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魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
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第一話 遠い約束(後編)

2019.05.03 更新

 港のそばの古く寂れた商店街、三日月通りのカフェバー『魔女の家』に、書店員の叶絵はそういうわけで足を踏み入れた。
 謎めいた長い赤毛の少女の白い手に引かれて。空には銀色の光を放つ満月。春のひんやりとした夜風には、時にちらほらと桜の花びらが舞う。そんな夜のことだった。
 踊るような足取りで一歩先に歩き、店の放つ光の中に軽やかに足を踏み込んだのは、夜の精霊のような黒くつややかな毛並みの猫で、金色の瞳で叶絵を見上げ、口元に笑みを浮かべた。――そんな馬鹿な、と自分で思ったけれど、たしかにそのとき、猫はまるでチェシャ猫のように笑ったのだ。

 店の中は、優しく穏やかな光に包まれていた。温かな蝋燭の火のような、ランタンの光のような、どこか懐かしい色の光。思い出の中にある光みたいな色だ、と叶絵は思った。
 扉が背後で閉まると、夜の冷たさ寄る辺なさから切り離されたようで、叶絵はほう、とため息をついた。凍ったからだが溶けてゆくように、肩に入っていた力が抜けてゆく。
 その店は、とても美しかった。
 どれほどの歴史のある店なのか、古いものが好きな叶絵は、口を半開きにして、店のそこここに視線をめぐらせた。
 天井には、真鍮が金色の光を鈍く放つ瀟洒(しょうしゃ)なシャンデリア。百合の花をかたどった磨りガラスの灯りは、良い感じに古めかしく、絵のように美麗だった。よく磨かれ、おそらくはたくさんのひとびとの足がその上を歩いただろう木の床は、シャンデリアが放つ光を受けて、つややかに光る。
 耳に心地よく響くのは、壁にかけられた時計が時を刻む音。小さな扉は閉じているけれど、木に刻まれた鳥の意匠からして、カッコウ時計のようだ。
 さほど広くはないけれど、けっして狭くもない店内には、テーブル席がふたつにカウンター。これもつややかな木のカウンターには大小のボトルシップが並べられ、古いガラス瓶は飴色がかった光をほのかに放っている。そのそばの壁には、様々な時代の飛行機と飛行船、気球の絵が飾られている。
 カウンターの中には、銀色の髪を短くカットした、美しい、やや高齢の女性がいる。モデルのように長身で細身の姿に、よく体に馴染んだ麻のエプロンをかけているところを見ると、店のひとなのだろう。彼女は、黒く大きなレコードをカウンターの端にある古いプレイヤーに載せようとしていたところだった。
「おや、お帰りなさい、『ご同輩』ナナセ」
 銀髪の女性が、銀色の長い睫毛を揺らしてまばたきし、赤毛の少女に視線を投げる。
「ただいま、『ご同輩』ニコラ」
 少女は笑顔で答え、カウンターの椅子に半ば飛び乗るようにして腰をおろす。
「ごめんなさい。思ったより遅くなっちゃった。すぐ帰ってきて、いろんな『手続き』をするつもりだったんだけど、この街、久しぶりでつい」
 懐かしくて、と笑う。思いだしたようにコートのボタンをはずしながら、
「さっきお話ししたでしょう? わたし、この街は二度目なんですもの。前は行きずりの旅の途中で、長くは暮らさないままにここを離れたから、そんなにたくさんの思い出はないはずなのに、不思議ね」
 銀髪の女性は微笑み、優しい仕草でコートを受け取る。
「お気持ちわかりますよ。何度でもおいでませ。この街はほんとうに良い街ですもの。数百年暮らしていても、飽きないほどに。だからわたしのように、ここに根っこが生えてしまうものもいたりして」
 目と目を合わせて、くすくすとふたりは笑う。
 カウンターの中の女性と赤毛の少女と、見た目の年齢は祖母と孫娘くらいに違うようなのに、そうして話している様子は、不思議と同世代の友人同士の会話のようにも見えるのだった。
 そして赤毛の少女は、立ち尽くしていた叶絵の方を振り返り、手招きするようにして、自分の隣の席へと招いた。
「お客様ですね。いらっしゃいませ」
 銀髪の女性が、美しく皺の刻まれた口元で微笑む。カウンターから出て、叶絵の冬のコートを脱ぐように促し、ハンガーに掛けてくれた。
 叶絵がおぼつかない動作で、カウンターの椅子に腰をおろすと、いつの間に準備していたのか、ほかほかと湯気を立てる、白く熱いおしぼりを差し出した。――湯気からは、どこか摩訶不思議な、淡い香草の香りがした。
「ねえ、お嬢さん。こんな寒い夜に、そんな寂しげな様子で歩いてちゃいけません」
 優しい声がささやいた。ニコラと呼ばれたひとの声。
「こんな冬が帰ってきたような寒い夜、『ひとの子』はみんな凍えて家路を急ぎ、帰り着いたものかと思っていましたよ。ご同輩の帰りを待ちつつ、好きな曲でもとりとめもなく聴いて、のんびりしようかと思っていたんですが」
 音楽を聴くような、よく響く、麗しい声だった。女優が舞台の上で何かを語るような、そんな声だったといってもよい。
 カウンターに戻った彼女の傍らには、古い水槽があり、色とりどりの宝石のような海の魚たちが、珊瑚の森の中を、ゆっくりと泳いでいた。
「凍えた心には、きっと魔が差してしまうから」
 赤毛の少女が、椅子から下がる足をひとつ大きく揺らすと、明るい声でいった。
「もう大丈夫よ。さっきちょっと危なかったんだけどね」
 少女は叶絵に視線を向けて、いたずらっぽい表情で見上げて笑う。
「おとなになっても危なっかしいところがあるのは昔と変わらないのね」
「――?」
 少女はただにこにこと笑っている。
 そして銀髪の女性を見上げて、
「温かい飲み物をくださいな。そう、ココアがいいな。昔風に、お砂糖多めで甘くして。それから、猫舌でも大丈夫なように、少しだけ、ぬるめにして欲しいの」
「はいはい」
 銀髪の女性は笑い、使い込まれたような片手鍋を手に取り、ココアが入っているらしい缶を戸だなから出す。
「こんな夜には断然ココアよね。わたしがご馳走するから、こちらのお嬢さんにもお願い」
「あ、いえ」
 自分で払います、といおうとして、無意識のうちにお財布を探そうとしたその手を、少女の白い手が押しとどめた。
「『前』はおごってもらったから、今夜はわたしがご馳走するわよ」
 そんなことあるわけない。この子と飲み物を飲もうとするのは、今夜が初めてのはずだ。そう思いながらも、ずいぶん昔、高校生の時の記憶が、脳裏に蘇る。鼻に感じる甘い香りと同時に。
 昔々の寒かった春、赤い髪の転校生と自動販売機に辿り着いたとき、彼女は財布を持っていなかった。だから、叶絵が彼女の分と自分の分とふたつ、缶ココアを買ったのだ。
「ありがとう。次はわたしがおごるわね」
 彼女は笑顔でそういったけれど、「次」はなかった。すぐに彼女はいなくなってしまったからだった。おそらくはどこか知らない街へひとり旅立った。
 それっきり、彼女と出会うことはなかった。
 いま、赤毛の少女の隣の席に座りながら、叶絵は目をしばたたかせる。この子はなんだかあの子に似ているような気がする。赤毛の転校生。一か月の間だけこの街にいて、すぐにまたいなくなってしまった、不思議な転校生に。
 風の強い春の日に転校してきて、また風の日に去って行った、あの子に。
(でもあれは、ありえない)
(夢の中の出来事としか、思えない)
 その証拠のように、かつてのクラスメートたちは彼女のことを覚えていない。同窓会で話題にしても、ひとりとして覚えていないのだ。あの春の一か月、叶絵はたしかに彼女と同じ教室にいて、図書館に通って、いろんな会話をした記憶があるのに。
 叶絵の他は誰も、赤毛の転校生のことを知らないという。まるで叶絵の心の中にだけ存在し、消えていった幻の転校生のように。

