前に、暗闇が満ちる秋の野辺にうずくまるようにした。
 ほんとうはもう、彼らのしなやかに動く肢体や、なめらかな毛皮、宝石のようにきらめく瞳は存在しないのだけれど、ひととき蘇ったように、そこに控えた。
 古の昔から、時を超えて生きる魔女には、礼儀を持って振る舞うことが、野の獣たちの間に伝えられる掟だったから。それは死して後、魂だけの姿になっても変わらなかった。

 お人形は、七瀬がそこにいるのに気づくと、ぎょっとしたように立ち止まった。
 じいっと七瀬を見つめていたけれど、ふいにぱたりとその場に倒れてしまった。
「――ええと、お人形さん?」
 七瀬はそっとお人形に近づいた。お人形は、さっきまで自分の足で歩いていたことが噓のように、貼りついたような笑顔を浮かべ、草むらの上で微塵も動けない振りをしている。
 汚れもつれた長い巻き毛は、もとは金髪だったのだろうか。落ち葉や乾いた泥に汚れていて、髪の匂いを嗅いだ使い魔の黒猫が、埃を鼻に詰まらせて、くしゃみをした。
 魔女の、暗闇でも見える目で見れば、このぼろぼろのお人形が、千切れ汚れていても手の込んだデザインで丁寧な仕立てのドレスを身にまとっているのが見える。顔立ちだって古風だけれど愛らしい。もとはきっとかわいいお人形さんだったのだ。でも、いまこうして道ばたに転がっていれば、捨てられた古い人形にしか見えないだろうと、七瀬は思った。
「だけどわたし、あなたがいま歩いてるのを見たわよ?」
 七瀬はお人形のそばにしゃがんで、そのいかにも人形然とした笑顔をのぞき込んだ。
「――もしかして、普通のお人形の振りをしてるのなら、そんなことしなくても大丈夫よ。わたし、魔女ですもの。人間じゃないから、動くお人形と出くわしたってことくらいでびっくりしたりしないわ」
 そもそもこんなハロウィンの夜、少々の不思議な出来事があっても驚きはしないし、と言葉をつけくわえた。
 我慢比べのようにじいっと見つめていると、やがてお人形は汚れた頭を動かして、
『ほんとうに?』
 かわいらしい声で、訊ねてきた。七瀬の顔を恐る恐るというように、見上げた。
 そうすると、さっきまで死んでいたような表情が、ぱあっと光が射したように明るいかわいらしいものに見えてくるのだった。

