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風とにわか雨と花

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

風とにわか雨と花 ブック・カバー
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第5回

2016.03.04 更新

ヒールのある靴

 妊娠してすぐに仕事を辞めた。漠然とそうなるだろうなと思っていた。そして、つわりも酷(ひど)かったし、一度入院もしたしで、結果的にも良い選択だったと思っている。
 何より、自分の子供ができたことが本当に嬉しかった。お母さんになることが楽しみだった。ブルーになることも多少はあったんだけれど、博明さんのお蔭で乗り越えることができた。そう考えると、私はすごく恵まれた結婚生活を送ってきた。不満なんか漏らしてはもったいないほどの。怒られるほどの。
 風花がまだ赤ちゃんの頃、博明さんも早く家に帰ってきて子育てに参加してくれた。実は私が風花と一緒にお風呂に入ったことは、本当に数えるぐらいしかなかった。ほとんど毎日、博明さんが一緒にお風呂に入っていた。
 おむつを替えることも、遊ぶことも、ご飯を食べさせることも、とにかく子育てのすべてに博明さんは自分から進んで参加してくれた。
 結婚前にそんな話はしなかったんだけれど、こんなにも子供好きだったんだなって少し驚いたのを覚えている。
「嬉しかったのよね。それは聞いた」
「そうだね。そんな話したよね」
「何度も聞かされたわ。自分よりも子供の扱い方が上手くなっているって」
 本当にそう。
 だから、余計に驚いた。博明さんはあんなにも愛した自分の子供と、離婚して別れて暮らせるのかって。
「そういう話を、初めてしたのね。結婚して十年以上も経ってから」
「うん」
「博明さん、自分でも子供が大好きなんだって初めて知ったんだって。風花が生まれてしばらくしてから」
「しばらくしてから?」
「そう。退院して一ヶ月ぐらいは実家で過ごしたのよ私。覚えてる?」
「もちろん。遊びに行ったもの」
「そうよね。その時点ではあの人、自分に子供ができた実感がまるでなかったんだって。父親になったという感覚が全然なかったって」
 晴海が、うん、って頷いた。
「そういう話はよく聞くわね。男の人はそんなもんだって」
「そうなの。休みには必ず実家に来てくれてたけど、もちろんなんか嬉しかったんだけどそこまでのものは何にもなかったって。それが」
「この家に帰ってきてから、ようやく自覚したって話?」
「自覚したんじゃないの。楽しかったんだって」
「楽しかった?」
「この家に、私以外の命がいる。そしてその命は自分が見ててあげないと死んでしまうもの。だから、ちゃんとお世話をしないと駄目なんだって」
「お世話って。犬猫じゃないんだから」
「でも、そういう感覚だったんだって。そして、自分がそういうふうにもなれる人間だってことに気づいたのが、とても嬉しかったって」
 ふぅん、と、晴海がちょっと首を傾げた。
「要するに、父性というものは、こういうものなのかって自覚したって話ね」
「そうなるのかな。そして、自我というものを得た子供たちは、世話をしなくてもいいとも思えたんだって。風花が大きくなったときに」