(でも、わたしは覚えている)
 たしかに自分の記憶として残っている、春の夜の不思議な出来事がある。あの春の夜の氷のように冷たかった夜風も、彼女と見た美しいものも、自分の想像が生み出した物とは、叶絵には思えない。あんなリアルな妄想、自分には無理だとまで思う。
 けれどそれは、ほんとうにあったことなのか。叶絵はその夜の出来事に思いをめぐらせるたびに、迷い迷った末、いや、やはりありえない、と首を弱く横に振ってしまうのだ。
 そう思ううちに、いつか記憶は古い化石のように記憶の断層の下に押し込められ、しまい込まれ――結果、忘れられつつあったのだ。
(だって、ひとは記憶を書き換えるから)
 ひとは時として、想像と妄想を、自分のほんとうの記憶と置き換えてしまう。
 叶絵は夢見がちな子どもで、少女だった自分を覚えているから、高校時代の自分の記憶を信じ切る気持ちになれないのだ。ましてやあんな夢そのもののような記憶――。

「あ、彼女は猫舌じゃないから、ぬるくなくても大丈夫よ。――ね、平田さん?」
 そう呼びかけられて、叶絵はおしぼりを手にしたまま、動きを止める。
 この子に自分は名前を教えていただろうか?
(やっぱり、どこかで会ったことがあるのかな。やっぱり、お店のお客様――?)
 そう考えるのが自然なことのような気がして、叶絵は記憶を懸命に探ろうとした。
 鍋から緩やかに、ココアを練る甘い香りがたなびいてきた。うつむいて銀の匙でココアを作る銀髪の女性の仕草は、どこか大鍋で薬を作る魔女の仕草めいて見えて――。
(そうだ、魔女だ――)
 叶絵は、遠い日の記憶を思い返す。
(あれは、あの言葉は、やはり夢で聞いたものじゃないと思うんだ――)
 たしかに本当にあったことだと思うのだ。