 七瀬は、お人形から事情を聞いた。
 それは長い長い、旅の物語だった。
 お人形は、微笑んで、写真を見せながら、遠い日の女の子との出会いと別れのことや、その子の魂の欠片との旅の物語を聞かせてくれた。
 お人形の手の中の写真は、あちこちが折れ、汚れ千切れて、七瀬にはもうそこにあるのがどんな写真なのか判じることはできなかった。
 けれどお人形の目には、変わらずにはっきりとそこに映っているという、幸せな家族たちと、美しい部屋の情景が見えるようだった。
『ここが海辺の街なんですよね。ああわたし、やっと辿り着いたんだわ』
 嬉しそうにそう話すうちにも、お人形のからだはひび割れ、ぼろぼろと崩れていった。
 けれどお人形は、杖をつき、長さが不揃いになった両足で、果敢に立ち上がり、街に向かって足を運ぼうとする。
『さあ、女の子のおうちを、探さないと。この街の、西の方におうちがあるんだって聞いたことがあるの。やっと――やっとこの子の魂を、おうちに帰してあげられるんだわ。ここまで、旅してきて、よかった。きっとこの子の家族も、この子の帰りを待っているでしょう。写真の中の、あの綺麗な家で』
 杖をついて、一歩ずつ。よろけながら、少しずつ前へ。歩みを運ぶごとに、お人形のからだはひび割れ壊れ、姿が崩れてゆく。
 狼と川獺の魂たちは、その歩みを見守り、けれどもうできることはなく、まるで葬列に加わるひとびとのように、ただ付き従う。
 七瀬はそっと、お人形の小さなからだを押しとどめた。
 お人形が語る長い物語を聞くうちに、魔女の七瀬の目には、遠い昔に亡くなった女の子の、その姿が見えていた。袖のふくらんだ白いブラウスに、お母さんの手作りの防空頭巾がよく似合うかわいらしい姿も、はにかんだ笑顔も。そして、居心地のよさそうな部屋の中で肩を寄せ合い、笑い合う、女の子の家族たちの姿もすぐそこにあるように瞳に映っていた。その家がこの海辺の街のどの辺りにあり、日々、どんな風に暮らしていたのかも。
 そして――昔の戦争が終わった、その年の八月の、もうじきに戦争が日本の負けで終わった、その日のわずか数日前に街の西側を焼いた空襲で、その子の家が焼けてしまったということも。
 その日、女の子のお母さんとお姉さんは燃えた家とともに亡くなったということも。
(女の子の帰るおうちは、もうないのよ。ずっと昔に地上からなくなってしまったの)
(その子を待つひとも誰もいないのよ)
 そう言葉にすることができなくて、七瀬はただ、お人形を止めようとした。
 けれどお人形は、笑顔を浮かべたままで、眼下に見える光り輝く街の方へと足を踏み出そうとして――。
 杖をつき損ねたように見えた。ほんのわずか、つまづいただけのように見えたのに、お人形は転がって秋の草が茂る野に倒れ、そしてそのままそのからだは崩れ去り、二度と起き上がらなかった。まるで誰かが土塊とぼろ布をそこに捨てたというように、ただの塵の山が、そこに生まれたのだった。
 長い旅のはて、あと少しのところでお人形は力尽きたのだった。
 塵の山は、まるで最後までお人形の心がそこにあったことの証明のように、古ぼけた写真を、そっと受け止めるように、その上に写真を載せていた。
 川獺たちの魂が、後ろ足で立ち上がり、両方の前足を合わせて、拝むようにした。
 狼たちの魂が透き通る鼻面を夜空へと上げて、ひとの耳には聞こえない声で死者を悼む歌をうたった。
 七瀬は、狼たちの遠吠えを聞きながら、しばらく闇に沈む塵の山を見つめていた。
 そしてやがて、深くため息をつくと、うたうような呪文を唱えた。
 魔女たちの間に伝えられている、遠いものたちに呼びかける呪文だった。
 その声は、まるで金色の糸が夜の闇を縫うように、風に乗って、遠く鋭く響いていった。
 声の放つ光が、繁華街の灯りに紛れ、うっすらと消えていった頃、繁華街の空に、ひとの目には見えない小さな星が二つと小さな小さな星が一つ灯った。
 三つの光はまるで妖精のように、ふわりと夜空を流れ、しばらく迷っているように空をくるくると回っていたけれど、ふと、何かに気づいたように、七瀬たちがいる丘の上を目指して、まっすぐに飛んできた。
 蛍のような光は、舞うように塵の山の上に飛んでくると、古い写真の上で、そっと優しい光を放ち、静かにまたたいた。
「呼んでみて、よかった」
 七瀬は微笑んだ。
「もしかして、ずっと待っているのかも知れない、と思ったの。女の子の魂の欠片が、家族に会いたかったように、家族もまた、女の子を待っていたのかも知れないなって。
 もう地上に家がなくなっていたとしても。魂だけが、ずっと時を超えて待っているのかも、って。――ほら、呼んだらすぐに来てくれた」
 そして七瀬は、両方の手の平を広げ、まるで奇術師が、とっておきの素敵な手品を見せるように、晴れやかな笑顔を浮かべた。
 手の平からは、星くずを撒いたような光がふわりと放たれて、そして光の中で、奇跡が起きた。
 綺麗なお母さんと、賢そうな姉娘が、驚いたような表情を浮かべたまま、丘の上に立ったのだ。
 けっして生き返ったわけではない。夜空に透ける、儚い魂だけの姿だった。けれど彼らはたしかにそこにいて、自分たちがなぜそこにいるのかも、よくわかっていた。
 魔女の七瀬に、微笑みかけ、お礼の言葉を、ひとの耳には聞こえない声で、呟いた。
 そして、崩れていた塵の山は、見えない誰かの優しい手に掬い上げられ、整えられるようにして、もとのままの――お人形が海の彼方で優しい手によって作られたときのままの姿に戻ったのだった。
 金色の髪のお人形はびっくりしたように両腕を広げ、ワルツを踊るように、ドレスをなびかせて、白い靴で夜の丘の上に立った。
 いちばんの奇跡は、そのあと起きたことだったかも知れない。
 ふくらんだ白い袖のブラウスを着た女の子が、いつの間にか、そこに立っていたのだ。それは家族と同じに、儚い姿だったけれど、でも魂の欠片はいま、懐かしい海辺の街を見下ろす丘の上に帰り着き、懐かしい家族たちはそこにいるのだった。
 女の子は、丘の上に立つ家族たちの姿を見て、大きな目に涙を浮かべた。ふわりと風が舞うように母と姉のそばに行こうとして、そして、秋草の上に立つお人形に気づいた。
 お人形は、誇らしげな満面の笑みを浮かべていた。
 女の子は身をかがめ、お人形にお礼をいって、抱きしめようとした。
 魂だけになった女の子の腕は、ふわりと風のようにしかお人形を包むことはできなかったけれど、お人形はその腕の温かさと優しさを自分は忘れないだろうと思った。
 気がつくと、つまらなさそうにこちらを見つめている、小さな影があった。それはどこか自分に似ている、愛らしいお人形で――ああ、この子の大切なお友達のお人形は、あの子なのか、とお人形は微笑んだ。少しだけ寂しくて、胸の中がちくちくと痛んだけれど、女の子にそっと声をかけて、そのお人形が女の子を見つめていることを教えてあげた。
 女の子のお人形は、魂だけになっても、この子を待っていてくれたのだ。この街で、家族とともに――家族のひとりとして。
(それならいいのよ)
 お人形は、自分のお人形を抱き上げて、家族のところに駆け寄ってゆく女の子の後ろ姿をそっと見送った。
 自分の旅は終わったんだなあ、と思った。
 女の子と家族の魂は、星のような光になり、細い月が灯る空へと舞い上がっていった。満天の星が光る空へ楽しげに高く高く上がっていって、星空の光に紛れ、まるで輝く星のひとつになったように見えた。
『これからはずっと、この故郷の空で、家族と一緒なのね』
 お人形は呟いた。そこではきっと昔に亡くなったという、女の子のお父さんの魂も一緒なのだ。
『大好きで、帰りたかったおうちがあった場所を、家族と一緒に見守りながら暮らすのね』
 よかった、と思った。
 心の底から、よかった、と。
 この旅を続けてきて、よかったと。
 優しい旅の道連れたち――川獺たちの魂と、狼たちの魂もまた、同じことを思ったのだろう。それぞれに優しいまなざしをして、遠い星空を見上げていた。