 何それ、ってちょっと口を尖らせた。
「もう自分がいなくてもいい。放っておいてもいいって思えたの?」
「そう思える自分がいたんだって。作家になろうと決めた瞬間に、そういうふうにも思ったって」
「わかりたくないわー。そういう我儘」
「そうよね。私もちょっと怒った」
「ちょっとどころじゃないでしょ。全部あなたに押し付けて自分は逃げ出してもいいって思ったわけでしょ」
「でもね」
「何よ」
 怒れない、自分もいた。私の中に。
「どういうこと」
「子供ができて、もちろん得るものはたくさんあるんだけど、失うものもあるでしょ? たとえば一人の時間とか」
「そうね。何かを得れば何かを失う。人生の何とかよ」
 私は、それを失ったんだと思ったときに、ものすごく自分が嫌になった。
「何を?」
「今日、履いてきた靴にヒールはある?」
 晴海がきょとんとした表情を見せたあとに、思わずって感じで玄関の方を振り返った。
「あるわよ?」
「あるわよね。私の靴にもヒールがある。でも、ヒールのある靴を毎日のように履くようになったのは、離婚してから。仕事を再開してから」
 うん、って頷いた。
「妊娠したら当然ヒールの高い靴は履かなくなるし、子育てのときもそうよね。動きやすさが最優先。スニーカーがお友達になるの」
「そうそう。でも、あれはいつだったかな。風花が二歳か三歳のときかな。公園で遊ばせていて、博明さんが風花と一緒にすべり台かなんかで遊んでいて、私はそれを近くで見ていた。にこにこしながら。優しいお母さんの顔で」
「眼に浮かぶわ。幸せな家族の絵」
「そう。どこからどう見ても幸せな家族。でも、私は近くを歩いていた女性に眼を奪われたの」
 何よ、って晴海が言う。
「ヒールのある靴。すごくきれいな曲線の靴。きれいだった。機能的なのにお洒落で優雅な靴。私がもう履くこともなくなって、たぶんこの先もしばらく、ひょっとしたら一生履くこともない靴」
「一生ってことはないでしょう」
「ないわね」
「子育てが一段落したら、しなくたって実家に子供を預けて夫婦二人でオシャレしてデートするぐらいできたでしょ。ヒールのある靴を履いて」
「でもそれは、仕事じゃないわ。私が眼を奪われたのは、その靴が仕事用の靴だったからよ。女性らしさを失わずに、でも、仕事の場に堂々と乗り込んでいける靴。それを履いている自分を捨てたことを、そのときに後悔しちゃったの」
 うーん、って唸りながら、晴海がワインを飲んだ。飲み干して、自分で注いだ。
「一瞬でも、そう思ってしまった自分がいた、と」
「そう。でも、それでうだうだ悩んだりはしなかったわよ?」
「そりゃそうよ。二人目も産んだんだし。仕事より家庭を選んだ自分に後悔はしていなかった。でも、後悔した自分もいたって話ね」
「そういうこと」
 だから、博明さんの気持ちに、百パーセント怒れない自分もいた。
「そしてね」
「言いたいことはわかるわ」
 そう言いながら晴海が私のグラスにもワインを注いだ。
「悲しいかな、今はとても楽しいんでしょ。仕事が、毎日仕事をしている自分がどんどん好きになっていくんでしょ。旦那のいない淋しさよりもどんどんそっちの方が大きくなっていくんでしょ」
 大きく、息を吐いてしまった。
「その通り」

