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風とにわか雨と花

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

風とにわか雨と花 ブック・カバー
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第8回

2016.06.06 更新

書くことは生きる希望

 蒲原さんに会うと、人が長く生きていくためには希望が必要なのだ、というのを実感する。毎回、会う度にそう思う。
 そして蒲原さんにとっては書くことこそが、今日も物語を綴ることができたということが、その希望なのだと。
 希望をあたりまえのように心の中に持ち続けられる、希望の灯を灯し続ける人間は強い。どんなことがあろうとも心が折れることはない。たとえ肉体が衰えようとも、その身体から生気が失われることがないんだ。
 それは、どんな人にとっても同じことなんだろう。仕事だけじゃなく、孫と遊ぶことが希望となっている人もいるだろう。自分の庭の花を育てることが毎日の希望という人もいるだろう。大げさなものでなくてもいい。そもそも希望というのはささやかなものなんじゃないか。ささやかだから長くその灯を灯し続けていけるんじゃないか。
 御年八十歳の老作家。
 蒲原喜子。
 尊敬できる人と巡り合えるというのは、実は大変なことではないかと最近思う。ごく普通に人生を過ごしていてもなかなかそういう人物には出会えないのではないか。蒲原さんと知己(ちき)を得ることができたのは、自分の人生の中でも相当に大きな幸運だと思っている。
「すごい! もう準備できてる!」
 夕方に昨日と同じコースを辿って浜に着くと、風花も天水も驚いていた。蒲原さんを慕う近所の人たちが集まっている。もうここ二十年近くの、毎年の恒例行事なんだと言っていた。そのための道具などは常に管理小屋に置いてあるそうだ。
 文字通り蒲原さんのお隣の牧野さん夫妻、近所の堂島さん、国道沿いでサーフショップを経営する中野くん、自宅にアトリエを構える画家の西さんなどなど、いつも十人以上が集まって、この浜でバーベキューを楽しみ語り合う。
 子供が参加するのは初めてだと、皆が風花と天水を歓迎してくれた。
「おばあちゃんもあそこを降りてくるの?」
 天水が訊いた。
「それは無理だ」
 さすがにあの崖を降りてくるのは、本人は平気だと言うがここ十年ほどは周りが許さずに、ボートに乗って岬を回ってやってくるという。
「ボート?」
「ほら、来たよ」
 中野くんが指差すと、海岸にある貸しボート屋のボートに乗った蒲原さんの姿が見える。漕いでいるのはやはりバーベキュー仲間である、美容師の小島くんと、奥さんの茉理さん。
 蒲原さんは常に笑顔を絶やさない。豊かな白髪に血色のいい顔はまだまだお元気だと会う度にほっとさせてくれる。ボートから降ろされるときには背負われるが、砂浜に立つと腰も背筋もしゃんとして、まっすぐにこちらを見て、手を振る。
「岬さん」
「お招きありがとうございます」
「こんばんは!」
 風花と天水が言われた通りに、頭を下げて挨拶する。
「風花です」
「天水です」
「はい、こんばんは! 蒲原喜子です。良かったら、喜子さん、って呼んでね。喜子おばあちゃんは嫌よ」
「はい、喜子さん」
「わかりました!」
 笑って蒲原さんは風花と天水の頭を撫でる。
「良い子たちね。会えるのを楽しみにしていたわ。天水くんは岬さんにそっくりね」
「そうですね。顔の形は母親なのですが」
「風花ちゃんは、大人になったら美人さんになるわ。とても良い形の眼をしている。お母さん似かしら」
 風花が嬉しそうに頷いた。
「天水くん!」
 中野くんが、天水を呼んだ。
「火の点け方を教えてやるぞ」
「うん!」