 放課後の高校の図書館で、窓越しに射す黄昏時の日の光に染められるようにして、赤毛の少女はささやいたのだ。幼く聞こえる、やや舌足らずな声で。
「だってわたしは魔女だもの。ひとりで生きて、長い長い生涯を旅し、世界中をさすらって、いつかひとりで死んで、地上から消えてゆくの」
 人形のように愛らしい姿に、紺色のセーラー服がよく似合っていた。その肩にかかる長い赤い髪に、白いスカーフに、夕暮れ時の光が魔法めいて踊って見えた。
 ずっとひとりで生きてきた――彼女はそういったのだ。ふたりだけの図書館で。
 あれも春だった。あの年も冷たい春。強い風が満開の桜の花を散らし、図書館の大きな窓の外に、流れるように花びらが舞っていた。
(物語の中に入ったみたいだ――)
 叶絵は思っていた。腕に抱いた数冊の読みかけの物語の本の重みを感じながら。
 こんなお話の世界にしかないような言葉を、自分の耳が聞く日が来るなんて思わなかった。――いや、子どもの頃からそれに憧れてはいたけれど、まさかそんな機会がこの世にほんとうにあるだなんて。
 胸がどきどきした。自分のために用意されていた、不思議な世界への扉があったなんて。
 頭の中で、冷静な叶絵が、「そんなこと絶対にあるわけない」と打ち消そうとする。
(こんなの、リアルじゃない。魔女なんて、実在するはずがない。この転校生は噓をついてるのよ。適当な話を思いつくままに話して、ひとをからかって楽しんでるの)
(そうでなきゃ、ごっこ遊びよ。もう高校生なのに、馬鹿みたい)
 けれど、夢の中の登場人物に訊ねるような思いで、叶絵はあの日、赤毛の転校生に訊いていた。口が勝手に動いて、言葉を紡ぎ出していた。
「――あの、じゃあ、いつか」
 そう、叶絵は、彼女に訊ねたのだ。
「もしかして、七竈(ななかまど)さんは、いつか、この街を離れてしまうの? どこかに旅立つの?」
 来たときと同じに。『風の又三郎』のように、強い風に吹かれてどこかに消えていってしまうの?

 少女は肩をすくめるようにした。子どもっぽく見える仕草で。
「この街には元々来る予定じゃなかったの。遠くに行く途中に、少しだけ休むための滞在のつもりだったの。なのに、長くいすぎたから。――だから、そろそろ行くわ」
 この街には長くいられない。だって、この街にはもう街を守る魔女がいるんですもの。ひとつの街には、ひとりの魔女がいれば充分。
 彼女は、物語の本の中に出てくるような、謎めいた言葉を口にして、寂しげに笑った。
「いつもは誰にも黙って街を離れるんだけど、あなたには話しておきたくて。きっとあなたは、わたしのことなんて忘れてしまうと思うんだけど。わかってても、伝えたかった。
 さよならと、お礼の言葉を」

(夢の中の記憶のような気がしていたんだ)
 喉が渇いた。
 忘れなかった、覚えていたけれど、でも――あの記憶がほんとうのことだと信じ続けるのは、少しだけ難しかった。
 叶絵は、震える手を握りしめた。
 本ばかりさわって、傷だらけ、埃だらけの、ごつごつとした大きな手を。
「――七竈さん、七竈さんなの?」
 久しぶりで、その名を口にした。
 不思議な響きの、転校生の名前を。
 夢の中の登場人物に、話しかけるように。
「七竈、七瀬さん……だよね?」
 名前を呼ぶ、最後の辺りが自信なげに揺らいで消えた。
 けれど赤毛の少女は楽しげに笑い、
「はあい。やっと思いだしてくれましたか。図書委員の平田叶絵さん」
 頰杖をついて、叶絵を覗き込むように見上げた。
 カウンターに飛び乗り、そのそばに腰をおろした長い毛の黒猫が、
『まったく察しが悪い』
 と、甲高い声でいった。『この子ったら、やっと思い出したの?』
「そういわないの」
 赤毛の少女――七瀬の手が、猫のつややかな黒い背中を撫でた。
「わたしは平田さんが、わたしの名前を覚えていてくれたというだけで、十二分に幸せよ。それだけでも、この街に帰ってきた甲斐があったと思ってる。嬉しかったわ」
 だって、と黒猫は不満そうに長い髭を揺らした。
『この子、あなたに、昔と今夜で二度も命を救われたのに、すぐに思いだせないなんて。ナナセは、ずっと覚えてたのに。何度も何度も、この子の話をわたしにしてたのに』
 赤毛の少女はただ微笑んで、黒猫の背中を撫で続ける。
 猫はさらにいい募る。
『この街に帰ってきて欲しいっていったのは、ナナセのことを覚えてるって約束したのは、この『ひとの子』なのに』

(そうだ)
 叶絵は、手を握りしめる。
 あの日、叶絵がいったのだ。
 この街にまた帰ってきて欲しい、と。

「こんな話、ほんとに信じててくれるの?」
 なかば呆れたように笑いながら、あの日、彼女はいったのだ。冗談めかした口調で。
 たくさんの物語の本の前で。棚一杯に並んだ本の背表紙のその前で。物語の本のあわいから生まれてきたひとのように。
「この世界には、いまも魔女たちが隠れて暮らしているの。ええ、世界中にいるのよ。ひっそりと人間の街にいる。人間たちの間に紛れてね。――でもわたしたちは年をとるのがゆっくりだから、ずっと同じ街にいると怪しまれてしまう。だからね、いろんな街や国を渡り歩いて暮らしているの。わたしもそんな風に旅していく途中で、この海辺の街に立ち寄ったの。たまたまね。次に行こうと思っていた街は遠くて、少し疲れていたから」
(すごい)
 そのとき窓ガラスに映った自分の目がきらきらしていて、少し笑えたのを、叶絵は覚えている。
(ほんとうに、物語の世界みたい)
 コミックのキャラクターのように、両手をぎゅっと握りしめて、胸躍らせていたのだ。
 同じ学校の同じクラスに、人知れず世界をさすらっていた魔女の子が転校してきていたなんて。その子と仲良くお話ししていたなんて。本の話をして、本を薦めていたなんて。
 日常のすぐそばに魔女がいた、そんな素敵に幻想的で、ドラマチックなことが、この世に存在していたなんて。
(ああもう死んでもいい)
 そんなことまで、あの時の自分が思ったことを、叶絵は覚えている。
 こんなことあるわけがない、絶対にこの子の作り話だと思いながらも、信じたかった。信じ込もうとしていた。