朝ご飯も自分で作るんだ

 朝ご飯の目玉焼きを焼くのが僕の仕事だってお父さんが言った。
「なんで目玉焼きなの。風花ちゃんじゃないの」
「風花はもう目玉焼きは簡単にできるよな?」
「できるよ」
「できない人ができるようになった方がいいだろ」
「わかった」
 お父さんが、フライパンはこれだって指差した。うちにあるのとはなんか少し違う。ちょっと大きいかも。
 風花ちゃんは黄身ははんじゅくの方がいい。僕は少しだけかたくて少しだけやわらかいのがいい。お父さんは、ターンオーバーがいいって言った。
「ターンオーバーって、なに」
「両面焼きだ」
「りょうめん焼き?」
「片方が焼けたら、このフライ返しでくるっと引っ繰り返して、両面を焼くんだ」
「お好み焼きみたいに?」
 そうだ、ってお父さんがうなずいた。
「そんなの家で食べたことないじゃん」
「朝の忙しいときにお母さんに頼めないだろ」
 そうか。
「今は、誰も忙しくない。やってみろ」
 卵を割るときに、カラがゼッタイに入らないようにって風花ちゃんが怒ったみたいに言う。僕だってカラが入るのはイヤだから、しんちょうにしんちょうに割る。
「そんなにゆっくりやっていたら、余計に入っちゃうぞ。お手本を見せてやる。こうだ」
 お父さんが、カン! って卵を打ち付けて割って、すばやくボールに入れた。
「どうしてそんなふうに割れるの」
「お父さんはもう何十回も割ったからな。三日ぐらいやったらお前もすぐに覚える。夏休みの間に卵を割るプロになってお母さんを驚かせちゃえ」
「何回やったらプロになれるの」
「五十回も同じことをやって、きれいにできるようになったらもう立派なプロだ。一日三個の卵を割ったとして、十日で三十個だ。夏休みの間、ずーっとここにいて割っていたら完璧だ」
「ずっとは、いないよ」
「いる間だけでもいい」
 風花ちゃんは、レタスとか洗ってサラダを作る。お父さんはちがうフライパンでベーコンを焼いて、トースターでパンを焼いたりする。
 三人で作る朝ご飯。
「お父さんは今日何するの」
 訊いたら、何にもしない、って言った。
「お前たちのしたいことを、やれるだけ一緒にやるぞ」
「ずっと?」
「ずっと」
「仕事しないでいいの?」
 お父さんが、僕を見てにっこり笑った。
「これも、作家の仕事だ」
「これも?」
 そうだって言って、焼けたベーコンを白い皿の上に置いていった。
「目玉焼きももういいぞ。ベーコンの隣に置け。風花、フライパンが重いから手伝ってやれ」
「わかった」
 風花ちゃんがフライパンを持ってくれたので、僕がフライ返しで目玉焼きをすくって、皿に置く。
 簡単だった。
「牛乳を飲みたいだけコップに入れろ」
「なんでこれが作家の仕事なの?」
 椅子に座りながら訊いたら、お父さんも椅子に座りながら言った。
「まずは、食べよう。いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
 トーストには僕はバターをたくさん塗る。風花ちゃんはバターはつけない。お父さんはマヨネーズを塗った。お父さんは家にいるときからマヨラーだったんだ。お母さんにときどき怒られてた。マヨネーズかけ過ぎだって。
「こんなこと初めてだよな? 三人で朝ご飯を一緒に作るのは」
「そうだね」
 パンが美味しい。
「お父さんこのパン美味しい」
 風花ちゃんが急いで言った。
「僕も思った! パン美味しい」
「だろう? 近くのパン屋さんのパンだ。そこは本当に美味しいんだ」
「なんていうパン屋さん?」
「何だったかな。なんとかベーカリーだ」
 何で名前を覚えないの、って風花ちゃんが言った。その言い方はお母さんみたいだっていつも思うんだ。
「何だっけ。あぁそうだ。作家の仕事な」
「そう」
 そうだった。
「新しいことを、今までしたことのないことをするっていうのは、経験だ。お父さんは今までお前たちと朝ご飯を作ったことなかった。でも、今日初めてやった。これが、これからお父さんが書く小説に役立つかもしれない」
「かもしれない?」
「たぶん、役立つ。どんなことでもそうだ。物語は想像するものだけど、自分で経験したことを書くときには、随分と役に立つ」
「お父さんの小説に僕と風花ちゃんが出てくるんだ」
 いや、って言ったんだろうけど、パンをかじったときだったから、ふや、って聞こえた。
「そのままは出てこない。お前たちのことをそのまま書いたら、それはノンフィクションだ。実際にあったことをちゃんと書くという、違う種類のお話になってしまう」
「小説は、噓だもんね」
 風花ちゃんがフォークにレタスを刺しながら言った。
「噓だな」
 お父さんが、頷いた。
「でも、美しい噓だ。人を騙したりする悪い噓じゃない。人を楽しませるための噓を、お父さんは本当のことを組み立てて作るんだ。本当のことを組み立てるのには、たくさんの本当のことを知らなきゃならない。だから」
 お父さんは目玉焼きを、ぱくっ、て食べた。
「天水が焼いたこの目玉焼きは、本当のことだ。だから、これを食べることもお父さんの仕事のひとつなんだ」

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著者プロフィール

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動へ。『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ、『ビタースイートワルツ Bittersweet Waltz』『すべての神様の十月』『花咲小路二丁目の花子さん』などがある。

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