キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

魔女たちは眠りを守る

村山早紀(むらやま・さき)

魔女たちは眠りを守る ブック・カバー
バックナンバー  123 

第一話 遠い約束(前半)

2019.04.19 更新

 その街は、古い港町。
 海からの風が街とひとびとを包み、見えない手が優しくその身をなでる、その繰り返しが数え切れないほどに続いてきた、そんな街だ。
 年々賑やかになってきた街の雑踏に紛れ、聞こえづらくなったけれど、たとえば夜明け前のひとが寝静まり、通りを行き交う者がいなくなった時間に、そっと耳を澄ませば、かすかな潮騒が聞こえるような――ここはそんな街なのだった。
 いまは春。街のあちこちに咲き誇る桜の木が一斉に花開き、白や薄桃の花を咲かせ、時折吹く強い風に、数え切れないほどの花びらを散らせる、そんな季節だった。

 さて、桜の花びらは港のそばの、古い駅の空にも舞い落ちる。黄昏(たそがれ)時の、金色の光が淡く降りそそぐ駅のプラットフォームに、いままさに、遠い街から旅してきた電車が滑り込み、静かに扉が開く。
 丈が長く古めかしいデザインのコートを着て、これも古めかしいブーツを履いた小柄な若い娘がひとり、大きなトランクを引きずるようにして降りようとする。トランクもまた良い感じに古びていて、時を越えていくつもの旅を経てきたのがわかるようなもの。その娘が持つには大きすぎるようにも見える。トランクに比して、白いてのひらは小さく、背丈もずいぶん低いのだ。娘は片方の腕に、ふさふさとした毛並みの黒猫のぬいぐるみを抱いていて、トランクよりも、そのぬいぐるみの方が、よほど娘には似合っているように見える。
 それでも娘は楽しげに、大きなトランクを力を込めて持ち上げて、プラットフォームへとはずむように足を踏み出す。
「よいしょっと」
 トランクと一緒に、なかば飛びおりるようにホームに降りると、長く赤いくせっ毛が、背中で翼のように広がり、跳ねる。
 まだ十代か、それとも二十代に入ってはいるのか、年齢がわからないのは、くるくると変わる表情と、いろんなものに視線を投げる、大きな茶色い瞳のせいだろう。あるときは思案深げに見え、そしてあるときは、無邪気な幼い子どものように見える、そんな娘だった。
 そんな娘の様子を、少し離れたところから、老いた駅員がひとり、必要なときは手を貸そうと、優しげなまなざしで見守っていたのだけれど、娘はそれに気づいたかどうか。
 駅員は、通り過ぎて行く娘を見送って、ふとまばたきをした。
(おや、あのお客さんは猫なんて連れていたろうか?)
 いつの間にか、娘の足下をふさふさとした毛並みと尾をなびかせた黒猫が、軽やかな足取りで歩いている。猫に語りかける娘の様子からして、彼女の連れのように思えるけれど、あの黒猫は、一緒に電車から降りてきただろうか。
(猫連れならば、猫はかごに入れてきたはずだけどなあ)
 駅員は首をかしげる。そういえばあの娘は、さっき腕に黒猫のぬいぐるみを抱いていたように見えたけれど、腕にはもう何も抱いていない。まさかあれが、おもちゃではなく、生きている猫だった――?
(いやあれは、ちゃんとぬいぐるみだったぞ)
 黒猫が駅員の方を振り返り、金色の瞳でにやりと笑ったような気がした。でもそんなことあるわけがないから、やはり自分の気のせいなのだろう、と駅員は思う。認めたくはないが、自分もすっかり年老いた。
 何しろ、そんな子ども向けの本の世界の中で起きるようなこと、現代日本で起きるはずもない。
 黒猫を連れた娘は、大きなトランクを提げて、駅の改札の方へと歩いていこうとする。
 駅にほど近い公園の時計台が時を告げる、その鐘の音が風に乗って空を流れた。
 娘が立ち止まり、鐘の音の響きを目で追うように、空を振り仰ぐ。
「わあ、懐かしい。昔のままね」
 それはまだ子どもの声のような、甘さと幼さのある声で、けれど落ち着いた、優しい響きを持つ声でもあった。
「ずいぶん久しぶりなのに、中央公園の時計台の、あの鐘の音は変わらないのね」
『そうね、ナナセ』
 娘の顔を見上げ、金色の目を細めた黒猫が、かんだかい声でそういったように聞こえたのも、駅員の気のせいだっただろうか。
「三日月町のあたりも、昔のままかしら」
『さあねえ。どうかしらねえ』
 改札の方へ、街の方へと、娘は長いコートをなびかせて歩み去っていき、黒猫もまた、つややかな毛並みと尾をなびかせながら、それについていく。
 老いた駅員は、口の中でまさかねえ、と繰り返しながら、娘たちを見送ったのだった。
 改札口の向こうには、夕暮れの光に包まれる、繁華街の情景。背の高いビルが輝く森のようにそびえて見える、そんな景色の方へと、娘と黒猫は足を進めていく。ちらほらと桜の花びらが、その姿に降りかかる。娘と猫を迎えるように。