 その赤毛の少女、七竈七瀬は、クラスの誰にも打ち解けようとしない、無口な転校生だった。かといって、人間が嫌いなようでもない。話しかけると、少しだけなら笑ってもくれる。明るい茶色の瞳はいつも優しい。けれどどこかみんなとの間に見えない壁があって、そこを越えずにいるような不思議な雰囲気があった。
 普通なら、叶絵は彼女に関わろうとはしなかったかも知れない。叶絵自身、ひとの輪の中に積極的に入ろうとする方ではなかったから。
 けれど、ある放課後、図書館の窓からふと見かけ、見下ろした、ひとりきりでいるときの彼女の表情がとても寂しそうに見えて、泣き出してしまいそうに見えたので、放っておけなくなってしまった。七瀬はひとりぼっちで桜の木によりそい、散る花びらを見つめていたのだ。
 その次の日からだった。押しかけるように彼女に話しかけ、昼休みや放課後には図書館に誘い、いろんな本を半ば押しつけるようにして、この本面白いからと薦めた。だって他に叶絵にできることはなかった。叶絵には本しか差し出すことができなかったのだ。
 転校生は最初のうち戸惑っていたようだけれど、少しずつ、叶絵に打ち解けてきて、やがて叶絵に薦められた本を読んでくれるようになった。面白い、といってくれるようになった。
 転校生は魔女のお話が好きだった。
 学校の図書館には、外国や日本の古い魔女や魔法使いの物語がたくさんあって、それを叶絵は端から薦め、彼女は本たちを手にしてくれた。
 子どもが読むような本ばかりだったけれど、彼女はどれも読んだことがないといった。
 物語を手にする機会も、時間もなかったと。
「時間はたくさんあったんだけど、本は、いつでも読めると思っていたから、かえって読まなかったの。どこの国の、いつの時代の本も。物語ってこんなに面白いものだったのね」
 彼女は頭が悪いわけではなかったし、むしろ活字をすらすらと読んだ。日本語だけではなく、図書館にあるいろんな国の言葉をたやすく読みこなす人だった。英語が苦手な叶絵は、少しだけ恥ずかしかったものだ。
「面白くて、ときどき悲しくて、でもとても素敵。一冊一冊の中に、世界があるのね」
 そういって、転校生は頰を染め、笑った。
 ああこの子のこんな笑顔が見たかったんだ、と叶絵は思ったものだ。
 自分の選んだ本の力で、この子が笑ったのだと思うと、誇らしくて胸を張りたくもなった。本は素晴らしい。すべては物語の力だ。でもほんの少しはわたしも得意に思っていいんじゃないかな、と思った。
 誇れることも、自慢できることも何一つない自分だけれど、この寂しげな転校生を笑わせることができたんだ、と。

 そんな日々が続いたある放課後、黄昏時の闇と光が満ちる空に桜の花びらが流れる春の日に、あの物語のような言葉を、彼女は話してくれたのだ。さりげなく、けれどこの世にただひとり、叶絵にだけ秘密を教えてくれる、そんなどこか厳(おごそ)かな口調で。甘く静かな声で。
「だからね、ひとりでまた旅していくの」
「ひとりで? 家族は?」
 彼女は首を横に振った。微笑んでいても、少しだけ、寂しそうに。
「魔女はひとりで旅をして、ひとりで生きていくものだから」
 言葉にはしなくても、家族はいないのだと知れた。死んでしまったのか生き別れたのか、とにかく彼女はもう、世界にひとりきりなのだ。
 赤い髪が流れる背中の窓の外を、風に吹かれた桜の花びらがたくさん流れていった。
 ほんとうは自分はあなたよりも年上なのだ、ずいぶん長く生きているのだと付け加えるようにいった言葉を、疑いもせずほんとうなのだと思ったのはどうしてだったろう。
「わたしはゆっくりとしか年を取らない、いつかきっと平田さんは、わたしの見た目の年齢を追い抜いて、おとなになっていってしまうのよ。
 こんな話、信じられる?」
 まあいま話したことは、みんな冗談だと思ってくれてもいいんだけど、彼女はそう笑ったけれど、叶絵は、深くうなずいた。
 目の前にいる、同級生のはずの少女の姿が、いつか自分より幼い少女に見える日が来る、そんなの想像できないと、それだけ思いながらも。
 大好きな図書館の古い本の匂いに包まれていたからなのか、ふたりきりで話していた、夕暮れの秘密めいた空気のせいなのか。
 あるいは。学校にいるはずがないのに、ふいに彼女の足下に魔法のように現れた、彼女の愛猫の黒猫の、使い魔めいたその金色の瞳のせいなのか。
「連れていってほしいな」
 気がつくと、叶絵は彼女にいっていた。
「わたしもここじゃないどこかに行きたい。いつもずっと思っていたの」
 その言葉を聞いた彼女の表情が、わずかに曇ったのを覚えている。
 その頃、叶絵はいちばん家族とそりが合わない時期で、小さなことで何かと喧嘩を繰り返したり、口をきかなくなったり、家をふらりと飛び出したりしていたのだ。
 いま振り返ると、叶絵の方にも悪いところは多々あった。けれど、あの頃の叶絵は自分を守るために、ハリネズミのように全身の針を立てて怒り狂い、そうすることでかえって自分が傷ついて、毎日のように心に血を流していたのだ。
 転校生はゆっくりと首を横に振った。
 優しい表情で、彼女は笑った。
「あなたは連れていかない。いったでしょう? 魔女はひとりで生きてゆくものだから」
「そんなの寂しいよ」
 叶絵はぽつりと呟いた。「七竈さんがいなくなったら、わたしひとりになっちゃう」
 前触れもなく、涙がこぼれた。
 わずかしかつきあいがなかったはずの転校生なのに、この子がいなくなると思うと、凍るように心の奥が冷えた。
「帰ってきて」
 と、だから叶絵は彼女に願ったのだ。
 この街から、高校の図書館からいなくなってもいい、ただいつかもういちど、この街に帰ってきて欲しい、と。