火を点けられたら、生きていけるって

 中野さんはサーフィンの店で働いていて、時間があったらいつでも波に乗ってるって言ったけど、とにかくアウトドアなことが好きなんだって。
「むしろ家なんかいらないぐらいだ」
「いらないって?」
「雨さえ降り続けなきゃ、テント暮らしでもいいってことだ」
「へー」
 テントか。
「キャンプはしたことあるかい? お父さんと」
「ある。一回だけ」
「お父さんは、アウトドア関係は苦手かい?」
「えー、どうかな? わかんない」
 お父さんは向こうで喜子さんと話してる。風花ちゃんは、野菜を切ってる。
「火の点け方を覚えておきな。どこで役に立つかわからないし、知識があるとどこでも生きていけるぞ」
 燃えやすいのは乾いた小枝や枯れた草。そういうものに火を点けるとあっという間に燃えるけどすぐに消えちゃう。だから、燃えやすい乾いたものの上に、少し大きめな薪とかを置く。
「そうして、マッチで火を点ける」
「マッチ、使ったことない」
「こうやって点けるんだ」
 中野さんがやってくれた。マッチを人差し指と親指で挟んで持って中指でちょっと支えるようにして、シュッ、て動かす。
「自分の身体に向けない。反対側にマッチを擦る」
「こう?」
「そうそう。怖がらないで力を入れないで軽く擦る。最初はボーッ! って大きく火が点くけど慌てない。ゆっくり、この火種になる草の下にマッチを置く」
 やってみたら、簡単にマッチに火が点いた。ちょっとびっくりしたけど、言われた通りにやった。
「上手い上手い。もう一本、やってごらん」
 やった。一回やったら、すごい簡単。マッチってこんなふうに使うんだ。
「そうしたら、今度は火が消えないように軽く風を送るんだ。強くし過ぎると消えちゃうからな」
 もっと簡単に火を点ける方法はたくさんあるって中野さんは言った。
「でも、難しい方法を知っていたほうがいいだろう?」
「ムズカシイ方法を知っていたら、あとはカンタン?」
「そう、簡単」
「どこでも生きていける?」
 さっきそうやって言っていたから訊いてみたら、中野さんは笑った。
「オレはね、そう思うんだ。火の点け方を知ってる男はどこでどうなっても生きていけるって」
「そっかー」
 お父さんは知ってるんだろうか。火の点け方。
「ほら、大きな薪も燃えてきた。こうなったら、あとはもう火が消えないようにしていればいいだけだ」
「見てるんだね?」
「そう。薪が全部燃えちゃう前に、薪を足していく。そのときに注意するのは、風の通り道を作るように置いておくこと」
「風の通り道」
「火が燃えるためには、空気が必要なんだ。空気ってことは、風だ。こうやってぴったり揃え薪を並べるよりは、こうやってずらして並べたほうが風が通っていく感じがするだろう?」
「する」
「そういうこと。覚えておくといいよ。風とか火とかは自然のものだろう?」
「自然だね」
「自然のものっていうのは、こんなふうにぴったり揃うってことはないんだ。揃えるのは人間だけだ。自然は、流れるほうに流れるし、崩れるほうに崩れる。無理矢理に揃えちゃったらそれはバランスがよくない」
 なるほど。よくわかんないけど、何となくわかるような気がする。