 物語の時間は、少しだけ進んで、その日の夜となる。
 古い港町は、店々に灯(あか)りを灯し、街灯に光をきらめかせながらも、静かな夜の闇に包まれている。
 春の宵、吹きすぎる夜風はまだ氷のようにたまにひやりとしながらも、どこかにふくらんできた木の芽や花の香りを隠している、そんな夜のことだ。
 行き交うひとびとは、夜風の冷たさに急ぎ足になり、春の軽やかで薄いコートの前をあわせたりしつつも、その季節特有の、何か良いことや不思議なことがありそうな気配に、胸の奥をわくわくさせているような、そんな夜のことだった。
 ひとびとの頭上には大きな満月が輝いていた。降りそそぐ光を受けて、街は金銀の粉を散らしたように、ほの明るく、淡くひんやりと輝いて見えた。その夜は、海から薄くもやがかかっていて、そのせいで、街全体が小雨に打たれたようにうっすらと濡れていた。
 やがて、人通りが途絶えた。大きな道路を光の尾をなびかせながら行き交っていた車の群れまで、魔法のように途絶え、まばらになっていた。
 もう夜も遅い時間だ。繁華街の灯りもひとつふたつと消え、働いていたひとびとも店を片付けて、からだを休めるために帰って行く、そんな頃合いになっていた。
 