「またきっとこの街に帰ってきて欲しいの。だってわたしはあなたの友達だから。その、勝手に、友達だと思ってるから。勝手に、だけど」
 赤毛の少女はまばたきをして、叶絵の顔を見つめた。
 少しずつ黄昏れて、夜になってきた図書館で、彼女の表情はよく読み取れなかった。
 でも、少しだけ湿ったような声で、嬉しそうに彼女はいったのだ。
「もしいつかこの街にわたしが戻ってきたら――それは人間には少しばかり遠い未来のことになると思うんだけど、あなたはわたしのことを覚えていてくれる?」
「覚えてる」
 叶絵はうなずいた。
「ほんとうに、いつ帰れるかはわからないのよ。それでも待てるの?」
「待つわ」
「ほんとうに、忘れない?」
「絶対に」
「わたしと――魔女と会ったことを、夢だと思わずに信じていられる?」
 叶絵は黙ってうなずいた。
 赤毛の転校生は、ふと目を伏せた。
「わたしたち魔女は普通、訪れた街で出会ったひとたちから、記憶を抜いてしまったりするの。厄介なことになったら困るから、って意味合いなんだけど、ほんとうは――出会ったことを忘れられたら悲しいから、なのかも知れない。わたしたちと人間とでは、時間の感じ方が少しだけ、違うから。わたしたちにはあっというまに過ぎる年月も、あなたたちには、長い長い、時の果てのことに思えたりもするみたいだから」
 だからね、と目を上げて、彼女は大人びた表情で笑った。
「あなたがもしわたしを忘れても、わたしは怒らない。でもひとつだけ願うなら、いつか未来に再会したとき、平田さん、あなたが幸せだといいなあ。そんなあなたと会いたいな。
 わたしはあなたと会えて、あなたに物語の本を薦めてもらえて、とても楽しかったから。一冊一冊の本の思い出とともに、あなたのことを、きっと忘れない。
 繰り返し、思い出すと思うの。長い長い時の彼方まで。いつかあなたが年老いて、この地上からいなくなってしまう時が来ても」
 やがて窓の外の空は、すっかり夜の藍色に染まり、その頃になって生徒がまだ図書館にいるのに気づいた司書の先生に、早く帰りなさいと叱られうながされて、叶絵と転校生は学校を出たのだった。
 校舎を一歩出ると、思ったよりも空はまだ明るくて、するとなんだか、叶絵はいままで彼女と話していた、少女じみた魔女のお話が恥ずかしくなった。
 そしてふたりは照れたように視線を合わせないまま、互いに軽く手をふってわかれたのだけれど(そういえば叶絵は転校生がどこに住んでいるのか知らなかった)、転校生に背を向け、一歩家に向かうごとに、叶絵は、夢から覚めていくような気持ちになった。
(魔女だって)
(ほんとはもっと年上で、また旅に出るんだって)
(世界中に、魔女がたくさんいて、ひとの街に隠れ住んでるんだって)
 そっと振り返る。赤毛の転校生の姿は、もう道のどこにも見えなかった。ついさっきさよならをいったときは、分かれ道にセーラー服の背中がたしかに見えたのに。
 いつのまに、どこに消えたんだろう?
 まるで魔法で姿をかき消したみたい――そう思って、でも、そんな馬鹿な、と苦笑して、叶絵は打ち消した。
 立ち止まり、とっぷりと暮れていく空を見上げて、軽く息をつき、そして叶絵は重たい鞄を提げて(なぜ重たいかって、それは、いつもの通りに読みかけの本やこれから読む本たちが、ぎっしりと入っているからだ)家路を辿った。
 この世界に、現代日本に魔女がいるなんて、それも叶絵の通っている高校の、叶絵がいつもいる図書館に魔女が来るなんてこと、あるはずがない。
(そんな素敵なこと、現実になるはずがない)
 世の中って、そういうものだ。
 黄昏時の光と、転校生の声とまなざしに騙されただけだ。そう思おうとした。