海風

 喜子さんは、おばあちゃんだけどおばあちゃんに思えなかった。とっても元気だし、すごく頭がいいと思った。だって、皆といろんな話をするんだけど、すごく反応がいいし何にでも答えるんだもん。そして、皆がその話を聞いてる。
 小説家ってそういうのがあたりまえなのかな。毎日いろんなことを考えてるからボケたりしないのかなって思っちゃった。
「風花ちゃんは、六年生ね」
 喜子さんが私に訊いた。
「そうです」
「じゃあ、もういろんなことがわかるわね」
「いろんなことって?」
「たとえば」
 そうね、って少し考えるみたいに喜子さんが首を捻った。
「夜の海風は、昼間の海風より気持ちが良いとか」
「気持ち良いです」
 夜の海にいるのは、ここに来てから初めてだった。海水浴に来たことはあったけど、こんなに暗くなるまで皆で騒いでいるのは初めて。
「でも、もしも、この夜の海を一人で見ていたら淋しくなっちゃうかもしれないとかも、わかるでしょう?」
「わかると思います」
 喜子さんが、にっこり笑って頷いた。
「もう一つ。私みたいなお年寄りは、そうそう、私が八十歳だってお父さんから聞いた?」
「聞きました」
「八十歳の老人は、いつ死んでしまってもおかしくないってことも、何となくわかるでしょう?」
「たぶん、わかります」
 うん、って喜子さんが私の頭を撫でた。
「じゃあ、お父さんが、お母さんと離婚しちゃったその理由は、どう? わかる?」
 それは。
 喜子さんには、正直に言ったほうがいいんだって思った。何にも隠さないで、全部言ったほうがいいって。それはすぐに思った。
 お父さんは、焚き火の向こうで誰かと話している。きっとビールを飲んでる。
「お父さんが話してくれたけれど、話していることはわかったけれど、でも、わからないなって思いました」
「そうよね。わからないわよね」
 っていうことは、喜子さんはお父さんがお母さんと別れた理由を知っているんだ。そうだよね。きっと住むところとか、いろいろお父さんは喜子さんに相談したんだよ。人生の大先輩で、作家の大先輩なんだもんね。
「淋しいと思った?」
「少し、思いました」
「これからね、喜子さんはおばあちゃんくさいお話をします」
「おばあちゃんくさいお話?」
「そうです。淋しいって思ったってことは、それだけ風花ちゃんの心を豊かにします」
「豊かにする」
 そうなの、って喜子さんは自分の胸を、ポンポンって軽く叩いた。
「心って、どこにあるかわかんないわよね。ここに心臓はあるけれど、私たちがよく言う〈心〉って、それとは違うでしょう? それはわかるかしら?」
「わかります」
 心は、あると思う。優しい心や、強い心。
「どこにあるかわからないけれど、心はあるって思える。そしてね風花ちゃん」
「はい」
「心はね、楽しかったり嬉しかったりするときじゃなくて、淋しかったりつらかったりしたときに成長するのよ」
「成長」
「大きくなるの。人の身体はある程度大きくなったらそこで止まっちゃう。風花ちゃんはきっとまだまだ大きくなるわよね。私はどんどん小さくなっちゃう。でもね」
 喜子さんは、私の胸をそっと触った。
「心は、死ぬまで成長できる。どんどん大きくなれる。心が大きくなると、どんな人になっていくと思う?」
 どんな人になるか。
 心が大きくなる?
「優しい人になるんですか?」
「そうよ。その通り」
 喜子さんが嬉しそうに笑った。
「優しく、強い人になっていく。どうしてかっていうと、風花ちゃんはお父さんとお母さんが離婚して、淋しいって思った。でも今は、何となくだけど、最初の頃より淋しくなくなったような気がしない?」
 それは、そうかも。
「そんな気もします」
「そうでしょ? ということはね、もしも仲の良い友達のお父さんとお母さんが離婚しちゃって、その友達がすごく淋しく思っていたら、淋しい気持ちをわかってあげられるわよね?」
「わかると思う」
「そうしたら、風花ちゃんは、その子に優しくできるでしょう。自分も経験したことだからいろいろと優しくしてあげられる。何もできなくても、考えて気にしてあげられる。それだけ心が大きくなったってこと」
「じゃあ、悲しいとか、えーと、不幸なことを全然経験しなかったら、心が成長しないってことですか?」
 うん、って喜子さんは頷いた。
「それはね、ちょっと考えてみて。今度また会ったときにお話ししましょう?」

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著者プロフィール

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動へ。『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ、『ビタースイートワルツ Bittersweet Waltz』『すべての神様の十月』『花咲小路二丁目の花子さん』などがある。

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