 さてその街には、駅や繁華街からはやや遠く、海にとても近い場所に、古く小さな商店街があり、その名を三日月通りという。
 その辺りの建物ならば、多少背丈が低くとも、窓を開ければ海が見えるような、それほど海に近い場所だった。街外れ、ともいえる。
 新旧の様々な倉庫や、見捨てられたような古い建築物(いまは所有者もわからない建物が多いといわれている)が並ぶせいもあって、その辺りはどこか薄暗く、人通りもない。
 倉庫と船乗りのための宿や酒場、食堂が並ぶような通り、この街の住人よりも、遠方からの旅人を客に迎えることが多かった歴史を持つそんな通りは、かつては真偽のわからない物騒な話や恐ろしげな噂がつきものの場所だった。実際、戦後のある時期は、刃傷沙汰(にんじょうざた)もたまにあったという。
 そんな通りも、いまはすっかり寂(さび)れていて、夜の闇が落ちる時分に、少しだけ息を吹き返すような、そんな有様になっていた。
 さてその三日月通りにほど近い、海に注ぐ暗渠(あんきょ)や水路が水音を立てているあたりに、ひとりの娘がふらりと姿を現した。
 冬物の重そうな灰色のコートを身にまとい、長身を猫背気味に折り曲げて、足下だけ見ながら、とぼとぼと歩いていた。雑に束ねた髪は重たげ、今風ではない黒いフレームの眼鏡も重そうで、月の光を背に受けて歩く様子は、ひとりきりの葬列のようで、そんな生気の無い、悲しげな様子なのだった。
 背中にしょった大きなリュックサックと、腕に提げた鞄には、いつもの仕事帰りと同じにたくさんの本が入っている。
 彼女の名前は平田叶絵(かのえ)。職業は書店員。街の地場チェーンの書店の本店で長く働き続けるうちに、気がつくと独り身のまま、良い年になっていた。
 いわゆるカリスマと呼ばれるような日の当たる存在ではないけれど、職場から信頼され、自分なりに仕事に自信も誇りも持っている、そんな働く女のひとりだ。仕事はひたすら忙しく、しかし給料は上がらず、蓄えもなく、折からの人件費の高騰もあり、店は常に人手が足りず、しわ寄せは彼女に来る。
 この店と業界とそして老いて行く自分のこれからを考えると、明るい要素が見いだせず、不安になるときもあるけれど、本と書店が大好きで、一心に働いてきた。後悔はしない、と、時に不敵に笑い、時に歯を食いしばりつつ、ひとり生きてきた、のだけれど――。
 今夜の彼女は、ため息をつく。
「――なんかもう、消えちゃいたいな」
 呟いた、その声にも生気は無い。
 夜の闇にいまにも引き込まれて消えてしまいそうな、そんな弱々しいささやくような声だった。昼間の彼女、ふだん店で顔を上げ急ぎ足で働いている彼女を知るひとが見れば、別人のようだと思うような、そんな声だった。
「少しだけ、疲れちゃったなあ」
 満月の光を映す、水路の暗い水面に視線を落とす。懐かしいような海の香りがした。夜風がほつれた髪をなびかせ、首筋のあたりの熱を奪う。寒気がした。
 ふいに、嵐のように強い風が吹きすぎ、髪を巻き上げて、水面にさざなみを立てた。どこからか吹いてきた桜の花びらが、踊るように、たくさん夜空に流れ、水に落ちた。
 春のはずなのに、もう桜も咲いているのに、いつまでも寒いなあ、と思った。今年の冬はいつまでも終わらないような気がする。ふと、ずうっと昔にも、こんな冬、いや寒い春があったような気がしたけれど――記憶違いだったろうか。強い風が、嵐のように吹き荒れた春。
(ええとあれはたしか、高校二年生になったばかりの春――だったと思う)
 子どもの頃に読んだ宮沢賢治の、『風の又三郎』を思い出した記憶がある。
 ガラスのマントを身につけた、不思議な子ども、又三郎が空を駆け抜けていくような、そんな風が吹いていると思ったのだ。あれは春ではなく秋の嵐とともにやってきて去っていった、不思議な転校生の物語だったけれど。
 子どもの頃の叶絵は、いまと同じに本好きで、でも家族は本にも本が好きな叶絵にも興味と理解がいまひとつ無かったので、家には本が無く――彼女は学校の図書館で宮沢賢治全集を読んだのだった。
「そう。不思議な転校生にあったんだよね。高校生だった、あの春に」
 叶絵は再びため息をつく。最近のようなずっと昔のような、あの時代。
 そんな記憶と経験があるような気がするのだけれど、それもこれも錯覚で、いつの間にか脳内で生まれていた、いってみるならば「噓」の記憶なのだろうか。
 ここのところ、疲れのせいか、それとも年のせいか、自分の記憶に自信がまるでない。
「昔から、無意識のうちにお話を考えて、自分でそれを信じすぎて、夢と現実がごっちゃになることもあったし……」
 本が大好きで、本の世界に没頭することが多かった。学校の行き帰りには、通学路で本を読んでいて、車に轢かれそうになったことも二度や三度ではない。そのたびに両親から本気で叱られた。テレビが好きで活字を好まない両親で、叶絵を理解することは難解だと諦めていたひとびとだったけれど、それでも叶絵のことを愛してくれていたから。
(それで余計に本なんて読むなと叱られて、本、買ってもらえなかったんだよね)
 叶絵の方は、それで余計に本への執着が増し、のめり込んでいったのだけれど。子どもというのはそういうものだ。親の愛、家族の愛に気づかなかったのも、そういう年頃だったからかも知れない。ひとりぼっちのような気分になっていたのを覚えている。ほんとうの両親がどこかにいて、いつかは迎えに来てくれるんじゃないかとか、そんな物語にあるような妄想をよくしていた。何しろ、物語が――本が大好きな子どもだったから。妄想も空想も、得意中の得意というもので。
(そのまんま、おとなになったんだよな)
 風に揺れる水面の、月の光と、水面に流れる桜の花びらが美しい。叶絵はその美しさに魅入られるように、石畳の路地にしゃがみこみ、暗い水面を見つめた。
 風が背中を押すように吹いた。疲れた足下がよろけて、冗談のように簡単に、水路に転がり落ちそうになった。
「やば」
 慌てて踏みとどまったけれど、瞬間、それもいいか、と思った。ほんの一瞬だけれど。
 どうせ自分なんて水に落ちても、それきりこの世から消えてしまっても、心配する人も嘆く人もたいしていないだろう。
 店もこの街も日本も世界も、叶絵がいてもいなくても関係無しに回っていって、いつか叶絵の存在のことなど覚えている人はどこにもいなくなり、最初からいなかったのと同じことになってしまうのだ。
「いてもいなくても、おんなじかあ」
 暗い水面を眺めながら、小さく呟いた。
 自分がこの世界に生きている意味って、無いような気がするなあ、と。