 その夜のことだった。
 突然の春の嵐が台風のように街を吹き荒れ、桜の花びらどころか葉や細い枝までも吹き散らしていた夜に、叶絵はひとり泣きながら、家を飛び出した。
 家族とどんな諍(いさか)いがあったのか。いまとなっては、叶絵は覚えていない。
 何に傷つき、何を怒り、何が悲しかったのか。思い出せないほどにどうでもいいささやかな出来事があって、けれどそれでも当時の叶絵には、死にたいほどに切ない悲しいことが、その夜、たしかにあったのだ。
 家に帰りたくない、それだけしか考えず、ただ夜の街を歩いた。けれど繁華街は怖かったので、ひとの気配のない方へない方へと――そう、あのときも、港のそばに辿り着いていたのだ。三日月町の三日月通りの辺りに。暗い水に引かれるように。
(あのときも、水路の水を見ていた)
 人通りのない裏通りで、ひとりきりうずくまって、冷たい夜風に吹かれながら、ひたひたと寄せる水の音を聴いていたのだ。
 そのうち冷え切ったからだが震えだしてきた。夜風に背中を押されるように、水路へと落ちてしまった。自分でも笑えてしまうほど、あっけなく転がり落ちたのを覚えている。
 それまでは妙に現実味がなかった。いいやこのまま死んでしまっても、なんて思っていた。けれど、痛いほど冷たい水に触れ、真っ暗な水に沈みそうになったとき、苦しい呼吸の中で、こんなのは嫌だ、と思った。
 暗闇に飲まれるのは嫌だ。
 明るい方へ行きたい、と。
 そのとき、水の上から、声がしたのだ。
「寂しいときは、暗いところにいてはだめよ。魔が差してしまうから」
 光が降るような声だと思った。
 そして何も見えない暗い水と夜空の間を縫うように、白い手が差し伸べられた。
 叶絵は救いを求めるように、必死にその手へと手を伸ばした。誰の手だろうとか、なぜこの手がここに、なんて微塵も考えられなかった。そんな余裕はなかった。
 そして白い手は叶絵の手をつかむと、一瞬で上へと引き上げたのだ。

 咳き込みながら、胸いっぱいに春の夜の空気を吸い込んだ。頭痛がして、胸が痛いほどに鼓動を打っていた。足下がおぼつかない。なんだか浮いているような気がする。濡れたからだが夜風に冷えて、震えが止まらない。口の中が塩辛い。水路の塩水のせいで。
 咳き込みながら、やっと目を開けると、そこは、夜の海の上だった。
 叶絵は、誰かに手を引かれ、宙に浮かんでいたのだ。ふわふわと浮いている足の下に、ゆったりと満ちていく暗い海が見える。
(っていうか、これは)
 握りしめていた白い手を上へと辿ると、そこに、ほうきに乗った若い魔女がひとり。
 細い木々の枝をまとめて作ったような、大きく古いほうきに、制服を着た転校生が、七竈七瀬が、赤い髪と白いスカーフをなびかせながら、腰掛けていたのだ。ほうきの柄の辺りには、長毛の黒猫が一匹、毛並みをなびかせながら、叶絵を見下ろしている。
 春の嵐に吹かれながら、転校生は叶絵を見下ろし、その白い手に力を込めて、軽い調子で引きあげると、叶絵をほうきの自分の後ろに座らせてくれた。
「水の中には、人の子をからかって遊ぶような、いたずら好きの精霊たちがいるの」
 吹きすぎる風の中で、転校生がそういう声が聞こえたような気がした。
「悪気はないんだけど――その分怖いところもあるわね。気をつけないと、特に寂しい気分の時なんかは、危ないものなのよね」
 いつもと同じ、少し舌たらずな声で、お天気の話でもするように、彼女はいった。
 自分は今、空飛ぶほうきに乗っているんだろうか――叶絵は夢を見ているように思いながら、目の下の海を見ようとして、たちまち怖くなって目を閉じた。転校生に促されるままに、その背中をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ。ほうきかわたしにふれている間は、下には落ちないから」
 楽しげに、転校生が笑う。
 叶絵は黙ってうなずいているしか余裕がなくて、ただその背中にすがっていた。
「綺麗なものを見せてあげる」
 転校生が、ほうきの柄をめぐらせるようにして、叶絵をどこかの空へと運んだ。
「――目を開けてご覧なさいな」
 ぎゅっとつぶっていた目を恐る恐る開けると、目の下から光の粒子が、押し寄せるように広がっているのが見えた。
 夜景だった。
 この街の夜景が美しいのは知っていた。繁華街の街明かりも、道路を行き交う車の灯りも、そして郊外へと続いていく住宅地の灯りも、その広がりと連なりは知っていたけれど、空から見れば、こんな風に見えるのだと初めて知った。まるで宇宙だ。星空がそこにあった。
 春の嵐が、埃も汚れも、空の雲までも吹き飛ばして、澄んだ夜景を見せていた。
(うちは、どの辺だろう?)
(あの辺りかな?)
 つい目で探してしまう。小学校のそばの、古い建売住宅が並ぶ辺り。線路のそばの。
 ああ、あの辺りだろう、と思うところには、小さな光が灯っていた。家族があの光のそばにいるのだと思うと、胸の奥が痛くなった。――なんて小さな、けれど暖かい色の灯りなのだろう。
 空からこうして光を見ていると、辛かったはずの諍いなんか忘れて、すぐにでもあの光のそばに帰りたくなった。小さい頃からあの光のそばで、守られるように暮らし、笑い、そして泣きながら育ってきたのだ。ささやかな、けれどたくさんの思い出を作りながら。
 ふと、思った。
 自分の家に灯っているのと同じ明かり、同じ光が、こんなにたくさん地上には満ちているんだな、と。この街に、そして世界に。
「魔女の目には、人間の街の夜景って、こんな風に見えるのね」
 訊くともなく、叶絵は呟いていた。
「こんなに綺麗に。まるで、星みたいに」
「そうね。星座みたいに見えるわね。儚くて、強くて、小さな星が灯す光が作る星座。こうして空から見下ろすと、地上からは見えない宇宙がそこにあるのよね」
 転校生は、そう答えた。
「たくさんの人生や、夢や希望で織り上げられた、星座が広がっているように見えるの。世界中の、いろんな街に、夜ごとに、星座は生まれ、光を灯して、朝を待つの」
 風に吹かれた濡れたからだと、耳たぶが痛かった。指先も凍えそうだ。
 けれど、震えも忘れそうなほどに、空から見下ろす夜景は美しかった。
 長い髪をなびかせて、街を見下ろす転校生は静かな笑みを浮かべていて、叶絵は、この子はいつもひとりでこの美しいものを見下ろしているのかと思うと、胸が疼くほどにうらやましくなり――すぐに、切なくなった。
 それが美しければ美しいほど、ひとりで見るのは寂しいものかも知れない。美しいとか楽しいとか面白いとか、そんな思いはきっと、誰かに教え、分け合う方が楽しいのだ。
 だから、ほうきに乗った彼女は、自分をあの空に誘ったのかも知れない。
 だから自分は面白い本を探し、誰かに差し出したいのかも知れない、とあの夜、叶絵は思ったのだった。
 あの、夢ともうつつともつかない夜に。