「さて」
 子どもたちが好きなお伽話や、絵本の中にいる魔女のように、つばの広い帽子をかぶり、黒く長い服を着た若い魔女は、呪文を唱え、その手に魔法のほうきを呼び出した。
 楽しげな笑顔を浮かべて、お人形と、そして川獺と狼の魂たちを見回した。
「あなたたちは、これからどうするの? 行きたいところや帰りたい場所があるなら、わたしが送ってあげましょう」
 魔女の使い魔らしい黒猫が、
『今夜の七瀬、すごく魔女らしいわね』
 と、甲高い声で、いかにも感動した、というようにいった。
『ハロウィン特別サービスって感じ?』
 七瀬と呼ばれた魔女は、むっとしたように足下の黒猫を見て、
「空気読みなさいよね?」
 ひとことそういうと、またお人形たちの方を向き直った。
 川獺たちの魂は、楽しげに答えた。
『旅が無事に終わったのだから、わたしらは故郷の川へ帰ろう』
『ああ帰ろう』
『もうあの川は、わたしらの故郷と呼んではいけないのかも知れないけれど、ひとの子に追われ、憎まれたとしても、やはりわたしらには、あの懐かしい川だけが、故郷なのだから』
『ああ帰ろう』
『ここまで来た旅と同じに、野を駆け、ひとの街のそばを通り、たまに水辺や海辺があれば、人知れず泳いだり、魚と遊んだりしながら、故郷へと旅していこう』
『そして眠ろう。柔らかな水草を枕に。頭上を泳ぐ光り輝く魚たちの群れを見上げながら、そっとまぶたを閉じよう』
『眠りにつこう』
 そうして、川獺たちの魂は、かすかにその身から光を放ち、互いにじゃれ合うようにしながら、遠い遠い故郷へと帰っていった。
 狼たちの群れも、魔女七瀬に答えた。
『我らも帰ろう』
『遠く高い山へ。果てしなく続く荒野へ。野うさぎが跳ね、狐が駆ける遠い森へ我らはまた帰ろうと思う』
『ひとの子に追われ、奪われた土地であろうとも、あの山野こそが我らの父祖の地、魂が眠るべき、懐かしい場所なのだから』
『帰ろう』
『ああ、帰ろう。故郷へと』
 狼たちの魂は、光り輝くふわりとした雲か霧のように、夜の丘の上に漂った。
 そして街を見下ろす森の方へと、白く大きな翼がひらめくように、舞い上がり、消えていった。
 狼たちの姿は見えなくなっても、遠く遠く狼たちの歌声が、ひとの子の耳には聞こえない歌声が、いつまでも、お人形と七瀬の、そして使い魔の黒猫の耳には聞こえていた。