 別に特別辛いことがあったわけじゃない。自分という人間は突出して不幸なわけじゃない。好きな仕事に就いているし、それでちゃんと食べられてもいる。健康には恵まれて、精神状態もまあ健康。少ないけれど友人もいる。趣味だって――ちゃんとある。趣味は読書で、それを仕事にしてしまったから、日々趣味に生きる生活だと思ってもいる。
 ただ少しずつ――たぶん丈夫な金属がわずかな力を繰り返し加えられているうちに、少しずつ傷んでいって、いつか傷ついたり折れたりするように、自分の心も折れそうになっているんだろう、と叶絵は思う。
 たとえばそれは、売れ筋のコミックやビジネス書が、気がつくと一冊二冊と万引きされていたり、濡れた折りたたみ傘を、雑誌の上に載せて立ち読みをしているお客様がいたり、雑誌や新刊が怒濤のように集中した日に、連絡無しでアルバイトの学生が欠勤したり――いや手が足りないといえば、慢性的にその状態なのに、店をやめるスタッフが続き、けれど店がその穴を塞いでくれず、叶絵の担当が加速度的に増えていっているとか、その状態もずいぶん辛かったのだ。
 そんな中で、今日、休憩時間に新作のコミックスのPOPをバックヤードで作っていたら、眉間に皺を寄せた店長に、
「そんなものは作らなくていいよ」
 と、不意にいわれた。「時間が勿体ない」
 そのひとは若い頃から同じ店で働いていた尊敬すべき書店人であり、もっというなら、学生アルバイトだった頃の自分の採用を決めてくれたひとでもある。POPを描くこと、その描き方を教えたのも、そもそもがそのひとだ。うまいものができれば褒めてくれもした。
 そんな店長にいわれた一言が胸に突き刺さるようだった。
 そんなもの――よりによって、「そんなもの」呼ばわりをするなんて。
 優しい気遣わしげな表情で、言外の意味はわかっていた。人手が足りなくてぎりぎり働いているのだから、休めるときには休みなさい――店長はそういいたいのだ。
 それがわかっていて、でも、「そんなもの」の一言は受け入れがたかった。
 POPを書くこと、自分が薦めたい本を見出し、お客様に呼びかけ訴えて、そうして売り上げを上げることは、正しいことだと思ってきた。
 一冊の本が選ばれ、売れていくこと――それは本に関わる現場にいる、ありとあらゆる人間が幸せになれることだ。そのために自分はここに、店にいるのだと叶絵はずっと思ってきた。
(なのに――)
 唇を嚙んだ。
 わたしがしてきたことって、何だったんだろう?
 街の片隅で、本屋のお姉さんとして、ただ本棚と向かい合い、面白い本を探し続け、売り続けてきた日々。激務の中で、他の職種に就いた友人たちと違って、遊ぶことも旅することもなく、ただ店の棚の前に立ち、お客様から注文を受け、売れなかった本たちを謝りながら返品として箱詰めし、雑誌や新刊の入った箱を開け、レジの中に立ち続けた日々。
 紙で何度も指先を切り、本がぎっしりと詰まった重たい段ボールで何度も腰を痛め、いつの間にか汚れていくエプロンに包まれながら、一日を終えて、立ちつくし走りつくして棒になった足を引きずるようにして、ひとり住まいの暗い部屋に帰る――コンビニで買った弁当をあたため、遅い時間のニュースや録画したドラマやアニメを見ながら食べる。
 そんな暮らしを、それなりに楽しい毎日だと思っていたし、実際、親兄弟や友人たちには冗談めかしてそう話していたけれど、本当のところは、どうだったろう。仕事にやりがいがあるから、と悲壮な使命感を持って、頑張ろうとしてきただけなのかも知れない、と気づいてしまった。
「――ああ、なんか疲れたなあ」
 水路に満ちる水の音が、とてつもなく優しく、柔らかく聞こえた。
 呼ばれているような。あの水はどれくらい深いのだろう?
 あの水の中に入れば、心地よく眠れるような気がした。――そうだ、そこに入ってしまえば、二度と目覚めなくても済むのかも知れない。目覚まし時計の音でたたき起こされるような朝とはさよならできるのかも。ずっとずっと起きなくていいのかも。
 ここしばらく寝付かれなかったのと疲れが溜まっていたのとで、それはとても魅力的なことに思えた。
 簡単なことなんだなあ、と思った。
 このまま少しだけ前に進んで、水の中に入れば。永遠に朝が来ない世界に、お引っ越しができるのかも知れない。
 水はどこまでも優しく、柔らかそうで。
 世界中のどんな羽毛布団よりも、柔らかそうな、すてきな寝床がそこにあるように見えて。