 やがて、転校生は、繁華街の外れにある公園の方にほうきを向け、叶絵の手を引くようにして、彼女を地上に降ろした。
 空飛ぶほうきは、地上に着いた途端、星を散らすような光を放って消えた。魔女の子のてのひらに吸い込まれたように見えた。
 春の嵐は、その頃には通り過ぎようとしていた。名残のようにたまに吹き荒れる風が、公園に咲いていた夜桜を散らした。
 街灯の下に、自動販売機があり、そしてふたりは熱いココアを買って飲んだのだった。
 花の雨に打たれるようにしながら、寒さに身を震わせながら、でも笑いながら。

「いつかまた、この街に帰ってくるから」
 転校生はいった。「旅する魔女は同じ街に二度暮らすことはないんだけど、きっとまたこの街に帰ってくるから。
 だから、そのときはまた、面白い本の話をしてね。童話の本をわたしに薦めてね」
 叶絵はうなずいた。
「面白い本、探しておくね」
「魔女が活躍するような話がいいな」
 赤毛の少女は、そういった物語が好きだった。『魔法のベッド』や『メアリーポピンズ』や、そういう、善い魔女たちがひとの子を守り、そっと手を差し伸べるような物語が。
 約束、と転校生は手を差し出し、握手をした。そんなふたりを、黒猫が金色の目を輝かせ、ほうきのような尾を振って、じっと見上げていた。

 あの頃の叶絵にとって、世界は狭く、そして深かった。たやすく落ち込んで、井戸の底のような暗闇にひとりきりで沈み込んでいた。
 けれど、光が射し込むように、差し伸べられた白いてのひらを、自分は忘れないだろうと、ココアが放つ白い湯気を見つめ、その甘さを嚙みしめながら、あの夜の叶絵は思ったのだ。

 それきり、赤毛の転校生と会うことはなかった。
 叶絵はその夜から酷く風邪を引き込んでしまい、数日して高校に登校したときには、七竈七瀬はもうどこにもいなくなっていたのだ。
 教室の彼女が座っていたはずの席には他の生徒が座り、図書館の彼女が借りていたはずの数冊の童話の本は本棚に戻っていて、学校からあの赤毛の転校生の気配は拭い去ったように消えていた。
 そして誰も、彼女のことを覚えていなかった。叶絵ひとりの記憶の中に、転校生は存在し、そしてあの春の嵐の夜を最後に、いなくなってしまっていたのだった。
(わたしは、忘れない)
 叶絵は誓った。
 ひとりきり、心に誓った。
 ひとりで旅する魔女と約束したのだから。魔女の存在を信じる。そして忘れない、と。
 いつか七竈七瀬はこの街に戻ってくる。
 再会のその日を待つのだ、と。

「――少しだけ、忘れていたのかも知れない」
 叶絵は、傍らの席の友人に語りかける。すっかり冷めてしまったココアは、でも変わらずに、優しく懐かしい甘い香りを漂わせている。
「ほんとをいうとね、熱のせいで見た幻なんじゃないかとか、思ったこともあった」
 それほどに、長い年月が経ったのだし、叶絵は高校生ではなく、おとなになったのだ。
 社会の中で、身と心を削るようにして、働いていたのだ。
(でも――)
 叶絵は、ココアを見つめて、微笑んだ。
「地上には、星座が――宇宙が広がっているんだよね。それを今夜、思い出した。はっきり思い出したから、もう二度と忘れない」
 久しぶりで、思い出した。
 地上にはひとびとが灯す、小さな灯りと、その灯りで編まれた星座があって、その光の中に、自分もいるのだと思い出した。
(生きていることって、楽しいことばかりじゃないけれど)
(頑張ったって空しく思えるようなことも、多いけど)
 でも、叶絵たちが生きて、働いている世界は、空から見下ろすと、美しい。
 夜ごとに、叶絵は宇宙の星のひとつになるのだ。光のそばに立つひととなる。
 それならいいじゃないか、と思った。
 空飛ぶほうきで空ゆく魔女が、光を愛でてくれるのならば。