「かわいいお人形さん、あなたはどうするの?」
 優しく魔女に問いかけられて、お人形は顔を上げ、答えた。
『わたしも故郷に帰ろうと思います。遠い山間の小さな町へ』
 あの学校はまだあるのだろうか。いまも正面玄関には、人形がそこに飾られやすらうためのガラスケースが置いてあるのだろうか。
 お人形が帰り着いたとして、喜んで迎えてくれるのだろうか。
『そして少しだけ、休んだら……』
 冒険の旅に出るのもいいかもね、とお人形は思った。旅の途中で思った通りに。
 いやいや旅は大変だったから、気が変わるかも知れないけれど。懐かしいガラスケースの中で、微笑みを浮かべたまま、ずっと眠っていたいと思うのかも知れないけれど。
「わかったわ」
 若い魔女は楽しげな笑顔で、そう答えてくれた。
 そうして、お人形を腕に抱き、魔法のほうきで空へと舞い上がってくれた。長く赤い巻き毛を、夜空へ翼のようになびかせながら。
 お人形は生まれて初めて――いや作られて初めて、というべきだろうか――魔法のほうきに乗って空へ舞い上がって、初めて見る景色に、目を見張った。
 絵の具で描かれた青い瞳だから、そんなに自由には開かないけれど、そんな瞳なりに、いっぱいに見開いて、光り輝く地上と、頭上に広がる星空に見とれたのだ。
「大丈夫よ、魔法のほうきなら、ひとっとびであなたの懐かしい故郷まで帰れるから」
 旅の疲れもあったのだろう。魔女の優しい声がまるで子守歌のように眠気を誘う。
「――優しい川獺たちも、優しい狼たちも、そして優しいお人形も、しばしおやすみなさい。疲れを癒やし、そしてまた朝の光の下で、目を覚ましなさい。
 大丈夫。この世界の夜と眠りは、魔女たちが守るから」
 お人形は閉じることのできない瞳で、美しい夜景を見ながら、眠りの世界へとゆるやかに落ちていった。若い魔女のあたたかな胸元に抱かれ、懐かしく幸せな想いを抱きながら。
『――ありがとう、優しい魔女』
 そう呟いたけれど、声は魔女に届いただろうか。夜風に紛れたかも知れない。しょせんお人形の声だもの、小さかったかも知れない。
 けれど魔女がお人形を抱く腕には、そっと力がこもり、そして魔法のほうきは、流星のように、空を駆けていったのだった。

★今回をもって、本連載は終了となります。今までご愛読いただきまして、誠にありがとうございました! またいつの日か、眠りを守る素敵な魔女に会える日を楽しみにお待ちください。(編集部)

  

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作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

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