 そのときだった。
 誰かの手が、そっと背中に触れたのは。
 あたたかな、小さな手だった。
「ねえ、寂しいときは、ひとりで暗いところにいてはだめなのよ」
 耳元で、声が聞こえた。あたたかな風が吹いてくるような、優しい柔らかい声だった。
 女の子の声だと思ったけれど、おとなの声のようにも聞こえる、ちょっと年齢のわからない声で、ただ、とても懐かしい声だと思った。知っているひとの声のような。
 聞いたことのある言葉のような。
 夢の中にいるような思いのまま、そっと振り返る。長い赤毛の娘がそこにいる。薄暗闇の中、真上の月の光に照らされて、にっこりと笑っている。
(あ、この子知ってる――)
 一目見たときにそう思い、でもすぐに否定した。高校生、か大学生くらいだろうか。ちょっと年齢がわからない感じだけれど、これくらいの年頃の子に知り合いはいないはずで――。
(お客様かな?)
 店で会ったことがあるのかも知れない、と思い直した。
 接客の仕事が長いので、ひとの顔を覚えるのは得意になった。一度だけ見かけたお客様でも、記憶の端に残っていることはある。
 この子の方では、とても親しげに、いっそ懐かしささえ感じるようなまなざしで見つめてくれているのだから、やはりどこかで――たぶん店で会ったことがあるのだろう。好きな本の話で盛り上がったりしたこともあるのかも知れない。
 叶絵は、本や著者の話で、お客様と会話をするのが好きだった。
本来は外交的な性格ではない。人と話すのも得意ではなく、コミュニケーションが得意なわけでもなかったけれど、本の話になれば別だった。
 自分が好きな本の話をするのはもちろん、相手が喜びそうな本の話題を探しあてて、喜んでくれそうな本を選んで差し出すことが、何より好きだった。
 それは叶絵の生き甲斐で、ある意味書店にいることの意味でもあった。
 ずっと昔、小中高と図書委員だった、その時代からの、彼女の何より好きなことだった、といいかえてもいい。
 叶絵は本という物が世界の何よりも好きで、本を読むことが大好きで、読むために生きてきた。本の中には――物語の世界には、夢があり冒険があり、たくさんの謎や不思議な魔法や、広々とした草原や、空があった。現実では自分に笑いかけてくれるひとはいなくても、そこには優しい家族や、友情を誓い合う仲間たちがいた。素敵な恋人だって。
 寂しいときも辛いときも、叶絵には本があった。本の世界で息をつき、呼吸を繰り返し、叶絵はまた現実の世界に戻る。その繰り返しで生きてきたのだ。おとなになって強くなるまで、自分がそこまで不幸でも寂しくもなかったのだと知るまで、気があう友人たちができたり、家族とわかりあうことができるようになるまでは、物語の世界に支えられ、励まされて生きてきたのだった。
 いまの叶絵は、もうかつての彼女のようには、物語に支えられなくても生きていける。杖にすがるように本のページをめくらなくても、仕事帰りに職場の仲間とカラオケに行ったり、友人たちとメールやメッセージのやりとりをするだけで、笑顔になれる。親兄弟とだって、楽しく気軽につきあっている。家を出て近場でひとり暮らしを始めたことで、かえって不器用な彼らの思いがわかったところがあったりもして。いまでは両親は、叶絵が店で選んだ本(主に話題の本や実用書だけれど)を読んでくれていたり、叶絵の方も、家族が好きなバラエティ番組にチャンネルを合わせることがあるようになっていた。
 だけど、それでも、叶絵はいまも本が大好きで、特別に愛おしかった。本を読むことは、世界で一番好きなことなのは変わらない。
 だから、誰かが本を読むことで幸せになってくれたり、笑顔になってくれれば、何よりも嬉しいのだ。こんなに楽しい本の世界に来て欲しい、一緒に幸せになろうよ、と声をかけたいのだ。
 もっというと――口下手で不器用で、かわいくもなく、家族ともうまくいっていなかった自分が、本のおかげで寂しさから救われたように、読みかけの本の続きを読むために明日も生きていこう、と思えたように、寂しい誰かがそうでなくなってくれたらいいな、と思うのだ。
 だから叶絵は、本を選び差し出す子どもになったし、のちのち、そういう仕事を選び、働くおとなになったのだった。