 平田叶絵は、そうして今も、その街の書店で働いている。
本を選び、棚に並べ、お客様と言葉を交わし、注文をし、返本をして。
 店長になんといわれようといまも時間を見つけてはPOPを描き続けている。最近のお気に入りは、新作の児童書の、ファンタジーだ。魔女の子が活躍する物語だった。
(再会したときは七竈さんに本を薦めるって約束、うっかり忘れちゃってたから)
 舌を出し、頭をかいた。
 この物語がいかに面白いか、どんなに素敵か書き込んだPOPを棚に飾りながら、願掛けのように願う。――いつか魔女が店に来て、このPOPに気づいてくれますように。
(わたしは、ここで待っているから)
 昔と同じに、本が棚一杯に詰まった場所で。
 あの子や、他の寂しい誰かが笑ってくれるような本を選び、考えながら、ここにずっと立っているから。
 
 あの夜、三日月通りの『魔女の家』で、自分がどんな風に七竈七瀬と語り合い、別れたのか、そこからどうやってアパートの自分の部屋に帰ったのか、叶絵はよく覚えていない。ココアのあとに頼んだ、甘い蜂蜜酒に酔ったのかも知れない。
 不思議なことに、叶絵はその後二度と、あのカフェバーに辿り着けなかった。
 明るい昼間にも、夜にも。
 まるで路地への扉が閉じてしまったように、辿り着けなくなったのだった。
 それは寂しいことだけれど、でも、
(まあ、仕方ないかな)
 叶絵は苦笑した。
 一度きりの魔法。それって、物語の中に出てくる奇跡のセオリーだもの。
(だけどね)
 変わらず店で働きながら、叶絵は思うのだ。
 いつかもう一度、あの赤毛の魔女と会うことがないとは誰にもいえない。
 本を手渡すという大切な約束。それをまだ果たしていないのだから。

 約束といえば、もうひとつの約束のような言葉があったっけ、と叶絵は思う。
 いつか再会したとき、叶絵が幸せならいい、と赤毛の魔女は願ったのだ。
 さて、どうだろうか?
「――わりと幸せなんじゃないかな」
 ふふ、と叶絵は笑う。
 心の内に、七瀬とふたりで見た夜空が広がっている。宇宙を抱いているように。
 きっと自分は大丈夫だと思う。
(もう、暗いところには、きっといかない)

 商店街の光が、夜空を照らす頃。
 音も無く空を駆ける少女と黒猫がいる。
 使い込まれたほうきに腰をおろし、長く赤い髪をなびかせて、少女は空を駆けるのだ。
 春の風には桜の花びらが交じり、ほうきが飛ぶ高い空まで、たまに噴き上げられてくる。
 少女は髪にからまる花びらをたまにつまみあげるようにしながら、ほうきの上で古い物語の本を手にし、広げる。
 頁を照らすのは、月の光しかない。
 ひとの娘ならば、暗いところで本を読むなんて目が悪くなりそうだし、叱る親もいそうなものだけれど、彼女は魔女で夜目が利くし、注意してくれるような家族もすでにいない。時の彼方でずっと昔に見送ってしまった。
「ナルニア国のお話は、何度読んでも面白いけれど、魔女が悪役なところだけは、気に入らないわ」
 地平線に溢れ、続くひとの街の灯りを見下ろしながら、ほうきから下げた足をたまに揺らして、魔女は本を読み続ける。異世界への扉がある洋服だんすや、輝かしく勇気あるライオン、冒険する少年少女の物語を。
 たまに、古い本のページからまなざしをあげ、街の方を見る。
 彼女のことを覚えていてくれた、彼女よりもおとなになった、友人の働く書店はあの辺りだろうか――。
 あの子はもう、暗いところへ足を向けないだろうか――。
 書店のビルが灯す小さな光を見つめ、そのまわりに星雲のように広がる街明かりを、地平線に広がるひとの手が灯す宇宙を見下ろしながら、そっと魔女の子は微笑むのだ。
(大丈夫、もしまた道に迷っても、わたしが見ているから)

 わたしたちは眠らない。
 ずっと昔から、人知れずそうしてきたように、魔女たちはひとの子の眠りを守る。
 世界中で密かに、魔女たちは、街の灯を見つめているのだ。
 見えない大きなてのひらで、光が消えないように、包み込もうとするように。
「わたしもいつも思っていたのよ」
 ふと、魔女がつぶやく。
「『ここでないどこか』に行きたいなって」
「ナナセはずうっと旅しているのに?」
「そう。長いこと、世界中を旅しているのにね」
 春の夜風が、若い魔女の髪を巻き上げ、本のページをめくる。
 魔女は静かに微笑みを浮かべ、そしてまた物語の続きへと帰っていくのだった。

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作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

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