 その店のお客様だったかも知れない娘は、小さな白い手を、叶絵に差し出した。
 冗談めかしたような声でいう。
「こんな暗いところにいると、魔が差すから、さ、行きましょ」
 明るいところへ、と笑う。
「――魔が差す?」
 その一言を聞き、口にしたときに、あたりの暗がりのあちらこちらで、何か小さなものたちが耳をそばだてたような、そんな気配がしたのは、気のせいだったろうか。
 小さなあたたかい手は、不思議と力強く、叶絵を引っ張りあげるようにして立ち上がらせてくれた。
「――この世界のものは、風も水も、みんな命に優しいけれど、闇の中には時々、悪いものやいたずらなものたちもいて、心弱い誰かを暗い方へと引っ張りこもうとすることもあったりするから」
 物語の中の言葉のようなことをいうんだな、と思った。
 その子は何を思うのか、にこりと笑った。
 叶絵の手を引いたまま、どこかに歩いていこうとする。
 そのままつられたように歩いてしまったのは、勢いに飲まれたのと、やっぱりお客様かも知れない、と思うととっさにさからえなかったのと、足下の暗がりから、ひょっこりと顔を出した金色の目の黒猫に虚を衝かれたからでもあった。
 ずっと昔に、こんなことがあった、と思った。
 長い赤毛の髪の転校生と、彼女が連れていた、ぬいぐるみのようにふわふわの、毛の長い黒い猫と。
 彼女がやはり、ある夜にこんな風に、白い手で叶絵の手を引いてくれたのだ。
「寂しいときは、ひとりで暗いところにいてはだめなのよ」
 そのときに聞いた言葉だったような気がするのは、とても疲れているからだろうか。
「温かいものでも飲みに行かない?」
 白い手が、叶絵の手を引く。
 懐かしく感じるまなざしが、明るく、叶絵を見上げて、笑う。
「――すぐ近くに、知り合いがやってるカフェバーがあるの。知り合いっていっても、わたしもさっき出会ったばかりなんだけど。今夜は春にしては空気が冷たいし、ホットココアでもいかが?」
 よく知らないはずの娘に手を引かれながら歩いても、嫌だとも変だとも思わず、ああそうだ、熱くて甘いココアが飲みたい、と喉が鳴るほどに思えたのは、なぜだったろう。
 自分が心底凍えていたのだと、その瞬間に気づいたからだったのかも知れない。
 そういわれるまで、気づかなかった。
 街灯と月の光に照らされて、赤毛の少女が先を行く。白い手で叶絵の手を引いて。明るい方へ導くように。
「――昔、こんなことがあったなあ」
 あのときも、凍えた叶絵の手を引いて、赤毛の少女が歩いてくれた。
 明るい方へ。
 あのときは、公団の自動販売機に辿り着き、缶入りのココアをはい、と、叶絵に差し出して、笑ってくれたのだ。自分も同じココアを開けながら。そうして、あちち、と笑った。
「猫舌には熱いわ」
 その言葉を聞いて、足下にいた黒猫が金色の目を細め、怪しげに笑ったのだ。

 三日月町の、三日月通りの辺りには、叶絵はあまり詳しくなかった。
 この辺りは寂れた街外れだし、飲み屋街の印象が強いから、飲酒やにぎやかなことをそれほど好まない叶絵はいつもなら足が向かないのだ。
 今夜はなぜ、それもこんな遅い時間にひとりで迷いこんだのか――思い返すと、自分でもよくわからない。
 これが魔が差す、ということなのかな、と、月の光の下を歩きながら、叶絵は思った。
 背筋が寒くなる。
 もしこの手を引いてくれる娘がいなければ、自分はどうなっていたのだろう。
 あの水路のそばを立ち去ったいまとなっては、自分がなぜあんな風に暗い水に魅入られたのかよくわからなかった。

「このお店なの」
 いくつか暗い路地を抜けて、やがて赤毛の少女は立ち止まり、叶絵を振り返る。
 暗い街角に、古く背の高い煉瓦造りの建物が建っている。その一階に大きな窓がある店が灯りを灯し、路地に光を放っている。
『魔女の家』――手書き風の看板がある。
 鈴の鳴る扉を、赤毛の娘の白い手が押し開けると、光が路地にこぼれ、叶絵を招くように包み込んだ。
 引きこまれるように店の中に足を踏み入れたとき、目の端に、壁に埋めこまれた小さな鋳物のプレートが見えた。
 刻まれた言葉は、『バーバ・ヤガー』。この建物の名前なのかな、と思った。

バックナンバー  123 

作品について

著者プロフィール

村山早紀(むらやま・さき)

1963年長崎県生まれ。『ちいさいえりちゃん』で毎日童話新人賞最優秀賞、第4回椋鳩十児童文学賞を受賞。
著書に『シェーラひめのぼうけん』(童心社)、『コンビニたそがれ堂』『はるかな空の東』『ルリユール』『天空のミラクル』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、『アカネヒメ物語』『竜宮ホテル』『花咲家の怪』(以上、徳間文庫)、『春の旅人』(立東舎)、『百貨の魔法』(ポプラ社)、『桜風堂ものがたり』(PHP文芸文庫)などがある。
TwitterID@nekoko24

作品概要

その街は、古い港町。桜の花びらが舞う季節に、一人の娘が帰ってきました。
長い赤毛に、茶色い大きな瞳。つややかな毛並みの金色の瞳をした黒猫をかたわらに連れて。
彼女は魔女の一族。
いまも世界中に、隠れて暮らしている魔女たちはたくさんいて、人知れず街中にすみ、魔女同士時には助け合いながら、ひそかに人の街を守り、時がたつと立ち去ってゆくのです。風のように。
人気作家・村山早紀が贈る大人のためのファンタジー小説。

おすすめ作品

魔女たちは眠りを守る

第二話 天使の微笑み

村山早紀(むらやま・さき)

悪夢か現か幻か

第15回 交差点

堀真潮(ほりましお)

魔女たちは眠りを守る

第一話 遠い約束(後半)

村山早紀(むらやま・さき)

今日、終わりの部屋から

「今日、終わりの部屋から」最終回

王谷 晶(おうたに あきら)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

カリフォルニアポピーの義妹(後編)

古内一絵(ふるうち かずえ)

ページトップへ